茜色の約束
客の笑い声や話し声、うどんを啜る音。店内では賑やかな音が絶えず響いていたが、彼女はそれをどこか遠くの出来事のように聞いていた。
店の裏口から出てすぐの場所で、桶に張った水の中に次々運ばれてくる椀を入れて、藁でざぶざぶと洗う。それをさらに井戸水でゆすぎ、乾かすために伏せて並べたところで、配膳や注文聞きのためにきびきび働いていたきり丸が店内からひょいと顔を出した。
「さんすみません、今日もアルバイト手伝ってもらっちゃって。ここ、寒くないっすか?」
「全然。中はどうですか?」
「だいぶ落ち着いてきたんで、さん、適当に休憩入ってもらっていいっすよ」
ニカッと明るく笑ったきり丸だったが、すぐにハッとした表情を浮かべて「と言っても、一人で街をうろつくわけにもいかないっすよね」と呟く。
今日、彼女はきり丸と共にうどん屋のアルバイトに来ていた。本当は土井も一緒に手伝う予定だったのだが、どうやら学園の仕事が溜まっているらしい。行きは同行してくれたものの、そのまま忙しなくすぐに学園へ戻ってしまった。
つまり、今現在彼女は忍術学園の最下級生であるきり丸と二人で学園の外へ出てしまっているわけだが、その辺はもはや彼女自身どうでもよくなっていた。
「そういえば」
彼女の隣にしゃがんだきり丸は、椀を洗うのを手伝いながら何かを思い出したように切り出した。
「今朝、珍しく学園長先生に呼び出されてませんでした? 何の話だったんすか?」
その質問に、彼女の藁を持つ手が止まった。
きり丸の言う通り、今朝早く彼女は学園長の庵に呼び出され、彼と話をした。その話というのは、最終の試しについてである。
そろそろ終わる頃じゃな、とヘムヘムの淹れた茶を啜りながらどこか感慨深く言う学園長に対し、彼女はただ「はい」と返事をすることしかできなかった。
長いようで短かった三月が終わりを迎えようとしている。ようやく終わる、と内心ほっとしている反面、なんだか心にぽっかり穴が空いているような——そんな不思議な感情に、彼女はうまく言葉を紡ぐことができなかったのだ。
きり丸の大きな瞳がじっとこちらを見つめていることに気付き、彼女は咄嗟に嘘をついた。
「ほら、この間まで風邪を引いていたので。体調はどうか、とか、そういう話です」
「なーんだ、良かった」
「良かった?」
きり丸の一言に、彼女は首を傾げる。
「いや、みんなで噂してたんすよ。もしかしたら山賊の問題が片付いて、さん、元いた場所に戻っちゃうんじゃないかって」
手元に視線を落としてそう話すきり丸に、彼女は「ああ」と小さく零した。いずれ学園を離れるとき、子どもたちにはそういう風に説明しなければならないな、とふと考える。
「さんには、ずっと――」
「え?」
きり丸の呟きを拾えずにそう聞き返せば、彼はぱっと顔を上げて、驚く彼女に向かって興奮した様子で言った。
「さん、土井先生のお嫁さんになって、今まで以上に俺のアルバイト手伝ってください!」
目を丸くした彼女は、しばらくきり丸と見つめ合ったあと、思わずぷっと吹き出した。
前者については、簪の一件から『は組』の子どもたちによく言われているが、きり丸にとっての本望はどちらかといえば後者だろう。
椀を洗いながらくすくすと笑うだけの彼女にきり丸は口を尖らせていたが、店主に呼ばれて店の中へ戻って行く。聞こえてくる彼らの会話の様子から、どうやら出前の配達が一件入ったらしい。再び彼女のところにやって来て、一人にしても大丈夫かと心配するきり丸を、彼女は大丈夫と送り出した。
一人になり、桶の中の冷たい水がゆっくりと思考を冷静にしていく。
彼女はきり丸の願いを、どちらも叶えてあげることができない。
もうすぐ彼女は里へ戻り、一人前の忍びとして認められる。ただ、そのあとどうなるかは彼女自身もきちんと把握していない、というより知らされていなかった。里で育った忍びたちは里長の伝手で働き場所が決まると聞くが、どこかの城に勤めるのか、それとも里長個人に従う忍びとなるのか、詳細は分からない。彼女自身、最終の試しを通過して里を出て行った忍びたちとは、一度として顔を合わせたことがなかった。
「(というか……最終の試しの終了ってどうやって知らされるんだろう。三月経った時点で里へ帰ればいいのかな)」
今後のことについてぼんやりと考えていた彼女に、店の中から顔を出した店主が声をかける。
「ちゃん、きり丸が配達に出ている間、中の方を頼めるかい」
「分かりました」
そう返事をして、彼女は水で冷えきった手を拭う。
まだ少し時間はある。これからのことは、このアルバイトが終わってから考えよう。そう思いながら、彼女は立ち上がった。
店に入り中を見渡すと、きり丸が話していた通り客の出入りは落ち着いているようだった。客は大きな荷物をそばに置いた行商人らしい男二人組と、隅の席に座る男一人のみ。二人組はちょうど食事を終えたところで、隅の男はまだ注文前らしい。昼間の営業については、きっと彼が最後の客になるだろう。
「すみません」
店主が会計をしている間、隅の席に座っていた男から声をかけられ、彼女は返事をして注文聞きのために彼の元へ歩み寄った。
そして、男の横顔を一目見て息が止まる。
「かけうどん、一つ」
その顔には見覚えがあった。目元を縦に走る真新しい傷こそ増えていたが、彼女と同じ里で育った忍びに違いなかった。そして彼は、二年前に最終の試しを通り、里を出たはず――。
記憶をたぐる彼女の顔を見て、男はにっこりと人の良さそうな笑みを浮かべる。
「かけうどん、一つですね」
思わずぞわりと全身が粟立ったが、彼女は何食わぬ顔で男の注文を復唱し、店主の元へ戻ってそれを伝えた。悟られないよう空いた台を拭きながらそっと男の様子を窺う。だが男は、こちらのことなど気にも留めていないようだ。
こちらに気付いていないのか。いや、そんなはずはない。
男は何事もない様子でうどんを食べ終えると「ご馳走さん」とだけ言って代金を置き、あっさり店を後にした。彼女は狐につままれたような気分のまま、その背中に「ありがとうございました」と声をかける。
ひょっとして仕事の最中だったのだろうか。たまたま立ち寄ったうどん屋に見知った顔を見つけたものだから、彼の方もぼろを出さぬよう早々に立ち去ったのかもしれない。
まあお互い生きていれば、そんな偶然もあるだろう。
そう結論づけた彼女が空になった椀を抱え、洗い場へ向かうため裏口から外へ出た、そのときだった。
「十点中、八……いや、七点ってとこだな」
ひゅっ、と息を呑んだ。
つい先程、店の表から出ていったはずの男が、裏口脇の壁に背を預けてそう言った。
「麺の硬さはちょうどいいが、出汁が俺には少し濃すぎる」
片手で爪を弄びながら独り言のようにそう呟き、男は硬直する彼女へゆっくりと顔を向ける。
視線が重なった。次の瞬間、男はにこりと笑った。店の中で見せたのと同じ、人の良さそうな笑みだった。
「試しの最中に、子守りをしながらこんなしょぼい店で働いているとはなあ」
男の意図がまるで読めず、額に滲んだ汗がこめかみを伝う。
『三月の間、指定の場所で忍びであることを隠して生活すること。そして、忍びであることを決して周りに悟らせないこと』
どうしてここにいる。
どうして里を出たこの男が、今まさに彼女が最終の試しの最中であることを知っている。
聞きたいことは山ほどあった。しかし試しの都合上、学園の外とはいえ余計なことは口にできない。
そのことを知っているはずなのに、男は腕を組み、値踏みでもするような目で彼女を眺めながら、なおも話を続けた。
「二年で随分成長したじゃないか。お前、房術は苦手だったようだが……上達したか、俺が相手してやろうか」
「どちら様ですか?」
彼女は冷え切った声でそう言った。
視線で怒りを露わにする彼女に、男はすぐさま吹き出して降参したように両手を上げる。
「冗談、冗談。お前、キレるとおっかないからな」
男はへらりと笑ったが、相変わらず険しい表情を浮かべたままの彼女に、やれやれと頭を掻いた。
「そろそろ試しも終わる頃だろう」
そう告げて遠くを眺める男に、彼女が口を開こうとしたそのとき、配達から戻ったらしいきり丸の呼ぶ声が聞こえる。
彼女が振り向いて返事をすると、男はぽつりと低い声で「このまま簡単に終わると思うなよ」と言った。
「女は情に流されやすいからだめだ。お前の姉もそうだった」
勢いよく振り返る。
しかしそこに男の姿はなく、ただ冬の気配だけが静かに居残っていた。
小走りでやって来たきり丸は、彼女を見上げたあと、不思議そうにその視線の先を追う。
「ん? 誰かいたんすか?」
「――ううん、大丈夫」
胸騒ぎがして、心臓が暴れるように脈打った。
まるで、いや、確実に姉の死について何かを知っている口振りだった――。
今すぐ男の後を追い、問い質したい。そんな衝動をどうにか押し殺し、彼女は込み上げる焦燥を胸の奥へ押し込んで、きり丸に不審がられぬよう笑みを作った。
---
「遅いっすねえ、土井先生。何してんだろ」
空では数羽の烏が、かあかあと鳴きながら山の方へ飛んでいく。きり丸がぽろりと零した不満に、彼女は心ここにあらずといった様子で「そうですねえ」と相槌を打ち、空を仰いだ。
彼女の意識は先程の男の言葉から離れなかった。胸の奥に引っかかったままの男の言葉を振り払えずにいるうちに、橙色の夕陽はすっかり西へ傾いていた。
アルバイトも終わり、本来なら今頃は迎えに来た土井とともに学園へ戻っているはずである。しかし、いくら待っても土井は姿を見せない。きり丸はこのあと別の用事があるらしく、そわそわと落ち着きなく足踏みを繰り返している。
「さんを一人で帰らせるわけにもいかねえしなぁ……」
きり丸がため息混じりにそう言うと同時に、彼女に大きな影が覆いかぶさった。何事かと振り返るより先に、きり丸が彼女の背後にぬっと音もなく現れた人物を見て「いっ!?」と素っ頓狂な声を上げ、顔を引き攣らせる。
夕陽による逆光で一瞬誰か分からなかったが、彼女の真後ろに立っていたのは雑渡だった。珍しくいつもの忍装束ではなく藍染めの小袖に袴、肩には羽織を引っかけ笠を目深に被り、口元は布で覆われている。見慣れない、というより初めて見るその姿に、彼女もきり丸同様にぎょっとして言葉を失った。
休みなのか、それともどこかへ潜入中か何かなのか。雑渡の隣へ目を向ければ、同じく普段着姿の山本と高坂の姿があった。さらに高坂の背には、目を回した諸泉が担がれている。
その瞬間、土井が来ない理由を察した彼女のすぐ隣で、きり丸が叫んだ。
「ざ、雑渡昆奈門さん!? どうしてこんなところに!?」
「土井殿に挑んだ尊奈門を回収しに」
雑渡は簡潔にそう述べると、諸泉へ視線を向けた。気を失ってなお、うわ言のように土井への恨みつらみを漏らす諸泉の姿は、もはや見慣れた光景である。
山本の説明によれば、土井がなかなか迎えに来ない理由は諸泉のしつこい果たし合いに付き合わされたためらしい。そのせいで、今日中に片付けるはずだった仕事が終わっていないのだという。
なるほど、と納得するきり丸の隣で、彼女は雑渡と目が合い、慌ててふいと顔を逸らした。風邪を引いて寝込んでしまったあの日以来、彼と顔を合わせるのは初めてのことだった。
あの日の微妙な雰囲気。触れた唇の感触。互いの体温。思い出したくない記憶が瞬時に蘇り、彼女は心の中で頭を抱えた。
「土井殿が迎えに来られないそもそもの原因は尊奈門にある。というわけで、今回は特別に私が忍術学園まで送ってあげよう」
「えっ」
彼女が声を上げるより先に、『あげよう』という言葉に反応したきり丸が、目を銭の形にして飛び跳ねる。そして彼は上機嫌で、雑渡のすぐ目の前で固まっていた彼女の背をぐいぐいと押した。
「んじゃあ、俺は用事あるんでさんだけお願いしまっす!」
「ちょ、きり丸くん!」
「さん、またあとでね〜!」
「待っ——」
陽気に手を振りながら走り去っていくきり丸へ手を伸ばしたものの、当然ながら彼が立ち止まることはない。きり丸の姿が小さくなり、人波の向こうへ消えていく。
気まずい沈黙が落ち、彼女は意を決したように振り返る。そして大声で、はっきりと「一人で帰れます!」と言った。雑渡の眉間に深い皺が寄る。
「土井殿ときり丸に頼まれたからね。そういうわけにもいかないだろう」
「でも、その……」
「では組頭、我々は先に」
「え!?」
当たり前のように立ち去ろうとする山本・高坂に、彼女はさらに声を上げる。彼らまでいなくなってしまったら、必然的に雑渡と二人きりになってしまうではないか。
山本と高坂は、おろおろする彼女を見て顔を見合わせた。そして諸泉の怪我を早く手当てしなければならないことを理由に挙げる。それなら学園で手当てをした方が早いという彼女のもっともな提案を、二人は「これ以上迷惑をかけるわけにはいかない」と一蹴し、雑渡と彼女に頭を下げると、忍術学園とは反対方向へ歩き出してしまった。
「(本当に行ってしまった……)」
かあ、と頭上で烏が鳴き、夕空を飛び去っていく。取り残された彼女が恐る恐る雑渡を見上げると、またもや視線が重なり、どくりと心臓が跳ねた。一瞬で顔中が熱くなる。
「では、行こうか」
「……はい」
もうこうなってしまっては早く学園に帰るしか残された道はなく、彼女は頷いた。いつだったか、後ろを歩かれるのは落ち着かないと話していた雑渡の隣に渋々並ぶ。
雑渡と二人きりになる機会は過去何度かあったが、今までで一番気まずかった。そして、この沈黙を破る勇気もなかった。ちらり雑渡を盗み見れば、彼は前を見据えたまま歩いている。その姿に安堵したのも束の間。
「手と足が一緒に出てるよ」
ぎくりとして思わず立ち止まった彼女を、雑渡は振り返る。
「そんな、この間みたいに取って食おうとしないから安心してよ」
「こっ、この間って」
「先日、殿が熱で寝込んでいたとき——」
「いや、何もなかったです」
「……結構ちゃんと口吸いしたよね」
「何もなかったです」
きっぱりと言い放つ彼女の頑なな態度に、雑渡は表情ひとつ変えずに「そう」とだけ呟いた。
仮に『風邪をもらう』以外の別の理由があったとしても。その理由が何であったとしても。あの出来事は、なかったことにしなければならない。あのときの雑渡の真意は彼女には分からなかったが、少なくとも自分は熱に浮かされてどうにかしていた。ただ、それだけだ。
黙り込んだ彼女は、再び雑渡と並んで歩き出した。長く伸びた影の隣で、細い影がゆらゆらと揺れる。今まで二人でいるときはどんな会話をしていたか、そんな些細なことも思い出せないほどに緊張していた。
せめて山本や高坂、きり丸たちがいてくれれば、まだ少しは気が楽だったのに——。
さっさと去っていった彼らを恨めしく思いながら、彼女は視線を足元へ落とした。草履が規則正しく前へ前へと進んでいく。己の足の動きをぼんやりと眺めていた、そのときだった。
「何かあった?」
そう問われ、顔を上げる。
深く被った笠の下から覗く雑渡の表情は、相変わらず片目だけでしか読み取れない。だがそれでも、初めて出会った頃のような“疑い”ではなく、“心配”するような目でこちらを見ていることがよく分かった。
もっとも、それが本当にそうなのかは分からない。一流の忍びならではの演技なのかもしれないし、ただ自分がそうあってほしいと願っているだけなのかもしれない。
「何か……とは?」
「先程、土井殿を待っているとき、どこか思い悩んでいるように見えたからね」
「そうですか? 単純に疲れているのかもしれません」
そう言って、彼女は肩を揉んでみせた。実際、ずっと屈んだ姿勢で次々と運ばれてくる椀を洗っていたので、あながち嘘でもない。
正直なことを言えば、里出身のあの忍びの言葉が気にかかって仕方がなかったのだが、それを雑渡に相談するわけにもいかない。
もうすぐ三月が経つ。そうすれば、忍術学園の子どもたちだけでなく、雑渡ともこんな風に顔を合わせることはなくなる。
彼女はぽつりと呟いた。
「実は……私、そろそろ忍術学園を離れるんです」
「なぜ?」
「ええと、大川様と……別れることになったので」
こう言えば、雑渡から指摘された『思い悩んでいるように見えた』の理由にもなる。それに『自分は大川の恋人である』という嘘のことを考えれば、学園を離れる理由として一番不自然でないはずだ。
そう思い打ち明けた彼女に、雑渡はわずかに目を細めた。再び、二人の間に沈黙が流れる。
自分一人がいなくなることくらい、雑渡にとっては大したことではないだろう。彼と忍術学園は、彼女が学園で暮らし始める前からずっと関係があったようだし、きっとそれはこれからも変わらず続いていくのだ。
「学園を出たあとは、どうするんだい」
「え?」
「幼い頃から各地を転々としていて、故郷はないと言っていただろう」
雑渡の言葉に、初めて彼が夜遅くに学園へ忍び込んできて言葉を交わした日のことを思い出した。あのとき話した嘘だらけの身の上話をよく覚えていたな、と心の中で感心する。
学園を出たあと。つまり、最終の試しを終え、里に戻り、一人前の忍びとして認められた、そのあとは――。
「一つ、やらなければならないことがあります」
綺麗に淡く染まった空を仰ぎ、彼女は大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出した。
「そのあとは、普通の女子として生きて、死んでいくのではないでしょうか」
雑渡に伝えられるのは、ただそれだけだった。
姉から託された文を然るべき場所、然るべき人へ届ける。そしてできることなら、姉の死の真相を知りたい。今日偶然にもあの男と再会できたのは、一つの収穫とも言えるだろう。
昨日降った雨のせいで、地面がぬかるんでいる。一歩踏み出したところで、ずる、と足が滑り、咄嗟に隣にいた雑渡に腰を抱き寄せられた。不意に近くなった距離に、全身が硬直する。
「そ、そういえば……初めて山でお会いしたときも、こんな感じでしたね……」
腰に当てられた大きな手から伝わってくる熱が、じわじわと全身へと広がっていく。
離れなければ、と頭では分かっているのに、足が地面に縫い留められたように動かなかった。見上げれば、すぐそこに雑渡の顔がある。近すぎる距離に呼吸さえぎこちなくなり、胸の奥が落ち着かない。目を逸らそうとしても、身体がうまく言うことを聞かなかった。
やがて彼女は小さく息をついて体勢を戻し、「大丈夫ですから」と言って雑渡の身体を押し返した。腰を支えていた彼の手が、すんなり離れていく。
アルバイト先のうどん屋から学園まではそれほど離れておらず、言葉少なに歩いているうちに、あっという間に学園へ到着した。小松田に提出した外出届の門限にも十分間に合ったと、ほっと胸を撫で下ろす。
「あの、ありがとうございました」
「いや、礼を言われるようなことはしていないよ」
そう言って目を伏せた雑渡を、正面から見上げる。
これが今生の別れになるかもしれない。
もし再び会うことがあったとすれば、そのときは敵同士ということも十分あり得る。敵として相対すれば、恐らく雑渡に勝つことはできないし、多少親しくなり口吸いまでした仲とはいえ、彼が情けをかけて見逃してくれるとも思えない。
しかし、だ。同じ時代に生まれ落ちた者同士であっても、この広い世の中、再び巡り会うことなく終わる可能性の方が、きっとずっと高い。
会わなければ、顔も、何気なく交わした雑談も、触れあった体温も、今日見た夕陽も。やがては遠い思い出となり、少しずつ輪郭を失って、いつかは消えていく。
「雑渡殿のような方に、こんなことを言うのはおかしいのかもしれませんが」
しばしの沈黙のあと、彼女はそう前置きして、小さく微笑んだ。
「どうか、末永く息災でいてください」
忍術学園の子どもたち。また学園で働く大人たち。そして、雑渡をはじめとするタソガレドキ忍者たち。
最初は赤の他人だった彼らも、今では縁あって知り合った相手たちだ。自分がいなくなったあとも、できることならずっと恙なく過ごしてほしい。いつしか、そんなことを自然に願うようになっていた。
もう二度と会わないかもしれないからこそ、願えることはそれだけだった。
少し驚いたように目を見開いた雑渡が、すっと手を伸ばす。気付けば、手首を掴まれていた。
「君は……」
零すようにそう言って言葉を切った雑渡に、彼女は頭に疑問符を浮かべる。
しばらくして、雑渡は静かに口を開いた。
「大事な約束を忘れているのではないか?」
「え?」
「山茶花を見に連れて行ってあげようと言っただろう」
一瞬、何のことを言われたのか分からなかった。しかし、もうすっかり散ってしまった山茶花の切り枝と、それを持ってきたときに雑渡が何気なく口にしていた言葉を思い出す。
本気だったのか。思わずそんな感想が浮かぶ。
いやでも、そもそもあれは雑渡が一方的に言っただけであって、約束を交わした覚えはないのだが——。
「今すぐは無理だとしても、またいずれ花は咲く。これから先も、毎年」
穏やかな声色に、思わず言葉を失う。
「そ、そうは言っても、学園を出たあとの自分がどこで何をしているかも分かりませんし」
苦笑しながら、足元へ視線を落とした。
「もしかしたら、その頃にはもうこの世にはいない可能性だって、あるでしょう」
そう、明日、あるいは今夜にでも命を落とすかもしれない忍びにとって、一年という歳月はあまりにも長い。もちろんそれは、雑渡とて同じはずだ。
しかし雑渡は彼女の言い分に、少しも迷わず言った。
「では、殿にも息災でいてもらわなければな」
まるで、この先も会うことが当然であるかのような口ぶりだ。けれど、それは決して冗談で言っているようには聞こえなかった。
そもそも雑渡は当たり前のように未来の話をするが、先ほど彼に伝えた通り、学園を出た自分がどこで何をするのかは彼女自身も分かっていないのだ。
見つける自信があるということだろうか。そう考えて、彼女はすぐに、ふ、と笑みを零す。
きっと、この男なら見つけるだろう。どこにいようと、どれほど時が経とうと。
どうしたものか、と思案していた彼女だったが、ふと一つの考えが頭を過ぎる。そして、小さく頷いた。
「——分かりました。では、私も頑張って長生きすることにします。代わりに、私からも一つ約束をしてほしいのですが」
「何だい」
「次にお会いしたとき、もし私が困っていたら……私の頼みを一つ聞いてくださいますか?」
真剣な面持ちでそう告げる彼女を、雑渡はじっと見つめた。
この約束に込めた思惑は、ただ一つ。次、もし雑渡と敵として再会するという最悪な未来が訪れたとき、自分にわずかな逃げ道を残しておくためだ。
我ながら卑怯な考えだとは思う。それでも、素性を知られていない今だからこそ、この約束を交わしておきたかった。
雑渡が己やタソガレドキに不利益となる願いを安易に聞く男ではないことは分かっている。だがそれでも、可能性は残しておきたい。
「分かった」
少し考え込むような素振りを見せた雑渡だったが、やがて静かに頷いた。
そして、彼女の手首を掴んでいた手をするりと滑らせると、そのまま指先を包み込むように優しく握る。
「君が困っていたら、そのときは私が助けよう」
とても不思議な気分だった。
たった一言、「助ける」という、本当かどうか分からない言葉が胸の奥にすとんと落ちて、溜まっていた不安が溶けていくような気がした。それでも、苦しみだけは消えなかった。
最初は分からなかったこの苦しみの正体を知ったそのとき、彼女は黙って俯くことしかできなかった。
自分もいつか、誰かを想う側に立ってみたい。
いつか土井と話したとき、確かにそう思っていた。だが、まさか誰かを想うことが、こんなにも苦しく、切ないものだなんて思いもしなかった。
繋がれた互いの指先から顔を上げる。
西の空は燃えるような茜色に染まり、山の端へ沈もうとする夕陽が世界を優しく照らしていた。
何事もなかったかのように、今日という日が終わっていく。
もし、すべての思い出が消えてしまったとしても。彼女には、この夕焼けの色をきっと忘れられない気がしていた。
(20260615)