春を待つ


「……で、いつからお気付きだったのですか」

 雑炊入りの竹筒を片手に、木の上でのんびりと前方に広がる忍術学園の敷地内を眺める雑渡に向かって、山本はそう問いかけた。いつもの横座りをやめるよう言う前に、彼はそう尋ねていた。今、彼らがいる場所は、一応『曲者』という立場であるタソガレドキの忍びたちにとって、学園の出入りに口煩い小松田に見つかることなく学園内を監視できる格好の場である。
 ずぞぞぞ。
 返事の代わりに聞こえてきた雑炊を啜る音に目をやれば、雑渡の視線は質問を投げた山本ではなく、学園内で子どもたちと過ごす彼女——に向けられていた。
 その雑渡の横顔に、山本は口布の下でひっそりと笑みを零した。一時はどうなることかと気を揉んだが、どうやら彼女の身体の具合も大分良くなったらしい。そのうえ、もう素性を隠す必要がなくなったからだろう。彼女は堂々と、忍術学園のよい子たちに手裏剣の打ち方を指導している。
 先日、山の中で彼女と対面したとき。雑渡は彼女の持つ文が密書ではないこと、そしてさらにその文が城代宛てであることまで気付いていたようだった。先程の山本の『いつから気付いていたのか』という問いは、それに対してのものだ。

殿の姉君がなぜ『タソガレドキ領内』で死んでいたのか……最初はその違和感から始まった」

 雑渡は彼女から視線を外すことなく、そう答えた。
 彼女の姉が死んでいた場所。それは、他領へ通じる道を持たないタソガレドキ領内のみに収まる山だ。

「もし何処ぞに急ぎ密書を届けようとしていたのなら、一度城から逃げてあの山に入るのはおかしいだろう。でも確信したのは、学園を去った殿の後を追い始めてすぐだよ」

 すっくと立ちあがり、雑渡は竹筒を胸にしまって腕を組んだ。子どもたちの投げた手裏剣に追いかけられる彼女の姿を見た雑渡の顔に、微笑が浮かぶ。

「明らかにタソガレドキの方角へ向かっていたからね」
「なるほど」
「殿のことは如何するおつもりで?」

 それまで黙って枝から垂れ下がるミノムシを指でつついていた押都が口を開いた。彼のその言葉で、雑渡と山本の脳裏に、彼女ら姉妹の里長が城代襲撃事件に関わっていることを知り、里ごと焼いてしまえと息巻いていた黄昏甚兵衛の姿が頭に浮かぶ。
 彼女自身、たとえ何の関わりがなくとも責を問われるかもしれない。そんな最悪の展開を予想する押都に対し、雑渡はふっと軽く笑って彼の方を振り返った。

「何のために、直接彼女から城代へ文を渡させると思う?」

 文の内容については山本も押都も把握していた。その最後に『妹が届ける』と、そして『妹の力になってほしい』と記されていたことも。それは、最期の文に残された、彼女の姉の唯一の願いだった。
 雑渡なりに、城代を救った女に恩を返したい、という思いがあるのも事実だ。だがそれ以前に、自分が城代へ文を渡すよりも、彼女が直接渡した方が城代に彼女の後ろ盾となってもらえる可能性が高いと考えたのだ。城代は、必ず彼女の姉の願いを叶えてくれる。そうすれば、いくらあの殿であってもそう簡単に彼女に手出しはできないだろう。
 すべて言われずとも雑渡の思惑を理解した二人は、それ以上何も言わずに少しだけ顔を見合わせた。
 そのときだった。冷たい風に乗って、彼女のかすかな笑い声が三人の元へと届く。
 いつもむっつりとしていた彼女が、年相応の女子らしく声を上げて笑うようになった。そのことに、恐らく誰よりも喜んでいる男が、すぐ隣にいる。しかも自らが仕える殿が手を出せぬようにするための根回しも忘れていない、ときた。
 山本は、やれやれと呆れたような、それでいてどこか優しい笑みを浮かべた。

「とにかく、我々を散々振り回したのですから。組頭も覚悟を決めてください」

 そう告げながら、山本も腰を上げる。
 人間というものは、年を重ねるにつれて口煩くなるものだ。殿からの雑渡に対する『早く身を固めろ』という小言は年々多くなり、ついには本人だけでなく山本たち小頭へも向けられるようになってきている。ただでさえ多忙で危険と隣り合わせの日々を送っているのだ。正直、忍務と関わりのない面倒事からは一日も早く解放されたい。
 その思いは雑渡も同じはずだが、彼は明らかに納得がいっていない様子で口を尖らせた。

「振り回した覚えはないんだけど」
「まあ、貴方には高貴な血の姫君や良家の娘御より、あのように意志が強く、臆することなく物言える女子の方が似合っていますよ」
「まったくもって同感ですな」

 押都は頷いたあと、「ところで」と言って自身の顎に手をやり、ゆっくりと撫でた。

「実際のところ、どうなのですか。組頭はともかく、殿も満更ではなさそうに見受けられますが……さすがにまだ手は出しておらぬでしょう。青二才じゃあるまいし」

 冷たい冬風が静かに三人の間を吹き抜けて、山の方へと消えていく。押都のその言葉を最後にぷっつりと途切れてしまった会話に、尋ねた本人が「おや」と首を捻るより先に山本がぐわっと両目を見開いて雑渡へと迫った。

「まさか出したんですか……嫁入り前の女子に……」
「さて、そろそろ学園長殿との茶の時間だ」

 しれっとそう言ってのけた雑渡は、後にきりきりと痛み始める山本の胃のことなど気にかけることなく、二人へ先に帰っていいとだけ告げて木から飛び降りた。もちろん、雑渡が学園長と茶の約束などしていないことは、押都も山本も分かっている。
 冬の静寂に包まれた山の中。春はまだ遠い。だが、いつか必ず、誰のもとにも訪れる。
 とうとう我慢できなくなった押都の笑い声と、山本のそれはそれは大きな溜め息が広がった。


---


 数日が経ち、学園で静養を続けていた彼女は元の体力を取り戻しつつあった。廊下を歩きながら、片手を開いて閉じる、を何度か繰り返す。しぶとく残っていた麻痺も今は全くない。
 そして目的地である学園長の庵に辿り着いた彼女は、緊張を和らげようと深呼吸した。
 学園長をはじめとする周りの心遣いもあって怪我を治すことに専念できたが、本来子どもたちを危険に晒した罰を与えられてもおかしくはない。彼女はもう一度だけ息を吐いて、その場に腰を下ろし、中で待つ人物に向かって声をかけた。

「学園長殿、です」
「うむ、入りなさい」

 返事を確認して、すっと戸を開ける。そしておずおずと顔を上げた彼女はぎょっとした。いつものように悠然と茶を啜る学園長の真正面に、当然のように雑渡が座っていたのだ。彼も学園長と同じように、恐らくヘムヘムが淹れたであろう茶をゆっくりと飲んでいる。
 驚いて声も出ない彼女に、雑渡は「やあ」といつもの調子で言った。
 突如、彼の前で子どものようにわんわん泣いてしまったあの夜のことが蘇り、彼女はかっと顔から全身にかけて熱くなっていくのを感じた。

「すまんのう、急に呼び出したりして」

 学園長の言葉で我に返った彼女は、部屋に入り静かに戸を閉めた。
 そして二人を見比べて、どこに座ればよいか分からずそのまま戸の前に正座し、深く頭を下げる。

「いえ、こちらこそなかなかご挨拶できず……この度は忍術学園に多大なご迷惑をおかけしてしまい、誠に申し訳ございません」
「相変わらず固いのう」

 そう言って笑う学園長は、彼女の予想に反して今回のことをそこまで重大には捉えていないようだった。誰にも怪我がなくて良かった、と告げたあと、自分もよく曲者や暗殺者に命を狙われるのだ、と楽しそうに声を上げて笑う。
 彼女はそれを悠長に考えていていいことだとは思えなかったが、あまりにも学園長が愉快そうに笑うため、顔を上げて無理矢理笑おうとしたら口角が引き攣った。そんな彼女の拙い笑顔に雑渡がくすりと笑い、彼女はすぐにむっとして彼を睨む。

「心配せずとも、お主が何も知らなかったことは承知しておる。それよりも……大事なことを話しておかねばならん」
「はい」
「里長のことじゃ」

 学園長の言葉を受け、その場に緊張が走った。雑渡が茶を置いて「ここからは私が」と言う。学園長は黙って頷くと、また一口茶を飲んだ。
 雑渡はまっすぐ彼女を見つめた。その眼差しを見つめ返し、彼女も背を正す。

「里長だが、我がタソガレドキに捕らえられたよ。城代暗殺を命じた張本人だからね」

 そう言ってすぐ、雑渡は付け加えるように「随分抵抗したようだが」と呆れたように呟いた。言い方からして、その『抵抗』とやらは彼にとっては取るに足らないことのようだったらしい。
 雑渡の話を聞いて、彼女は真っ先にそうなるのは時間の問題だった、と考えた。自分が学園を出て追っ手と相見えたとき、雑渡らタソガレドキは里長の行いをすべて知っていた。そして何より、城代だけでなく雑渡たちへも先に手を出したのは、紛れもなく里長なのである。
 だからこそ、雑渡が里長の処分について斬首のうえ獄門となる、と告げたときも大して驚きはしなかった。
 もちろん、里長に対して自分をここまで育ててもらった恩はある。しかし、散々私情を優先してきた自分が言えることではないが、自分の恩義と里長の罪は別に考えなければならない。

「学園長殿は……それでよろしいのでしょうか」

 彼女は、里長と古くからの知り合いであるという学園長へ視線を向け、そう尋ねた。そんなに良い関係ではなかったにしても、それでも自分より付き合いは長かったはずだ。何かしら思うところはあるだろう。
 彼女からの問いに、学園長は目を伏せたまま少し疲れたように息を吐いた。

「若い忍びを導く立場にありながら、道を踏み外した。相応の処罰は必要じゃ」

 そう答える声に先程までの軽さはない。部屋の中を流れる重たい空気の中、太腿の上に置いた二つの拳を見つめながら、彼女はそうか、とあることに気が付いた。
 先日、雑渡が呟くように言った「死ぬ必要はない」というあの言葉。恐らくあの時点で、里長はもう彼らの手に落ちていたのだろう。
 だったらあのとき、そこまで説明してくれれば良かったのに。彼なりの配慮だったのだろうか。
 そんな思いを込めて雑渡を見れば、彼は続けて里の話をした。タソガレドキ城城主・黄昏甚兵衛の命令で里は焼き払わなければならない、と。

「里を……」
「ただし、里に残された幼い子らについては、タソガレドキの忍村で引き取る手筈を整えている」
「そうですか」

 彼女はしばらく帰っていない自分の『故郷』と呼べる唯一の場所に思いを馳せた。里では、自分を含めると三十名ほどの忍びたちが日々訓練をしていた。今回の件で人数はかなり減っただろうが、まだ一人で生きていくことが難しい子らが衣食住に困らずに済むのであれば、彼女自身異論はなかった。むしろ感謝しても、し足りないほどである。
 しかし、里の者の中には里長を慕っていた、というより信仰に近い思いを抱いていた者がいたのも事実だ。タソガレドキの忍村に引き取られることもなく、自分を恨み、亡き者にしようと考える者もいるかもしれない。
 自分のこれから。そして、自分の生き死にについて——。
 黙り込み、物思いに耽っていたそのときだった。ぱん! と何かが破裂するような音が聞こえ、彼女はびくりと肩を跳ねさせる。
 顔を上げれば、どうやら手を叩いたらしい学園長がこの重苦しい空気を吹き飛ばすかのようにニンマリと笑っていた。少しだけ、嫌な予感がする。

「とにかく、これにてお主の最終試験は完全終了ということになるな。合格を望んでいた其方にとっては、酷な結末かもしれんが……」
「あ、いえ」

 咄嗟に口からそう出たが、この想像していなかった結末を受け入れるのにはもう少し時間がかかりそうである。

「お主、これからどう生きていくつもりじゃ?」

 次は何も答えられなかった。学園長の言う「これから」が、姉の文を城代に渡したそのあと、という意味だったからだ。
 今まで自分の中で絶対だった里長や里の掟。逆らえないもの、破ることができないもの。それらがなくなった今、彼女は自分には一生縁のないものだと思っていた『自由』を手にしていた。
 これまで、文を渡したあとはどこかの場所で里長の指示通り忍びとして生きていくのだろうと思っていた。そしていつか、一人で死ぬのだろう、と。
 姉は死に際に自分へ「里を出て自由の身になれたなら」と言った。姉がこの状況を予見していたわけはないが、奇しくも今がそのときなのだ。
 期待や不安、恐れ、そして困惑。胸の奥で、いろいろな感情が地面に染みわたる雨粒のように広がっていく。
 彼女が黙り込んでいると、学園長はふと思い出したように小声で何かを呟いた。

「苦無に……壁の件もあるからのう……」
「え?」

 彼女はその場に座ったまま、もっとよく声が聞こえるようにと前のめりになった。腕を組み、うんうん悩んでいる学園長が何を言おうとしているのか彼女には分からなかったが、雑渡はすべて気付いている様子で学園長を一瞥する。

「学園の備品でもある苦無を勝手に持ち出し紛失。そして忍びたちと戦った際、壁に傷までついてしまった……」

 前のめりになっていた彼女は、今度は反対に身体をわずかに後ろへと反らした。意識を取り戻したとき、乱太郎に言われた言葉が蘇る。
 しかし、壁に傷などついただろうか? と、彼女が記憶を掘り起こそうとしている最中、学園長はさらに大きな唸り声を上げた。

「ただでさえ予算も厳しいなか、これはなかなかの痛手じゃのう」
「べ、弁償はします」

 慌てて口を挟むと、下を向いて考え込んでいた学園長は大きな目をぎょろりと彼女へ向けた。

「なるほど。忍術学園で働きながら、その給料で弁償すると?」
「えっ」

 これには思わず目を丸くした。忍術学園で働きながら、その給料で弁償する。その言葉を理解するのに、少しだけ時間がかかってしまった。
 里についての説明を終えたのにこの場に残っている雑渡だけでなく、学園長・大川平次渦正も、彼女にとっては考えの読めない男の一人だ。しかし、恐らくだが、彼の発言は行く先の定まっていない自分への恩情なのだろう。
 さすがにこれ以上甘えるわけにはいかないと、彼女が頭を振ったそのときだった。

「学園長殿」

 それまで黙って話に耳を傾けていた雑渡の声が響き、二人の視線が彼に集中する。

殿ですが、タソガレドキ領へお連れしようと考えております」

 さらりとそう言った雑渡に、彼女がぽかんとした表情を浮かべたその瞬間。

「ええ~~~~っ!?」

 庵の天井や障子、ありとあらゆる場所が勢いよく開き、分かりやすい盗み聞きをしていた生徒たちが大声を上げながら慌ただしく姿を現した。さすがに上級生は見当たらないが、四年生以下、特に一年は組は全員が揃っている。
 学園長も雑渡も、そして彼女も。皆、彼らの存在に気付いていながら何も言わずにいたわけだが、そんな大人たちの気遣いなど子どもたちが知るはずもなく。彼らはどたどたと部屋になだれ込んで来て、彼女や雑渡に詰め寄った。

さん、やっぱり雑渡さんのところにお嫁にいっちゃうんですか!?」
「土井先生と結婚してもらおうと思っていたのに!」
「よ、よ、嫁!?」

 子どもたちの言葉に、そう叫ぶ彼女の声が裏返る。彼らの純粋な眼差しに見つめられ、彼女は慌てて雑渡のそばに寄った。

「雑渡殿、一体何を考えて……!」
「姉君の文を渡すために城代と繋ぐって話したよね、私」

 雑渡の冷静な言葉に、彼女は「あ」と短く呟いた。
 そういう意味で言ったのか——と、彼女の頭の中は静かに冷えていく。
 いやしかし、それなら『タソガレドキ領』ではなく、『タソガレドキ城』と言ってくれればよいものを。そんな不満を必死に呑み込む彼女の後ろで、子どもたちもどうやら嫁にいくわけではないらしいと理解したのか、安堵のため息を吐き出す。

「ほれほれ、もうすぐヘムヘムの撞く鐘が鳴るぞ! お前たちは教室に戻りなさい!」

 学園長がしっし、と追い払うように手を動かしながら一喝すると、生徒たちは「なあんだ」「びっくりした」と口にしながら、素直にぞろぞろと部屋を後にした。
 騒がしい声が遠ざかっていき、賑やかだった部屋は再び静けさを取り戻す。火鉢の炭がぱちり、ぱちりと爆ぜる。
 一瞬だったとはいえ、子どもたちと同じ勘違いをしてしまった。そんな自分を恥じるあまり、俯いたままでいる彼女の顔を雑渡が覗き込んだ。温かな、そして愉快そうな隻眼と視線がぶつかり、彼女の心も火鉢の小さな火のようにぱちりと弾ける。

「どうしたの、顔が赤いようだけど」
「き、気のせいです! もう、雑渡殿は言い方がいちいち紛らわしいんですよ!」
「そう? まあ、そんなに怒らないでよ」
「別に怒って……って、体重かけてこないでください! 重い!」

 ぐいぐいと押し潰すように寄りかかってくる雑渡を押し返しながら叫ぶ彼女と、明らかに彼女の反応を楽しんでいる雑渡。仲睦まじく、じゃれ合っているように見える二人を前に、学園長は一瞬だけきょとんとして、すぐに大きな声で笑い始めた。
 雑渡に文句を言い続ける彼女を眺めながら、彼の頭にはまったく同じこの場所で、緊張から強張った表情を浮かべていた忍術学園初日の彼女の姿が浮かんでいた。

「若いのう」

 学園長はぽつりと、二人に聞こえないように小さく呟いた。そう呟かずにはいられなかった。
 その後、いくら忍術学園で働くとはいえ、まだ身体も本調子ではないのだから休みも必要だろう、と述べた学園長は、彼女が姉の文をタソガレドキへ届けることを了承し、その場はお開きとなったのである。
 部屋を出て庵を離れた彼女は、ふと立ち止まった。いつの間にか、学園で働くことが決定事項になっていないだろうか。いや、そのこと自体には何も文句はないのだが。
 目頭を押さえて悩む彼女に、一緒に部屋を後にした雑渡が声をかける。

「では、私はそろそろ行くよ」
「……門までお送りします」

 そう言って並んで歩き始めた彼女の肩を、雑渡が笑って小突く。その仕返しに彼女は全身で雑渡の身体を押そうとしたものの、ひょいと身軽に避けられてその場でよろめいた。
 すぐに雑渡が彼女の二の腕を掴み、転ばないよう身体を支える。

「早く調子が戻るといいね」

 耳元でそう囁かれ、彼女はまたもや顔を赤くして雑渡を睨み返した。そんな彼女の様子に雑渡は満足したように口元を緩め、くるりと背を向けて歩き出した。


---


「出門票にサイン、ありがとうございました~! お気をつけてお帰りください~」

 出門票を受け取った小松田が、満足げに事務室へと戻っていく。その背中を見送る彼女の横顔を、しんとした冬の冷たい風が優しく撫でていった。
 黙っている時間が長ければ長いほど、沈黙を破るのが難しくなる。ここに来るまで終始無言で歩いてきた二人の間に何とも言えない空気が流れ、彼女は雑渡が口を開くのを待った。

殿」

 門の前で振り向いた雑渡に名を呼ばれ、彼女は少し緊張した表情で彼を見上げる。

「こちらの用意ができ次第、迎えを寄越すようにしよう。また連絡する」
「はい」
「城代も、ずっと君に会いたがっているよ」

 彼女は曖昧に笑って頷いてみせた。
 城代に会いたいのは彼女も同じ気持ちだった。姉のために文を早く渡したいのはもちろん、あの姉が想いを寄せた男がどんな人間が見てみたい、という興味もあった。
 ただ、城代と会って文を渡してしまえば、それで彼女の果たすべき役目は終わる。それはつまり、雑渡が今までのように彼女に構う必要もなくなるということだ。たとえ学園で働くことになったとしても、今までのように深く関わることはないだろう。
 もともと、自分の素性を知っていたからこそ、彼は自分に近づいたのだから。

「言い忘れていたが」

 いつの間にか俯いていた彼女は、雑渡の言葉に再度顔を上げた。

「君の姉君は、きちんとタソガレドキで埋葬したよ。城代の命でね」

 だから墓参りもしていくといい、と、驚いて口を中途半端に開けている彼女に雑渡は優しく言った。
 まるで何もかも洗い流したかのような、澄み切った白に近い青空が雑渡の背後に広がっている。
 あの山で、その身は寂しく朽ち果てていくものと思っていた。だが、姉は今、最後に愛した人のそばで安らかに眠れている。
 矢に射抜かれて気を失っていた間、夢に現れた姉の穏やかな微笑みを思い出す。
 彼女は雑渡の目を見て笑った。あのときの姉と同じように。

「ありがとうございます」

 ひゅう、と一際強い風が吹いて、束ねていない髪が目の前に散らばった彼女は、その髪を指で掬って耳にかけた。すると、目の前に立っている雑渡は何やら片手で口元を押さえ、顔を背けている。
 意図を測りかねるその反応に、彼女は一瞬戸惑ったあと、雑渡の顔を覗き込もうと身を屈めた。だが雑渡は、それを避けるように体を逸らす。攻防がしばらく続き、彼女が一体どうしたのか尋ねようとしたそのとき、突如雑渡の目が光り、伸びてきた大きな手が彼女の両頬をむぎゅっと押し潰した。

「んなっ」

 突然のことに硬直した彼女だったが、すぐに雑渡の逞しい腕を掴む。しかし彼は手を離すどころか、ゆっくりと時間をかけて彼女に顔を寄せた。
 気のせいだろうか。雑渡の目尻が少しだけ赤く見える。指で頬を潰されながら、彼女は雑渡が口布の下でにやりと微笑むのを見た。

「誤解されるのは本意ではないから二つほど言わせてもらう。まず一つ」

 雑渡の手が頬から離れていく。しかし、雑渡は大きな背中を曲げて顔を寄せたまま、離れようとしない。彼女は熱を持った両頬を押さえながら、雑渡を見つめ返した。

「君に最初に近づいたのは、城代の件があったからだ。だが、それは最初だけ」
「え……」
「二つ」

 まっすぐな眼差しから目を離すことができない。
 どうやら自分はおかしくなってしまったようだ。この人の腕の中で最期を迎えられるなら思い残すことはない。たしかにそう思ったはずなのに、今では彼が自分から離れていくことを惜しく感じていた。離れていかないで。そう思っている。
 言葉に表すなら、『一度死んでまた生まれ直した』ような気がした。どうして自分は、こんなにも欲深い人間になってしまったのだろう。
 頬に当てている彼女の手に、雑渡はそっと自身の手を重ねた。

「この先、私は君を手放す気なんて、さらさらない」

 はっきりとそう言うと、雑渡は指で彼女の唇をすり、と撫でた。どちらも乾燥しているせいで、彼の指先がわずかに引っかかって唇に触れたまま止まる。そのせいで、彼女は息をすることも声を出すことも忘れ、ただ目を見開いたまま固まっていた。

「……雑渡殿」

 どれくらい時間が流れたか、分からなくなり始めた頃。彼女は蚊の鳴くような声で、すぐ目の前にいる雑渡を呼んだ。ふ、と彼の目が細められる。唇に触れていた雑渡の指が、滑り降りて彼女の顎を持ち上げる。いつかの夜、口づけを交わした日の雑渡の猛々しさが思い出され、彼女がぎゅっと目を閉じたそのときだった。
 風に混じり、ひゅ、ひゅ、と空気を切る音が耳を掠める。一瞬空耳かと思ったが、やがて何かの規則性を帯びたそれが矢羽音であることに気付き、目を開けた彼女は眉を顰めた。なんだか少し焦っているようにも聞こえるその小さな音に、穏やかだった雑渡の表情が徐々に曇っていく。
 やがて彼は項垂れると、深くため息を吐いて呟いた。

「先に帰っていいって言ったのに……」
「あの、雑渡殿……」
「今、私が言った二つの意味を次に会うときまでによく考えておいて」

 雑渡は小さい子どもに言い聞かせるようにそう言うと、彼女の頭をぽんぽん、と二回優しく叩いた。

「じゃあ、また。あまり他の男の前で可愛い顔しないように」

 そう言って背を向けた雑渡は、少し歩いて上空へと飛び、そのまま姿を消した。
 雑渡の気配がなくなり、門前には冷たい冬の風だけが静かに吹いている。矢羽音ももう聞こえない。
 全身に吹きつける風は冷たい。吐く息も白く、指先もすぐに冷えていく。それなのに、先ほど雑渡に触れられた頬や唇だけは、いつまでも妙に熱く感じられた。
 雑渡の言葉、二つの意味——。自分の足りない頭では、一つの答えしか導き出せない。
 やがて、「あれえ?」という呑気な声が聞こえた。一度事務室に戻った小松田が掃除をするために竹箒を持って現れ、まだ門の前にいる彼女を見つけて不思議そうに首を傾げる。

さん、こんなところにずっといたらお身体に触ります……」

 そう言いながら彼女の顔を覗き込んだ小松田が、口を「よ」の形にしたまま目を見開いた。
 そしてすぐに箒をその場に放り投げると、慌てふためいて両手を上げながら長屋の方へ駆けていく。

「だ、誰かぁ保健委員の人~! さんが風邪引いちゃったみたいです~!」

 小松田の叫び声が遠ざかっていくのを聞きながらも、彼女はしばらくの間、その場から動くことができなかった。


(20260904)