これから
時の流れは早いもので、いつの間にか新しい年を迎え、しばらくが過ぎようとしていた。冬の寒さも幾分か和らぎ、学園内に限らずあちらこちらで梅の花がほころび始めている。
そんな、季節が移り変わる穏やかな節目とも呼べる日。
「このっ、馬鹿!!」
彼女は、諸泉の耳をつんざくような怒声を浴びていた。
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彼女が忍術学園に腰を据えることを決めてすぐのことだった。タソガレドキとドクタケの間で戦が始まった、という情報が舞い込んできたのは。
戦乱の世、戦というものはいつどこで起こってもおかしくはない。そう分かってはいても、雑渡からそういった事情で城代と引き合わせるのはしばらく待ってほしいという旨の文が届いたとき、彼女は分かりやすく落胆した。だが、文にはそこまで時間はかからないとも書かれており、戦であれば致し方ないと、彼女は大人しく納得したのだった。
そしてそれから一月後。雑渡の文通り、戦は誰もが驚くべき速さで終結。ようやく彼女は、タソガレドキ城へと向かう日を迎えたのである。
指定された時刻、学園前で待つ彼女は、そわそわと落ち着かない様子で自身の格好を見下ろした。そしてすぐに、夜中に降っていた雨で出来た水溜まりを覗き込む。
「これ、似合ってるのかな……」
周りからの助言もあり、彼女は普段の質素な装いから一転、山本シナから借りた淡い桃色の小袖を着ていた。変装用に使うらしいその小袖は、ところどころに小さな梅の文様があしらわれ、春らしい上品なものだ。しかも、そんな彼女の姿に色めきだったくのたまたちの手により、滅多にしない化粧までうっすらと施してある。
そんないつもと違う装いの彼女に対し、雑渡が迎えに寄越した男——諸泉はぎょっと目を見開いて、すぐに叫んだのだ。この馬鹿、と。
「久しぶりに会っていきなり『馬鹿』とは、あまりにも失礼ではありませんか」
「そう言わずにはいられないだろう! なぜよりにもよって、その簪をしている!」
諸泉はそう言いながら、彼女の髪を纏めている簪に何度も指をさした。
今にも飛びかかりそうな勢いの諸泉に彼女は顔を顰め、右手でそっと自身の頭に触れた。普段は結わずに下ろしたままにしている髪は、以前に土井から贈られた簪でまとめ上げられている。
実を言うと、彼女も今日ばかりはこの簪ではなく、シナから借りたものを身に着けようと考えていた。だがシナは迷わず、彼女が持つこの山吹色の簪を選んだのだ。
「女を待たせた男には、少しばかり罰を与えないとね」
片目を閉じて、意味ありげに微笑みながら。
鋭い眼差しを向ける諸泉に、彼女は内心で『どうせなら別の者を迎えに寄越してくれればよかったのに』と、少しだけ雑渡を呪いながらため息を吐いた。
「もういいではないですか。城代様をお待たせしないためにも、早く行きましょう」
彼女はそう言うと、諸泉を置いてすたすたと歩き始めた。山を突っ切った方が早いが、シナから借りた小袖を汚したくない。
早足で歩く彼女の隣に諸泉が並ぶ。彼の不機嫌丸出しな横顔に、彼女はふっと笑った。
「戦があったようですが、お怪我はないようですね。手も足もある」
「当たり前だ。私を何だと思っている」
戦いの最中に木から落ちた人、と言おうとして、彼女は口を結んだ。ただでさえ苛々している彼をこれ以上怒らせると少々厄介だ。
「そもそも戦の主役は侍たちだ。忍びが表立って戦場に立つことなどない」
「それもそうですね。他の皆様はご無事ですか、山本殿や高坂殿は——」
「素直に組頭が無事か聞けばいいだろう」
彼女は思わずぎくりとして、諸泉へ顔を向けた。
諸泉はもう簪のことは諦めたのか、先を急いでいる。彼女の言った、城代様をお待たせしないために、という言葉が効いたようだ。
「組頭が、たかがドクタケとの戦でお怪我などするはずがない」
まだ何も聞いていないのに、諸泉はそう言うと鼻で笑った。
そんなこと、言われなくても分かっている。
しかし、諸泉のぞんざいな態度と、雑渡が怪我などするはずがないと分かっていながらも、諸泉の言葉に安心してしまった自分になぜだか腹が立った彼女は、静かに歩調を緩め、彼の膝裏に蹴りを入れた。
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初めて訪れたタソガレドキの城下町は、戦が終わってすぐとは思えない賑わいを見せていた。
店先には多種多様な品物が並び、広い通りには荷を運ぶ者や買い物へ出る町人の姿がある。噂では、此度の戦はドクタケがタソガレドキの領地を奪おうとしたものだったようだから、ここにはあまり影響はなかったのだろう。しかし、戦勝の報せが広まっている町にはどこか浮き立った空気が漂っていた。
目的地であるタソガレドキ城は、なだらかな斜面を曲がりながら上り詰めた先にあった。振り返れば、城下町だけでなく麓に広がる村々や田畑、その向こうの山々まで見渡せる。その一望できる景色と爽やかな風は、長い道のりを歩いて来た彼女にとって何とも清々しいものだ。
諸泉は城内へ彼女を通すと、そのまま家臣に引き継いで姿を消してしまった。まずは雑渡の元へ連れて行かれる。そう思っていた彼女は拍子抜けしたが、案内された座敷で大人しく城代を待つほかなかった。
戦が終わったばかりとあれば、雑渡は組頭として忙しくしているのかもしれない。たまたま空いていたのが諸泉だっただけで——。
急に一人でいることに心細さを覚えたそのとき、襖が開いて一人の若い男が現れた。
濃紺の直垂に同色の袴を身につけた男は、彼女を見て人のよさそうな笑みを浮かべる。
「待たせてしまったかな」
座敷の奥に設けられた上段へと進み腰を下ろした男は、ぽかんとしている彼女に向かってそう尋ねた。襖はすでに閉じられ、他の人間が入ってくる様子はない。
現れた男が城代であることに気付くまで、少し時間がかかった。なぜなら彼女にとって『城代』という肩書きは、もっと年配の者に与えられるものという認識があったからだ。
すぐさま彼女は両手を前につき、深く頭を垂れた。
「お初にお目にかかります。と申します。その……この度は城代様へ——」
挨拶の途中で城代が立ち上がる気配を感じ、彼女はそっと視線を上げた。一段高い場所から下りて、すぐ目の前に座る城代に思わず身を引く。
学園長もそうだが、なぜ自分が出会う身分の高い者たちは、こうも対等に話をしようとするのだろう。
戸惑い、言葉をうまく繋げられない彼女に、城代はにっと歯を見せて笑った。
「堅苦しいのは止めにしよう。其方は私にとって妹同然なのだから」
「あ、あの」
圧倒されて、考えていた言葉が喉元で立ち消えていく。そんな中、彼女は何とか文を取り出すと、城代へ差し出した。
「私の姉から預かった文をお届けに参りました」
城代の目から一瞬だけ笑みが消える。今日に至るまでに渡すのが忍びないほど酷く汚れてしまった文を見て、城代はただ一言「うん」とだけ言うと、それを受け取った。
いくら命を救われたとはいえ、いくら中身が本物の恋文だとはいえ——自分をずっと騙していた女が書いた文を読んで、この男は何を感じるのだろうか。
すぐ正面で胡坐をかき、そのまま文を読み始めた城代を見つめる彼女の胸に一抹の不安がよぎる。
しばらくして、城代は文から視線を外すと、天井に向かって長く息を吐いた。
「ずっと、考えておったのだ」
彼女は黙ったまま、その独り言にも聞こえる静かな言葉の続きを待った。
「どこまでが嘘で、どこからが真実なのかと。だが、其方の姉が私を好いていてくれたことが嘘ではなかったと、ようやく知ることができた」
城代は再び彼女を見て、ありがとう、と笑った。その一言で、城代だけでなく姉の、そして自分の想いも報われたような気がして、彼女も目を細め、口元をほころばせた。
あの姉がどうして城代に惹かれたのか。この短い時間でも、十分に理解できた気がする。
やがて城代は何を思ったのか、顎に手を当てた姿勢で、微笑んでいる彼女をじっと見つめた。それに気付いた彼女は慌てて表情を引き締める。
「それにしても、姉とよく似ているな」
「そ、そうでしょうか。あまり言われたことはないのですが」
「いや、笑ったときの頬の膨らみが似ている」
そう話す城代の手が彼女の頬に伸びる。
だが、その指先が緊張して身構える彼女に触れることはなかった。真剣な顔で手を伸ばしていた城代だったが、徐々に表情を緩め、しまいには大口を開けて豪快に笑い始めた。
静かだった座敷に、城代の朗らかな笑い声が響き渡る。
「そんな怖い顔をしなくても、代わりに娶ろうとは考えていないよ。雑渡組頭」
城代は一頻り笑ったあと、何が起きたのか分からずにいる彼女——ではなく、その後ろに控えていた雑渡に対し、にやりと笑ってそう言った。
勢いよく振り向いた彼女は、いつの間にか座敷の隅に控えていた雑渡の姿に驚きを隠せなかった。動揺し、腰を浮かせている彼女とは対照的に、雑渡は冷静に膝をつき頭を下げたままでいる。
「殿の御用はもうお済みかな?」
「今しがた、滞りなく」
「では、私は少し殿と話をしてこよう。組頭、後のことはよろしく頼む」
「承知しました」
「」
突如名を呼ばれ、雑渡に目を奪われていた彼女は再び城代へと向き直る。立てた片膝に腕を置いた城代は、彼女に顔を寄せるとまっすぐな瞳でこう言ったのだった。
「其方の姉のおかげで、私は今も生きている。何かあれば全力で力になるぞ」
城代が座敷を後にし、部屋には再度沈黙が舞い戻ってきた。
これで託された役目は終わった——。
達成感と、喪失感に近い感覚。それらが一気にやってきて、緊張が解けた彼女は安堵の息を漏らす。
「では、行こうか」
気が付けば、雑渡は彼女の背後から手を差し伸べていた。
どこへ、と尋ねる直前に墓参りの話を思い出し、彼女は頷いて雑渡の手を取り立ち上がる。少しだけ荒れてささくれだっている雑渡の手を見つめながら、まずは戦の勝利を祝うべきか、ようやく文を渡せたことへの礼を述べるべきか、はたまた先日雑渡から言われた二つの言葉の意味について触れるべきか——久しぶりに顔を合わせた彼への言葉を散々悩んだ挙句、どれも選べないまま彼女は口を開いた。
「てっきり、今日はお会いできないものと思っていました」
「戦の後始末に追われていてね。待たせてしまって申し訳ない」
「いえ、仕方のないことですから……そういえば」
彼女は胸元からもう一通の文を取り出した。姉の文とは違って皺一つないそれは、学園長から雑渡へ渡すように、と頼まれたものだ。
学園長から預かった旨を告げると、雑渡は怪訝そうな顔をする。しかも彼は中身をちらりと確認しただけで、すぐに懐へしまってしまった。
あまりにも一瞬で、彼女は目を丸くする。
「学園長殿は何と?」
「いや、殿が気にすることではないよ」
やんわりと言われてしまい、彼女は押し黙った。たしかに、雑渡宛の文の内容を聞くのは少々不躾だったか。こくりと頷いた彼女に雑渡は優しく笑いかけたあと、もう一度「行こうか」と言って、文を渡すために離れた手を再び取った。
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城下町を抜けた先、城からはそう離れていない山の中にその寺はあった。
もう花はないが、あちこちに植えてある山茶花の木。ひょっとすると、ここはいつか雑渡が話してくれた寺なのかもしれない。そんなことを考えながら本堂の脇を抜け、さらに境内の奥へと進む。するとそこには木立に囲まれた小さな墓地があり、雑渡はその片隅、一つの小さな五輪塔の前で足を止めた。
ひっそりと静かに佇む五輪塔の傍らには、数輪の花をつけた梅の枝が置かれていた。恐らく城代が時折訪れているのだろう。彼女は雑渡の前に出て、ゆっくりと五輪塔の前に屈んだ。
「どこか希望の場所があれば、そこへ移すこともできるだろうが」
雑渡の申し出に、彼女は首を横に振る。
この寺からは、城代のいる城がよく見えた。今は物寂しいが、あと少しすれば桜が咲き乱れ、冬になればきっと山茶花がたくさんの花をつけるだろう。
「好いた人のそばで眠るのが一番いいと思いますので」
「それもそうだね」
彼女は手を合わせ、目を閉じた。
終わりましたよ、姉上。心の中でそう呟いて、彼女は瞼を開けた。風が吹いて、木々のざわめく音に耳をすませる。
そうだ。終わったのだ。すべて。
「殿は、城代を憎いと思ったことはない?」
墓地を離れ、雑渡と肩を並べて境内を歩いていた彼女は、突然の質問に思わず「憎い?」と聞き返した。彼女自身、今日初めて会った城代には憎いどころか感謝の気持ちしか湧いてこない。雑渡の質問の意図が、まったく読めなかった。
そんな彼女の様子から感じ取ったのか、雑渡は正面を向いて歩きながらこう続けた。もし城代と出会わなければ、姉君はまだ生きていたかもしれない、と。
それはたしかにそうだ。でもそれはそれ、だ。
一度絡まってしまった糸をほどくのは、なかなか難しい。それに第一、城代と出会わなかったとしても、姉が最終の試しを通ることができたか。それは彼女にも、誰にも分からないことだった。
「もし……もしですよ?」
「うん」
「雑渡殿のお身内の方が、誰か大事な人を庇って亡くなられたとして……雑渡殿は、その庇われたお相手を憎いと思いますか?」
そう聞く前から彼女には分かっていた。雑渡が憎むはずがない、と。
彼女の確信めいた声色に、雑渡は愚問だとでも言いたそうな眼差しを向けた。そしてどこか遠いところを眺めながら笑う。
「いや、まったく」
「そうでしょう」
「幸せに生きてほしいと思うよ」
「私もです」
短い会話を交わし、二人は再び黙り込んだ。寺に自分たち以外の人の姿はなく、辺りは静寂に包まれている。
これ以上、彼女がタソガレドキに長居をする理由はなかった。城代に迎えられたとはいえ、忍術学園で暮らす自分がタソガレドキ領内をうろつくのはあまりよく思われないかもしれない。なんとなく後ろ髪を引かれる思いを感じながらも、彼女は歩みを進めた。
でもやはり、心の真ん中に居座っているのは、雑渡から出された『宿題』の件だった。しかし彼女がその件について触れようとする度に、雑渡から質問が飛んでくる。
「忍術学園で働くのは慣れた?」
「大分慣れましたよ。と言いつつ、まだまだ子どもたちに振り回されることも多いのですが……」
少し困ったように笑いながら彼女は答えた。
境内がやけに静かに感じるのは、子どもたちの声が聞こえないからかもしれない。今頃は昼の授業が終わり、下級生は自由に遊んでいる頃だろうか、と空を仰ぐ。
「同じ世に生まれても、平行線のようにずっと交わらない世界だと思っていました」
未だに自分が子どもたちと一緒に過ごしていることが信じられないときがある。そう話すと、雑渡も抜けるような青空を眺めた。
この空の下、生きている人間すべてにそれぞれの人生や想いがあるということを、この年になるまでちゃんと理解できていなかった。というより、考えたことがなかった、という方が正しいかもしれない。
姉と城代の世界、そして自分と子どもたち、雑渡の世界が交わり、それは全員に大きな変化をもたらしたと思う。
「まだ自分は死ぬべきだと思う?」
次の質問に顔を向けると、雑渡はいつの間にか空ではなく彼女へと視線を向けていた。
姉が城代への文に加えた一文。それを思い、彼女は「いいえ」と呟く。
「今は、精一杯生きていきたいと思っています。ただ、その前に……」
「その前?」
「この恩をどうお返しすればいいのか、考えても分からないのです。雑渡殿、貴方に」
恩、という言葉に雑渡はいまひとつ腑に落ちていない様子だった。
世話になったから、という理由でわざわざ忍術学園まで団子を届けに来たことのあるこの男にとって、恩は返すことはあっても返されることは滅多にないものであるらしい。
彼がいなければ、城代へ文を渡すことは難しかっただろう。だからそれについて自分から礼をすることは、当然のことだというのに。
雑渡はしばらく考え込んだあと、彼女に一歩歩み寄り、手を握った。優しく触れられるたびに彼女が何を思うか、何を感じているか、まるですべて気付いているように微笑みながら。
「私が殿に望むことは……君が忍術学園のよい子たちと穏やかに恙なく、笑顔で毎日を過ごすことだよ」
平静を装いながらも、胸の奥がじんわりと熱を帯びていく。
しかし、彼女が口を開いた途端、それまで優しく握られていた雑渡の手に強く力が込められた。驚いて、彼女の肩に力が入る。
「ざ、雑渡殿?」
「——と」
「……と?」
「思っていたのだが」
雑渡はふう、と一つ息を吐くと、そのまま彼女の手を一気に引いた。
突然のことにされるがまま、立ち並ぶ山茶花の木々の後ろに連れ込まれる。広々とした開放的な境内から、急に木々に囲まれた狭い場所に引き込まれ、彼女は鼓動が一気に速まるのを感じた。
雑渡の胸に巻かれた包帯がすぐ目の前にある。顔を上げることが、できない。
「この身が炎に焼かれたとき、欲というものも一緒に燃えてしまったと思っていたが」
「ざ、雑渡殿……」
「どうやらそうではないらしい」
ごくり、と喉が鳴る。ふと、もう咲いていないはずの山茶花の優しい香りが鼻を掠めた気がした。
「答え合わせをしようか」
「こっ、答え合わせって」
「以前、私が伝えた二つの言葉の意味について。考えてくれたかな?」
考えてくれたも何も。雑渡に会えない間も、今日会ってからも、そのことばかり考えている。
速まる鼓動のせいか、頭がくらくらして呼吸が浅くなっていくのを感じた。だが、覚悟を決めて雑渡を見上げる。彼は彼女の手の甲を指の腹で撫でながら、至極楽しそうに答えを待っている。
「私の頭では、一つの答えしか出せなくて」
「うん」
「その、ええと、雑渡殿は……わ、私を一人の女子として好いてくださっているということでよろしいですか!」
ですか、ですか、ですか……と彼女の声が辺りにこだました。
雑渡の手をぎゅっと握り返し、心臓の音に負けじと大声を張り上げた彼女は、自分が出した答えがただの自意識過剰でないことを祈りながら奥歯を噛み締める。
思いがけない声量に、雑渡は目を見開いた。しかし何度か瞬きしたあと、すぐにくつくつと喉を鳴らして笑い始める。
「……間違っているなら、はっきりそうおっしゃってください」
「言ったらどうなるの」
「今ここで自害します」
「精一杯生きていきたいって言ったばかりなのに」
「それとこれとは話が、」
言い切る途中で、雑渡の空いている方の手が彼女の腰を抱き寄せた。
頭上から長いため息とともに「正解だよ」という言葉が落ちてくる。彼女は雑渡の心音を聞きながら、言おうとした言葉を飲み込んだ。
彼の心音はいたって正常だ。自分の今にも破裂しそうな心臓とはまったく違って落ち着いている。まるで好いている女子の身体を抱いているとは思えず、彼女は口を尖らせた。
「でも……それが雑渡殿の本心なのか、私には分からないのです」
「まあ忍びだからね、そんな易々と本心をさらけ出したりはしない。でも」
雑渡は彼女の両肩に手を置いて、今にも涙が零れ落ちそうな彼女の両目を覗き込んだ。
「好きだよ」
「どれくらい?」
自分だけ心を揺さぶられていることが悔しかった彼女は、面倒くさい質問だと思いつつもそう尋ねた。
雑渡は考えて、彼女の頭――正確に言うと、彼女の髪に挿さっている簪に触れた。以前のように悪戯に髪から引き抜くようなことはせず、飾りの部分を指でするりとなぞる。
「そうだね……君が他の男からもらったこの簪を、今すぐ割って粉々にしてしまいたいと思うくらいには」
「これはその、シナ先生がつけていけ、と」
「今日の着物も山本殿が?」
「あ、はい」
「さすが一流のくノ一である山本シナ殿。男の感情を掻き乱す技に長けていらっしゃる」
雑渡は少しの嫌味を込めてそう言うと、彼女の頭から足元までを眺めて「今日は一段と美しい」と目を細めた。
好きだとか美しいだとか、雑渡の直球すぎる言葉選びに彼女は叫び出したくなった。言ってしまえば、菓子のように甘ったるい空気に窒息死してしまいそうだ。
ただでさえ腰を抱かれて逃げられないこの状況で、さらに顔を寄せられて彼女は雑渡の肩を押し返す。
「まあ、殿は初めて会ったときから可愛らしかったけど」
「な、なんですか、先程から」
「何って、ただ口説いているだけだよ。君は強引なのに弱いみたいだから」
否定できずに睨みつけると、雑渡は何か問題でもあるのか、とでも言うように首を傾げてみせた。
強引ではあるかもしれない。だが雑渡は、自分が本気で嫌がればあっさりと身を引くのだろう。そう思いながら、彼女は彼の肩を押し返す力を弱めた。
雑渡の二つの言葉から導き出した、一つの答え。今度はそれに対する答えを、自分が彼へ伝える番だ。
「前、尊奈門に『幸せになろうと思っていい人間ではない』と言ったらしいね」
雑渡の肩で拳を作り俯いていた彼女は、その言葉に顔を上げた。
そういえば、いつだったか諸泉が単独で忍術学園へやってきたとき、そんなことを話した気がする——と記憶を遡る。
「私も同じだよ。幸せになっていい人間ではない」
「雑渡殿」
「だからいずれ、二人で一緒に地獄へ落ちよう」
なんとまっすぐで、これ以上ないほど物騒で、それなのに酷く甘い口説き文句だろう。
すべての覚悟を決めた瞳でそんなことを言われたら、もうどうしようもないではないか。呆れながらも、その言葉がどうしようもなく嬉しくて、彼女は口元が緩むのを堪えきれずに小さく息を吐いた。
「……私の身の上は、タソガレドキ忍軍組頭のお相手としてふさわしくないのではないでしょうか」
「城代に言われたことを忘れた? 君には城代の後ろ盾があるから何の問題もない。あとは殿がどうしたいか、だよ」
「その……あの」
たっぷり間を置いて、彼女は雑渡から視線を外し、頬を赤く染めて小さな声で呟いた。
「……やぶさかではございません」
その直後だった。ずい、と迫る雑渡の顔。彼女は慌てて、両手で彼の口を押さえた。
雑渡の息遣いが手のひらに伝わってくる。不満そうに目を眇める雑渡を咎めるように彼女は声を上げた。
「外ですが!?」
「何か問題でも?」
「問題というか、皆さん見てますよね?」
気付いてますよ、と彼女は小声で言って、ちらりと雑渡の背後へ視線を投げた。目を凝らしても見えないほどの距離ではあるが、寺の裏手に聳え立つ大木に、いつもの面々——山本や高坂、また彼女をここまで連れてきた諸泉までもがいることに彼女は気付いていた。
もちろん雑渡もそれは承知の上だった。彼は、以前に山本から矢羽根で窘められたことを覚えていながらも行動に移したわけだ。
彼女は注意深くそちらを見つめながら、真剣な様子で「諸泉殿からの殺気を感じます」と言う。
雑渡は彼女の腰を抱いていた手を放すと、その手を軽く頭の位置まで掲げた。
「じゃあちょっと外してもらおうか」
「いや、わざわざ皆さんにどこかへ行っていただくのも抵抗があります! 今から口吸いしますよって宣言しているようなものではないですか!」
「もう皆行ったよ。いいじゃない、初めてじゃあるまいし」
その言葉に、彼女はさらに顔を赤くした。なかったことにしたはずなのに、さらにそれをなかったことにされている。
ころころと変わる彼女の表情。雑渡は飽きないな、と思いながら、隙を見て狼狽える彼女の口に自身の唇を押し当てた。ほんの一瞬、口布越しではあるが、柔らかく温かな感触に彼女ははっと息を呑む。
「私の部下に気を取られすぎて、目の前にいる私への警戒を怠っているよ」
「……ずるい」
「こう見えて、悪いお城に仕える忍びだからね」
雑渡は人差し指で口布を下ろすと、もう一度、何かを言おうとしていた彼女の口を塞いだ。
意外にも、今度は肩を押し返されることもなければ、矢羽根が聞こえてくることもなかった。
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雑渡は珍しく機嫌が良かった。
ドクタケとの急な戦に、いつも通り融通の利かない殿、忍軍の指示に従わず好き勝手する侍たち。それらに溜まりに溜まった鬱憤が、彼女の承諾の返事によって一気に晴れていくようだった。
そのため、寺から城下町へと続く山道を歩いている最中に「早速話を進めさせてもらう」と伝えたところ、彼女からの返事が「ちょっと待ってください」だったことに雑渡は仰天した。
まさか、今更嫌になったわけではあるまいな——。思わず立ち止まった雑渡に合わせ、彼女も足を止める。まじまじと見つめた彼女の顔は、ふざけているようではなく何やら思案顔である。
「……何か心配事でも?」
「いや、心配事ではないのですが……こういう話ならば『許可』がいるのではないかと」
「許可?」
その言葉に、雑渡は僅かに首を傾げた。
タソガレドキ側は、城代の存在もあり何の支障もないと考えている。先程、城代は殿と話をすると言っていたが、十中八九彼女のことについてであるから、殿についてもきっと問題ないだろう。
では、彼女側はどうだろうか。彼女に身内はいないし——と、そこまで考えた瞬間、雑渡は思い出してしまった。
堂々と、彼女を「タソガレドキ領へお連れしようと考えております」と宣言したときの、あの眼の光を。
「私は忍術学園にお世話になっている身ですので……やはり学園長殿の許可が必要だと思うのです」
真剣にそう話す彼女に、雑渡は思わず額に手を当てて天を仰いだ。
そんな彼の頭の中に、今日彼女から渡された忍術学園学園長・大川平次渦正からの文が浮かぶ。時候の挨拶もなく、和紙の中心を陣取るように書かれた、あの一文。
『お主がまた儂に頭を下げに来る日を楽しみに待っておるぞ』
雑渡は不思議そうに見つめる彼女を目の前に、空に向かってため息を零した。そしてすぐに、ふっと降参するように笑う。
「まったく……食えぬお方だ」
(20260914)
(最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!)