ゆらぎ
「年頃の女子に贈り物をするとしたら、何がいいかな」
タソガレドキ忍軍、定期演習の休憩中のことである。澄み渡る秋空の下、いつも通り座卓を囲んでいた押都・山本・高坂・諸泉は、姿を見せるなり唐突にそう問いかけてきた雑渡に思わず顔を見合わせた。
ちなみに、鈍感な諸泉を含めた四名全員、雑渡の言う〝年頃の女子〟が誰のことを指しているのか、言われずとも理解している。
諸泉はやけくそ気味に本日四枚目の煎餅をばりばりとかじりながら、不服そうにフンと鼻を鳴らした。
「なぜわざわざ組頭が、なんかに……」
「いや、この間いろいろと世話になったからね」
「だからって贈り物など、不相応です!」
そう声を張り上げる諸泉に、どうしてこうも分かりやすく彼女のことを目の敵にするのか、と雑渡は思いながら、やれやれとため息を吐いて腰を下ろした。雑渡自身は、単純に先日の一件――山でタソガレドキ城の蔵番と繋がっていた男たちを捕らえたとき、彼女に協力してもらった礼として何かを贈ろうと考えただけである。
やはり団子などの甘味が無難だろうか、と考えていた雑渡に、高坂が茶を淹れながら「櫛はどうでしょう」と言った。
「櫛?」
「はい。最近、城下に良い店ができたと城の女子たちが話しているのを耳にしました。あとは紅とか……まあ、喜ばれるかは別ですが」
「それか、組頭も簪を贈ってはいかがですか。土井殿のように」
高坂のあとに山本がそう続ける。烏帽子親子からの提案に、雑渡は眉根を寄せた。
櫛・紅・簪。どう考えても重すぎる。どれも親密な相手に想いを込めて贈る代物である上に、仮にそれらを贈ったところで彼女が良い顔をしないことは火を見るより明らかだ。高坂も山本も、そのことは十分に理解しているはず。
どうやら二人は、雑渡にとって彼女が特別な存在であると考えているようだ。
そのことに気付いた雑渡は呆れたように肩を竦めて、指でとんとんと座卓を叩いた。
「あのね……言っておくが、私は別に彼女に特別な感情など抱いていないよ」
「それならば、土井殿が殿に贈られた簪について『似合う』の一言くらい言ってもよかったのでは?」
山本はそう言うと、持っていた茶碗を置いて口の端を僅かに上げた。
「普段の髪型が好きなどと、組頭らしくない」
「……盗み聞きは趣味が悪いよ」
「こう見えて、忍びですから」
二人のやりとりに小首を傾げる諸泉と高坂のそばで、それまで黙っていた押都がすっと手を挙げる。
「では、簪は私が贈るとしましょう」
全員の視線が集まったところで、押都ははっきりとそう宣言した。その言葉に、雑渡の顔の包帯が飛び出そうになる。
んなっ! と声を上げてあんぐり口を開けた諸泉が、「なぜ押都さんが」とチラチラ雑渡を見やりながら押都を問いただす。押都はどこか愉快そうに、顎に手をやった。
「先日の殿の立ち振る舞い……なかなか良いものを見せていただきましたので、その礼です」
「……お前、見てたね?」
「こう見えて、忍びですから」
雑渡の問いに、押都は先程の山本の言葉を真似て笑う。
彼の言う『先日の殿の立ち振る舞い』とは、彼女が見張りの男の首を締め上げた、例のあれだ。実はあのとき雑渡だけでなく、雑渡から離れた場所で押都もその様子を目撃していたのだ。
それにしても簪とは――と、雑渡は押都の心の内を見透かそうと彼の面をじっと見つめた。別に彼女に気があるというわけではなさそうだが、ただ単に面白がっているだけなのか、何か他の思惑があるのか。詳細は雑渡でも分からない。隣では、諸泉が居心地悪そうに煎餅に伸ばし続けていた手を引っ込めている。
押都は、はは、と声を上げて笑った。
「三人だけの秘密ですな」
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数日後。雑渡が地獄ヶ谷の麓で買った団子を手に忍術学園を訪れると、魚のほぐし身を乗せた皿を持った彼女が彼の姿を見るなり「あ!」と声を上げた。
「やあ、殿」
この場所は男子禁制だとかまた何か非難めいたことを言われるのだろう、と思いつつ、軽く手を挙げて挨拶をする雑渡の裾を、さささっと小走りで寄ってきた彼女が強くがっしりと掴む。これにはさすがの雑渡も驚いた。
「ちょっと、こちらへ」
辺りの様子を窺いながら、彼女は声を潜めてそう呟いた。雑渡が裾を掴んでいる彼女の白い手を、意外なものでも見るかのような眼差しで見つめていることには気付いていないようだ。
そのまま裾を引かれ、抗うことなくついて行った雑渡が辿り着いた先は彼女の自室だった。ほんの少し戸惑いを見せた雑渡を気にすることなく、彼女は彼の背後に回り、その大きな背中をぐいと両手で押し込んだ。
すとん、と障子が静かに閉まる。まさか部屋、しかも自室に招き入れられるとは思わず、雑渡は苦笑いを零した。初めて会った頃に比べれば信頼されている証かもしれないが、あまりにも不用心すぎる。そして、曲がりなりにもくノ一である彼女の行動に、一体何の意図があるのかと雑渡は勘繰らずにはいられなかった。
「実は、雑渡殿に見ていただきたいものがございまして」
「見ていただきたいもの?」
学園で世話をしている猫の餌なのだろう、持っていた皿を部屋の隅に置いた彼女は、窓際に置いてある長持から文箱を出し、一本の簪を取り出して雑渡の目の前に突きつけた。
それは黒い平打ち簪だった。飾り部分には鮮やかな桜の絵が描かれているが、それは土井が彼女に贈ったものとはまったくの別物。もしや、と雑渡が彼女に視線を戻した瞬間、彼女は深く息を吐いた。
「昨日、タソガレドキの……あの面をつけた方が持って来られたのです。急に天井から現れて……」
雑渡の脳内で押都が陽気にピースサインを作る。まさか本当に簪を贈るとは、と、雑渡も彼女と同じようにため息を零した。
しかし、突きつけられた簪はなかなかよい代物のようだった。土井が贈った山吹色の玉簪よりも、こういった落ち着いたものの方が彼女には似合うだろう。そう考える雑渡の目の前で、彼女は眉を八の字にさせている。
「よく知らぬ方からこのようなものをいただいても、困ります」
「では、私からなら?」
「え?」
「私が簪を贈ったら、殿は身につけてくれるのかな?」
そう尋ねておきながら、雑渡はすぐに『妙だな』と感じた。
山本から彼女に簪を贈ってはどうかと言われたとき、真っ先に『馬鹿馬鹿しい』と思ったのだ。特別な感情など抱いていないのに、そんなものを贈るわけがないではないか、と。
それなのに「私が簪を贈ったら」などと、我ながらどうかしている。
「それにしても、不用心だよ」
明らかに狼狽えている彼女が何かを言う前に、雑渡は彼女を咎めた。
「昼間とは言え、男を部屋に招き入れるなど」
「……以前、夜更けに無断でこの部屋に侵入された方の言葉とは思えませんが」
彼女の言葉に雑渡は一言「まいったな」と呟き、ずっと突きつけられていた簪を手に取った。代わりに、持っていた団子の包みを彼女の空いた両手に乗せる。
「そう気を立てないで。これは押都に返しておくから。代わりにこの団子は受け取ってね、この間の礼」
「れ、礼はいりません、子どもたちを見つけてもらいましたし」
「いいから」
雑渡は懐に簪をしまうと、そのまま彼女の頭に優しく手を置いた。複雑そうな顔をしているが、簪のように突き返してこないあたり、受け取ってはくれるらしい。
やはり団子にして正解だったな、と思いながら雑渡が彼女の髪をくしゃくしゃと撫でれば、やがて彼女は気恥ずかしそうにふいと顔を逸らし、蚊の鳴くような声で「ありがとうございます」と言った。
出会った当初に比べれば、向けられる眼差しや態度などは随分軟化したと思う。露骨に警戒されるよりはこちらも動きやすいが、同じ忍びとしては些か心配になるな、とも。
しかし、いくら距離が縮まろうと、彼女はいずれ学園を去り己の前から消える。いくら城代の命令で重要人物として見守るように言われていても、彼女がタソガレドキにとって害になるような行動を取るのであれば、それ相応の対応をしなければならない。こうして伸ばした指先が届くからと言って、必ずしも近いというわけではないのだ。
「(まいったな)」
逃げずに、また振り払うこともしない彼女の柔らかな髪が指の間からさらりと抜けていく。雑渡はその感触を確かめながら、もう一度、今度は心の中でそう呟いたのだった。
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「お気に召さなかったようで」
学園を出て裏山に入ってすぐ、ずっと潜んで様子を窺っていた押都が、タソガレドキへと走る雑渡の目の前に飛び降りてきてそう言った。もちろん、彼が潜んでいたことを雑渡は認識済みだ。
足を止め、懐から簪を取り出した雑渡は、それをそのまま押都へと差し出した。
「よく知らぬ男からの贈り物に随分と困惑しているようだったよ」
「殿ではなく」
押都は簪を受け取ると、そっと持ち上げて木漏れ日にかざした。
「組頭の意に沿わぬことだったかな、と」
そう言って、ふ、と笑みを零した押都は、簪を己の懐にしまった。
雑渡は空いた両手を組んで、ふう、と息を吐いた。押都が何を言いたいのかは分かっている。そして、それに対して返すべき答えも決まっている。彼女に対して特別な感情など――。
ふと、視界の端に山の中ではあまり目にすることのない色が映り込んだ。身じろぎせずに視線だけを滑らせてその正体を確かめる。そしてそれが何かを理解した瞬間、雑渡は僅かに言葉を失った。
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学園の庭を突っ切って、いつもの場所に置いてある皿の代わりに、食堂のおばちゃんが今日は特別と言って用意してくれたサンマの身をほぐしたものが入った皿を置く。
今日の雑渡殿は、どこか様子がおかしかったな――。
どこが、と聞かれればうまく答えられないが、いつも以上に言葉を選んでいる感じがした。そしていつもよりほんの少しだけ、距離があるような。皿の前に腰を落とした彼女は、先程の雑渡の様子を思い返して小さく息をついた。
雑渡の大きな手のひらを見る度に、頭を撫でられるときの妙なくすぐったさを思い出す。口布の下で彼の口が動く度に、先日耳元で低く落とされた声が頭の中に蘇る。あの男に不用意に近付いてはならない、そう思ってはいるのに、なぜか彼の態度のゆらぎが気になってしまう。
彼女は一人、自嘲気味に笑った。どうせ会わなくなる人間のことなど、気にしたところで仕方がないのに。
立ち上がり、人の気配を感じて振り返る。そこには学園を去ったはずの雑渡がいて、彼女は思わず目を見張った。
「……先程帰られたかと」
「そのつもりだったんだがね」
またもや言葉を選ぼうとしている雑渡に眉を顰めた彼女だったが、彼が両手に抱えているものに気付いて視線を落とす。
「恐らく獣か何かに襲われたんだろう」
彼の忍装束と同じ茶褐色の布の下から、見覚えのある薄鼠色の毛に覆われた前足がだらりと垂れている。
雑渡の手にあるものの正体を、彼女は一目で察した。
斜堂から世話を任されて以来、毎日のようにふらりと学園に現れては、彼女や三年生で生物委員の伊賀崎孫兵に擦り寄って甘えていた猫だったが、ここ二日ほどは姿を見せないなと思っていた。とはいえ、野良猫は複数の餌場を持っていることが多いからと、あまり気に留めていなかったのだが――。
「殿」
胸の奥へ、ひやりと冷たいものが流れ込んでくる。そんな感覚に襲われていた彼女の名を、雑渡がはっきりと、少し声を張って呼んだ。
はっと顔を上げる。雑渡のまっすぐな視線でようやく我に返った彼女は、掠れた声で「ああ」と呟いて、彼の持つ亡骸を受け取ろうとゆっくり両手を差し出した。
「わざわざ、すみません」
「手伝おうか」
「いえ、そこまでしていただくわけにはいきませんので」
雑渡から渡された猫の身体は冷たく、あの柔らかかった毛並みもすでにごわごわと硬くなっていた。まだそれほど時間は経っていないのだろう。すっかり温もりを失い、変わり果てた姿の猫から漂うのはかすかな血の匂いばかりで、腐敗臭はない。
「四年生の」
またもやぼんやりしていた彼女は、雑渡の声に呼び戻され、びくりと肩を跳ねさせる。
「綾部喜八郎くんに頼んではどうだろう」
「え?」
「彼は、穴掘りが得意だっただろう」
雑渡の意図を理解した彼女は、ほんの一瞬だけ考え、すぐに首を横に振った。穴掘りを楽しんでいる彼に、亡骸を埋めるための穴を掘ってもらうのは気が引けたのだ。
自分でやると言う彼女に、雑渡はそれ以上何も言わなかった。最後に一言、その手拭いは捨ててもらって構わないと告げて、静かに学園を去って行った。
意外とあっさり帰って行ったな、と、いつもと様子の違う雑渡に対して更なる違和感を覚えた彼女だったが、すぐに踵を返して歩き始めた。
たしか用具倉庫に鍬か鋤があったはず。それを借りて、あと斜堂と伊賀崎にも伝えて――と、これからどう動くかを考えながら、彼女はずんずんと歩いて行く。
薄情かもしれないが、悲しいという気持ちはあまりなかった。それでも喉の奥が詰まるように苦しいのは、きっと姉をきちんと弔うことができなかったからだ。
山で息絶えた姉の遺体は、あれからどうなっただろう。獣に喰われ、無残な姿となって土に還ったかもしれない。時とともに朽ちていく様を想像したくなくて、両手に沈み込む『死』に引きずられないよう、彼女は足を速めた。
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「今度こそ、本当に帰られたかと思ったのですが」
斜堂の許可を得て、学園の隅――あまり生徒が通らない静かな場所に穴を掘り、猫を埋めて土を被せ、獣に掘り返されないよう重石を置いた、その直後だった。
あっさり帰ったはずの雑渡がまたもや姿を現したものだから、彼女は少しだけ呆れたようにそう言った。
「今日だけで、二度も入門票を書かずに侵入してしまったよ」
冗談めかして肩を竦める雑渡の手には、数本の白い野菊が握られている。わざわざどこかで摘んできたのだろうか、と驚く彼女に彼は歩み寄り、その花をそっと石の傍らに置いた。
「――悲しい?」
鋤を手に立ち尽くす彼女の隣に並び、雑渡は暫しの沈黙ののち、ぽつりとそう尋ねた。
「いえ、悲しくは……ただ、もう餌を用意する必要はないのだな、としか」
「なるほど。それは『寂しい』だね」
思わず見上げると、雑渡は軽く両手を広げた。
「泣きたいなら胸を貸そうか」
「ご冗談を」
軽口にほんの少しだけほっとして、いつも通り一蹴する。からかわれるのにも随分慣れたようだ。
視線を落とし、白い花弁が風に揺れるのを眺めながら、雑渡の言う『寂しい』について考える。今まであったものが欠け、心のどこかにぽっかりと穴が空いてしまったような、この喪失感――あるいは孤独と呼べるものの正体が『寂しい』なのだとしたら、この穴を埋める術はあるのだろうか。
「あの……雑渡殿にこんなことを聞くのは、失礼かもしれないのですが」
「うん?」
「誰かの死というものは、どう受け入れればいいのでしょう」
彼女はどこか、姉の死を受け入れきれないまま今に至っていた。死んだという事実はある。けれど、なぜ簡単なはずの最終の試しに落ちて死んでしまったのか、その理由が分からないままでは、どうしても納得がいかなかった。
最期に託された『恋文』とやらを開けて読んでみれば、何かが分かるのかもしれない。だが、もしそこに最終の試しに関わる何かが記されていたならば、それを知ることで『顔に出やすい』と言われる自分の試しに何かしら影響が出てしまうかもしれない。
姉から託された文を届けられなくなる――それだけは、どうしても避けたかった。
ふむ、と頬に手を当てて考え込む雑渡を、彼女はじっと見つめる。
「私は君とは違い忍びだから。死に対する考えも、少し違うかもしれないが」
そう前置きして、雑渡は静かに言った。
「死は、受け入れるものではなく、背負うものだと考えているよ」
そう言って、彼は空を仰いだ。
受け入れるものではなく、背負うもの。タソガレドキ忍軍組頭として多くの部下を抱える雑渡らしい答えだと思う。だが。
「それは、辛くはないですか」
思わずそう質問を投げれば、彼は肩を竦めて続けた。そういった辛いという思いも、拭えない喪失も、残された空白も。すべて背負うのが生きている者の務めなのだ、と。
務めという言葉が、彼女の胸の奥に重く沈んでいく。
「もっとも、寂寥感を何か別のもので強引に埋めてしまうというのも、一つの手ではあるが」
雑渡はそう呟いたあと、少し身を屈めて、先程と同じように両手を広げてみせた。首を傾けて、俯いていた彼女の顔を覗き込む。
「やっぱり胸、貸す?」
「はい」
まさかそんな返事が返ってくるとは思わなかったのだろう。即答した彼女に、一瞬ではあるが雑渡の身体がやや強張る。
沈黙のあと、やがて堪えきれなくなった彼女が小さく吹き出す。顔を伏せ、小刻みに肩を揺らし始めた彼女の姿に、雑渡はひとつ息を吐いた。
そのまま広げた腕を下ろしかけて、ほんの一瞬だけためらう。結局、何も言わずに手を引くと、困ったように目を細めた。
「あのね……おじさんをからかうのは感心しないよ」
「だって、くく、今の雑渡殿の顔……」
いつもはからかわれてばかりだが、今日は一本取れた。そう言いたげに、彼女は満足げな様子で笑いを零す。くすくすと肩を揺らすその様子に、雑渡は呆れたような顔を向けた。
ふと、彼女の頬に土がついているのに気付き、雑渡は指先でそっと触れた。汚れを拭うだけのはずの仕草が、まるでそこに在るものを確かめるように、離れがたそうに続く。
不意に、彼女の目から零れた涙が静かに頬を滑り落ちた。笑いすぎたせいか、それとも死によってもたらされた虚しさゆえか、その理由は本人にも分からない。
ただ、何も言わずにそのままの距離で涙を拭う雑渡の指先の温度が、どうしてか心に沁みた。
彼女自身あまり認めたくはなかったが、いつの間にか雑渡のことを随分と信用するようになっていた。あれほど恐れていた男のことを、己の身と子どもたちを託し、自室に招き入れるほどに。そして何より、笑うことが苦手な自分が、こうして心の底から笑ってしまうほどに。
胸の奥に残るこの感情をまだうまく言葉にできないまま、彼女はそっと目を伏せた。
(20260329)