水底の瀬
風の冷たさが随分と身に沁みる季節になった。
用具倉庫に敷かれた茣蓙の上に座り、手裏剣に付着した泥や木屑を布で拭っていた彼女は、外から誰かが駆け足で戻ってくる気配を感じて入口を振り返る。
「うう~、寒い。今日は一段と冷えるなあ」
そう言いながら身を縮こまらせて現れたのは、用具委員会で四年生の浜守一郎、そして三年生の富松作兵衛だ。壊れた外壁の修補をしていた二人の手には左官ごてが握られており、彼らの耳と鼻は、冷たい外気のせいでほんのり赤く色付いている。
「お疲れ様です」
彼女がそう声をかければ、彼女のすぐそばで同じように用具整理を行っていたしんベヱ・喜三太・平太の一年生三人組もにっこりと笑って、同じように「お疲れ様で~す」と声を揃えて言った。
彼女たちの出迎えに応えたあと、富松は左官ごてを棚に片付けながら、彼女を見て申し訳なさそうに眉を下げる。
「さんすみません、今日は用具委員会の活動を手伝っていただいて……。たしか、昨日は図書委員会の書庫整理をされていましたよね」
「で、一昨日は生物委員会の飼育小屋の掃除をされた、とか」
彼女が各委員会の活動を連日手伝うことは珍しいからだろう。富松に続いて、浜が少し不思議そうに呟く。
彼女は顔を上げて、何でもない様子で「まあ、はい」と頷いた。
「今はどの委員会も人が足りなくて大変そうなので……それに、私もお手伝いできて楽しいですし」
真面目な二人が気を遣いすぎないよう、そう言い終えてすぐ、光を跳ね返すほど綺麗になった手裏剣を顔の横に軽く掲げてみせる。しかし、そんな彼女の行動に富松はすぐに険しい顔をして、まるで下級生に言い聞かせるかのように「くれぐれも扱いには注意してくださいね」と指を立てた。富松は彼女のことを完全に素人だと信じ切っているわけだから、当然と言えば当然の反応ではあるが、そんな彼の言動に彼女は思わず苦笑した。
今現在、忍術学園では上級生である五・六年生が合同実習のため十日ほど不在となっている。そのため、各委員会はそれぞれの活動に追われていた。それで彼女も委員会の手伝いであちこち駆け回っているわけだが、手伝う理由はそれだけではない。
彼女自身、学園を去る前に協力できることはしておきたい、と考えていたからだ。世話になった分、少しでも恩返しができれば、と。
しかし、子どもたちはまだ誰一人として彼女が学園を去ることを知らないでいる。
「忍具がこんなに綺麗になっていたら、きっと食満先輩もびっくりしますよ~」
いつもはおどおどしている平太がどこか嬉しそうに言って、しんベヱと喜三太もそれに同調する。そんな彼らに、彼女も「そうですね」と笑ってみせる。
予定では、五・六年生は本日中には学園に戻ってくるはずだ。和やかな雰囲気で雑談している子どもたちを横目に、彼女は持っていた手裏剣を箱の中へそっと静かにしまった。
このまま簡単に終わると思うなよ——。
あれから、うどん屋で男に言われた言葉の意味、そして男の意図をずっと考えてはいるが、詳細を調べる術もなく、彼女は途方に暮れていた。
最終の試しについては、最初から『簡単すぎる』とは思っていた。だからこそ姉の死についてずっと疑問に思っていたわけだが、男の言う通りこのままで終わらないのなら、姉が試しに落ちて死んでしまったというのも納得ができる。
しかし、あれから周りに悟られない程度に気を張ってはいるものの、特に何も変わった様子はない。
そして今日。とうとう、彼女が学園へやってきてちょうど三月が経った。
現時点で里からの連絡はない。やはり学園長に伝えて、明日にでも里へ戻るべきだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えていたときだった。視界の両側からにゅっとしんベヱ・喜三太の顔が現れ、彼女はびくりと肩を跳ねさせる。
「さん、ぼんやりしてどうしたんですかぁ?」
「分かった! お腹が空いたんでしょう。僕もお腹ペコペコです!」
「しんベヱはいつもでしょ」
そう言ってけらけら笑う二人に、彼女も微笑を返す。
「たしかに、ちょっとお腹が空いてきましたね」
「じゃあこの片付けが終わったら、すぐ食堂にランチに行きましょう!」
ランチ、ランチ、と楽しく口ずさみながら木箱の中に手裏剣を並べたしんベヱは、しっかりと数を数えてその箱を棚に戻すと、まだ拭き終えていない手裏剣の入った別の箱を持ち上げた。どうするのか聞けば、その手裏剣は午後から一年は組の実技授業で使う予定らしく、先に実技場まで運んでおきたいとのことだった。
その説明を受けて、彼女も立ち上がる。
「私も一緒に運びますよ」
「じゃあ、今日は授業で苦無についての説明もあるらしいので、さんはこっちをお願いしま~す」
そう言って喜三太が指さした箱の中を覗くと、そこには苦無が数本だけ入っていた。は組の人数分には足りていないようだが、今日の実技はあくまで手裏剣打ちを中心に行うため、苦無は先生が説明する用にあればいいらしい。なるほど、と返事をして、彼女は喜三太に言われた通り苦無の入った箱を持ち上げた。
倉庫の後片付けはやっておく、と言う浜・富松・平太と別れ、彼女はしんベヱ・喜三太と一緒に忍具の入った箱を持って用具倉庫を出た。
ひゅうっ、と空気を裂くような音を立てて、冬の訪れを知らせる木枯らしが全身に吹きつけてくる。寒い寒いと言いながら、真ん中を歩く彼女にぎゅうぎゅう身体を寄せてくる二人を見下ろす。学園へ来てすぐの頃なら、きっと疎ましく思ったことだろう。正直歩きづらいが、嫌な気はしない。
そういえば最初の頃、この二人に振り回されたりしたな——と、六年生の立花が焙烙火矢を投げて大騒ぎになったことを思い出して、思わずふっと笑みを零す。そんな彼女に気付いたしんベヱが、どうして笑っているのかと尋ねたそのとき、後ろから、おおい、と呼ぶ声が聞こえて三人は振り返った。こちらへ向かって手を振る乱太郎ときり丸に、しんベヱと喜三太が駆け寄っていく。あれほど寒いと言っていたのに、その寒さを吹き飛ばすような弾んだ声で「皆で一緒にランチに行こう」などと話す彼らを離れた場所から眺めながら、何となしに感慨深い思いを抱いていた、そのときだった。
視界の隅で、何か黒い影がかすかに揺れた。反射的にその影へ目を向けると、学園の塀の上に三人の忍びが静かに立っていたのだ。
「どうして……」
その光景に目を見開いた彼女の口から、そんな言葉がぽつりと零れ落ちた。
あの男だ。遠目であっても、塀の上に立つ忍びのうちの一人が先日うどん屋で再会した男であることが分かった。
このまま簡単に終わると思うなよ――。
どくん、どくん、と、心臓が肋骨を叩くように脈打つ。きいん、と一際鋭い耳鳴りが鼓膜を貫いた。風の音も、子どもたちの話し声も、すべてが水の底へ沈むように遠ざかっていく。
まさか、殺しに来たのだろうか。
忍びであることを決して誰にも悟られてはならない私を。でも、なぜ急に?
仮に殺しに来たとして、その場合、私は、私のやるべきことは――。
事務室のある方角から、侵入者の気配を察知した小松田が入門票を手に駆けていく。その姿を追うように子どもたちも視線を向け、ようやく塀の上にいる忍びたちの存在に気付いたらしい。
「あ、曲者だ」
慣れているのだろう。大して驚きもせずに、きり丸が額に手を当て、目を細めてそう呟いた、その瞬間だった。
男たちから放たれた殺気が肌を刺す。彼らがぐっと腰を落とす。来る、と息を呑んだそのとき、心臓がどくん、と一層大きく音を立てる。
違う。
ひゅ、と短く息を吸う。白い吐息が空気の中に溶けて消える直前、彼女の手から箱が滑り落ちた。
彼らが狙っているのは自分ではない――。
そのとき、その場にいた子どもたちだけでなく、彼女本人さえ気付いていなかった。箱を落とした彼女の右手には、いつの間にか苦無が一本、強く握られていたことに。
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「尊奈門」
頭上から名を呼べば、小さな両肩がびく、と震えるのが分かった。木に放たれた手裏剣を回収しようと手を伸ばしていた諸泉は、恐る恐る顔を上げて雑渡の姿を見つけると、気まずそうな表情を浮かべる。
雑渡はそんな諸泉のすぐそばへ飛び降りた。自然と、諸泉の背筋がぴん、と伸びる。
雑渡の視線は、わずかに緊張した様子の諸泉の右肩一点のみに集中している。
「お前、先日の土井殿との果たし合いの際に負傷した傷がまだ癒えていないだろう」
「そっ、そんなことはありません! もうこの通り、ほらっ、元気いっぱいです!」
ぎこちない笑顔で両腕を勢いよく上下させる諸泉の右肩に手を添えた雑渡は、そのままぐっと親指を強く押し込んだ。途端に諸泉の顔が苦痛に歪み、声にならない悲鳴が漏れる。
諸泉は肩を抱えるように身を縮め、その場にうずくまった。そんな彼を見下ろし、雑渡はやれやれとため息をつく。
「二日で治せ」
「す、すみません……次こそは、必ず土井を倒してみせますので!」
森中に響くほどの大声で張り切って宣言する諸泉に、雑渡は眉を顰めた。
「いや……土井殿を倒すとか、今はそんな話をしていないのだが」
「……そういえば、土井からあの女はそろそろ忍術学園を離れると聞きました」
上目遣いで、言いづらそうにぼそぼそと告げる諸泉に、雑渡は一言「知っているよ」とだけ返した。あの女。諸泉がそう呼ぶ人間は一人しかいない。
ついでにお前が土井殿と果たし合いに行くと嘘をつき、彼女へ会いに行ったことも知っている。そう言おうとしたが、それは言うべきではないと雑渡は口を閉じた。その件に関しては山本・押都、二人の小頭に唆されたためであり、諸泉を責めるのは筋違いだ。
諸泉は黙っている雑渡をまっすぐ見つめ、尋ねた。
「組頭は、どうされるおつもりですか?」
その問いすぐには答えず、雑渡は木に深く刺さった手裏剣を引き抜く。そして、わずかに刃先の錆びたそれを諸泉に返すと、彼を見つめ返した。
「殿には明日、接触する」
そう告げた瞬間、不意に脳裏をよぎったのは、茜色の夕陽に照らされながら儚く微笑む彼女の姿だった。
彼女本人は、もう会うことはないだろうと考えているようだが、こちらはそういうわけにはいかない。
彼女は、学園を離れたら一つやらなければならないことがある、と言った。そしてこうも言っていた。次に会ったとき、自分が困っていたら頼みを一つ聞いてくれ、と。
当初から我々タソガレドキが彼女へ抱いている疑い。姉から託された文、城代から得た何らかの情報を、どこかへ届けようとしているのではないか、というもの。先日の彼女の発言は、その疑念を一層濃いものにした。
彼女が忍術学園で暮らし始めて、今日でちょうど三月。つまり、最終の試しは今日で終わる。ならば明日以降であれば、彼女に城代のことも彼女の姉のことについても、すべてを話すことができる。なおかつ我々が抱いている疑念について問い質しても、何の問題も無いはずだ。
そのとき、彼女は一体どんな顔をするだろうか。我々が彼女の素性について、すべてを知っておきながら黙って近付いていたことを知ったら。
少なくとも、末永く息災でいてくれと頼んだときの穏やかな微笑みも、雑渡をからかうことに成功したときの得意げな笑顔も、そして口吸いを交わしたあの瞬間に浮かべた艶めいた表情も。
もう二度と、自分へ向けられることはないだろう。
雑渡の答えが求めていたものではなかったのか、諸泉は悔しげに顔をしかめ、大きく首を横に振った。
「それは……分かっています。私が聞きたいのは、そういうことではなく、」
「彼女が我々の敵となった場合、どうするのか。そう聞きたいのだろう」
諸泉はぐっと押し黙り、しばらくして小さく頷いた。そんな彼の額を、雑渡は指先でぴしりと弾く。
「痛っ」
「何もお前が心配することではない」
雑渡はそう言って、他の手裏剣も引き抜いて次々に諸泉へ放った。慌ててそれを受け止めた諸泉は、むう、と子どものように頬を膨らませながらも、渋々と返事をして手裏剣を片付け始める。
仮に、彼女が本当に密書や情報をどこかに届けようとしていたとしよう。その場合、きっと彼女は「見逃してほしい」と頼むのだろう。
しかし、たしかに頼みを一つだけ聞くとは約束したが、どんな頼みであっても聞き入れるとは約束していない。卑怯だと罵られるかもしれないが、仕方のないことだ。
彼女が我々の敵となるようなら、そのときは——。
「組頭」
呼びかけに、雑渡は静かに降り立った押都へ視線を向ける。押都は地面に片膝をつき、俯いたまま少し沈黙したあと、城代の命を狙った忍びがようやくすべて吐いたことを告げた。
雑渡が口を開くより早く、その報告を耳にした諸泉が片付けの手を止めて「えっ!?」と声を上げる。押都は気にすることなく、淡々と話を続けた。
「城代を狙った忍びたちですが、元は全員、城代を守った女——つまり、殿たちと同じ里の出身でした」
それを聞いてさらに騒ぎ立てる諸泉の横で、雑渡の思考だけが静かに収束していく。
繋がっている。
此度の城代襲撃事件は、彼女たち——正確には、彼女たちの『最終の試し』と繋がっている。
「『最終の試し』は、ただ忍びであることを悟られず三月を過ごすことではありません」
一瞬だけ、蛍のような淡い光が視界の片隅をよぎった。
もちろん、こんな季節に蛍などいるはずもなく、幻であることはすぐに分かった。それでも、雑渡の脳裏には山中で息絶えていた女の顔が浮かび、その面影がゆっくりと彼女の顔へと変わっていく。
「実際は、三月が経つ頃、『最終の試し』を通った里出身の忍び複数名で〝最終の試し受験者と懇意にしていた相手〟を殺しに向かうようで……」
「そんな状況でも、あくまで本人らが信じている試しを最後まで全うできるか——」
雑渡が低く呟くと、押都は何も言わず頷いた。
三月というのは決して長い時間ではないが、誰かと親しくなるには十分な時間だ。その間に築いた絆を、目の前で断ち切られる。たとえ親しくなった者が目の前で無惨に殺されようとも、受験者は決して手を差し伸べてはならない。もし救って、忍びであることが露見した瞬間、その時点で失格。待っているのは己の死だ。
つまり、彼女らが里で一流の忍びとして認められるためには、親しくなった一般人を、目の前で見捨てなければならないのだ。
彼女の姉はそれができなかった。だから失格となり、命を落とした。だからこそ、城代は今も生きている。
「道理で、あの里を出た忍びのほとんどが男であるわけだ」
「組頭」
それまで膝をついていた押都が、静かに立ち上がる。彼が何を言おうとしているのか、雑渡だけでなく諸泉にも察しがついていた。
彼女の最終の試し——いや、『彼女が信じている最終の試し』は、今日で終わる。
「何か事が起きるなら、本日かと」
(20260626)