二人だけの秘密
人には得意・不得意がある、ということを彼女が身をもって理解したのは、十二くらいのときだった。例えば彼女は女子にしては足が速く、気配を絶つことに長けていたため偵察や地形の調査などを得意としていたが、愛想がよい方ではないため聞き込みや標的に取り入ることはあまり得意ではない。ましてや女であることを利用して相手を惑わすことなど、大の苦手である。
忍術学園で暮らし始め、はや一月半。試験も折り返しに差しかかり、ようやく子どもたち一人ひとりの得意・不得意が見えてきた。それは勉学、実技と様々で、子どもたちの持つ個性が得意・不得意の偏りを生んでいたり、逆に得意・不得意から個性が形作られていたりする。要するに、忍術学園の子どもたちは皆『個性的』なのだ。
しかし、極度の『方向音痴』を『個性』と呼んでよいものだろうか。
「……なんで!?」
晩秋の山中に一人取り残された彼女は、走って散り散りになった二人のことを思いそう叫ぶしかなかった。
事の発端は一刻ほど前、三年ろ組の富松作兵衛から『風呂焚き用の薪を集めに山へ行くから一緒に来ないか』と誘われたことだった。
小松田の代わりに学園長宛ての文を届けた帰りだった彼女は、富松が一人でいることに首を傾げた。
「富松くんと私、二人で行くんですか?」
「いえ、俺と同じ三年ろ組の神崎左門と次屋三之助も一緒です」
「なるほど……でも私、上級生か先生の付き添いがないと外には出られなくて」
「その点はご安心を!」
得意気にそう言い放った富松は、同じ用具委員会委員長の食満も同行する予定だと告げる。話を聞くと、食満は用具の修補に使える木材を探しに山へ行くつもりだったらしい。
「さん、こういうときじゃないと外に出られないじゃないですか。食満先輩も一緒ですから、安心して息抜きしてください!」
確かに彼の言う通り、何か理由がなければ外に出られない生活はなかなか息が詰まるものだった。先日、タソガレドキの忍びたちに拉致された日を除けば、学園の外へ出たのは土井と街へ出た十日前が最後だ。
そして何より、満面の笑みでこんなことを言われれば頷くしかないだろう。彼女は富松の笑顔に押され、彼らを手伝うことを決めたのだった。
約束の時間、待ち合わせ場所の正門前には富松、そして腰に縄を結びつけられた神崎、次屋の三人が待っていた。彼らのそばには薪を運ぶための荷車もある。
「こいつら、方向音痴なんです」
彼女が神崎と次屋の腰から伸びる縄に眉を顰めると、富松はすべてを悟ったかのようにそう言った。いくら方向音痴とは言え、縄で縛るほどのことではないのでは? と疑問を抱いた彼女だったが、そこまではまあいい。
それからしばらくの間、雑談をしながら待っていたものの食満が一向に現れず、富松が食満を探してくると言って彼女に縄を託したことからすべてが始まった。
「おめぇら、俺と食満先輩が来るまで絶対にここから動くんじゃねぇぞ」
富松は強い口調でそう言ってその場から離れたのだが、彼の忠告も虚しく、痺れを切らした神崎と次屋が先に山へ行くと言って走り出してしまったのだ。
「ちょっ、ちょっと待って!」
手渡された縄を握っていた彼女は、わけも分からず彼らに強く引っ張られた。そして途中で縄が外れ、二人は示し合わせたかのようにそれぞれ違う方向へ突っ走っていった。
いくら足の速さに自信があっても身体は一つ。真逆に走っていく彼らを同時に追いかけることなどできるはずがない。あれよあれよという間に彼らを見失い、今に至るというわけだ。
「一旦戻るか……」
想像をはるかに超える方向音痴にしばらく呆然としていた彼女だったが、やがてそう呟いて山を下り始めた。子どもたちを追いかけるためとは言え、一人で学園の外にいるのはあまりよくないだろう。それに今頃、自分たちがいないことに気付いた富松と食満が心配しているかもしれない。
学園に戻って、また探しに来よう――そう思いながら、せっかく来たのだからと落ち枝を拾って歩く彼女の耳にかすかな話し声が届いた。顔を上げた彼女は、深く考えずに声のする方へと歩いて行く。そして。
「神崎くん? 次屋く――」
「……誰だ、お前」
鬱蒼とした薮を抜けた彼女を待っていたのは、探していた二人ではなく強面の男たちだった。獣じみた目に伸び放題の髭、日に焼けた肌。いかにも無法者といった風貌の男たちの中に、一人だけこざっぱりとした袴を着た男がいる。辺りに重い沈黙が広がった。
あ、これはまずいやつだ。彼女は瞬時に踵を返す。
「お邪魔しました」
「待て」
そうなりますよねえ、と、彼女は己の肩に置かれた男の手にため息を零した。ぐいっと強引に身体を後ろへ引かれたせいで、せっかく集めた枝が彼女の手からばらばらと落ちていく。
こんなところで女が一人で何をしているだとか、顔を見られたから殺せだとか、いや少し年は食っているが売り飛ばそうだとか、あまり子どもたちには聞かせたくない言葉が目の前で飛び交う。
「あの、私はただ薪を集めていただけなのですが……」
手首を乱雑に縛る男へそう告げると、男はじっと彼女の顔を覗き込みこう言った。
「こいつ、お前のところのくノ一じゃねえのか?」
くノ一という言葉に一瞬ぎくりとした彼女だったが、先ほど顔を見られたから殺せと言っていた袴の男が「うちの忍軍には、くノ一などおらん」と平然と答える。
“うちの”という言葉にどこか引っかかりを覚えた彼女の顎を、目の前の男は乱暴に掴んだ。そして、値踏みするような目でじろじろと彼女を見つめる。
「特別器量がいいわけじゃねえが、ま、南蛮の物好きには高く売れるだろ」
こいつ、殺してやろうか……。
心の内で怒りを燃やしながら、彼女はそれを表情に出さないよう唇を噛み締めた。その様子を見て、男はにやりと粘つくような笑みを浮かべる。
足でも踏みつけてやりたい気分だったが、ついて来いと言われ、彼女は仕方なく男たちの後に従った。袴の男は用が済んだのかどこかへ消えてしまい、残った男たちは全部で五人。派手な行動はできないが、そう多くはないし隙をついて逃げることは不可能ではない。
だが、一つ問題がある。神崎と次屋だ。どこに行ってしまったか分からない彼らが、もしこの男たちと鉢合わせしてしまったら非常にまずい。まさか子どもにまで酷いことはしないだろうと思いたいが、とりあえず逃げて神崎と次屋を早く見つけるしかない。
そう考えていた彼女に、意外にも機会はすぐ訪れた。途中で見かけた猪を、五人のうち四人が追っていったのだ。
今夜は猪の肉が食えるぞ、と言って走っていく男たちの姿が見えなくなってすぐ、彼女は見張りのために残った男を盗み見た。
とにかく、忍びであることがばれなければいいのだ――。
彼女は辺りに誰もいないことを確認すると、呻き声を上げながらその場にしゃがみ込んだ。
「あ? なんだ?」
「お……お腹が痛くて……」
「腹ぁ?」
うずくまる彼女を覗き込むように男が身を屈めた瞬間、彼女は身体を滑らせるようにして男の背後へと回った。そして男の首にするりと腕を回し、手首の縄で男の喉元を圧迫する。そのまま強く締め上げると、男は潰れたような声を漏らし、ぐったりと膝を折った。
「さて」
泡を吹き、ぴくぴくと痙攣している男の傍らに立ち、小さく息を吐く。本当なら男をどこかに隠しておきたいところだが、それをしている時間もない。
とりあえず手首の縄をどうにかしようと、男が腰に提げていた刀に手を伸ばしたときだった。
「殿」
「ひいっ!」
背後から突然名を呼ばれ、彼女は悲鳴を上げて背筋をぴんと伸ばした。振り返ると、そこには彼女にとって『神出鬼没な男』の最上位に位置する雑渡の姿があった。
よりにもよってなんで今!? と叫びたい気持ちを堪え、彼女はごく、と唾を飲み込んだ。両者、無言のまま見つめ合う。
「……み、」
「み?」
「見ました……?」
「何を?」
「いや見てないならいいんです、気にしないでください」
「いや、気にするでしょ」
雑渡の真っ当な突っ込みに、彼女は口を噤んだ。
縛られた彼女の手首、そして失神して倒れている男へ視線を移す雑渡。男たちに捕まったときには感じなかった緊張が彼女の心をざわめかせる。本当に雑渡が何も見ていなかったとしても、この状況ではまたもや変に疑われてしまう。
彼女は早口でことの経緯を話し始めた。
「実は忍術学園の三年生二人とはぐれてしまったところ、怪しい男たちに見つかって拘束されていました。が、突然この人が苦しみながら倒れてしまいまして」
「突然?」
「ええ、何かよくないものでも食べたのでしょう」
彼女の説明に雑渡は「ふむ」と呟いて、遠くの方へ視線を向ける。
「そういえば……先ほど子どもが二人、この辺りを走っているのを見かけたが」
「えっ」
彼女は雑渡の視線の先を見つめた。恐らく、彼が見たのは神崎と次屋に違いない。しかもこの辺りということは、先ほど猪を追っていった男たちとばったり遭遇してしまう可能性がある。
こうしてはいられないと、焦りに駆られた彼女が雑渡に背を向けて駆け出そうとしたときだった。不意に腹を強く締め上げられたと思った瞬間、彼女の両足がふわりと宙に浮いた。ぐえ、と蛙のような声を漏らした彼女は、たった一度の瞬きのうちに雑渡に抱え上げられ、すぐ近くの木の上に移動していたのだ。
この男の奇行はいつものことだが、食後なら確実に吐いていたな、と彼女は雑渡を睨む。睨まれた本人は、涼しい顔で彼女の肌に食い込んでいた麻縄を外した。そこには縄目の跡がしっかりと残っていた。
「あ……ありがとうございま――」
「これは?」
雑渡は短くそう言って、彼女の頬にそっと触れた。“これ”が何のことか分からず眉を寄せると、雑渡は自身の指についた血を彼女に見せる。
「……ああ、そういえば顔を思い切り掴まれたので、そのときに切れたのかも」
「ふうん」
軽く相槌を打つと、雑渡は再び彼女の頬へ掌を添えた。親指の腹で傷の縁を確かめるように、すりすりと肌をなぞる。その指先の感触に、顔中がかっと熱くなるのを感じた彼女は慌てて身を仰け反らせた。
「あの、ち、近いのですが」
「こんな高い木の上など、普通の女子は登らないのだから。近くないと恐ろしいだろう」
「でもその、高いところは割と平気なのです」
「それはたくましい」
そう言って笑う雑渡の視線を、彼女は正面から受け止める。目を逸らせば負けたような気がして、視線を逸らすことができない。
先日の簪の一件と言い、どうやら雑渡は人を揶揄うのが趣味らしい。彼女は声にならない悔しさを飲み込んで、頬を撫で続ける雑渡の手を振り払った。
「……で、雑渡殿は何故ここに?」
「実はある男を探していてね」
雑渡は行き場を失った手を軽くひらりと振ってそう言った。なるほど一人ではないのか、と彼女は静かに思う。
とにかく早く神崎と次屋を見つけなければ、と焦る彼女が口を開こうとした瞬間、ふっと雑渡が気配を消す。地上へ視線を落とすと、猪を追っていた四人が手ぶらで戻ってくるのが見えた。どうやら猪は捕まえられなかったらしい。
男たちは見張りに残していた仲間が一人倒れていることに気づき、憤然として彼女を探し始めた。
「殿が見たのは、あの五人だけかな?」
声を落として尋ねる雑渡に、彼女は首を振った。
「もう一人、袴を着た男がいました。もしかして雑渡殿は、その男を追っているのではないですか?」
「なぜそう思う?」
「その袴姿の男、タソガレドキ城に勤めている者かなと思いまして」
そう言ったあと、彼女はすぐに「ただの勘ですが」と付け加えた。雑渡は足を揃えて座り直し、彼女が見た袴姿の男は恐らくタソガレドキ城の蔵番であることを告げる。
「最近、戦もないのに城で所有している武具の減りが早くてね。調べたところ、破損扱いにして帳簿の数をごまかし、横流しをしているらしい。なんで耳を塞いでるの?」
「ええと、巻き込まれるのはごめんだな、と」
「乗りかかった船には、きちんと乗った方がいいと思うがね」
雑渡の言葉に、彼女は渋々両手を下ろした。別に好きで乗りかかったわけではないのに、とぶつぶつ愚痴を零す彼女に対し、雑渡はこちらに気付かず彼女を探し続けている男たちを指差した。
「ああ見えて、あの男たちはこの辺りの物流を裏から牛耳っている。正規の関所を通さず品を運び、南蛮へ輸出しているらしい。どうやら港の商人も絡んでいるようだが……」
「私が囮になりましょうか?」
ぽつりとそう呟いた彼女に、雑渡はゆっくりと顔を上げる。
「……何?」
「あの男たちは私を探していますから、私を見れば全員で追ってくるはずです。そこを捕らえれば、一網打尽にできるかと。全員捕まえたいですよね?」
「それはそうだが。仮に囮になったとして、君に何の得がある?」
「得はあります。私が囮になる代わりに、今もどこかで走り回っている忍たま二人を保護してください」
雑渡に向かって二本指を立てながら、我ながらいい案だと彼女は考えていた。
あの男たちがうろついている中、一人で神崎と次屋を見つけて捕まえることは困難だ。それに何より、彼女が囮になり男たちに追われることで、神崎と次屋の安全は確保される。
自分には難しくても、今どこかで忍んでいる雑渡の手下であれば、きっとあの二人を捕まえることができるはずだ。
じっと見つめてくる彼女に、雑渡は観念したようにふっと息を吐いて目を伏せた。
「本当に、たくましい女子だな。殿は」
「乗りかかった船にはきちんと乗れと仰ったのは雑渡殿でしょう」
「つまり私のせいだと?」
「はい。なので私や子どもたちに怪我させたら許しませんからね」
雑渡はくつくつと喉の奥で笑ったあと、「承知した」と言って彼女に手を差し出した。この程度の高さから飛び下りることくらい彼女にとっては容易いことだったが、さすがにそれをすれば『たくましい』の一言ではごまかしきれない。
己のものよりずっと大きな厚みのある手と、その奥で何やら意味ありげに目を細め微笑む雑渡。その両方を見比べて、彼女はため息を零し、雑渡の手を取った。
彼女が雑渡から差し伸べられた手を自ら掴んだのは、これが初めてだった。
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囮作戦を実行するにあたり、彼女が雑渡と申し合わせたのは『どこまで逃げるか』のみ。不本意ながらも雑渡に抱えられて地面に下りた彼女は、わざと自分を探している男たちに姿を見せたあと、雑渡に指示された大きな松の木を目指して走った。
引き離しすぎず、かつ捕まらないように。速度を調整しながら逃げれば、自分を追いかける男たちの声や気配が一人ずつぷつん、ぷつん、と途切れるように消えていく。最後、松の木に辿り着いたときには彼女を追う者は誰もおらず、来た道を戻れば、白目を剥いて倒れている男たちの傍らに佇む雑渡の姿があった。
「お見事です……」
畏怖の念を抱きながらそう声をかけると、雑渡は「殿も」と軽く笑った。きっと囮などなくても雑渡ならば簡単に捕まえられたのだろうな。そう考える彼女に雑渡は歩み寄ると、頭のてっぺんからつま先までをじっと眺めた。
「な、何でしょうか」
「怪我はない?」
「はい。ただ走っただけですので」
「それはよかった」
にこ、と笑みを見せる雑渡に、彼女は子どもたちの安否を尋ねた。例え自分に怪我がなくても、子どもたちが無事でなければ意味がない。直に手の者が連れてくるから安心していいと言われ、彼女はほっとして胸を撫で下ろした。
澄んだ空気が頬をかすめ、乾いた風が高い枝を揺らした。葉と葉が触れ合う音だけが静まり返った森に広がっていく。
神崎と次屋を待つ間、雑渡は何も言わず、ただすぐそばにいた。近いはずの距離が、不思議と先ほどより気にならない。
ふと空を見上げて風に舞う木の葉に目をやった彼女は、あることに気付いて「あ」と小さく呟いた。その呟きを拾った雑渡が、彼女に視線を落とす。
「どうしたの?」
「あの……雑渡殿、もう一つお願いがあるのですが」
「お願い?」
「今日ここで私の身に起きたことは、子どもたちには内緒にしておいてほしいのです」
そう言って、彼女は未だに気を失っている男たちをちらりと一瞥した。
山賊に命を狙われている、というていで学園に保護されている自分が、山の中で怪しい男たちに一時的とはいえ拘束されたことが知られてしまったら、神崎と次屋、そして特に、彼女に縄を託した富松に責任と後ろめたさを抱かせるかもしれない。それは彼女にとって本意ではなかった。
とは言え、これは完全に彼女の私情だ。内緒にしておいてほしいという彼女の願いを雑渡が聞く義理はない。果たしてどんな答えが返ってくるか、おずおずと雑渡を見上げれば、彼はあっさり「いいよ」と頷いた。
そしてすぐ、拍子抜けしている彼女の逃げ場を塞ぐように雑渡は顔を寄せる。
「では、今日私が見たことは二人だけの秘密、ということで」
こちらの出方を探るような言葉と眼差しに、彼女は露骨に顔をしかめた。
「……本当に何も見てないんですよね?」
「だから何を?」
にまにまと笑う雑渡に、彼女はぐっと口を引き結ぶ。そんな二人の頭上で大きく木が揺れた次の瞬間、両脇に神崎と次屋を抱えた押都が軽やかに地面へ降り立った。
落ち着かない様子でこわばった表情を浮かべていた神崎と次屋だったが、彼女を見つけてすぐに「ああっ!」と声を上げる。押都に解放された二人は、すぐさま彼女に詰め寄った。
「さん、今までどこに行っていたんですか!」
「こんなところに一人でいて、危ない目に遭ったらどうするんですか!」
早口でそう捲し立てる二人を前に、彼女はぽかんと口を開け、やがて深いため息を吐いた。一体どこを走り回っていたのか、二人の頬は土埃に汚れ、体中あちこちに葉がまとわりついている。
彼女は両手をそれぞれの頭に置くと、そのままくしゃくしゃと撫でた。
「無事でよかったよ……」
しみじみと吐き出すように呟いた彼女に、神崎と次屋は不思議そうに顔を見合わせたあと、どこかくすぐったそうに笑った。そんな二人を見て、肩の力が抜けた彼女もやわらかな笑みを浮かべる。押都に礼を述べれば、彼は無言で親指を立てただけだった。
すぐに、彼女たちの元へ風に乗って「おおい」と呼ぶ声が届く。視線を向ければ、富松と食満が走ってこちらへやってくるところだった。二人の姿に安堵した彼女だったが、すぐにはっとする。
以前に保健委員会の薬草とりに同行したときの様子だと、雑渡と食満はあまり相性がよくないようだった。そのことを思い出した彼女が雑渡を振り返ろうとした瞬間、とん、と耳に何かが当たる。
「殿――今日の礼は、いずれ必ず」
低く落とされた声が、彼女の耳朶を撫でていく。その囁きと、ほんの一瞬だけ肌に触れた吐息に心臓が遅れて跳ね上がる。彼女は勢いよく振り向いたが、そこには雑渡や押都はおろか、気絶していた男たちの姿もすべて跡形なく消えてしまっていた。
礼などが必要ないよう、自ら進んで囮となり、代わりに子どもたちの保護を頼んだのに。そう思い、半ば呆れながら、彼女はためらいがちに自身の耳朶に触れた。
ほんの少し熱を帯びているのは、きっとたくさん走ったからだ。
そうに決まっている。
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「面白い猫ですな」
余裕を滲ませて独り言のようにそう呟いた押都は、ゆるやかに唇の端を上げた。雑渡はそんな押都を横目で見やり、すぐに他の忍たまたちと合流した彼女へと視線を戻す。耳朶に触れたままの彼女に、雑渡は僅かに目を細めた。
子どもたちと自然に言葉を交わす彼女は、出会った頃に比べれば随分穏やかな顔をするようになった。能天気なお子様忍者たちと生活を共にすれば誰でもそうなるのだろうか。一瞬そう考えたが、男の首を絞め落としていた彼女の姿を思い出し、雑渡はふっと笑みを零した。
「組頭が気にかけるのも分かる気がします」
「彼女については、城代から重要人物として見守るよう御達しが来ているからね」
雑渡の淡々とした答えに、わずかに沈黙してから「なるほど」と押都が呟いた、そのときだった。
げほげほと苦し気に咳き込む音が聞こえ、ゆっくりと振り返る。意識を取り戻した男の一人が、雑渡と押都を見て、恐怖からか目を大きく見開いた。彼女に首を絞められ、失神したあの男である。
「……あの女、お前らの仲間だったんだろう。やっぱり思った通り、くノ一だったんじゃねえか……!」
声を荒げ始めた男に、押都はちらりと雑渡を盗み見た。左側に立っている押都からは、包帯のせいで雑渡の表情を読み取ることはできない。だが、空気が僅かに冷えていくのを肌で感じ取っていた。
城代の御意向のためか、はたまた私情か。雑渡が彼女をここまで気にかける本当の理由は未だに分からないが、どちらにせよ――。
「彼女には、試験に通ってもらわねば困りますなあ」
押都はそう言って、澄み渡った空を仰ぎ、旋回する一羽の鳥を目で追った。風に乗って自由に舞う姿に清々しさを感じている押都のそばで、大人しそうな顔をしておいてアイツも忍者だったんだ、と喚く男に、雑渡は静かに歩み寄った。
(20260228)