選択
里で暮らすようになる以前のことは、ほとんど覚えていない。父と母がいたことは覚えているが、二人の顔はもうぼんやりとしか思い出せず、どんな暮らしをしていたのかも曖昧だ。ただ、四人で暮らしていた頃の姉だけは、よく笑う人だったという記憶が残っている。
戦災孤児として里長に拾われ、里で暮らすようになってから姉は変わった。笑うことは滅多になくなり、私のことを名前ではなく『お前』と呼ぶようになった。慣れない暮らしに涙を見せたり、少しでも粗相をすれば、容赦なくパチンと頬を叩かれた。それでも泣き止まなければ、げんこつが飛んでくることもあった。
しかし、ただ単純に厳しくなったわけではない。訓練の出来が悪く、罰として食事を抜かれ納屋に閉じ込められたときも、姉は夜更けにこっそりと現れて自身の夕飯を分けてくれた。罰が終わり戻ることを許されたとき、姉の頬が赤く腫れ上がっていたので、きっと見つかって里長に折檻されたのだろう。それに、私が怪我をしたり熱を出したときは夜通し付き添ってくれた。
厳しさの裏にある優しさだけは、けっして失われることはなかった。姉が厳しくなったのは、私を一人前の忍びとして育て上げ、死なせないようにするためだったのだと思う。
姉は、蒼穹に浮かぶ白く溶けるような月が好きな人で、昼の空いた時間には、よく木の上に座り空を見上げていた。そのどこか凪いだ横顔は、今でも鮮明に覚えている。
美しく、忍びとしての才覚にも恵まれていた姉。自分にとって大切なのは、姉ただ一人。姉以外の人間などどうでも良い。そう思っていた。ましてや、大の苦手である子どものことなど、どうでも――。
「(姉上、あなただったのですね)」
木々の間を縫うように駆けていく。肌を刺す冷気などとっくに感じなくなっていた。走り続けた身体は熱を帯び、額からは汗が滴り落ちる。休むことなく走りながら、彼女は思わず笑みを零した。
先程初めて読んだ姉の文。そして、そこに記されていた宛名。
姉が最期に彼女へ託したのは、タソガレドキ城・城代へ宛てた文だった。
以前、雑渡たちタソガレドキの忍びが揃って忍術学園の医務室に現れたとき、彼らは話していた。タソガレドキ城・城代の危機を救った素性の知れぬ女子がいた、と。
あれは、姉だったのだ。
文の内容は姉の言葉通り、何の変哲もないただの恋文だった。だが末尾には一文だけ、こう添えられていたのである。
『この文は、私に代わり妹がお届けします。もし妹が難儀していたら、どうかお力添えくださいませ』
姉は、自分で文を届けられないこと、そして妹である私が最期に現れることを分かっていたのだ。
必ず来ると、信じていたのだ。
がさり、と葉が揺れた。一呼吸遅れて、咄嗟に木の上へ身を移す。息を止めて様子を窺えば、彼女の真下にある茂みから野兎が一羽飛び出した。野兎はふんふんと鼻を鳴らしたあと、枯れ草を蹴散らして別の茂みの中へと消えていく。
再び静寂が訪れて、ふう、と彼女は小さく息を吐いた。
正直、この三月の間で身体が少し鈍ったように思う。先程の三人の忍び相手にはうまくいったが、里からの追っ手が複数来たら逃げきれる自信はない。
これは時間との勝負だ。追っ手に行く手を阻まれる前に、何としてもこの文だけは届けなければならない。
「(そのあとは、どうなったっていい――)」
覚悟を胸に、彼女は静かに地面へ降り立つと一歩踏み出した。
『君が困っていたら、そのときは私が助けよう』
いつか言われた雑渡の言葉が頭を過った、そのときだった。
不意に、右側の空気が揺れる。気配も何もなく、弾かれた矢のような勢いで迫る『何か』に、考えるより先に身体が勝手に反応した。
身を捻ると同時に、右手が帯に挟んでいた苦無を抜く。次の瞬間、耳元で金属音が激しく響き、彼女の身体は凄まじい衝撃でなすすべもなく横へと吹き飛ばされた。足が地を離れ、激しく揺れる視界の中、己の腕と衝撃を受け止めた苦無の向こうに人影が映る。
その人物の姿に、彼女は思わず呼吸を忘れた。
あまりにも強い力に、着地した彼女は勢いを殺しきれず地面を大きく滑る。やがて勢いが止まったとき、鋭くこちらを見据える片目と視線がぶつかった。
「雑渡殿……」
「随分と目に毒な格好をしているが……一人でお散歩かい?」
雑渡は一度だけ彼女の素足へ視線を落とすと、いつもの茶化すような口調でそう言って、軽く首を傾げた。その平然とした様子とは裏腹に、彼の持つ棒手裏剣が彼女の苦無を押し込む力は、少しも緩むことはない。
こんな細い武器一本で人間を一人易々と吹き飛ばすなど、やはり尋常じゃない。びりびりと腕が痺れるのを感じながら、彼女の口元に苦笑が浮かぶ。そのとき、頭上で枝の軋む音がした。
視線だけを上げて見れば、そこには山本や高坂、諸泉の姿がある。静かに彼女と雑渡を見下ろす彼らの目は、何もかも知り尽くしている眼差しだった。
ふっと雑渡の力が緩むのを感じ、彼女もそれに合わせて苦無を下ろす。すべて無駄だと分かった上で、彼女は平然を装った。
「皆さんこちらにいらっしゃるということは、忍術学園に御用があったのでは?」
「さっき行ってきたよ。あと一日……君も望んでやったわけではないと思うが、随分と大事になってしまったようだね」
雑渡の返事に、彼女は眉を顰める。彼は口元に手を添え、そのまま話を続けた。
「だが、三月も忍術学園で過ごしていて手練れを三人も仕留められるなら、さすがと言うべきかな」
「最初から……私の素性にお気付きだったのですか?」
淀みなく言葉を連ねる雑渡に、彼女はそう尋ねずにはいられなかった。
雑渡は「まあね」と肩をすくめる。
「学園長殿の恋人など、嘘が下手にも程がある」
「では、私の里のことも?」
「おおよそは。しかし本当の『最終の試し』が一体何なのかは、先刻うちの城代を狙った忍びがすべて吐いて知ったよ」
「雑渡殿は、」
姉のこともすべて知っているのか。そう聞こうとして、彼女は押し黙った。
今、目の前にいる雑渡から滲み出る異様な気には、記憶の底を掠めるものがあった。
あのときと同じだ。姉が死んだ夜に肌を突き刺した、あの殺気と。あの夜、城代を守って逃げた姉を追っていたのは、雑渡だったのだ。
そして、私の素性に気付いていたから。私が、城代を救った女の妹だから。だから雑渡は、周りが違和感を抱くほど私に優しく接していたのだろう。そうでなければ、タソガレドキの忍び組頭がただの女一人を気に掛ける理由はない。医務室でわざわざ姉の話を聞かせたのも、こちらの反応を確かめるためだろう。
すべてが繋がり腑に落ちたと同時に、張り詰めていた空気の中に小さな綻びが生まれる。そのわずかな変化を感じ取ったのは、雑渡の方が少し早かった。
一、二、三……。こちらへ迫る追っ手の数を頭の中で数えながら、彼女もまた、いよいよ時間がないことを悟る。
ここで雑渡らと会えたことは幸運以外の何物でもない。彼女は一歩前へ踏み出し、雑渡との距離を詰める。そして彼を見上げ、早口で囁いた。
「約束を覚えていらっしゃいますか。私が困っていたら、頼みを一つ聞いてくださると」
雑渡は一瞬だけ目を細めると、口元にかすかな笑みを浮かべた。
「もちろん」
「では――」
彼女は胸元から文を取り出した。何度も握り締めたせいで皺だらけになったその文へ、雑渡は静かに視線を落とす。その表情から先程の笑みは消えていた。
「この文を受け取ってください」
「えっ!?」
そう声を上げたのは、それまで静かに様子を見守っていた諸泉だ。彼の反応に彼女はわずかに怪訝そうに眉を寄せ、すぐにはっと息を呑む。
最初に姉から文を託されたとき、真っ先に密書かと疑った。それはきっと彼らも同じで、その可能性を今の今まで捨て切れずにいたのだろう。自分がタソガレドキにとって害となる人物になり得るかもしれなかったのだから。
城代から自分を気に掛けるよう命じられているだけかと思ったが、理由はそれだけではなかったのだ。
胸の内にじわりと広がった寂しさ、そして落胆に、彼女は一度だけぎゅっと目を閉じて、その感情を押し殺すように文を雑渡の前へ差し出した。
「姉上――城代様を守って死んだ女が書いたものです」
「城代に宛てたものか」
大して驚く様子もなく、雑渡は呟く。またもや諸泉が驚いたように何かを口にするが、彼女はそれを聞き流し、そこまで察しているなら話は早いとすぐに頷いた。
「ええ、中はただの恋文です。改めていただいて結構ですし、私が他に文を持っていないか心配なら、ここで服を剥いで確認してもらっても構いません。それでも、何か姉から情報を受け取っているのではと疑われるなら、」
彼女は雑渡の背後へ視線を移した。遥か先、枝葉の間で揺れる複数の小さな影。迫る追っ手の姿を確認すると、彼女はもう一度雑渡へ視線を戻した。
三月の間に、いつしか彼を信頼し、想いを寄せるようになっていた。たとえ雑渡が見せてくれた表情や、紡いでくれた言葉のどこにも、彼の本心がなかったとしても。
雑渡の何かを求めるような視線から逃げるように、彼女は目を伏せた。
「……このあと私が里の者に殺されるのを、隠れて見ていればいい」
そう言って、彼女は雑渡の胸に文を押し付けた。
「とにかく、貴方を信用して託します。この文を、必ず城代様の手にお渡しください。これが――私の頼みです」
木立の向こうが一瞬だけ鈍く光る。直後、ひゅっと風を切る音がした。一直線に飛来する手裏剣に応じようと彼女は咄嗟に苦無を構えたが、それよりも早く雑渡の棒手裏剣がそれを弾き落とす。
キン、と甲高い音が辺りに響く。こちらを見下ろしたまま、振り返ることなく背後からの攻撃を防いだ雑渡に、彼女は息を呑んで目を見開いた。
雑渡は呆れたようにため息を吐いた。珍しく苛立ちを滲ませた様子の彼だったが、彼女の手から文を受け取り、自身の懐へしまう。安堵した表情を見せた彼女に、雑渡は身を屈めると、低い声で言った。
「殿は不器用すぎる」
なぜ今、そのようなことを? と、その真意を聞き返す暇はなかった。遠くに見えていた人影が、瞬く間に近付いてくる。やがて木々の上に、見慣れた顔が揃った。
ついに追いつかれた——。
自分と雑渡をぐるりと囲み見下ろす忍びたちを前に、彼女の額に汗が滲む。同じ里で育ち、最終の試しを受ける前の彼らは彼女の姿を認めると同時に、そこにいるタソガレドキの忍びたちへ警戒を強める。
「……早く行ってください。彼らの狙いは私だけですので、皆さんを追うことはないはずです」
焦ることなく、現れた忍びたちを見ても泰然としている雑渡に、彼女は声を潜めてそう告げる。
子どもたちを守ったときもそうだったが、今になって姉の気持ちがよく分かるようになっていた。
誰かを愛すると、一つの願いが生まれる。その人に末永く生きていてほしい、という願いが。
しかし、まるでその願いを拒むかのように雑渡はその場から動こうとしない。そんな彼に苛立ちを募らせた彼女が「雑渡殿」と急かすように名を呼んだときだった。彼は再び彼女を見下ろし、わずかに口角を上げる。
「果たして、本当にそうかな?」
その問いに、彼女は面食らったように目を瞬かせ、思わずたじろいだ。
本当に——も何も、里の忍びたちはあくまで『最終の試し』に失敗した自分を追って、ここまでやって来たのだ。わざわざタソガレドキの忍びたちの命まで狙う理由など、どこにもないはずだ。
「数が多いと思わないか」
「……え?」
「殿一人を追って来たにしては数が多すぎる。君は姉君を追うとき、何人で向かった?」
雑渡からの質問に気を取られていた彼女の頭上から、突如金属がぶつかり合う音が響く。驚いた彼女が顔を上げると、里の忍びたちと山本、高坂、諸泉が入り乱れ、激しい攻防を繰り広げていた。
突然の出来事に戸惑う彼女をよそに、雑渡はどこ吹く風とばかりに会話を続ける。
「恐らく、我々が捕らえていた忍びが情報を吐いたことがそちらの里長の耳にも入ったのだろう。城代を狙った件に一枚噛んでいることが知られれば、自分たちもただでは済まない——そう考えた里長が、殿だけでなく私たちも始末するよう命じた、といったところかな」
「そんなこと、」
「有り得ない?」
雑渡はそう言うと、自らの間合いへ踏み込んできた忍びの攻撃を鮮やかにいなし、体勢を崩した相手の足を払って地面に叩き伏せた。同時に彼女も、迫ってきた別の忍びの勢いを利用して、腕を掴み地面へねじ伏せる。身を起こそうとした男の首へ腕を滑り込ませ、一気に締め落とした。
有り得なくは、ない。
普通に考えれば、一流とも言われるタソガレドキの忍びたちを里の忍びが狙うはずはない。
だが、あの里長なら話は別だ。口封じのためなら、どんな手を使ってでも真相に辿り着いた者たちを消そうとするだろう。
これは想定外だった。雑渡がやられるとは思えないが、それでも万が一のことが起きて、文を城代へ届けられなくなっては意味がない。とはいえ、今更頼みを変えて、雑渡たちが戦っている間に自分が文を届けるというのも——。
彼女は逡巡しながらも、空から足元へ落ちてきた短槍を地面から引き抜くと、雑渡の背後へ忍び寄る忍びの胸めがけ一直線に投げ放った。短槍は風を裂き、寸分違わず男の胸元へ突き刺さる。
残る忍びの数を素早く数えながら、彼女は雑渡を庇うように一歩前へ出た。
「私が時間を稼ぎますので、皆さんはお早く」
しかし雑渡は相変わらずこの場を離れる気はないようで、彼女の隣に並ぶと、迫る忍びたちから目を逸らすことなく口を開く。
「共闘するという手もあると思うが?」
「どうせ私はここで死なねばなりません。ですからどうか、文を——」
そこまで話したとき、一際大きな呻き声が聞こえてすぐ、山本の叫ぶ声が響き渡った。
「尊奈門!」
ばっ、と彼女と雑渡が同時に顔を上げた。
遠くから飛来した矢を刀で受け止めた諸泉が衝撃で体勢を崩し、木の上から落下する。雑渡は即座に落下地点へと駆け出した。
その刹那、矢が放たれた方角で何かがきらりと光る。
そこから先は、景色がゆっくりと流れていくように見えた。
雑渡が落ちてきた諸泉を受け止める。直後、二人を狙って放たれた矢が一直線に迫る。彼女も咄嗟に駆け出し、その矢を苦無で防ごうと腕を振ったが、間に合わなかった。
まるで、首筋に冷たい火の筋が走ったようだった。矢は苦無を弾き飛ばし、彼女の首元を掠め、そのまま背後の木へ深々と突き刺さる。
しまった——。
負傷した首が、次第にじくじくと熱を帯び始める。それを実感した途端、身体からすっと力が抜けた。膝が折れ、ふにゃりとその場に座り込んだ彼女を見て、雑渡は目を見開く。
気付けば、里の忍びたちはもう誰一人残っていなかった。矢が飛んでこないあたり、射手もすでに仕留められたのだろう。
首元の傷を手で押さえる。量は多くないものの、指の隙間から真っ赤な血が溢れ出してくる。
致命傷でなくても、忍びの放つ攻撃は掠めるだけで命取りになりかねない。その証拠に、彼女は手足の先から徐々に痺れが広がっていくのを感じていた。
こちらへ駆け寄る諸泉が「馬鹿!」と声を張り上げる。そんな彼の瞳には、隠そうとしても隠しきれない心配の色が浮かんでいた。
「はは……」
疲れ切った彼女の口から、乾いた笑いが漏れる。
次の瞬間、大きな手が伸びてきて、ぐいと乱暴に胸ぐらを掴まれた。無理矢理立たされた彼女は、朦朧とする意識の中で、口布を下ろした雑渡の顔が迫るのを見る。その表情に、いつもの余裕はなかった。
そしてすぐ、傷口にじくりと痛みが走る。
「組頭!」
山本と高坂の焦る声が聞こえて、雑渡が傷口から毒を吸い出そうとしていることに気付いた彼女は、小さく笑った。
意味のないことは、決してしない人だと思っていたのに。
せめて、地面に血を吐き出した雑渡の口を拭おうと、彼女は何とか震える腕を持ち上げた。だが、先程自ら袖を切り落としてしまったことを思い出し、「すみません」と力なく呟く。
「最期に、貴方の顔、ちゃんと見ることが出来て良かったです……この間は、あまりよく、見えなかったから……」
「無理に口を開くな」
強い口調でそう言い放つ雑渡の顔に残る火傷の痕。ぼんやりとした意識の中、不意に土井から聞いた話が蘇る。雑渡が以前、火災に巻き込まれた部下を助けるために自ら火の中へ飛び込んだ、という話だ。
あのときは信じられなかった。誰かを守って己が手傷を負うのは間違っている、と。忍びならば、自分の身は自分で守るのが当たり前。たとえ部下であろうと見捨てるのが正しい選択であり、それはまた逆も然りである、と。ずっとそう思っていた。
しかし、どうだろう。
子どもたちを里の忍びたちから守ろうとした。雑渡や諸泉を飛来する矢から庇おうとし、そして今、彼らに助けられようとしている。
いつの間にか、自分も姉と、そして雑渡と同じ選択をしていたのだ。
「まさか……誰かを守って死ぬだなんて……」
あまりの自分の変わりように、思わずそう言わずにはいられなかった。雑渡は彼女をそっと地面に座らせると、片腕を彼女の膝下に、もう一方を背中に回して軽々と抱き上げる。まるで壊れ物でも扱うかのように、その手つきは優しかった。
「後悔してる?」
その問いの意味が、一瞬分からなかった。それほどまでに、彼女は自分の選択に満足していたのだ。
視界がゆっくりと闇へ沈んでいく。痺れも痛みもいつの間にか感じなくなっていた。
世界から音が遠のいていく中で、姉が死ぬ直前に自分に向けて遺した言葉が蘇る。
——後悔だけはするな。
「……いいえ」
里を出てからの三月の間、いろいろなことがあった。
最初は戸惑うことの方が多かった。だが、子どもたちに振り回される日々を送るうちに、知らなかった感情を知った。振り返ってみれば、胸の奥にじわりと温かいものが広がっていく。
自ら役目を果たすことは叶わなかったが、きっと姉の文は城代の手にわたるだろう。そして——この人の腕の中で最期を迎えられるのなら、もう思い残すことはない。
優しさも情も。足枷ではなく、いつしか生きる支えになっていた。
その答えに辿り着いた彼女は、小さく微笑む。そして、静かに目を閉じた。
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「ここからなら、タソガレドキより忍術学園の方へ行かれた方がよろしいかと」
山本はそう告げると、雑渡の腕の中にいる彼女へ視線を落とした。
彼女が姉から受け取っていた文が、密書ではなく我がタソガレドキの城代宛てであったこと。しかも、その事実を雑渡が最初から知っていたかのような口ぶりだったこと。問い質したいことは山ほどあったが、今は一刻を争うときである。
彼女はまだ息をしていた。だが、高坂が彼女の首に巻いた手布は瞬く間に血を吸い、黒い染みとなって広がっていく。
一同は、木々の間を影のように駆け抜け、次第に近づいてくる姿を確認した。押都である。
「射手二人、まだ生かしてはいますが——」
そこまで言って、押都の言葉が止まる。彼は、雑渡の腕の中でかろうじて命を繋いでいる彼女を見たあと、そっと彼女を見下ろす雑渡へ目をやった。
伏せられた瞳が何を映しているのかは分からない。しかし、彼が異様なほど冷静を保っているのは、感情を失っているからではなく、あまりにも深く押し込めているからではないだろうか。
押都はそう推察しながら、彼女を見下ろしたままの雑渡へ再び声をかける。
「他にも何名かいるようです。そろそろこちらに来る頃かと」
「よくもまあ、次から次へと」
雑渡は面倒そうに空を見上げ、深いため息を吐いた。そして頭の中で瞬時に情報を整理すると、顔を正面に戻し、自分を囲む部下たちへ淡々と指示を出す。
「射手二人はどういう状態?」
「どちらも眠らせ、今は反屋たちに見張らせています」
「自害しないよう注意して。まあ、証人は二人いれば十分か……」
そう呟いてから、雑渡はわずかに周囲を見渡す。
「というわけで、あと任せていい?」
少し小首を傾げてそう尋ねる雑渡に、押都は雑面の下でわずかに笑みを浮かべた。
雑渡が彼女を連れてこの場を離れるということは、まだ雑渡の中で彼女が助かる可能性が残されているということだ。そして、証人は二人いれば十分——それはつまり、残りは生かしておく必要がないということだろう。
押都の隣で、山本がやれやれと呆れたように息を吐く。そんな彼も、このような状況で不謹慎だと分かってはいるのだろうが、瞳だけがわずかに和らいでいる。
やがて木々の向こうから忍び寄る気配を感じた一同は、静かにその方角へ顔を向けた。そして山本は、雑渡とその腕に抱かれた彼女を一瞥し、ふっと意味ありげに笑みを深める。
「次、もし『特別な感情などない』などと言ったら承知しませんからね」
高坂は一歩前へ出ると、迷いなく苦無を構えた。その横で諸泉も表情を引き締めると、雑渡へ視線を送る。
「組頭は、お早く」
諸泉のその言葉を合図に、張り詰めていた時間が再び動き出した。
(20260802)