蛍火の先に
気が付けば、暗闇の中で轟々と燃え上がる炎に包まれていた。
けれど、不思議なことに身体が燃え尽きる様子はなく、熱さや痛みも感じない。ただなんとなく、ああここが地獄というものなのかもしれないな、とぼんやり考えていたそのとき、赤や黄色の火花に混じり、ふわりと浮かぶ複数の蛍が目に入った。
蛍は、死者の魂が姿を変えたものだと聞いたことがある。
もしかすると、己の身体から抜け出した魂も、あの中の一匹となって飛んでいるのかもしれない。そんなことを思いながら、彼女は業火の中をふらふらと歩き、飛び交う光を追いかけていた。
やがて、身を包んでいた炎は消えて一本の川へと辿り着いた。流れは穏やかだが、一歩でも足を踏み入れれば二度とこちら側へは戻れないことが分かる。蛍が川を越え、対岸へとわたっていくのを目で追いかければ、川霧の向こうにぼんやりと浮かぶ人影を見つけた。
彼女は目を見張った。姉だ。動くことなく、ただこちらを見つめている。
「姉上!」
精一杯叫んだつもりだった。しかし、口からは声一つ出てこない。
思い切って川へ飛び込もうと足を踏み出すも、身体も思い通りに動かない。この川を渡ってしまえば、姉と同じところへ行ける。そう思うのに、それを望んでいるのに、身体はどんどん重くなるばかりで、もどかしさだけが募っていく。
仕舞いにはその場に立っていることすら難しくなり、彼女はがくりと地面に膝をついた。
霧はゆるやかに流れ、姉の姿を少しずつ覆い隠していく。待って、と心の中で何度も叫んだそのとき、姉は彼女を見つめ、穏やかに微笑んだ。
それは、死を迎えるときに浮かべていたものとはまた違う笑顔だった。里で暮らし始める前、家族四人で過ごしていた、あの頃と同じような――。
次の瞬間、白い霧が川一面を覆い尽くし、姉の姿は溶けるように消えていった。途端に、世界がぐにゃりと歪む。膝をついていた地面が崩れ落ちたかのような浮遊感に襲われ、視界が真っ黒に塗り潰されていく。
遠いところから、誰かが私の名を呼んでいる。小さな光が見える。彼女ははっと息を呑み、勢いよく目を開けた。
「さん!」
ぼやけていた視界が、次第に鮮明になっていく。
しばらくして目の前に浮かび上がったのは、もう二度と会うことはないだろうと思っていた、忍術学園・保健委員会の子どもたちの顔だった。
状況を理解できず、彼女は「え……」と小さく呟く。その声は、以前風邪を引いたときよりも酷く掠れていた。
じいっと、まるで穴が空きそうなほど見つめてくる四人——乱太郎、伏木蔵、川西、三反田の険しい表情が、徐々にほどけていく。そして次の瞬間、子どもたちは揃ってへなへなと後ろへ倒れ込んだ。
「良かったぁ〜!」
「さん、二日間ずっと眠ってたんですよ。時々苦しそうにうなされてて、僕たちすっごく心配したんですから!」
横になったままの彼女に子どもたちは再び詰め寄ると、皆ほっとしたような、それでいて今にも泣き出しそうな顔をして口々に言った。川西の『二日間ずっと眠っていた』という言葉を聞いて、彼女は道理で口の中が乾いてカラカラなはずだ、と納得する。
夢の中ではまったく感じなかった痛みが、首筋を中心にじくじくと疼き始めた。
どうやら、助かってしまったらしい——。
彼女自身そこまでは理解できたものの、なぜ忍術学園に戻って来ているのかは分からなかった。タソガレドキへ向かう途中、遭遇した雑渡に姉の書いた文を託し、そこで里の追っ手が放った矢が首を掠めて、てっきり死んだものと思っていたのに。
そこまで考えたところで、覗き込む子どもたちの隙間から伊作が控えめに顔を出した。
「雑渡さんがここまで運んできてくださったんですよ」
「……雑渡殿が?」
「あ、まだ起き上がったら駄目ですよ! しばらくは絶対安静ですから!」
三反田に制され、彼女は身体を起こすのを諦めて伊作を見つめた。伊作は他の子どもたちと同じように彼女の枕元へ腰を下ろすと、彼女がここへ戻ってくるまでに何があったのか、その経緯を語り始めた。
彼女が学園を出たあと、しばらくして雑渡が怪我をした彼女を抱えて戻ってきたこと。傷そのものは深くなかったものの、恐らく附子を用いた神経毒が全身に回り、非常に危険な状態だったこと。幸い、早く処置を施すことができたため、一命を取り留めたこと。
そして、彼女がどういう身の上で、なぜ忍術学園で暮らすことになったのか——その本当の事情を、学園にいる者全員が知ったこと。
それらの話が終わると、重たい沈黙が流れた。
挨拶も無しに勝手に出て行ったにも関わらず、こんな形で舞い戻ってくるなんて。
そう思うと、風邪を引いて寝込んでしまったとき以上の情けない気持ちが胸に広がっていく。合わせる顔がないとは、まさにこういうことなのだろう。
「……ごめんなさい」
「え?」
かろうじて絞り出した言葉に、子どもたちは揃って首を傾げる。
「ずっと皆さんのことを騙していて……。動けるようになったら、すぐに出ていきます」
「だめですよ!」
勢いよくそう叫んだのは、乱太郎だった。
「だってさん、図書室で借りた本、まだ返却していないじゃないですか! それに、学園の備品の苦無も勝手に持って行っちゃったでしょう。食満先輩にちゃんと怒られてくださいね!」
乱太郎の言葉に、彼女はぱちぱちと瞬きをした。たしかに乱太郎の言う通り、まだ返却していない本は自室に置いたままだし、勝手に拝借した苦無に関しては、もはやどこにあるのかすら分からない。
だがそれ以前に、彼らは私のことが恐ろしくないのだろうか。
彼女には、それが不思議でたまらなかった。乱太郎に至っては、学園で起きた騒動の最初から最後まで、そのすべてを目の当たりにしているというのに。
彼女が口を開くより先に、伊作が少しだけ困ったように笑う。
「上級生は皆、さんの素性に気付けなかったことの未熟さに反省しています。それと……これだけは言わせていただきたいのですが」
そう言うと、伊作は床に拳をつき、額がつくほど深く頭を下げた。
「みんなを守ってくださって、本当にありがとうございました」
そう述べた伊作に続き、他の子どもたちも礼を言いながら頭を下げる。
そもそも自分がいなければ、彼らがあんな騒動に巻き込まれることはなかったはずだ。それなのに、こんな状況になってもなお、ずっと騙し続けていた自分に感謝の言葉を向けてくれる。
「(やっぱり、この子たちは忍びには向いていない……)」
そう思うのに、不思議と胸の奥がじんわりと温かくなっていくのを感じた。申し訳なさ、そしてそれ以上の安堵が入り混じり、言葉にならない感情が込み上げてくる。
この気持ちは、きっと間違っている。
彼らがこうして、もう一度自分を受け入れてくれたことが、泣きたくなるほど嬉しいだなんて。
しばらくすると、彼女が目を覚ましたと聞きつけたきり丸、しんべヱ、喜三太が医務室へ駆けつけてきた。そして彼らは彼女の姿を見るなり、大泣きしながら布団に横たわる彼女へ一斉に抱きついた。その重みに呻き声を上げる彼女を見て、乱太郎が慌てて「こら~!」と叫ぶ。
彼らも乱太郎と同じく、彼女が忍びたちを倒す場面を目にしていたが、それでも彼女に対する態度はまったくと言っていいほど変わっていなかった。
「さんの正体に気付けなかった五年生や六年生たちが、みーんな悔しそうにしてて面白いんすよ」
そう言って、きり丸がにやりと笑う。
「またお見舞いのお菓子が余ったら、僕が食べてあげますからね!」
しんべヱはそう言いながら、早くも涎を垂らしている。
「さんが早く元気になるように、ナメクジさんたちの芸を見せてあげたいんですけど……」
喜三太は、少し落ち込んだ様子で胸に抱く壺へと視線を落とした。しかしすぐに顔を上げ、ぱっと明るい笑顔を浮かべる。
「今は寒くて、ナメクジさんたちほとんど動かないんです。なので、暖かくなったら必ず芸を見せてあげますからね!」
暖かくなったら。
そんな何気なく告げられた未来の話に、彼女の胸の奥に小さな寂しさが生まれる。しかし彼女は、その寂しさを押し込めるように、ただ静かに微笑んだ。
「雑渡さんにもさんが目を覚まされたこと、お知らせしないといけませんね」
きり丸たちの背後から、伏木蔵と伊作の話し声が聞こえてきた。その名を聞いた途端、ふと意識がそちらへ向いた。
自分が気を失ったあと、彼らは無事に追っ手から逃れることができただろうか。姉の文は、無事に城代の手へ渡っただろうか。
そして、雑渡は――。
脳裏に、傷口から毒を吸い出そうとした雑渡の余裕のない顔が浮かぶ。
あくまで城代に命じられて親切にしてくれていただけなのだろう、と思っていた。こちらの素性を知った上で、三月の間、周りに黙っていてくれたのもそのためなのだろう、と。だが、それだけの理由であそこまでしてくれるものなのだろうか。
本人に聞かない限り答えの分からない疑問だけが、心の底に残り続けた。
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翌々日、丑の刻。
天井裏から音もなく下りてきた雑渡は、すでに着替えを済ませ、布団を畳んでいる彼女を見て、さほど驚くこともなく小さく笑った。
「伊作くんからの文には、以前のように動けるようになるまで五日はかかるだろうと書かれていたが」
「子どもたちには、そう思ってもらえた方が好都合でしたので」
彼女自身もまた、突如現れた雑渡に動じることなく落ち着いた様子でそう答えた。
元々、毒に耐性のある彼女の身体は普通の人間とは違う。本調子とまではいかないものの、身体はすでにかなり回復していた。それでも、子どもたちの前ではまだ思うように動けない振りをした。それは彼女にとって、子どもたちにつく最後の嘘だった。
布団を畳み終えると、彼女は月明かりだけが淡く照らす部屋の中で、雑渡へと向き直る。
「あの、皆さんは?」
「皆?」
「その、タソガレドキの……」
おずおずと尋ねる彼女に、雑渡は「ああ」と頷いた。
そして雑渡は、全員無事であることを告げると、里からの追っ手も数名を残してすべて始末したこと、諸泉が彼女の容態を気にかけていたことを淡々と伝える。
本当の『最終の試し』について、何も知らないまま命を落とした里の追っ手たちには申し訳ないと思う。それでも、何かとよく会うことの多かった雑渡の部下たちが無事だったことに安堵し、彼女は雑渡に向かって頭を下げた。
雑渡たちが無事で、そして彼が今ここにいるということは、姉の文は恐らく城代の手に渡ったのだろう。
「あの、ここまで運んでいただき、ありがとうございました。それと学園長殿の恋人だなんて、嘘をついて……騙してすみません」
「いや、騙されてないけどね」
雑渡の一言に、彼女はがくりと肩を落とした。
いつまでも通用するものではない、三月の間だけ凌げればいい。そう思ってついた嘘だったが、まさか最初から見破られていたとなると、さすがにいたたまれない。
今まで必死に取り繕っていた自分が酷く恥ずかしく思えてきて、彼女はかあっと顔が熱くなるのを感じた。
そんな彼女の心情を知ってか知らずか、雑渡はいつもの飄々とした様子で言葉を続ける。
「惜しいね、他の部分は優れているのに。もっと頑張りましょう」
「う……はい……」
彼女の素直な返事に、雑渡はふっと笑った。
会話が途切れ、二人の間に沈黙が流れる。
その間、彼女は雑渡が今日ここへ来たわけを考えていた。しかしいくら思いを巡らせても、わざわざこうして自分のもとへ足を運んできたことが腑に落ちない。
あの姉の文を読んだ城代が、自分の力になりたいなどと言っているのだろうか。それとも、まだ何か疑われているのだろうか。
そして、自分をあそこまでして助けてくれた理由は、一体何なのか。そもそも、前に口吸いされた本当の意味すら未だに分からないというのに。
いくつもの疑問が頭の中を巡る。黙り込んでいる彼女を見て、雑渡はぽつりと零すように呟いた。
「殿は不器用すぎる」
彼女は眉を顰めた。その言葉は、先日、雑渡に文を託したときにも向けられたものだった。
たしかに器用かと問われれば、そうではない自覚はある。しかし、雑渡が何を指して『不器用』と言っているのか、その真意までは掴めない。
黙ったまま雑渡の言葉を待っていると、彼は静かに手を伸ばした。その指先が、まだ包帯の巻かれた首筋へと触れる。
思いがけない感触に、彼女の肩がわずかに強張った。
「忍びなら、もう少ししたたかであるべきだ」
「したたか……?」
「君はあのとき、文を託すのではなく、私にただ『助けてほしい』と頼むべきだった。そうすれば、こんな怪我などせずに済んだかもしれないのに」
「そ、そこまでしていただく理由はないかと……それに、結果的には助けていただきましたし」
「でも、死ぬ気なのだろう?」
雑渡の淡々とした言葉に、彼女は息を呑んだ。こんな時間に、学園の者たちに何も告げず、これから自分がどこへ向かおうとしているのか。そして、その先に何が待ち受けているのか。そのすべてを、雑渡にはとうに見透かされていたようだ。
ごまかすことはできない。そう悟った彼女は、ふう、とため息を吐いた。
「まあ、そういう掟ですので」
『最終の試し』に例外は認められない。姉をはじめ、これまで試しを受けた者たちは皆、掟に従い、生き残る者と命を落とす者に分けられてきた。だからこそ、試しに落ちた自分がこうして生き延びているこの状況は、死んでいった者たちに申し訳が立たなかった。
助けられた身で、何とも身勝手なことをしようとしている。それくらいのことは自分でも分かっている。子どもたちは怒り、悲しみ、そして許さないだろう。もちろん、雑渡も。
だが、それでも私は――。
「そんなことだろうと思ったよ」
彼女がぐっと唇を噛み締めたとき、雑渡はそう言って、胸元から一通の文を取り出した。
一瞬それが何なのか分からなかった。だが、すぐに彼女は目を見開き、言葉を失う。
それは紛れもなく、城代に渡してほしいと雑渡に託したはずの、姉の文だった。
声を上げそうになった彼女の口元に、雑渡は素早く人差し指を当てる。
「中は改めさせてもらった。あと、他に文がないかも念のため調べさせてもらったよ」
「では、早く城代様へ……」
「君が渡せ」
すっかり汚れて皺だらけになった文を差し出され、彼女の口から「は?」と間の抜けた声が漏れた。いつもの冗談かと思ったが、雑渡の表情は真剣そのものだ。
まさか返されるとは思ってもみなかった彼女は、戸惑いながら雑渡と文を交互に見つめる。
「私が城代と繋げてあげるから、君から直接渡すんだ」
「で、でも、そんな時間は、私にはもう」
「私と山茶花を見に行く約束をしただろう」
急に話が変わり、彼女はますます混乱した。なぜ今、その話を持ち出すのだろう。
呆気にとられている彼女へ、雑渡が一歩、歩み寄る。迫ってくる影に、彼女は思わずたじろいだ。
「それは、私も見てみたかったですが」
「あの約束をした日、私は『君が困っていたら助ける』と言った。その前に、殿は自分が何を言ったのか、覚えていないようだ」
まだ少し麻痺の残る感覚の鈍い手に、雑渡の指が触れる。そしてその手の中に、姉の文を握らされた。かさりと乾いた和紙の感触が、今度ははっきりと指先に伝わってくる。
雑渡が何を言いたいのか分からず、彼女は黙ったまま彼を見上げた。
「頑張って長生きする。そう言ったんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、あの日の夕焼けの色が目の前に広がった。
雑渡に素性を知られているとは夢にも思わなかったあの日。卑怯だとは思いながらも、自分に逃げ道を残しておくために約束を交わしたとき、たしかにそう言ったことを思い出したのだ。
目頭がじわりと熱くなる。瞬きを堪えて、彼女は姉の文を強く握り締めた。そんな彼女を見つめながら、雑渡は静かに言葉を続ける。
「以前、死は背負うものだと話しただろう。それが生きている者の務めだと。君が死んでいった者たちに申し訳ないという理由で死ぬ必要はない」
彼女はゆっくりと顔を上げた。
雑渡は、自分を生かそうとしている。
どうしてここまでしてくれるのか。そう尋ねたかった。けれど、求めている答えが返ってこなかったらと思うと、怖くて聞くことができない。
彼女は、自分の心の奥底にいる臆病な自分に気付き始めていた。文を握る手が小刻みに震える。
このままでは、死ぬのが怖くなってしまう。
不相応な未来を切望してしまう——。
「まあ、もう殿が死ぬ必要はないのだが」
「……え?」
雑渡が独り言のように零した一言に、彼女はそう聞き返した。目を瞬かせる彼女に、雑渡はにやりと笑う。
今までに何度も見てきたその笑みに、張り詰めていた気持ちが緩んでいく。
いつもの雑渡だ。そう思った途端、手の震えがだんだん収まっていった。里の掟に縛られていた心も、死んでいった者たちへの罪悪感も、少しずつ遠ざかっていく。それはまるで、長い間押し殺していた自分自身を取り戻していくようだった。
しかし、雑渡は詳細を説明するつもりはないようだ。
「そろそろ行くよ」
雑渡はそう言って、彼女に釘を刺すように言葉を続けた。
「くれぐれも勝手に出て行こうなどと思わないことだね。先生方も見回っているようだし、殿の実力では、その目を掻い潜って抜け出すのは難しいだろう?」
先程までの優しさが嘘のような言い方に、彼女は顔を顰めた。なんだか小馬鹿にされているようで、少しばかり腹が立つ。
たしかに自分の実力では、忍術学園の先生方に敵わないことは分かっている。だが、こうもはっきりと言われるとは。
少々悔しさを覚えながらも、彼女は冷静に頷いてみせた。
文は返されてしまったが、タソガレドキの城代と繋いでもらうという確約は得た。子どもたちにこれ以上危険が及ぶことを避けるため、早く学園を出ようとしていたわけだが、追っ手がほぼ壊滅状態となった今、里長もこれ以上の無理はできないだろう。
自分の生き死にについては、まだ答えを出せていない。けれど、少なくとも今日、学園を出ていく理由はなくなった。
彼女が無茶をする気はないと判断したのか、雑渡はわずかに肩の力を抜き、部屋の戸へ視線を向けた。
「もうしばらくしたら、新野先生が様子を見に来られるはずだよ」
「えっ」
小さな驚きの声を漏らした彼女は、あわあわと畳んだばかりの布団を再び敷き始めた。そんな彼女を前に、雑渡は何かを思い出したように「あ、そうだ」と呟く。
まだ何か自分に言うことがあるのだろうか。そう思いながら布団を整えていると、雑渡がすぐそばに跪いた。
気付けば、雑渡の顔がすぐ目の前にある。その距離に、彼女は思わず息を止める。
「すまない」
「……何が、ですか?」
「先に謝っておくよ。痛いと思うからね」
「だから、」
何が、と尋ねたその瞬間、ぐいと腕を強く引かれた。よろめいた身体が、そのまま力強く抱き締められる。
すっぽりと雑渡の腕の中に収まった彼女は、突然のことに息を呑んだ。目の前にある厚い胸板から、彼の体温と規則正しい心音が伝わってくる。心臓がどくりと大きく跳ねた。
傷を負った彼女の首元に、雑渡はそっと顔を寄せる。まだ治りきっていない傷が少しだけずきりと痛み、ようやく息を吸った彼女の鼻先を、かすかな血と土の匂いが掠めた。
背に回された腕は思いのほか強く、それでいて少しも苦しくない。
「間に合ってよかった」
吐息混じりに耳元で囁かれた言葉に、とうとう彼女の涙が頬を伝う。
こんなにも優しく、そして強く抱き締められることが、こんなにも心を安らかにするのだと彼女は初めて知った。
姉が死んだあの日から一度も流すことのなかった涙が、堰を切ったように溢れ出す。頬を伝い、着物を濡らしても、それでも止まらない。彼女は震える手を雑渡の背へ回すと、その身体をぎゅっと抱き締め返した。
雑渡が何を考えているのかなど、もうどうでもよかった。ただ今は、この温もりに甘えていたかった。
先のことは分からない。
でも、生きていて良かった。
その日、彼女は初めて、心の底からそう思ったのだった。
(20260817)