踏み出した先は
ちりちりと松虫の鳴く声が聞こえ、ふと顔を上げた。普段夜にしか聞かない鳴き声を夕暮れ時に耳にするなんて、と思いながら目を向けた先には、子どもたちが忍術を学ぶ場所としては十分すぎる敷地が広がっており、彼女が育った里とは全く異なる穏やかな空気が流れている。
「いやいや、待たせたのう」
ぼんやりと外を眺めていた彼女の前に現れたのは、この忍術学園の学園長である大川平次渦正である。彼の後ろには、彼女をこの庵まで案内してくれた忍犬・ヘムヘムもいる。
現役時代、『天才忍者』と謳われていた人物の登場に彼女は深く座礼した。
「初めまして、と申します。大川殿には此度の話をお引き受けいただき、誠に――」
「そんなに畏まらんでもよーい」
手をひらひらさせながら軽い調子で話す学園長に、おずおずと頭を上げた。忍びであればその名を知らぬ者はいないと言われるほどの有名人、どれだけ恐ろしい人かと思ってみれば。悠々と茶を啜る偉人の姿に、彼女は考えていた挨拶をすっかり忘れてただ「はあ」と返事するしかなかった。
鹿威しがカコン、と音を立てる。茶碗を畳の上に置いた学園長が「さて、と」と呟いて、胸元から一通の文を取り出した。ちらりと見えた覚えのある筆跡に、自然と背筋が伸びる。
「お主のところの里長から話は聞いておる。三月……だったか?」
「はい、お世話になります。ご迷惑はおかけしないようにいたします」
「だからそんなに畏まらんでよいと申しておるじゃろうに」
「は、はい」
返事はしたが、畏まるなと言われても畏まってしまうのが彼女の性格であった。目上の者に対しては礼を尽くすよう、幼い頃から厳しく躾られてきたからだ。そして本音を言えば、里以外の場所で得物も隠し持たず、普通の女子の恰好をして座っている、というだけでもう落ち着かないのである。
学園長はそんな彼女を目の前に『なんともまあ純朴な女子が来たものだ』と思いつつ、戸惑いを隠せずそわそわしている彼女に対し片眉を上げてフフンと笑った。
「それにしても、一風変わった最終試験じゃのう」
そう言われてふと視線を落とす。ヘムヘムが出した茶に映った困り顔がゆらゆらと揺れている。
「それは……正直、私も驚きました」
彼女が育った忍びの里の掟。『最終の試し』に通らなければ一人前の忍びとして認められない。試しに落ちれば、『才無し』として容赦なく里の者に追われて殺される、というもの。
夏のはじまり、この最終の試しで姉を失い、間もなく試しに臨むこととなった彼女に告げられたのは、なんとも奇天烈な試験内容だった。
『三月の間、指定の場所で忍びであることを隠して生活すること。そして、忍びであることを決して周りに悟らせないこと』
それを聞いた彼女がまず思ったのは「たったそれだけ?」である。そんなもの、何が起きても何もしなければ良いだけの話であって。今までこなしてきた忍務や訓練と比べれば、非常にあっけないものだ。
しかし最終の試しの内容は古くから同じであると知り、彼女は混乱した。そうならば「たったそれだけ」の試験に姉は落ち、殺されたことになる。
「相変わらず、彼奴の考えていることは分からん」
「大川殿は、里長と古くからのお知り合いだとか」
「そんな良い関係ではないがのう。あと儂のことは学園長と呼びなさい」
「はい……が、学園長、殿」
呼びづらそうにする彼女に、学園長は豪快な笑い声を上げた。
同じ元忍びでも、多くを語らず笑った顔など見せたことのない里長と学園長とではまったく違う。『良い関係ではない』と言うぐらいなのだから仲は良くないのだろう。確かに気は合わなそうではあるな、と彼女はこっそり思った。
「しかしまあ、忍びであることを隠して生活する……か。存外、苦戦するかもしれんのう」
学園長の低い呟きに首を傾げたそのとき、障子の向こう側から声が聞こえ、忍術学園の教師・土井半助が現れた。
「例の子じゃ、学園内を案内してやってくれ」
「承知しました」
学園長の言う『例の』という言葉が気になった彼女だったが、そこは深く追求せずにこちらを見て柔らかく笑う土井に深々と頭を下げた。
「しばらくお世話になります、です」
「忍術学園教師、土井半助です。よろしくお願いします」
「なるべく、ご迷惑はおかけしないようにしますので」
「いやあ、逆に子どもたちがご迷惑をおかけするかもしれないんですけど……あはは」
頬を掻き、恥ずかしそうに笑う土井を彼女はじっと見つめた。ただの教員ではない忍びでもある男が、こんなに穏やかな顔で笑うとは。あまり他人から向けられたことのない温和な笑みに彼女はどう応えていいか分からず、とりあえず学園内を案内してくれるとのことなので、再度学園長に頭を下げてその場を後にした。
忍術学園の敷地は、最初に抱いた印象通り非常に広大だった。運動場や食堂、浴場、忍たま長屋に焔硝倉など――最初のうちは場所を頭に叩き込みながら歩いていたが、途中で学園の上級生と思われる生徒たちと遭遇した際、皆が口をそろえて自分のことを「あ、この方が例の」などと言うものだから、その度にうずうずしていた彼女は我慢できず尋ねることにした。
「あの、土井殿?」
「はい? あ、私のことは先生でいいですよ。皆そう呼んでいるので」
「土井先生」
「何でしょう?」
「学園の皆さんは、私のことを学園長殿からどうお聞きになっているのですか?」
その質問に、土井は立ち止まり振り返った。訝しげな眼差しで見つめてくる彼女の姿に、土井は「ええと」と頭を掻きながら苦笑いを浮かべる。
ここだけの話、彼女が忍術学園へやって来た本当の理由については教員にのみ明らかにされていた。子どもたちには隠し通せても、大人で一流の忍びである教員はすぐに気付くだろうと踏んだ学園長なりの配慮だった。しかし彼女が臨む試験の都合上、そのことを本人、そして周りに悟られるわけにはいかない。もちろん生徒たちには学園長考案の『嘘の設定』を伝えてあるのだが、その設定を話せばきっとこの子は苦虫を噛み潰したような顔をするのだろうな、と思いながら土井が口を開いたそのときだった。
「土井先生!」
土井の背後から迫る、どたどたという元気な足音二つ。現れたのは、一年は組の黒木庄左ヱ門と二郭伊助である。
「庄左ヱ門に伊助、どうしたんだ?」
「どうしたんだって……先生が呼んだんじゃないですか。放課後、明日の授業の件で話があるって」
「しまった、忘れてた!」
「職員室にいらっしゃらないから、僕たちずっと探していたんですよ」
すまない、と謝る土井に口を尖らせていた二人だったが、土井に隠れるように立っていた彼女の存在に気付くと、珍しいものでも見るかのような目でじいっと彼女を見上げた。その視線に、思わず彼女はぎくりとする。
上級生は、年下とはいえ歳が近いからまだいい。しかし下級生となると、どうしても身構えてしまう。そう、彼女は昔から子どもが苦手だったのだ。
なるべく子どもたちとは関わらないようにしようと思ってはいたものの、さすがにここで生活する以上無視するわけにはいかない。穴が空きそうなほど見つめてくる二人にたじろぎながら、観念した彼女は「こんにちは」と挨拶をした。
「初めまして、一年は組の黒木庄左ヱ門です」
「同じく一年は組、二郭伊助です」
「です」
「……先生、この方が例の?」
庄左ヱ門が土井を見上げてそう言った。また『例の』である。彼女は静かにため息を吐いた。
「土井先生、案内ありがとうございました。私はもう大丈夫ですので、お仕事に戻られてください」
「え、でも」
「あまり待たせるのも、可哀想ですし」
自室の場所は分かっていることを告げれば、しばらく悩んでいた土井はぱっと笑って「では今晩、夕食をご一緒しましょう! 迎えに行きます」と言った。その明るさに面食らいながらも、特に断る理由もないので了承する。初日に一人で食事をするのは目立つだろうし、その方がいいだろう。
土井、そして礼儀正しい一年生二人と別れ、彼女はやれやれと肩を揉んだ。『例の』についてはまた後で聞くとして、とりあえず部屋に戻ろう。そう考えた彼女は、自室のある長屋へ行くために草履を履いて外へ出たのだが、歩き出そうとしてピタリと止まった。
「(なぜこんなに落とし穴が……?)」
今いる場所から自室のある長屋までの道に掘られている落とし穴。しかも一つ二つどころではない。日も沈みかけ闇が忍び寄る中、彼女は目を凝らしてその数を数え、悩み始めた。
長屋へ行くにはこの道を通らなければならない。しかし、こんなにもある落とし穴に一度も落ちることなく長屋に辿り着くのは些か不自然だ。仮にわざと落ちるとして、受身を取れば大丈夫だろうが、どちらにせよ誰かに見られれば身の上を疑われてしまうかもしれない――。
しばらくの間うんうん考え込んでいた彼女だったが、最終的には「ええい、どうにかなるだろう!」という思いで一歩を踏み出した。その瞬間である。
「危ないっ!」
「え」
急に声が聞こえたかと思えば、横からさっと現れた人物が彼女を突き飛ばしたのだ。ぺたん、と尻もちをついた彼女の目の前で、その声の主が悲鳴とともに一番近くにあった落とし穴に吸い込まれていく。そして。
「伊作先輩! 大丈夫ですかってひゃあああ!」
もう一人、駆けてきた影が同じ穴の中へと落ちていった。
どしん、ぐえっ、という音。宙に放り投げだされた竹籠。その中から飛び出した小さな葉や包帯の数々。瞬く間の出来事にぽかんと呆けていた彼女だったが、すぐにハッとして穴の中を覗き込んだ。
「いたた……どうして乱太郎まで落ちてくるんだよ~!」
「だって籠を持っていたせいで足元がよく見えなくて……!」
「あの……だ、大丈夫ですか?」
恐る恐る、穴の底で折り重なるように嵌っている二人へ声をかける。穴に落ちた二人――不運委員会もとい保健委員会の善法寺伊作と猪名寺乱太郎は、上から覗き込む彼女に気付いて「あ」と声を上げた。
そして、声を揃えてこう言ったのである。
「貴女は、例の!」
――またか。
そう思い、彼女は深いため息を落とした。
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『医務室』と書かれた札の掛かっている部屋の戸を開ける。骨格標本の隣にちょこんと座っていた鶴町伏木蔵が振り返り、頭からつま先まで土で汚れた伊作、乱太郎、そしてその真ん中で伊作に肩を貸す彼女を見て驚きの声を上げた。
「ど、どうしたんですかあ~!」
「四年い組の綾部喜八郎先輩が掘った落とし穴に落ちちゃって……おかげで包帯が土まみれだよ」
とほほ、と嘆く乱太郎から受け取った籠の中を覗いて伏木蔵は「うわあ」と呟いた。汚れた包帯は洗って消毒をすれば使えるだろうが、それもなかなか手間だろう。散らばった薬草は風に飛ばされ、半分も拾えなかった。
伊作に肩を貸していた彼女は、彼を床に座らせると、ぺこりと頭を下げた。
「助けてくださって、ありがとうございました」
そうお礼の言葉を述べると、乱太郎はぶんぶんと首を振って「悪いのは落とし穴を掘った綾部先輩です!」と言った。落とし穴に気付いていた彼女としては、なんとも複雑な心境である。
一応助けてもらったことになるのだから、手当てくらいはしないと決まりが悪い。初日から積極的に子どもたちと関わっている気がする……と渋い顔をしている彼女を見て、棚から救急道具を取り出した伏木蔵が「ところで貴女は……」と言う。また『例の』だろうと構えていた彼女だったが、伏木蔵の口から飛び出したのは予想外の言葉だった。
「確か、学園長先生のお友達のいとこの奥さんのお友達のお孫さんで、山賊集団に命を狙われているさん!」
「……え゛」
思わず変な声が出た。何だ、その設定は。
ぽん、と彼女の頭の中にげらげら大笑いする学園長の姿が浮かぶ。恐らく彼だろう。まるで物語の主人公のような設定を考えたのは――。
そういえば上級生の中には哀れむような目で見てきた者もいたが、なるほどそういう理由でか。『例の』というのが何なのか明らかになったのは良かったが、軽い目眩を感じて彼女は目頭を押さえた。
そもそもそんな嘘みたいな設定、子どもたちは本当に信じているのだろうか?
「落ち着くまで学園でお過ごしになるんですよね?」
「忍術学園なら山賊が追ってくることはないから安心ですね! 曲者はたまに侵入してますけど」
どうやら信じているらしい……と、彼女はひくひくと口元が引き攣るのを感じた。子どもとは言え、忍びのたまごであるというのにそんな話を簡単に信じてどうする! 思わずそう説教してしまいそうになるのを堪えて「はい……」と頷いた。落ち着け、学園長は自分のためにそんな作り話を考えてくれたのだ、と言い聞かせながら。
ちなみに、乱太郎が言った「曲者はたまに侵入してますけど」という部分については、もう突っ込む気力は残っていなかった。
気を取り直すようにゴホン、と咳払いをして、彼女は伏木蔵の方を向いた。
「手当て、手伝います。ええと……」
「あ、一年ろ組の鶴町伏木蔵です」
「鶴町くん、猪名寺くんは右足と右手首を擦りむいているようなので消毒してもらえますか。善法寺くんは左足を捻っているようなので……まずは冷やして包帯を巻いたあと、横になって胸よりも高い位置で固定しておいた方が良いと思います。水はどこで汲めばいいでしょう?」
はきはきと話す彼女の姿に、一同ぽかんと口を開ける。彼女がしまったと思ったときには既に遅く、乱太郎と伏木蔵がおお~と感嘆の声を上げながらぱちぱちと拍手を送る。すぐそばに座っていた伊作は、目を輝かせて彼女の手を取った。
「さん、医術の心得があるんですね!」
「いえ……あの、これくらいは普通と言うか、その、父がよく怪我をする人なので!」
記憶にない父親をそそっかしい人物に仕立て上げたところ、乱太郎は「お父上も不運の持ち主なんですねぇ……」と静かに呟いた。学園にいる間、ぜひ保健委員の活動に協力してほしいと懇願する伊作を宥めつつ、早く手当を、と促す。水については伏木蔵が「僕、汲んできま~す」と言い、たったかと走って行ってしまった。
しっかりせねば。心の内でそう気を引き締める彼女の手を離した伊作は、言われた通り横たわりながら「それにしても」と言った。
「さん、手際の良さもそうですけど僕と乱太郎が落とし穴に落ちたときもすごく冷静でしたよね」
「そうそう! そのとき私、思ったんです!」
にこにこと屈託のない笑顔を見せる伊作と乱太郎に、彼女はぎくりとした。嫌な予感がする。
「まるで、プロの忍者みたいだなーって!」
あははは、と呑気に笑う二人を前に彼女は冷や汗が止まらなかった。ひょっとして試されているのだろうか。いやまさか、そんなわけ、ない。
引き攣った笑みを浮かべて、「忍者だなんて、そんなはずないじゃないですか」と答える。頭の中で、再び学園長がにんまりと笑ってこう言った。
『存外、苦戦するかもしれんのう』
簡単だと高を括っていたこの試験。学園長のおっしゃる通り、苦戦するかもしれません――。
(20251115)
(長屋にいなかった彼女を探しに来て、戸の向こう側で一連の話を聞き「初日から危ういじゃないですか!」とハラハラしている土井先生がいる)