試しの果て


 ちかちかと、萌黄色の光の粒が視界のあちこちで踊る。
 ほんの一瞬、蛍の光に見えたそれらは瞬きをするとすぐに消えて、次に彼女の視界を埋め尽くしたのは、柘榴を思わせる鮮烈な赤色だった。その色の移ろいはあまりにも唐突で、夢か現実か区別がつかないほどだった。
 吸い込む空気は冷たいのに、身体の内側だけは焼けつくように熱い。固く握り締めた右手の苦無は、彼女が馬乗りになっている男の頸側に深々と突き刺さっている。肉や血管が潰れ、ごぽ、と生温かい血が溢れ出すのを見て、彼女はようやく先程から聞こえていた獣のような息遣いが自分自身のものであることに気が付いた。学園へ侵入した残り二人の忍びは、すでに彼女の手によって息絶えている。
 苦しげに血を吐く音が聞こえ、彼女は虚ろな目で自らの真下にいる男へ視線を戻す。震える左手で口布を剥ぎ取れば、現れた顔はやはりうどん屋で再会した男である。
 もはや指先を動かすことも話すこともできない男は、こんな状況にも関わらず、薄く笑みを浮かべた。そして、わずかに唇だけを動かす。
 やはり、女は情に流されやすいから、だめだ。
 声はない。だが、男は確かにそう言った。
 時が止まる。彼女はゆっくりと顔を上げ、振り返った。

「……さん、ど、どうして」

 真後ろにいたのは、腰を抜かし、その場に尻もちをついているきり丸だった。その傍らでは、他の一年生と小松田が呆然と立ち尽くし、誰一人として動けずにいる。
 全員無事だ——そう確認した瞬間、胸を満たした安堵はすぐに絶望へと変わる。
 ああ、間違えた。
 まだどこか霞のかかった思考のまま、彼女はぼんやりとそう思った。忍びであることを悟られないためには、動くべきではなかった、と。
 しかしすぐに、いや違う、と己の考えを否定する。だって、もし動かなければ。あの一瞬で判断を誤らなければ、今頃この子たちは——。
 子どもたちの瞳には戸惑いと、隠しようのない恐怖が滲んでいた。そのどちらも、自分へ向けられたものだ。
 女は情に流されやすいから、だめだ。
 そうか。あれは侮蔑ではなく、最初からこの瞬間を見越して口にした言葉だったのだ。彼女はそこで初めて、男の言葉の意味、そして本当の『最終の試し』が何なのか、すべてを理解したのである。
 次の瞬間、ぶわりと一気に全身から汗が吹き出した。ただ忍びであることを隠して暮らすだけ、など。あの厳しい里の最終試験が、そんな生易しいものであるはずがなかったのだ。こちらが異変に気付く程度に姿を見せながら、決断する猶予までは与えなかったことも、すべて計算だったのだろう。
 忍びであることを隠し、子どもたちを見殺しにするか。すべてを失う覚悟で、子どもたちを救うか。
 一瞬で、そのどちらを選択するか、それこそが本当の『最終の試し』だったのだ。

「これは……一体どういうことですか」

 きり丸たちに何と言葉をかけるべきか、どうすれば誤魔化せるか、必死に思考を巡らせていた彼女は、その声に弾かれたように振り返った。
 正門をくぐってすぐの場所でこちらを見ていたのは、五・六年生の面々だった。どうやら合同実習から戻ってきたらしい。
 最初に声をかけた立花は、呆然としたまま何も答えない彼女を見据えたまま眉を顰め、学園の塀の上に曲者の姿が見えたため急いで戻って来たことを告げる。
 その話の途中、地面に倒れている忍びたちを見て、真っ先に駆け寄ろうとした伊作の腕を即座に食満が掴んだ。

「伊作、駄目だ! もう死んでる!」
「で、でも……」
「留三郎の言う通りだ。近付くな、伊作」

 落ち着いた様子でそう低く呟いた七松に、伊作はぐっと唇を噛み、無念そうに足を止めた。
 普段、塹壕掘りでしか使っているところを見たことがなかった苦無を胸元から取り出した七松。そして、彼らの明らかに今までとは違う敵意を含んだ眼差しに、彼女は足元からずぶずぶと沼に沈んでいくような感覚に襲われた。
 忍術学園で暮らし始めて、雑渡と出会った頃に幾度となく見ていた夢と似ている。忍びであることが露見し、暗く深い底へと引きずり込まれていく、あの悪夢と。

さん」
 
 ぐにゃりと歪んでいく視界の中で、立花が彼女の名を呼ぶ。

「もしかして、貴方——」

 彼が最後まで言い切る直前、とん、と肩を叩かれた彼女は、咄嗟に持っていた苦無を男の首からずるりと引き抜いた。そしてその勢いのまま、背後へと身を翻す。鋭い切っ先が、背後に立っていた人物の喉元へぴたりと突きつけられる。
 彼女の肩を叩いたのは土井だった。
 騒ぎに気付き、駆けつけたのだろう。怯むことなくじっと黙って見下ろす彼の瞳には、返り血で顔を汚したちっぽけな自分の姿が映っている。
 その眼差しを見た瞬間、彼女は悟った。
 土井は〝今〟ではなく〝最初から〟自分の素性を知っていたのだ。
 彼女は苦無を向けたまま、奥歯を噛み締めて土井を睨み返した。一体何を言われるか、警戒する彼女を前に、土井は足元へ転がる男たちを一瞥する。
 驚きもしない。悲しみもしない。怒りもしない。土井はただ、一言だけを口にした。

さん、私に何かできることはありますか?」

 土井の静かな問いかけに、彼女は目を見開いた。そして、向けていた苦無をゆっくりと下ろす。
 深く息を吸い、吐き出した息は微かに震えていた。それでも土井の言葉のおかげで、ずっと崩れかけていた彼女の意識は、ようやく冷静さを取り戻していった。
 ふと、姉が死んだ夜のことを想う。いつだって時間は元に戻せない。起きてしまったことは、事実として受け入れるしかない。後戻りできない今、残された道はただ一つ。前へ進むことだけだ。
 子どもたちを狙った忍びたちは全員死んだ。だが、この状況をきっと里の誰かが見ているに違いない。
 これで『最終の試し』は終わったのだ。いずれ里の者たちが私を殺すために追ってやってくる。だから、いつまでもここにはいられない——。
 彼女は袖で顔の返り血を拭った。苦無をひと振りすると、刃についていた血が弧を描いて地面へ散る。
 そして、正面に立つ土井をまっすぐ見つめた。

「申し訳ありませんが、後処理をお願いできますか」
「分かりました」
「あと、学園長殿に『これまでお世話になりました』とお伝えください。本来なら自分でお伝えすべきことですが、時間がないので」
「はい」
「あと、子どもたちのことは……すみませんでした」

 元々、忍術学園で穏やかな日々を過ごしていた子どもたちだ。いずれ忍びになる身であっても、自分のせいで本来見る必要のなかったものを見せてしまった。危険に巻き込んでしまった。
 しん、と静まり返る中、彼女は深々と頭を下げる。土井はそんな彼女を見つめたまま、苦しそうに表情を歪め、静かに目を伏せた。

「いえ、むしろ子どもたちを助けていただきありがとうございます」
「……では、私は行くところがありますので……ありがとうございます、土井殿」

 いつものように『土井先生』と呼ばなかったのは、忍術学園と決別するためであり、彼女自身、少しでも学園へ来る前の忍びへと戻るためだった。身体も、思考も、感情も。そうしなければ、託されたことを果たすことはできない。
 それから先、彼女はもう誰とも目を合わせようとはしなかった。子どもたちへ事情を説明することも、別れを告げることもせず、自室のある長屋へと駆け出す。背後で誰かが自分の名を叫んだ気がしたが、彼女は何も聞こえない振りをして、ただ走り続けた。
 長屋に辿り着いた彼女は、草履も脱がずに部屋へと駆け上がった。そして長持の奥にしまい込んでいた懸守の中から、姉が書いた文を抜き取る。それを胸元に突っ込んだあと、つい持ってきてしまった苦無に視線を落とす。そしてほんの少しだけ迷い、それも帯へと差し込んだ。
 立ち上がる直前ふと、同じ長持にしまっていた品々に目が留まった。里から持ってきた荷物に混ざった、土井から贈られた簪、風邪を引いたときに子どもたちが見舞いにくれた似顔絵や文。それらに思わず伸びかけた手を、彼女は慌てて引っ込める。
 すぐに、先程の子どもたちの表情が脳裏に蘇った。まるで化け物でも見るような、あの怯えた目。それを思い出すだけで、胸の奥が軋んで再び呼吸が浅くなっていく。
 優しさも情も、最後には足枷にしかならない。そう分かっていたはずなのに。子どもたちを騙すことに、何の罪悪感もなかったはずなのに。
 落ち着け、と何度も心の中で繰り返し呟きながら、彼女は深く息を吸って吐いた。喉の奥に詰まった苦しさは消えないが、それでも何度も深呼吸を繰り返し、乱れた心を抑え込むことに集中する。
 いつも賑やかな学園内は、不気味なほど静まり返っていた。きっと土井がうまくあの場を収めてくれているのだろう、と考えながら、彼女はゆらりと立ち上がる。
 とにかく、一刻も早くここを離れなければ——。
 最後にもう一度深く息を吐き、彼女は慣れ親しんだ部屋を後にした。

 里から忍術学園までは大人の足でも半日以上はかかる。襲ってきた男たちとは別に監視役がいたことは間違いないだろうが、こうして山中を一人で歩いていても何も起こらないところを見ると、まだ猶予は残されているらしい。
 沢の冷たい水で顔や手についた血を洗い流す。それから自らの格好を見下ろした彼女は、着物の裾を膝のあたりから苦無で一気に裂いた。袂も切り落とし、動きを妨げる布を惜しげもなく捨てていく。みすぼらしく、この季節にふさわしい装いではないが、何かあったときすぐ動けるに越したことはない。
 帯を締め直し、何度か両肩を回したあと、彼女は胸元から姉の文を取り出した。『最終の試し』に影響が出ることを恐れて、これまで一度も開かなかった文。唯一の身内が残した恋文とやらを読むのは気が引けるが、それでも届け先を知るためには致し方ない。そう自分に言い聞かせ、彼女は文をそっと開いた。

「……え?」

 囁きにも満たない声が、山の静寂へと吸い込まれていく。
 

---


 タソガレドキ忍軍百人の頂点に立つ雑渡昆奈門組頭が本気を出すことは滅多にない。
 いや、もしかしたら私がそんなお姿を見たことがないだけかもしれないが、演習でも忍務でも殿の御前でも、とにかくどのような状況でも、悠然とされているお方なのだ——。
 だからこそ、息つく暇もなく山を駆け抜けるその背中は、諸泉の知る雑渡昆奈門とはまるで別人のようだった。息を切らしながら最後尾を走る諸泉は、己の先をものすごい速さで進んでいく雑渡の背を必死に追う。山本と高坂が、ときおり諸泉を気遣って振り返り声をかけるが、それに返事をする余裕などあるはずがない。諸泉はとにかく、負傷している肩を庇いながら、ただひたすら雑渡の姿を見失わないように走り続けた。そして地を蹴り宙を飛び、普段より半刻も早く目的地である忍術学園に到着したのである。
 最初に感じた違和感は、学園を包む異様な静けさだ。
 いつもなら無断で学園に侵入すれば事務員の小松田が目くじらを立てて追いかけてくるが、それもない。代わりに彼らを出迎えたのは、白い布で覆われた三つの遺体と、地面や壁のあちこちに飛び散った血痕だった。
 死体も血も、今まで嫌というほど目にしてきた。しかし平和な忍術学園にはあまりにも不釣り合いな光景に、諸泉は思わずぎょっとして言葉を失う。

「これは……」

 高坂も眉根を寄せ、不快そうに呟く。雑渡は黙ったままそれらを眺めたあと、忍術学園の上級生たちに囲まれている土井の元へと歩み寄った。そこで初めて、土井が雑渡らの存在に気付き、顔を上げる。

「雑渡さん」
「土井殿。殿は?」

 それは、雑渡が彼女のことについてすべてを知っていることを土井が理解するのに十分な質問だった。土井は一度口を開き、何かを言いかけて閉じたあと、やがて目を伏せて小さく答えた。

「去りました」
「どこへ——」

 思わず詰め寄ろうとした諸泉だったが、後ろからぐいと裾を引っ張られて苛立った様子で振り返る。するとそこには目に涙を溜めた乱太郎がいて、諸泉は言葉を飲み込んだ。

さん、僕らを曲者から守ってくれたんです」

 乱太郎は震える声で続けた。

「そのあと、学園長先生に今までお世話になったって伝えてくれって言って、そのままどこかへ行かれてしまって……」

 いつもの諸泉であれば、「あんな女に騙されるなんて、お前ら忍たまは馬鹿だな」と嫌味の一つでも言うところだが、今にも泣きだしそうな乱太郎の背後には、茫然と立ち尽くすきり丸としんベヱ、そしてしくしくと涙を流す喜三太の姿がある。諸泉は小さく息を吐くと、俯いて黙り込んでしまった乱太郎の頭にそっと手を置いた。そして、もう片方の手を強く握り締める。
 間に合わなかった。最悪の事態が起きてしまった——。
 乱太郎の話は雑渡にも聞こえていただろう。彼女のことについては「お前が心配することではない」と言われてはいるが、さすがにそういうわけにもいかないと、諸泉がそっと雑渡の様子を窺った、そのときだった。

「土井先生」

 黙って土井のそばに立っていた立花が、足元へ視線を落としたまま口を開く。

さんは……くノ一だったのですね」

 しん、と辺りの静寂が深くなった。
 彼女が子どもたちの目の前でどんな行動を繰り広げたのか、遅れて駆けつけた土井には、その一部始終は分からない。だが、立花の質問の仕方から察するに上級生だけでなく、一年生や小松田までもが、彼女が何者なのか気付いてしまったようだ。
 さすがにこの状況でその問いを否定するわけにもいかない土井の頬を、つう、と一筋の汗が伝う。
 そのとき、子どもたちや土井の様子を黙って見ていた雑渡の元に、押都が音もなく姿を現す。ここまでの道中では見かけなかったが、隠れて同行していたのだろうかと諸泉は目を見張る。
 
「張っていた者たちが数名やられていました。恐らく、この者たちの仕業かと」
「そうか」
殿の部屋も改めましたが、すでにもぬけの殻でした。ただ——何かを持ち出した形跡が残っています」
「追うぞ」

 雑渡のその一言に反応したのは、タソガレドキ忍者だけではない。普段は顔を合わせれば衝突してばかりの潮江と食満が、まるで示し合わせていたかのように同時に一歩前へ出る。
 二人は雑渡の前に立ちはだかると、責めるような鋭い眼差しで彼を射抜いた。その視線を受け止めながら、雑渡は困ったように腕を組み、わざとらしく大きなため息を吐く。

「困ったな、今は君たちの相手をしている暇はないんだが」
「おい曲者! お前……さんの正体に気付いておきながら、俺たちに隠していただろう!」
「仮に気付いていたとして、君たちにわざわざ教える義理はないよ。三月もそばにいながら殿の正体に気付けなかった苛立ちを私にぶつけるのはやめてもらえるかな」
「貴様っ!」

 怒りに任せて飛びかかろうとした食満を、伊作が慌てて止める。潮江も雑渡を強く睨みつけるが、雑渡の言葉が正論であることを認めないわけにもいかず、行き場のない怒りをただ胸の奥へと押し込めた。
 ふと、雑渡は空を仰ぐ。冷たい風が吹きつける中、頭上では太陽だけが何事もなかったかのように大地を照らしている。

「一つだけ、教えてあげよう」

 雑渡はゆっくりと彼らを見据え、静かに告げた。

「このままだと、殿は死ぬ」

 その一言に、潮江たちは明らかな動揺を見せた。だが、動揺したのは彼らだけではない。それを口にした雑渡自身もまた、ごくわずかに心を乱されていた。
 今、彼女は身一つでいつか話していた『やらなければならないこと』を果たそうとしている。忍術学園に放っていた見張りはやられてしまったが、まだ黒鷲隊の数名が彼女を追跡しているはずだ。我々もそんな彼女を追わねばならないし、彼女の里の者たちも恐らくすでに動き始めているだろう。
 何としても、里の者たちより先に彼女の元へ辿り着かなければならない——。

「雑渡さん」

 唯一、雑渡の微かな動揺を見抜いた伊作が雑渡の名を呼ぶ。

「行ってください」

 真剣な眼差しで、一切の迷いもなくそう言う伊作を雑渡は見つめた。
 なぜ忍びである彼女が、素性を伏せて忍術学園で暮らしていたのか。その理由を子どもたちは誰も知らない。もしかしたら『裏切られた』と複雑な思いを抱く者もいるかもしれない。嘘をつかれていたことに傷つく忍たまもいるかもしれない。それでもきっと、彼女が死ぬと聞いて、それを黙って見過ごせる者はこの学園には一人もいないだろう。
 彼女は不器用で、決して人当たりの良い性格ではなかった。それでも彼女なりに子どもたちのことを大切に思い、一人ひとりと真摯に向き合ってきたことを雑渡は知っている。
 その証拠に、伊作の言葉を咎める者は誰もいなかった。
 

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「どうするおつもりですか!」

 またもや山中を全力で駆けさせられていた諸泉が大声でそう叫ぶ。その問いは、つい今朝、訓練の最中に雑渡へ投げかけたものと同じであった。
 彼女が我々の敵となるようなら、そのときは——。
 雑渡は、彼女を尾行している部下たちの残した痕跡を頼りに進みながら、ちらりと後ろを振り返る。質問を投げた諸泉だけではない。山本も高坂も、黙って雑渡の答えを待っている。
 雑渡の中で、すでに答えは決まっていた。いや、決まっていたというより、最初から変わっていない、と言った方が正しいだろう。

「タソガレドキに害を及ぼす者は排除する。異論は認めない」

 雑渡は枝を強く蹴った。一度も地を踏むことなく、風を切って木から木へと飛び移り、その姿は瞬く間に森の奥へと消えていった。


(20260720)