触れた熱の行き先
「風邪ですね」
くしゅん、と二回続けてくしゃみをした彼女に、伊作は眉を落としてそう告げた。
「やっぱり……」
予想通りの言葉にそう呟いた彼女の声は、随分と酷いものである。彼女は伊作が急いで煎じてくれた薬を飲み、そのまま医務室に敷いてもらった布団の上に横たわった。
彼女が違和感に気付いたのは今朝、目を覚ました瞬間からだ。唾を飲み込むだけで喉に激痛が走り、頭はぼんやりとして寒気がする。気怠い身体に気付かない振りをして向かった食堂で食べた朝食は、いつもと違いあまり味がしない。そんな中、保健委員会の手伝いで薬草の仕分けをすることになっていた彼女が医務室を訪れると、笑顔で迎えてくれた伊作の表情が一変した。すぐに忍術学園の校医・新野が呼ばれ、今に至るというわけだ。
彼女自身、風邪を引いた原因には心当たりがあった。そして、それは伊作も同じだったようだ。彼は叱られた犬のようにしゅんとして頭を下げた。
「すみません、留三郎と文次郎のせいで……」
「いえ、私が勝手に巻き込まれちゃっただけなので」
掠れた声でそう返したものの、伊作の表情は浮かないままである。
風邪を引いた一番の原因――それは昨日、犬猿の仲と言われる六年生・食満留三郎と潮江文次郎の争いに巻き込まれて池に落ちてしまったことだろう。
そのときの彼らの慌てぶりといったら、まあすごかった。二人して血相を変えて池に飛び込み、救出した彼女を医務室まで連れて行ったのだが、季節は秋の終わり。頭のてっぺんから足の先までぐっしょりと濡れ、食満や潮江以上に顔を青くして震えている彼女を見たときの伊作の顔も、それはまあすごいものだった。
自分なら、彼らの喧嘩に巻き込まれることなく上手く避けられたはずなのに。ひっそりと反省しながら、彼女は布団を口元まで引き上げた。不甲斐なさと、ただの風邪にここまでしてもらうことへの申し訳なさで気持ちが沈んでいく。
「きっと、慣れない環境での生活にずっと気を張っていて、それが緩んで一気に疲れが出たのもあるでしょうから」
そばに腰を下ろした伊作が、そう言って微笑んだ。
「無理せず、養生してください」
「ありがとう……伊作くん」
彼女に礼を言われた伊作は、驚いたように二、三度瞬きをした。その様子を見た彼女が首を傾げるより先に、それまであまり元気のなかった彼は少し照れたように「あはは」と笑い声を上げたあと、自分と新野がたまに顔を出すようにする、とだけ告げて授業へと戻って行った。
伊作の様子は多少気になったが、しん、と静まった医務室の天井を見つめながら、彼女はぼんやりと遠い昔のことを思い返した。幼い頃、体調を崩して床に伏せたときはいつも姉が夜通し看病をしてくれた。そして、逆に姉が病気で寝込んだときなどは、看病できることが嬉しくて張り切って粥や薬草を準備したものである。
「(まさか、年下の子に世話してもらう日が来るとは……)」
小さくため息を落とし、彼女はふ、と笑った。薬の効果か、それとも熱が上がってきたのか、寒気はするが身体の中は燃えるように熱い。とりあえず、今日は皆のお言葉に甘えて眠ってしまおう。
そう思い目を閉じた彼女だったが、こういうときにゆっくり休めないのがこの忍術学園である。
彼女が風邪を引いたという話はあっという間に学園中に駆け巡り、下級生から上級生、さらには先生、そして事務員の小松田までもが入れ替わり立ち替わり医務室を訪れた。そのたび皆が無遠慮にわいわい騒ぐものだから、当然ゆっくり眠れるはずもなく。乱太郎をはじめとする保健委員会の面々が慌てて駆けつけては、容赦なく彼らを追い返す――そんなことが何度もあった。
最初の頃はどうしても落ち着かなかったこの賑やかさにも、いつの間にかすっかり慣れた。だが、この日常ともあとひと月もすれば別れを迎える。あれほど待ち侘びていた瞬間が、もうすぐそこまで来ているのだ。
再び訪れた静寂の中で、彼女は小さく「……姉上」と呟いた。
姉上。今、貴方と話したいことが、山のようにあります。
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「雑渡昆奈門さんも、今日はさんのお見舞いですかぁ?」
夕暮れ時。入門票にサインする雑渡に、小松田は彼の手元にあるものを眺めながら、のんびりとした調子でそう尋ねた。その何気ない質問に、筆を走らせていた雑渡の手がぴたりと止まる。
「……見舞い?」
「さん、風邪引いちゃったんですよ。なんでも、六年生の食満留三郎くんと潮江文次郎くんの喧嘩に巻き込まれて、池に落ちちゃったみたいで。今は医務室で休まれてます」
ツイてないですよねぇ、と話す小松田に雑渡は呆れた表情を浮かべる。いくら正式な手続きを経て学園内に入るとは言え、己のような曲者に学園内の情報をこうもぺらぺらと喋るとは。
しかし、監視という名目で(ただの監視なら部下に任せればいいのに、わざわざそんなものを持って組頭が出向かずとも、とにやにや笑う山本・押都を受け流して)彼女に会いに来た雑渡にとっては有益な情報だった。探す手間が省けたと、雑渡は礼を述べて小松田へ入門票を手渡した。
「あね……え……」
風邪ということならば、顔だけ見てすぐに退散するつもりだった。
しかし、眠る彼女の口から零れ落ちた言葉を耳にして、雑渡は布団のそばに腰を下ろす。ふと視線を巡らせれば、枕元に並べられた柿や団子、南蛮菓子に本、彼女の似顔絵や歪な文字で『早く元気になってください』と書かれた手紙などが目に入る。
恐らく子どもたちからの見舞いの品々だろう。この様子だと、きっと日中はろくに休めなかったに違いない。そう推測して、再び彼女へと視線を戻す。
しばらく寝顔を眺めていると、雑渡の気配に気付いたのか、彼女の瞼が重たげにゆっくりと開かれた。
「……雑渡、どの」
「随分と辛そうだね」
「いつから、というか、なぜここに……」
彼女はゆっくりと身体を起こし、恥ずかしそうに手櫛で乱れた髪を整えながら掠れた声でそう言った。まだ熱があるのだろう、かすかに上気した顔は射し込む夕陽を受けて妙に赤みを帯びている。
雑渡が彼女の額に手を当てると、彼女は戸惑ったように視線を泳がせた。そしてすぐに、彼の傍らに置いてあるもの――山本と押都から『そんなもの』と揶揄われたもの――に目を留めて、「その花は?」と問いかける。
雑渡は持ってきた花――山茶花の切り枝を軽く持ち上げて「先日の礼だよ」と一言告げた。その言葉に、彼女は眉を顰める。
「……礼なら、この間、団子をいただきました」
「全てしんべヱくんに食べられていただろう」
そう答えて、雑渡は笑みを浮かべる。なぜそのことを知っているのか、と訴える彼女の瞳はいつもより生気がない。彼女はいろいろと言いたいことを飲み込んで、白と淡い桃色が混じった山茶花の花弁へと視線を落とした。
タソガレドキ領内に、山茶花の木が多く植えられた寺がある。ちょうど今頃から冬にかけて見頃を迎える山茶花は椿とよく似た花を咲かせるが、散り方の違いから縁起の良い花として、この時期にはタソガレドキ城の主殿や城主・黄昏甚兵衛の居室などにもひっそりと飾られている。
今日、雑渡がその山茶花を持参したのは、寺の僧が剪った枝を城に届けに来た折、たまたま居合わせたためだ。ついでにもうひとつ言えば、冷たい空気の中で花開き、やがて静かに散るその姿が、いずれ去っていく彼女の面影とどこか重なったからだ。
少しして、彼女はしみじみと「きれいですね」と言った。
「タソガレドキのとある寺の境内にたくさん咲いていてね。この季節はなかなか見応えがあるよ」
「それは、一度見てみたいものですね」
「では、今度連れて行ってあげよう」
彼女は答えず、僅かに口角を上げただけだった。
「……せっかくですから、これはありがたくいただきます。でも、お礼はこれで最後にしてください」
「それにしても、見舞いの品がこんなにあるとは。殿は随分と忍たまたちから愛されているようだ」
礼は最後にしてくれという願いを無視する雑渡に、彼女はむっとした様子で唇を結ぶ。だが、やはり本調子ではないためか、一つため息を零しただけで雑渡と同じように子どもたちが持ってきた品々へ視線を移した。
愛されているかは分からないが、みんな優しい子ばかりで――そう語る彼女の眼差しは慈愛に満ちていた。どうやら変わったのは己への態度だけではない。子どもたちへの接し方や思いも、最初の頃に比べれば随分変わったようだ。
そう思いながら、雑渡は彼女の肩をとん、と軽く押した。身体にあまり力が入らない彼女は、そのまま布団へと倒れ込み、彼はそっと布団をかけなおす。そして再び、彼女の額に手を当てた。
「熱があるときは、こうすると子どもが喜ぶらしいよ。陣内が言ってた」
「私は貴方にとって子どもですか……」
そう言って、彼女はふっと短く笑う。雑渡のひやりとした手の平が心地いいのか、やがて目を閉じた。
夕陽が落ちて、空の色が橙から群青へとゆるやかに移り変わっていく。徐々に薄暗くなっていく部屋には、彼女のすうすうという呼吸の音だけが残った。ちょうど夕餉の頃合いだからか、辺りに子どもたちの気配はなく、とても静かだ。
「……もう暗くなりますから、早く奥方様の元へ戻られては?」
眠った、と思った彼女が不意にそう口にする。雑渡は額から離しかけていた手を元に戻した。そしてすぐに『奥方様』という、自身にはあまり馴染みのない言葉に僅かに目を眇める。
「私は独り者だよ」
彼女は目を開けて、ゆっくりと雑渡を見つめた。
「あれ……そうなんですか?」
「私は嫌われているからね。帰りを待つ女子など、一人もいないよ」
「そう、でしたか」
彼女は意外そうに、小さく呟いた。それもそのはず、雑渡の年齢と立場を考えれば、妻や子を持っていないことの方がむしろ珍しいのだ。
部下の家族たちから忌み嫌われているのは確かだが、密かに雑渡に憧れている女子が多いのもまた事実。忍び組頭という栄えある肩書きを持つ雑渡には、縁談が山ほど届いていた。しかし、最近は雑渡本人がまったく取り合おうとしないため、隊の小頭たちからは「部下たちのことを考えて早く身を固めろ」と、日頃から口うるさく言われている。
山本、そして押都がやけに彼女への態度に対してあれこれ口を出してくるのは、いくら城代のことがあるとはいえ、雑渡が一人の女子をここまで気にかけるのは初めてのことだったからだ。
少しの沈黙のあと、彼女はぽつりと「よかった」と呟いた。
その一言に、彼女の前髪を弄んでいた雑渡の手がぴくりと動く。
「なぜ?」
「だって、恨まれずに済むじゃないですか……。私なら、夫が……たとえば大川様が、こうして他所の女子に接していたら、嫌な気持ちになると思います」
ましてや花を贈ったり、その花を見に行こうなどと誘っていたら。
喋りすぎて疲れたのか、彼女はそう言い終えると軽く咳込んで、深く息を吐いた。その様子を見た雑渡は、この状況でもまだその設定を貫くのか、と小さく笑う。
一方、彼女は雑渡が口にした「嫌われている」という言葉の意味を考えていた。
諸泉や他のタソガレドキ忍者の態度を見る限り、部下から疎まれているようには見えない。それに、一部の忍たまを除いた、とくに保健委員会の忍たまたちは彼に対して好意的に接しているように見える。
では、自分はどうだろう。ふと、彼女はそう思った。
最初の頃は嫌いだった。警戒もしていた。だが、いろいろなことがあって、今では雑渡のことを信用するようになった。
では、好きか嫌いかで言えば、恐らくは――。
黙り込んだ彼女の額から手を離し、雑渡はすっと腰を上げる。そして、床に置いた山茶花の切り枝を指し示した。
「これは、新しい水に入れて飾っておくといい」
持ってきた山茶花には、枝に沿っていくつかの蕾が膨らみ始めていた。毎日水を替え、強い日差しを避けた場所に置いておけば、やがて残りの蕾も花開きしばらくは楽しめるはずだ。
雑渡の帰る気配を感じ取ったのか、横になっていた彼女は再び身を起こした。休んでいていいと言っても、頑固で真面目な彼女は「そういうわけにはいきません」と首を振る。上目遣いで、ぼんやりとした眼差しを向ける彼女に、雑渡が声をかけようとしたときだった。
「花は、あとで伊作くんが来たときに頼んでおきます」
その言葉に、雑渡は微かな引っかかりを覚えた。
六年生・保健委員会委員長の善法寺伊作。彼のことをいつも『善法寺くん』と呼んでいた彼女が、『伊作くん』と親しみを込めて下の名で呼んだことに気がついたからだ。
たまたまなのか、それとも最近になってそう呼び始めたのか。定かではないが、別段おかしいことでもない。彼女は己よりも忍たまたちとの方が歳が近い上に、日々顔を合わせているのだから。
黙り込んでしまった雑渡を不思議に思ったのか、彼女は眉を顰めて彼の名を呼んだ。
雑渡殿、と。
「私が――」
ぽつりと呟いて、そっと床に片膝をつき身を低くした雑渡に、聞き取れなかった彼女は「え?」と小首を傾げる。
沈黙の中、視線が絡み合う。雑渡はもう一度、ゆっくりと口を開いた。
「私が、帰る前に風邪をもらっていってあげよう」
「……どう、」
やって? と続けようとした彼女の言葉が、途中で途切れる。彼女の視線は、人差し指を引っかけて口布を下ろした雑渡へと釘付けになっていた。
雑渡が彼女の前でこうして顔を晒したのは、初めてのことだった。
「こうやって」
それだけ言って、雑渡は口布を下ろした手とは逆の手を彼女の顎先に添える。そして、驚いたまま己の口元を見つめる彼女に顔を寄せてそっと唇を重ねた。
不意を突かれた彼女の熱く柔らかな唇がこわばり、肩が一瞬で硬直する。雑渡はゆっくりと顔を離すと、鼻先が触れそうな距離で彼女がどんな反応を見せるか待った。
くノ一であれば、いくら未婚でも口吸いごとき初めてではないだろう。熱でいつものような覇気がないとはいえ、きっと激しく怒り出すに違いない。そう予想していた雑渡だった――が。
彼女は先程と同じ驚いた顔のまま瞬きを繰り返し、そして薄暗い中でもはっきりと分かるほど赤い頬をさらに赤く染めて「へっ?」と気の抜けた声を漏らしただけだった。
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冗談のつもりだった。
ただ一度で終わらせるはずだった、のに。
雑渡の両肩を押し返していた力がだんだん弱まっていく。いつしか彼女のその手は、縋りつくように己の肩口を掴んでいた。
後頭部に手を回し、唇を合わせ続ける。そんな雑渡から逃れようと顔を背ける彼女を、追いかけるようにして何度も口吸いを繰り返す。
「あの、ちょ、待って……」
絞り出すように言葉を紡ぐ彼女を無視して少し体重を預ければ、彼女の身体はあっけなく布団へと沈み込んだ。そこでさすがにまずいと思ったのか、ぐっと強く肩を押し返してきた彼女は、必死な様子で「ひ、人が来ますから!」と声を上げた。
ふうふうと息を整える彼女を見下ろしながら、雑渡は堪え切れず小さく噴き出した。
「つまり、人が来なければ続けてもいいと?」
「そういうわけでは……というか、こ、子どもたちの学び舎でこんなこと、倫理的に問題が……」
力の抜けた、蕩けたような表情でそう話す彼女の下唇を甘く噛めば、彼女は「うう」と困り果てたような声を漏らす。
今ならば、冗談ではあったが風邪をもらうため、という口実がある。一方彼女も、熱に浮かされて拒む余裕がなかった、と後から理由づけることができる。本心や迷いに目を向けずに踏み出せる、都合の良い機会だった。己だけでなく、恐らく彼女にとっても。
「……雑渡殿」
頬を撫でて、彼女を見つめる。震える睫毛の下で、潤んだ瞳がまっすぐ雑渡を捉えている。
「私たちがどうにかなることなど……万に一つもないですよね」
彼女は虚ろな様子でそう尋ねた。
尋ねたと言っても質問ではなく、どこか確信めいたその言葉に雑渡は答えず、再び口付けを落とす。僅かに開いた唇の隙間から舌を割り込ませれば、雑渡の肩に置かれていた手がびくりと震えた。先程までとは違う深い口付けに、彼女は苦しそうな息を漏らす。
彼女とは育ってきた環境は近しいかもしれない。だが、仮に敵であってもそうでなくても、置かれている立場や背負っているもの、果たすべき役目はきっと違う。だから彼女の言う通り、自分たちがどうにかなることは、万に一つもない。
遠くの方で子どもたちの話し声が聞こえる。雑渡は唇を離し、そっと片手で彼女の両目を覆った。
「これで、明日の朝には良くなっているだろう」
おやすみ。彼女の耳元で囁いて、手を離すと同時に雑渡は屋根裏へと飛んだ。
万に一つもない。
それでも、彼女と己の間にある問題や隔たりは、雑渡にとって彼女に触れることをやめる理由にはならなかった。
踏みとどまれなかった己の自制心の弱さに、雑渡は口布を戻し、深く息を吐く。このことを知れば、山本は呆れたようにため息をつき、押都はそらみたことかと大笑いするに違いない。
いつか言われた『らしくない』という言葉を思い返しながら、雑渡は己の愚かさに呆れるしかないのだった。
(20260419)