ところで君、何者?
「よろしければ今日、保健委員の三人で薬草とりに行くので手伝っていただけませんか?」
翌朝。先行き不安な初日に猛省した彼女が、食堂での朝食を済ませて廊下を歩いていたときのことだ。後ろから軽快に走って来た乱太郎に「さん!」と下の名前で呼び止められたことにギョッとしていたら、そんな誘いを受けて彼女は「薬草とり?」と確かめるように尋ねた。乱太郎は話を続ける。
「ほら、昨日ほとんど風で飛ばされてしまったので」
「あの薬草は購入したものではなかったのですか?」
「まっさか~! 保健委員会の予算にそこまでの余裕はないですよ。自分たちで調達できるものは調達して、なるべく節約しないと」
そうなのか……!
と、乱太郎の話に彼女は雷で打たれたような衝撃を受けていた。学園の広大な敷地に整った設備、学園長から滲み出る余裕と、どこか能天気で小綺麗な忍者のたまごたち――。それらから、皆さぞゆとりある豊かな生活を送っているのだろうと勝手に推測していたが、まさか実情は生徒自ら薬草を集めなければならないほど厳しいものだったとは。
またそれを知った途端、彼女の心の中に一抹の罪悪感が生まれた。三月の間、何もせずひっそり過ごしていればいいだろうと軽く考えていたわけだが、『働かざる者食うべからず』という言葉がずしんと重くのしかかってくる。そのうえ昨日の薬草は、彼女を助けたために飛んでいってしまったのだ。
『面倒くさいからあまり関わりたくない』という気持ちと『申し訳ない』という気持ち。脳内で二つを乗せた天秤がゆっくりと傾いていく。
「私は本当にとんでもないことを……」
「え!? いえ、昨日も言いましたけど、悪いのはあんなところに落とし穴を掘った綾部喜八郎先輩であってぇ……」
おのれアヤベキハチロウ……! と、会ったこともない男への恨みを募らせる彼女に乱太郎が気付くはずもなく。本来保健委員にはあと二人、二年生と三年生がいること、そしてその二人が昨日から課外授業の一環で農村への奉仕活動に出ていることを告げる。つまりは人手が足りないらしい。
まあ、三月もだらだらと過ごしていたら身体が鈍るだろうし……。ここで暮らす以上、子どもたちと関わることは避けられないようだし……。何より申し訳ないし……。そう考え抜いて誘いを受けようとした彼女は、すぐにあることを思い出して「あっ」と声を上げた。乱太郎が不思議そうに首を傾げる。
「どうしました?」
「私、学園の外に出て大丈夫なんでしょうか。その、ほら、山賊に……アレされてる身なので」
もごもごとごまかしながら小声で伝えれば、乱太郎はすぐに理解したようだ。ピースサインを作り、自信たっぷりと言った。
「大丈夫です! 上級生と一緒であれば問題ないと、学園長先生からの許可はいただいてますので!」
「なるほど」
どうやらその辺の制限は緩いらしく、彼女の杞憂だったようだ。学園長の考えた設定を遵守するならばあまりよろしくないと思うが、まあいいだろう。
深く考えることをやめた彼女は、了承して乱太郎と一緒に医務室へ向かった。やはり最後には大変な目に遭うことになる、ということも知らずに――。
「さんに手伝っていただけると助かります」
「これ、さんの分の籠です~」
「ありがとうございます」
彼女は礼を言いながら、なんとも言えない気持ちで伏木蔵から渡された籠を背負った。人の良さそうな笑顔で出迎えてくれた伊作と伏木蔵、そして乱太郎と会ったのは昨日が初めてで、記憶が正しければ『さん』と呼ばれていたはずなのに。そのうえ昨日、穴に落ちて足を捻ったはずの伊作はまるで何事もなかったかのように普通に歩いている。
子どもの距離の詰め方、そして回復力に軽く引いていたら、どうやら学園の外へ出ることに恐怖を抱いていると思われたらしい。彼女の顔を覗き込んだ伊作が笑顔で「大丈夫ですよ」と言う。
「不運と言われている僕らですが、今まで大抵何とかなってきたので!」
どうしてだろう。この子の笑顔は見ていてちょっと不安になる。
「お前ら、また薬草とりへ行くのか?」
準備も終わりそろそろ出発、というタイミングで医務室の入口に現れてそう声をかけたのは、伊作と同じ六年生の食満留三郎である。彼は保健委員の三人を見たあと、皆と同じように籠を背負った彼女を見て驚いたように目を見開いた。
「ひょっとして、さんも一緒に?」
「はい、お手伝いで」
「この三人と……?」
この三人以外誰がいるのだろう、と彼女は疑問に思いつつ頷いた。ちなみに食満とは昨日、土井が学園内を案内してくれたときに顔を合わせており、彼は彼女のことを『哀れむような目で見てきた者』のうちの一人である。
目つきの怖い、責任感の強そうな子。彼女の食満に対する第一印象はそんな感じだったが、食満はさらに目つきを鋭くして伊作へ顔を向けた。
「薬草は昨日とりに行ったんじゃなかったのか?」
「それが学園に戻ったあと、ほとんど風で飛ばされてしまって」
「何やってんだよ……」
「それに一応、さんに危険な場所とかも教えておこうかと思ってね」
額を押さえてため息をついていた食満が、伊作の言葉に顔を引き攣らせる。
「わざわざ危険な場所へ行くのか……? さんとお前ら三人で……?」
のほほんと笑う保健委員三人と、険しい表情を浮かべる食満。対照的な両者に挟まれていた彼女が口を開くより先に、食満が覚悟を決めたように「よし!」と大声で言った。
「俺も行こう!」
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一歩外へ出れば、温かな日差しが降り注いでいた。絶好の薬草とり日和というやつだ。
小松田さんにサインした出門票を渡し、学園を出る。昨日は裏山へ行ったから今日は裏々山へ行こう、と言って元気よく歩き出した保健委員三人の後に続こうとしたとき、後ろにいた食満に呼び止められて彼女は振り返った。相変わらず緊張した表情で、ずいっと顔を寄せてきた食満に思わずたじろぐ。
「さん、いいですか」
「は、はい」
「あいつら保健委員会……いや不運委員会と一緒に行動すると崩れるはずのない道が崩れ、落ちてくるはずのない岩が落ち、普段出会うはずのない獣に追われます」
「はい?」
「だから絶対に、俺から離れないでください。いいですね!?」
一体何を言っているのだこの子は……と呆気にとられた彼女だったが、食満の必死な形相と迫力に気圧されてこくこくと頷いた。仕方ないこととは言え、年下の子にここまで心配されるのは慣れないし、なんだか妙にこそばゆい。
離れた場所から、食満と彼女がついてきていないことに気付いた伊作が大きく手を振る。それに応えた食満は、覚悟を決めたかのように「では行きましょう」と言って歩き出した。彼女も後に続く。
たしかに昨日、彼らが落とし穴に落ちて薬草が飛んでいったことは不運と言えば不運ではあるが、さすがに限度というものがあるだろう。
和気あいあいと、まるでピクニックにでも行くかのように楽しそうな子どもたちの背中を眺めながら、彼女は食満に対する印象を『目つきの怖い、心配性な子』に訂正する。
今日は彼らと一緒に山へ薬草をとりに行く。ただそれだけ。とにかく昨日のようにボロが出ないよう気をつけていればいい。不運なことなど起きるはずがない――。
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と、思っていたのだが。
「どこだここは……」
ぜえぜえと息を切らしながら、ぽつりとそう零す。乱れた髪を整えれば毛先には木の葉が何枚も絡まっていて、それらを取り除くと乾いた土がパラパラと地面に落ちていった。
呼吸が落ち着いたところで彼女はぐるりと辺りを見渡した。先程までの騒ぎなどなかったかのように、山の中はしんと静まり返っている。
彼女は学園を出るときの食満の言葉を思い出し、それはそれは盛大なため息を吐いた。
『崩れるはずのない道が崩れ――』
裏々山へ到着し、薬草がよくとれる場所があると言う伊作の案内に従って進んでいたら、ズン……と地鳴りがして先頭を歩いていた伊作の足元が崩れ落ちていった。え!? と驚く彼女の後ろにいた食満が咄嗟に伊作の腕を掴んで引っ張り上げ、事なきを得る。
『落ちてくるはずのない岩が落ち――』
無事に籠いっぱいになった薬草によかったよかったと安心していたら、ズシン……と何かが落ちる音がして前方から大きな岩が転がり落ちてきた。平地なのに!? と驚く彼女を食満が、狼狽える乱太郎と伏木蔵を伊作が担いで迫り来る岩を避ける。各自の籠に入っていた薬草が半分以上零れ落ちる。
『普段出会うはずのない獣に追われます――』
これはちょっとおかしいぞ、と不安を覚え始めた彼女が再び皆と一緒に薬草を摘んでいたら、ガサ……と茂みが揺れる音がして見たことがないほどの巨大な猪が現れた。山の主!? と驚く彼女の隣で乱太郎と伏木蔵が悲鳴を上げ、一斉に全速力で逃げた。その結果、皆とはぐれてしまい今に至る。
「(とにかく、皆と合流しないと……)」
そう考えたものの、冷静になればなるほど今度は苛立ちが込み上げてきた。こんな目に遭うのならやはりあの子たちと関わるんじゃなかった、と後悔しながら先程よりも軽くなった籠を下ろして中を見れば、猪から逃げるときにまた零れたのだろう、薬草はさらに量を減らしてしまっていた。山に入ってから一刻はとうに過ぎているのに、と彼女は肩を落とす。
俯いてすぐ、右足首が切れて血が出ていることに気付き、彼女は胸元から手布を取り出してその場にしゃがみこんだ。普通を装うため思うように動けないというのは、なかなか難儀する。それに。
誰かに見られている――。
手布を広げて折り、ゆっくりと足首に巻きながら視線の出処を窺う。感じるのは僅かだが、伊作たちのものではないピリピリと肌を刺すような視線。ひょっとすると里の者たちに監視されているのかもしれない、と思い、彼女が籠を背負いなおしたそのときだった。
「やあ」
視線の出処としていくつか検討をつけた場所ではない、背後から男の低い声が聞こえた。ざわ、と一瞬で辺りの空気が変わる。彼女は身震いした。
気配も何も感じなかった。どっ、どっ、と激しく鳴る心臓の辺りを押さえて振り返れば、そこには背丈か六尺ほどはありそうな大男が静かに立っていた。忍びの格好をした男は顔のほとんどが包帯で覆われており、片目だけでじろりと彼女を見下ろしている。火傷の跡だろうか、皮膚の色は見ていてとても痛々しい。
男は腕を組み、わざとらしく小首を傾げた。
「女子が一人、こんな所で何をしているのかな」
「薬草を、とりに」
そう答えれば、男の長い手がぬっと伸びて彼女の籠の中を指す。
「全然とれていないようだが……群生している場所へ案内してあげよう」
言葉は優しいが、そこに親切心はなく明らかな警戒と敵意が滲んでいる。
忍びが何の思惑もなく、たまたま山で出会った女子に声をかけることなど、まずない。彼女は冷や汗が肌を伝うのを感じながら、背負い紐をぐっと握り締めた。
「大丈夫です、連れもいますし……あと父から知らない人にはついて行かぬよう、きつく言われていますので」
「なるほど、お父上は正しいお人のようだ」
そう言って、男は乾いた笑いを漏らす。目はまったく笑っておらず、彼女を捉えたままだ。
まだ姉とともに里で暮らしていた頃、教育係からこう教えられたことがある。世の中には絶対に適わぬ相手がいると。忍務中にもし運悪くそのような相手と遭遇したならば、情報を盗られる前に自害せよと。
この男はそれだ。自分とは忍びとしての格があまりにも違いすぎる。
彼女が本能的にそう悟ったとき、男は一瞬で間合いを詰めて真正面から彼女の顔を覗き込んだ。
「ところで君、何者?」
何の感情も乗っていない声色でそう問われ、ぞく、と背筋が震える。気圧されて一歩下がった瞬間、足からがくんと力が抜けて後ろへ転びそうになるが、男は瞬時に彼女の手首を掴み腰に手を回すと、ぐっと力を入れて自身の方へ引き寄せた。
「な、何者と、言われましても……」
がんがんと脳内で警鐘が鳴る中、かろうじて試験のことを思い出した彼女がそう口にしたときだった。ガサガサと木々が揺れ、はぐれていた四人が茂みの中から物凄い勢いで飛び出してきたのだ。
沈黙の中、ぜえ、はあ、と四人の荒い息遣いだけが響き渡る。そしてすぐに彼女に気付いた伊作と伊作に抱えられた乱太郎が「さん! 良かったぁ~!」と声を上げると同時に、その隣でカッと目を見開いた食満と食満に抱えられた伏木蔵がこう叫んだ。
「く、曲者!」
「こなもんさん!」
曲者? こなもん? と戸惑う彼女をよそに、男は冷静に「雑渡昆奈門だよ」と名を告げる。突然現れた四人に驚く様子もなく、彼女の手首と腰を掴む手の力もまったく変わらない。
というか、知り合い……? 食満と伏木蔵の反応からどう判断していいか分からずにいると、次第に顔を赤くしていった食満がはくはくと口を動かし、声を裏返らせながらさらに激しく怒鳴った。
「このっ、さんを離せ曲者! は、破廉恥だぞ!」
「破廉恥って」
雑渡はそう呟くと、呆れたような視線を食満に向けたままゆっくりと彼女に顔を寄せた。あまりの近さに彼女はハッと息を呑む。
「ただ腰を抱いているだけなんだけど。食満留三郎くん、君って意外と初心なの?」
「ううううるさい! というかなぜ腰を抱く必要がある!」
「この子が後ろへ倒れそうになったところをたまたま助けただけだよ」
そう言って、雑渡はすんなりと彼女を解放した。
たまたまだなんて、白々しい。誰のせいだと。心の中で毒づきながらキッと睨め上げる彼女に雑渡は目を丸くしたあと、口布の下でにんまりと笑ってみせた。彼女の心臓は未だ落ち着かないままだ。
わなわなと怒りと羞恥に震える食満の腕から抜け出した伏木蔵が、雑渡と彼女の間に立つ。そして二人を見上げ、「紹介します」と微笑んだ。
「さん、この方はタソガレドキ城の忍び組頭、雑渡昆奈門さんです」
「ご丁寧な紹介ありがとう、伏木蔵くん」
タソガレドキ。その名を聞いて彼女の肩がびく、と揺れた。タソガレドキの忍びは随分と優秀であると聞くが、なるほどこの男がそうなのか。と、彼女は一人納得した。
それに何より、タソガレドキは姉が息を引き取った場所でもある――。
「そしてこの方は学園長先生のお友達のいとこの奥さんのお友達のお孫さんで、山賊集団に命を狙われているためしばらく忍術学園で暮らすことになったさんです」
「……丁寧な紹介ありがとう、鶴町くん」
雑渡同様にそう礼を言いつつ、彼女はかあっと一気に顔が熱くなるのを感じた。相変わらず耳にするのも口にするのも恥ずかしい設定と肩書きに、ほんの少しだけ泣きたくなってくる。しかし伏木蔵ののんびりした雰囲気と説明に、先程までの恐怖や緊張は消え去ってしまった。
雑渡は「ふむ」と信じたのか信じていないのか分からない微妙な反応を示したあと、彼女に対してスっと片手を差し出した。
「先程は驚かせてしまったようで悪かったね」
「……いえ、こちらこそ。倒れそうになったところをたまたま助けていただき、ありがとうございました」
雑渡の握手に応じることなく、彼女は『たまたま』をわざと強調してそう言った。少し刺々しいだろうかとも思ったが、子どもたちの前で何かされることはないだろう。
無言で見つめ合う二人を伏木蔵が交互に眺める。彼女を守ろうと慌てて食満が割り込んできたところで、カア、と烏の鳴く声が聞こえた。雑渡は食満の睨みなどものともせずに空を仰ぐ。
「では、私はこれで失礼するよ。君たちもこれ以上不運に見舞われる前に早く帰りなさい」
「余計なお世話だ!」
「ああ、それと」
食満の後ろにいる彼女を雑渡が指差す。何を言われるのだろうと身構えたが、雑渡はふっと軽く笑ってちらりと彼女の足元に視線を落とした。
「彼女、足を怪我しているようだから。保健委員の諸君、よろしくね」
えっ! と皆が声を上げると同時に、雑渡は音もなく姿を消した。雑渡だけでなく、注意深くこちらを窺っていたいくつかの視線もややあって消える。そこでようやく彼女はほっと胸を撫で下ろしたのだった。
大した怪我ではないし、薬草も十分には集まっていない。自分は大丈夫だから山に残ろう、という彼女の提案を断ったのは伊作だった。彼にしては珍しい真剣な顔つきで「さんの傷の手当てが先です」と言われてしまい、彼女は必死に断ったが押しに負け、食満に背負われて帰路につくことになったのである。
「ごめんなさい、重いですよね」
「気になさらないでください。さん一人を運ぶことくらい、何てことないですから」
「……ありがとう」
まさか年下の子に背負われることになるとは、と思いつつ礼を言えば、食満はニカッと明るく笑った。保健委員だけでなく、いつの間にか食満まで彼女のことを下の名前で呼ぶようになっていたが、彼女自身不思議と悪い気はしなかった。
道端に伸びる伊作や乱太郎、伏木蔵の影が、歩くたびにかすかに揺れる。朱く染まり始めた広い空で、一日の終わりを告げるように低く鳥の声が尾を引いた。
話に聞いていた通り、何とも不運な一日だった。やはり子どもたちと関わるんじゃなかったと後悔もした。けれど、今日の夕飯について楽しげに話す子どもたちを見ていると、まあこういう一日があってもいいか、と思えてくる。他愛もない話をしながら帰れる場所があるというのはなんと恵まれたことだろう、とも。
ふと、姉の顔が浮かんだ。姉は里を出てからの三月を誰とどのように過ごしたのだろう――。
「それにしても」
前を歩いていた伊作が振り返る。彼は不思議そうに夕焼け空を見上げてこう言った。
「雑渡さん、僕らに『これ以上不運に見舞われる前に早く帰れ』って言ってたけど、全部見てたのかなあ?」
鈍い痛みの残る手首に彼女はそっと目をやって、雑渡の名を耳にした途端明らかに機嫌が悪くなった食満に気付かれないようにため息を零した。
雑渡昆奈門。あの男とは、できれば二度と関わりたくないものである――。
---
子どもたちとはぐれ、一人ぽつんと佇んでいた彼女が雑渡に気付きゆっくりと振り返る。その姿は、まるでこの世のすべてから置き去りにされているかのようだった。
「あの女ぁ~……組頭との握手を拒むだなんてぇ~……!」
拳をつくり、ぎりぎりと歯軋りする尊奈門を一瞥したあと、雑渡は旻天の下を歩く子どもたちへ視線を戻す。彼の目は、食満に背負われている彼女に向けられていた。
忍術学園に素性の分からぬ女子が現れた、との報告を受けて見に来たのだが、まさかあの保健委員と行動を共にしているとはな。雑渡は今日一日の彼らの不運を思い返しながら小さく笑った。
道が崩れたときも、岩が落ちてきたときも、獣に追われたときも、彼女はどこからどう見ても『普通の女子』であった。皆と同じように驚き、慌てふためく様子に何もおかしいところはない。タソガレドキの名が出たときに僅かに反応を示したが、それもまあ至って『普通』の反応である。しかし。
「組頭はどうお考えですか。遠目に見ても、面影があるようでしたが……」
「瓜二つとまではいかないが血の繋がりはあるだろうな」
雑渡の頭の中で、自身を睨みつけた彼女の顔と山の中で事切れていた女の死に顔が重なる。雑渡は山本の問いに答えると、そのまま腰を下ろした。いつもの横座りに尊奈門が分かりやすく顔を歪めた。
恐怖、困惑、そして怒り。敵だけでなく部下の身内からもそのような感情をぶつけられることがあるが、この顔をあれほどまっすぐ見つめてくる女子はそうそういない。
私は気に入りません、あの女! と一人で騒ぎ立てる尊奈門をうるさいと一蹴し頭に拳骨を食らわせた高坂が、竹筒に入った雑炊を啜る雑渡を見つめる。
「しかし忍術学園の保護下に置かれているとなれば、そう簡単に手出しはできないのでは……?」
「だろうねえ。しかもどうやら大川殿は、彼女の素性を知った上でそれを子どもたちには伏せているようだ」
伏木蔵の紹介で些か気まずそうする彼女の姿を思い出し、雑渡は微笑を浮かべた。恐らくあれは大川殿の勝手な思いつきによるもので、彼女も戸惑っているのだろう。あのような嘘偽りを信じる方もどうかと思うが、本人があの様子ではいずれ勘づかれるに決まっている。くつくつと笑う雑渡に残りの三人は眉を顰めた。
となれば、本人はおろか学園の関係者に彼女の素性について尋ねたところで、こちらの欲しい答えは返ってこないだろう。
すっかり小さくなった五つの影。それらを見送って、雑渡は腰を上げた。茜色に染まる夕空を、鳥たちがゆるやかに横切っていく。
「こちらで内々に調べるしかないだろうな」
あの女同様、彼女は一体何者なのか。我らがタソガレドキに害をなす者なのか。仮に二人が姉妹であったとしても揃って忍びであるという確証はないが、調べる価値はあるだろう。
できれば二度と関わりたくない、という彼女の祈りにも似た願いが報われることはないのである。
(20251128)