笑えない彼女


 時の流れは早いもので、彼女が忍術学園で暮らし始めて一月が過ぎようとしていた。朝夕の冷え込みは日ごとに増し、時折吹く乾いた風には枯葉の匂いが混じり始めている。

さんって、あんまり笑わないですよねぇ」
 
 食堂のおばちゃん手作りのおむすびを片手に、大きな口を開けていたところだった。二年生・時友四郎兵衛がそう言って、自分のおむすびを頬張りながら、つぶらな瞳で彼女の表情を窺っている。彼女は時友の言葉を頭の中で反芻しながら、彼の頬にこびりついている乾いた土をじっと見つめた。
 ――あまり笑わない、か。
 その指摘に、彼女は考え込んだ。自分ではあまり意識したことがなかったが、言われてみれば確かに、いつもにこにこと愛想良く振る舞う性分ではない。
 笑顔というのは、相手を安心させて警戒を解かせるのに有効な手段だ。しかし、彼女が育ったのは女よりも男が圧倒的に優位な忍びの里。ただ穏やかに笑っているだけで軽く見られ、足元をすくわれることも珍しくない。そんな環境で長いこと生活していた彼女は、仮に何かおかしいことが起きたとしても、無邪気に口を開けて笑うことができなくなっていた。もちろん、忍術学園に来てからは笑っていられる状況でないことが多かった、というのも理由の一つであるが。
 彼女が返事をしようとした矢先、時友の隣で休憩していた三年生・次屋三之助が、おむすびを飲み込んで口を挟んだ。

「そりゃそうだよ。普通の人は山賊に命を狙われてたら、呑気に笑ってられないよ」
「あ、それもそうですよね……すみません」

 しゅんと肩を落とし、申し訳なさそうに頭を下げる時友に、彼女は慌てて首を横に振った。

「いえ、別に……時友くんが謝るようなことは、何も」

 これでこの話題は終わりかと思ったが、時友はすぐに屈託のない笑みを浮かべて、さらにこう言った。
 
「でもさん、お綺麗だから。笑ったお顔はきっと素敵なんでしょうね」

 その瞬間、その場にいた生徒たち――時友と次屋だけでなく、四年生・平滝夜叉丸、一年生・皆本金吾までもが一斉に彼女へと視線を向ける。少し離れた場所には、大声でお決まりの台詞を叫びながら塹壕を掘り進める六年生・七松小平太の姿もあった。
 そもそもなぜ彼女が、彼ら体育委員会の面々と一緒にいるのか。
 きっかけは、今朝食堂で彼女が思わず零してしまった〝大あくび〟だった。

さん、寝不足ですか! 随分と酷い顔だ!」

 いつものように食堂で朝食を受け取り、席に着いたときだった。思わず漏れたあくびに、たまたま近くの席で食事中だった七松が気付いてそう声をかけてきたのだ。
 ここ数日、彼女の眠りは雑渡昆奈門に詰め寄られる夢だけでなく、姉が死んだ日の光景や、最終の試しに落ちる悪夢などに侵されていた。どれも彼女にとって思い出したくも起きてほしくもない出来事ばかり。これにはさすがの彼女も参っており、軽い愚痴のつもりで最近夢見が悪いことを七松に打ち明けたのだ。
 特に解決策を求めていたわけではなかったが、それを聞いた七松は何を思ったのか、彼女を体育委員会の活動に誘った。五、六年生の合同演習で使用する塹壕掘りを頼まれているから、一緒に来ないかと。
 予想外の展開に言葉を失う彼女へ、七松は太陽のような笑みを向けた。

「思い切り身体を動かせば、その分、夜もぐっすり眠れるはずだ!」
「や、それは……一理ありますけども」
「よし! そうと決まれば朝食後、運動場に集合!」

 そうして断る暇もなく、今に至るというわけだ。
 気乗りしないままとりあえず運動場にやってきた彼女だったが、塹壕など一度も掘ったことがなかった。そもそも塹壕を使ってどんな演習をするつもりなのかも分からない。七松から苦無を手渡されたときは思わず目を見張ったが、意気揚々としているのは七松だけで、他の体育委員たちはへろへろになりながら必死に土を掘り進めていた。
 そして今は、ようやく休憩の許可が下りたところである。

「(確かに普通の女子なら、もっと自然に明るく笑うのだろうな……)」

 四人分の視線を浴びながらそう考えた彼女は、無理矢理口角を上げてみせた。彼女自身、不自然な笑い方になっていることは百も承知である。
 案の定、その場にいた生徒全員がどう反応すべきか分からない表情を浮かべた。微妙な沈黙のあと、気を遣った金吾が大きな声を張り上げた。

「無理して笑うことはないですよ!」

 勢いのある言葉に、彼女は思わず瞬きをする。金吾は一度息を整えると、今度は少しだけ声の調子を落として続けた。

「乱太郎から聞きました。最近のさん、曲者忍者の雑渡昆奈門に言い寄られて困ってるみたいだって」
「……はっ? いや、別に言い寄られては」
「それに、学園長先生や他の先生方も動いてくださっているはずですし、山賊の問題もすぐに解決して元の生活に戻れますよ」

 金吾は胸の前で拳をきゅっと握り「前向きにいきましょう!」と力強く言った。それとほぼ同時に、遠くで七松が休憩終了を告げる。
 僅かな休憩時間で疲労など取れていないはずなのに、素直に塹壕掘りへと戻っていく子どもたち。彼女はぼんやりと、手に持ったままのおむすびへ視線を落とした。
 そうか。〝嘘をつく〟ということは、信じてくれている彼らを〝裏切っている〟ことになるのか。
 喉の奥が、ほんの僅かにずん、と重くなる。うまく言葉にできない感覚に、彼女は小さく首を傾げた。
 別に誰かを傷つける嘘をついているわけではない。自分は自分のやるべきことをやっているだけであって、三月しか関わらない子どもらに気を遣う必要なんてない。本来なら、そう割り切れるはずなのに。
 不意に名を呼ばれ、彼女ははっと顔を上げた。七松が遠くで両手を大きくぶんぶんと振っている。
 彼女は慌てて立ち上がり、おむすびにかぶりついた。


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 ひとつ、ふたつ、みっつ――。
 朽ちた葉と乾いた土に混じる、鼻を刺すような鉄の匂い。地面に転がる死体はいずれも急所を的確に貫かれ、一撃で事切れている。血はすでに黒ずみ、土と同化しつつあった。
 押都はその数を確かめ終えると、ふと視線を上げた。
 大木にゆったりと身を預けるように腰掛け、薄く茶色に色づいた狗尾草を指先で弄びながら、雑渡はぼんやりと遠くの空を眺めている。その姿は、この惨状を生み出した張本人とは思えぬほど気怠げで静かだった。

「組頭」

 下から声をかけると、短く「うん」と返事はあったものの、視線はこちらを向かずどこか上の空だ。
 珍しいこともあるものだ。押都は内心そう驚きながら、数ある報告のうち、つい先程部下から届いたばかりの情報を選んで口にした。

「組頭お気に入りのあの女子。本日は塹壕掘りに駆り出されているようですよ」

 そこでようやく雑渡の視線が押都へと向いた。僅かに目を細め、不思議そうに首を傾げる。

「なんで?」
「さあ? 大方、お子様忍者たちに振り回されているのでしょう」

 どうやら『お気に入り』という言い回しについては否定しないらしい。
 ふ、と小さく笑みを零した押都は、雑渡の意識が己へ向いたこの機会を逃すまいと、地を蹴り雑渡のそばへと跳んだ。肩膝をつき、声音を改める。

「城代の件ですが、女の素性が判明しました」

 そう切り出し、押都は簡潔に、要点を外さぬよう報告を進めた。
 女が予想通りくの一であったこと。暮らしていた忍びの里について。そして里の掟である最終の試し――俗世に放り出され、三月の間、忍びであることを隠して生きねばならぬこと――について。
 タソガレドキ忍軍・黒鷲隊は、調査能力においては右に出る者はいないと言われるほど優秀である。そのため、最終の試しに落ちた者たちがどのような末路を辿るのか――そこまですでに洗い出していた。
 黙って報告を聞いていた雑渡は、顎に手を当てて小さく頷く。

「なるほど。つまり、あの女は最終の試しの最中に城代を守ったが故に正体が露見し、殺されたということか」
「恐らく」

 雑渡自身、掟については初耳だったものの、その里の名には聞き覚えがあった。
 身寄りのない孤児を拾い、育て、多くの〝優秀〟な忍びを各城へ送り出している忍びの里。だが、その優秀さは雑渡の考えるものとは大きく異なる。忍務のためなら命を惜しまず、仲間を利用し、見捨てることも厭わない。忍びとしては間違っていないかもしれないが、単独忍務ならいざ知らず、複数名で当たる忍務であっても連携を欠く我流の忍びばかりなのだ。
 しかし、タソガレドキで把握しているその里出身の忍びはすべて男だった。くの一の存在など聞いたことがない。
 くの一の育成にあまり力を入れていないのか。最終の試しに通ったとしても、忍びであることをやめてしまうのか。それとも、女子は最終の試しに通ることができない理由が何かあるのか――。

「ちなみに、女が城代や周囲に告げていた名は偽名でした。真の姓は〝〟です」
「……やはりな。姉妹か」
「ええ。親はおらぬようで、二人揃って里に拾われたのでしょう。状況から察するに、妹――も現在、最終の試しの最中かと」

 道理で、と呟いた直後、雑渡は不意に振り返った。蘇利古の雑面で素顔を隠している押都の表情は読めないが、考えていることは恐らく同じだろう。

「……ということは。あの子、あれだけ不自然に身の上を偽っておきながら、本名明かしちゃってるの?」
「……そのようですな」

 諸泉尊奈門が、躍起になって彼女のことを『馬鹿な女子』と貶していた顔が、二人の脳裏に浮かぶ。
 暫しの沈黙の後、雑渡は軽く息を吐いて正面へ顔を戻した。
 城代からは、女について分かったことは逐一報告するよう命を受けている。此度の情報を知らせれば、あの温厚な城代のことだ。必ず女の死について責任を感じ、妹である彼女に直接詫びたいと言うに違いない。
 しかし――。雑渡は先日、忍術学園へ赴いた際の彼女の様子を思い返していた。
 家族について尋ねた際、彼女の纏う空気が僅かに揺らいだことから、恐らく姉の死自体は把握しているはず。一方で、姉と城代の関係については何も知らぬようであった。つまり、なぜ姉が最終の試しで不合格となり死に至ったのか、その真相までは知らないということだ。
 城代と引き合わせるには、彼女にすべてを語す必要がある。そしてそれは、タソガレドキが彼女たちの素性をすべて把握しているという事実を明かすことに他ならない。そうなれば、彼女も姉と同じくように最終の試しに不合格となる――。
 正直、彼女が試しに受かろうが落ちようが、タソガレドキには何の関係もない話だ。だが、城代はきっと彼女が不利になる状況は望まない。
 そして雑渡自身もまた、彼女のことを少し哀れにも感じていた。
 タソガレドキには忍村がある。忍びの子に生まれれば、忍びになるための教育を受けることが当たり前。皆、幼い頃から切磋琢磨する仲間がいる。
 それに対して彼女の里は、出身の忍びたちの傾向から察するに恐らくそうではないだろう。そんな環境で育ち、たった一人の身内を失った彼女は、今どういう気持ちで忍術学園の子どもたちと日々を過ごしているのか。

「女の件は、私から城代と殿に報告する」
「承知しました」
「ところで城代を狙った忍びは? 何か吐いた?」
「今のところ何も。敵ながら、よく訓練されているようで」
「そう。じゃ、そっちは続けて」

 さらりとそう言ってのける雑渡に、押都は「は」と短く応え頭を下げた。
 この件、完全に解決するにはまだまだ時間がかかりそうだ――。自死する機会を逃し、無理矢理生かされ尋問を受けている忍びが、どこまで耐えられるか。押都はその行方と今後について思いを巡らせる。
 探っていた二人の素性は判明した。しかし、女の最期に立ち会い、懸守を受け取ったのが彼女――であるかはまだ分からない。そもそも、城代襲撃事件から一月以上が経つが、どこの城も怪しい動きはない。故に女は懸守を本当に誰かに託したのか、果たして中身は本当に密書だったのかなど、疑問は尽きない。
 しかし、仮にそれが密書だったら。
 受け取っていたのが妹であるだったら。
 そして、彼女が隙を見て、その密書を何処ぞの城へ届けようとしていたら。
 我らが組頭は、どう動くだろう――。
 誰よりも頭の切れる雑渡のことだ。黒鷲隊に任せていれば、彼女の素性など直に明らかになると分かっていたはず。わざわざ自ら忍術学園へ赴き、接触し、挙句の果てに気付くか気付かれないか、ぎりぎりのところで気配を調節させた押都を配置して、彼女を試すような真似などしなくても。
 そこまでする理由は気まぐれか、はたまた同情か、それとも。
 雑渡がすっと立ち上がる。押都は顔を上げ「どちらへ?」と問いかけた。

「ちょっと猫と遊んでこようかな、と」
「猫」

 押都に向かって、雑渡は軽く狗尾草を振る。そして意味深に口布の下でにやりと笑った。


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 自室のある長屋の廊下に腰を下ろし、彼女は小刻みに震えている両手を見下ろしていた。
 塹壕は、ほぼ七松のおかげで昼過ぎには完成した。その後、体育委員会の面々はその足で鍛錬へと向かい、そこで彼女はようやく七松から解放されたというわけだ。
 苦無の扱いには慣れていた。だが、それを子どもたちに悟られるわけにはいかない。気付かれないよう手を抜いていたとは言え、苦無で固い土を延々と掘り続けるのは初めてのことで、思いのほか体力を削られた。手を開いてみれば、指の付け根部分の厚い皮がうっすらと赤くなっている。
 七松の言う通り、これで今夜はぐっすり眠れたら良いのだが。
 そんなことを考えながら、彼女は両手の下、自身の膝の上で丸まっている毛玉へと視線を落とした。以前、喜三太のナメクジ探しに付き合う直前に出会った猫だ。
 あのあと、一度だけ一年ろ組の担当教員・斜堂が餌をあげている場面に遭遇し、それからは忙しい彼の代わりに彼女が世話をするようになったのだ。猫が毎日餌を持ってくる彼女に気を許し、こうして膝に乗るようになるまで、さほど時間はかからなかった。
 柔らかな温もりと程よい疲労。彼女がうつらうつらと舟を漕ぎ始めた、そのときだった。
 膝の上にあるものとはまた別の、ふさふさした何かが頬を掠める。はっと覚醒して顔を上げると、そこには彼女の耳元で狗尾草を揺らす雑渡の姿があった。
 一瞬言葉を失った彼女だったが、すぐに膝の上を指さす。

「猫はこちらにいますが……」

 なぜ、またもや当たり前のように男子禁制の長屋にいるのか。そんな突っ込みは、もはや頭から抜け落ちてしまっていた。
 彼女にとって、雑渡昆奈門という男は『前触れもなく突然現れる存在』として認識されつつある。そのため、もうそこまで驚かないというのが正直なところだった。よくよく考えれば、忍びが急に姿を現すのは当然のことであるし、むしろ夜でなくて良かった、と思ったくらいだ。
 しかし、驚かないからと言って歓迎しているわけではない。
 雑渡は視線を動かし、彼女の指先にいる生き物を一瞥した。猫は、見知らぬ人間が来たことに気付かず眠り続けている。

「どうしたの、この猫」
「ええと、学園にたまに来る猫です……」
「ふうん」

 素っ気ない返事のあと、雑渡は彼女の隣に腰を下ろした。まさかすぐそばに座るとは思っておらず、緊張で彼女の身体が強張る。膝には猫が乗っているため、容易に距離を取ることもできない。
 最近姿を見ることがなかったから、もう忘れ去られたものと思っていたのに。
 横目で雑渡を盗み見ながら、彼女は小さく寝息を立てる猫の背を撫でた。

「あの……今日、保健委員の皆さんは留守にしていますが」
「知っているよ。おかげで今にも雨が降りそうだ」
「薬なら、別の日に取りに来られた方がいいと思います」
「日中はまだ暖かいとは言え、雨に降られたら冷えるだろうね」

 くそ、話が噛み合わない。
 雲行きの怪しい空を見上げる雑渡に、彼女は胸の内で舌打ちする。
 その瞬間、ふと時友の言葉が頭をよぎった。
 あんまり笑わないですよね――。
 そうだ。雑渡の前では〝山賊に命を狙われている女子〟ではなく、〝愛する人と共に過ごすため学園までやってきた女子〟でなくてはならないのだ。
 彼女は意を決して、にっこりと笑ってみせた。その変化に気付いた雑渡が、二、三度瞬きをする。

「何、その変な顔」

 その言葉に、ひく、と口元が引き攣る。やはり、子どもたちに通用しなかった笑顔が雑渡に通用するはずもないか。そう思いながら、彼女は表情をそっと元に戻した。
 そもそも彼女にとって、うまくできないのは自然な笑顔だけではない。『誰かを強く愛する人の顔』もまた、彼女には難しかったのだ。
 愛とは何だろう。誰かを想うと、どんな感情が湧き上がるのだろう。
 姉が死に際に浮かべていた、満足そうな美しい微笑みが脳裏をよぎる。あのとき、恐らく好いた相手のことを想っていた姉は、どんな気持ちだったのだろうか。
 そよそよと涼しい風が廊下を抜けていく。もうすぐ戻るはずの保健委員会が、雑渡の言うように雨に降られなければ良いが、彼らの日常である不運っぷりを考えればその望みは薄いだろう。
 温かい茶でも用意しておこうか。そう思い立ったところで、彼女は先日、雑渡の前で犯した失態――茶を一つ多く用意してしまった件を思い出し、恐る恐る雑渡を見上げた。何も言わずに空を見上げているその横顔が、かえって恐ろしい。
 薬をもらいに来たわけでなさそうだし、わざわざここまで来たということは、やはりまだ疑われているのたろうか。それとも、何か探られているのか。
 そっと腰をずらし、隣に座る雑渡と距離を取ろうと試みた。しかし、彼がそれに気付かないはずがなく、すぐに視線を向けられる。
 ぎくりとした彼女は、気まずそうに声を潜めて言った。

「あの、良からぬ噂も流れますので、こうして二人きりになることは避けたいのですが……」
「良からぬ噂?」
「私が、貴方に――」

 そこまで言って彼女は口を噤んだ。いくら乱太郎をはじめとする子どもたちの誤解とは言え、『言い寄られている』と事実でないことを口にするのは抵抗があった。

「とにかく、二人でいるところを大川様に見られたら困るのです。変な誤解をされたくありませんから」
「なるほど……確かに」
「……ちょっ」

 太く逞しい腕が伸びてきたと思ったら、一瞬でぐい、と手首を引かれた。距離が一気に縮まり、雑渡の手から狗尾草がはらりと落ちる。初めて山で会ったときと同じ距離感に、彼女は思わず息を呑んだ。
 彼女の体勢が崩れたことにより、驚いた猫が短く鳴いて地面へ降りる。そして、恨めしそうに二人をちらりと見ると、目を細めて走り去っていった。膝の上にあった温もりが、すうっとあっという間に消えていく。
 見つめ合ったまま、彼女は雑渡のまっすぐな眼差しから目を逸らすことができなかった。心臓の音が、やけに大きく響く。雑渡は揶揄うように、背を曲げて彼女の瞳を下から覗き込んだ。そして、大きな体躯には似合わぬ上目遣いで彼女を見たあと、薄らと笑う。

「こんなところを誰かに見られては、殿が私に言い寄られているという噂が立っても仕方がないな」
「な……」
「それにしても、随分と疲れた顔をしている。塹壕は無事、完成したかい?」

 流暢に喋る雑渡に、彼女は口をはくはくと動かした。先日、寝癖のことを指摘されたときと同じように、かっと顔が熱くなる。噂のことも、体育委員会との塹壕掘りのことも、すべてを知る雑渡に言い返す言葉が何も見つからない。
 覗き込んでくるその視線から逃げることもできず、まるで何もかもを見透かそうとする雑渡に向かって、彼女は一言叫んだ。

「……こわっ!」

 雑渡はすぐに声を上げて笑った。彼女と違い、無理して笑っているようには感じられない。以前も思ったが、何とも忍びらしからぬ豪快な笑い方だ。
 底知れぬ恐ろしさがある。学園全体のことを監視し、常に新しい情報を得ている。だが、伏木蔵をはじめとする子どもたち――主に保健委員会がこの男に心を許しているのも、何となくではあるが理解できる。
 雑渡は一頻り笑ったあと、大きな掌を彼女の頭に優しく置いた。

「すまない」

 ぽんぽんと頭を叩く途中、雑渡が小さな声で、確かにそう言ったのが聞こえた。
 すまない、なんて。そう思うなら、自分のことは放っておいてくれればいいのに。彼女はそう言おうとして雑渡を見上げた。そこにあったのは、想像していた疑念でも探りでもなく、どこか痛みと悲しみを含んだ眼差しだった。
 ぽつり、ぽつりと。秋の終わりを告げるような冷たい雨が、忍術学園を静かに包み始めている。


(20251230)