プロローグ
は、は、と浅く速い呼吸を繰り返すたびに、濡れた土と生臭い血のにおいがした。風に流された雲の隙間から、刀ですっぱり斬ったような半月が姿を現す。その蒼白い光が照らした光景に彼女は息を呑んだ。
「必ず、来ると思ったよ」
息も絶え絶えにそう言ったのは、彼女の姉であった。およそ三月ぶりの再会であるが、姉の長く美しかった髪はざっくりと断たれ、首、肩、そして腹からはとめどなく血が噴き出している。木に背中を預け、まるで泥濘の中に沈んでいくように座り込む姉の姿に、彼女は叫び出したいのをやっとのことで堪えて膝をついた。自身の頭巾を外し、止血のために姉の首に巻こうと手を伸ばす。が、その手は「余計なことをするな」という姉の一言で宙を彷徨った。
「……姉上、なぜ」
「頼みがある」
彼女の言葉を遮った姉は、自身の首にかかっていた懸守を取ると、そのまま彼女の胸に押しつけるように渡した。急なことだったので、彼女は筒の形をしたそれを困惑したまま受け取ることしかできなかった。
「中に、文が入っている。もしお前が……里を出て、自由の身になれたなら、中に書いてある居処の男に渡してほしい」
姉の言葉に、彼女はごく、と唾を飲み込んだ。まさか密書だろうか。緊張した様子で血のついた懸守に視線を落とす彼女を見て、姉はふっと小さく笑う。
「お前はすぐ顔に出るな……ただの、恋文だよ」
「……こっ、恋文?」
「読みたければ、好きに読めばよい」
口の端からたらりと流れ始めた血を拭うことなく、姉は目を伏せて穏やかに微笑んだ。
長い時を共に過ごした姉に恋文を送るような相手がいたとは露知らず、彼女は密書よりも大変なものを受け取ってしまったかもしれない、と思いながら、「分かった」と懸守を大事に胸元へしまい込んだ。
これはきっと、姉の最期の頼みだろう。ぐっと奥歯を噛み締めて、彼女は姉を見つめた。月光を浴びた、不気味なほど真っ白な顔。もうあまり時がない。
「……好いた男がいたのなら、是が非でも『試し』に通るべきだった」
声を潜める彼女に、姉は薄らと目を開けて「そのつもりだったのだがなあ」と苦しげに呟いた。
彼女らが暮らす里の掟として、最終の試しに通らなければ一人前の忍びとして認められない、というものがある。試しに落ちれば、たとえどんな理由があろうとも容赦なく里の者に追われて殺されるのだ。今の姉のように。
三月前、その試しのために里を出た姉に一体何があったのか。優秀な姉がなぜ試しに通らなかったのか。もはや彼女には知る術もなかった。
沈黙の中、遠くからほう、と梟の鳴く声が聞こえる。近くを流れる沢では、数多の蛍が光っては消え、光っては消え、を繰り返している。
「」
姉に名を呼ばれて彼女はハッとした。お前、ではく、きちんと名前で呼ばれたのは、二人で忍びとして生きていくことを決めてから初めてのことだった。
はらはらと涙を流し始めた彼女に、姉は静かに、はっきりと言った。今日起きたことは全て忘れろ、と。後悔だけはするな、と。
そして最期、姉は空に浮かぶ月をゆらりと見上げて、死に際とは思えぬほど満足そうに笑ったのだった。
「里を出てからの三月は、とてもよいものだったわ――」
力なく首を前に垂らし、動かなくなった姉の前で彼女もまたしばらくの間動けなくなっていた。死んだ。唯一の身内である姉が、たった今、死んでしまった。全て忘れろだなんて、そんなの無理な話である。
今までに感じたことのない絶望に打ちひしがれていた彼女を突き動かしたのは、託された文の存在と遠くから放たれた僅かな殺気であった。気配は感じないのにどこからか飛ばされたその異様な気に、ぶわりと全身が粟立つ。勢いよく、反射的に立ち上がった彼女のそばにあった木が小さく揺れた。
「おい、行くぞ」
頭上から彼女にそう声をかけたのは、彼女と同じ里で暮らす忍びの一人だった。揺れた木に立つ彼もまた、その殺気を肌で感じ取ったのだろう。どこか落ち着かない様子で周りを窺いながら、頭巾で深く顔を覆い、彼女と彼女の姉の亡骸を一瞥した。
「ここはタソガレドキ領内だ、忍びどもに見つかったら敵わん」
生ぬるい風が彼女の全身を撫でていく。涙や汗で濡れた顔を袖でぐいっと拭ったあと、彼女は深く息を吐いて決意した。
託されたのなら、果たさねば。
息絶えた姉の肩にとまった蛍が、光って、消えた。
---
「死んでるね」
領内の山中で絶命していた女のそばに屈んでそう言い放ったのは、タソガレドキ城の忍び組頭・雑渡昆奈門である。雑渡は僅かな気配が消え去るのを確認すると同時に、自身の指先にとまっていた蛍がふわりと飛んでいくのを見送ってやれやれとため息を零した。
面倒なことになりそうだ、と感じていたのは雑渡だけでなく、雑渡と共に山に入った山本陣内、高坂陣内左衛門も同じであった。事の経緯を説明すると、こうである。
タソガレドキ城には、城主である黄昏甚兵衛の不在時に城を守り政務を代行する『城代』と呼ばれる者がいた。歳は三十代前半、優秀で殿からの人望も厚い男だったが、周りにいくら勧められても嫁を取らないことから、『男色の気があるのでは』とひそひそ噂されているような男だった。
そんな城代が先日、ぜひ妻にしたい女子がいると言い出したものだから城内の者は皆どよめき立った。あの殿も、ようやくその気になったかと上機嫌で手を打ったほどである。
そこまではよかった。が、一つ問題が発生した。城代が妻にと望んだ女の素性が知れなかったのである。
およそ三月前から山城の商家にて住み込みで働き始めた女、ということ。出自は不明。となれば、さすがに諸手を挙げて喜ぶわけにもいかない。殿の命を受けて忍軍が女の調査を進めていたところ、今度は城代が城に侵入した忍びに襲われるという事件が発生した。
幸い城代は無事であったが、彼を守ったのはたまたま城に呼び寄せていたその素性不明の女であった。しかも見ていた者によれば、その女も忍びとしか思えぬ戦いぶりであった、とのこと。
報せを受けた雑渡は、その時点で面倒なことになりそうだと思っていたわけだが、城代を狙った忍びと城代を守った忍び、両方の城への侵入を許してしまったとなれば放っておくわけにもいかず。その後、その場から逃走した女の目撃情報を得て山に入り、こうして遺体となった女と対面したというわけである。
「この女が城代の命を狙うために城代に取り入り、仲間と謀って殺害しようとした……であればまだ分かりますが、他所の忍びから守ったとなると……」
「ね、ややこしいよねー」
高坂の言葉に、雑渡は立ち上がり女を見下ろした。
何としてでも生きたまま連れ戻してくれ。そんな城代の願いは、無情にも永遠に叶わぬものとなってしまった。
女の素性は引き続き部下に追わせているし、そろそろ殿から呼び出し食らう頃だし。亡骸だけでも連れ帰るべきか。そう思案する雑渡の元へ一人の男が降り立った。黒鷲隊・小頭の押都長烈である。
「組頭、殿がお呼びです」
「え、やだ」
即答する雑渡に、押都ではなく側に控えていた山本が諫めるように「組頭」と言う。雑渡は仕方なく部下たちに女の遺体を運ぶよう指示したあと、押都に報告の続きを促した。
「城代を襲った忍びの生き残り二人ですが、片方自害しました。歯に毒を仕込んでいたようで」
「あ、そう。じゃあ残りの一人に吐いてもらおうか」
引き摺るような音がして目を向ければ、部下たちが女の遺体を地面に横たえたところだった。全身傷だらけだが、致命傷は恐らく腹の傷だろう。髪は顎の辺りでばらばらと斬られており、幸いにも顔に目立つ傷はないようだが、これを見た城代は何を思うだろうか。
気をつけて運ぶように、と注意しようとした雑渡の動きが止まる。じいっと女を見つめたままの雑渡に、部下たちは首を傾げた。
「ないね」
「は……」
「目撃情報によれば、女は山に入るとき首に懸守を下げていたはずだが」
雑渡のその言葉に、山本と高坂が女のそばに屈んで首元や手元を探る。しかし雑渡の言うとおり、どこにも懸守は見当たらない。
「密書……とお考えで?」
押都がそう尋ねると、雑渡は頬に手を当てて「さあね」と言った。
いくら好いた女子相手とはいえ、城代はタソガレドキ城の重要な内部情報をべらべら話すような人間ではない。しかし、捨て置くには何か引っかかる。
とりあえず女を運ぶよう再度指示を出して雑渡は振り返った。女を見つけたとき、僅かに残っていた気配を辿らせていた部下が戻ってきたのだ。もし女が最期に誰かと言葉を交わし懸守を託したとすれば、その気配の持ち主に、である可能性が高い。運よく捕えられれば、と思っていたわけだが、部下からの見失ったという報告に雑渡はふ、と笑みを零した。
「申し訳ございません……!」
「いや、あの距離であれば致し方ない。向こうもそこそこ優秀なようだしな」
雑渡は部下たちを見渡すと一言、城に戻ると告げた。今の状況下で、あまり殿を待たせるのはよろしくないだろう。
タソガレドキ忍軍の手にかかれば、いずれ女の素性は明らかになる。そうすれば、自ずと先程まで女のそばにいた人物へと辿り着くはずだ。
さて、まずは我らが殿に何と説明しようか――。
雲が月を覆う。訪れた闇に溶けるように、雑渡は飛んだ。
(20251115)