※短編『宙に二人』の続きです。


 昔から、タイミングに恵まれない人生だったと思う。行列に並ぶと私の前で終わってしまうことがほとんどだし、中学の頃、課題を忘れて教室に戻ったらちょうど学級委員長と担任の先生が抱きしめ合っていて変な空気になったこともあった。大人になってからも、常々『敵じゃなくて良かった』『絶対に逆らえない』と思っている先輩の何気ない悪口(悪口のつもりはなかったけれど結果的にそうなった)を本人がいることに気付かず口走ってしまうなど、とにかくタイミングの悪さに関してはピカイチである。
 そして今この瞬間も、私にできることは息を潜めて自分のタイミングの悪さを嘆くことだけだった。

さんってさ」

 たくさん買ったから、と無垢な笑顔を浮かべる虎杖くんからもらった焼き芋が喉に詰まりそうになる。なんとなく一人になりたい気分だったので、サボり場所でもある書庫で久しぶりの焼き芋を楽しむことにしたところまではいいものの、急に聞こえてきた自分の名前に私は隅に隠れて縮こまり耳をすませた。
 書庫に入ってきたのは二人。声からするに、つい先日伊地知が紹介してくれた新人補助監督の男の子たちのようだ。
 さすがに新人の若い子二人にこんな薄暗い部屋で焼き芋を食べる女だと認識されたくないという気持ちと、まさかこんなところで自分の噂話を耳にすることになるとはという気持ちで、心臓の音がどんどん早くなっていく。

さん?」
「うん、なんでもさんと五条さん、付き合ってるらしいよ」

 とりあえず少しでも窓を開けていて良かった……と思った瞬間、彼らの話の内容に噎せそうになるのを必死に堪えた。嘘でしょ、というか嘘だよそれは、なんだその変な噂話は! と飛び出していきたい気持ちは山々だったけれど、右手に持つ焼き芋がそうはさせてくれない。
 私が背もたれにしている棚の向こう側で資料や古書を整理しているのか、彼らの声は私の耳までしっかりと届いてくる。変な噂話を聞かされた方の男の子が、小さく「え……」と声を漏らし、不快感をあらわにした。

「あんなに有能なのに、なんでよりにもよってあの人なんだろうな」

 私と五条さんがお付き合いしている、というデマが流れている理由は深く考えなくても想像ができた。定期的に催されている、私と五条さんの空中散歩だ。
 私のタイミングの悪さがきっかけとなり行われることになった空中散歩は、今のところ三日に一回のペースで行われている。五条さんの出張などで間が空くこともあったが、それも精々一、二週間程度。始まりはともかく日課に加えてしまえば、単純に普段自分一人では感じることのできない解放感を味わうことができるとあってまあまあ私も楽しんでいたと思う。
 でもそれは、最初のうちだけだ──。再び書庫で一人になった私は、なんとも言い難い気持ちで冷めてしまった焼き芋を一口齧った。
 五条さんとの空中散歩で、だんだん景色に集中できなくなっていったのはいつからだっただろう。重いから、と私が何度訴えても、五条さんは私を抱えることをやめなかった。宙に二人、常々『敵じゃなくて良かった』『絶対に逆らえない』と思っている先輩とはいえ、あんなに身体を密着させてずっと意識しないでいられる方が無理に決まっている。

──なんでよりにもよってあの人なんだろうな。

 先程聞いた言葉が頭の中を駆け巡る。確かに五条さんと私では釣り合わない。当たり前と言えば当たり前の言葉だ。
 あまり深く考えたくないけれど、もし彼らが『お似合いだ』と話していたら、きっと完食していただろうな。食べきれなかった焼き芋を再び新聞紙に包みながら私は立ち上がった。
 なるべく早い方がいい。今のうちにやめよう。窓から僅かに覗く青空を眺めながらそう決意した。五条さんに迷惑がかかる前に、空中散歩はやめてしまおう。

* * *

「出張お疲れ様でした、ゆっくり休んでください」
「ありがと……あ、そうだ伊地知」
「はい?」

 車を降りる前に名前を呼ぶと、エンジンを止め運転日報をつけていた伊地知はこちらを振り返った。普段あまり伊地知と組むことはないので、同じ車内で見つめあっているのはなんとも不思議な気がする。呼んでおいて何も言わない私に、伊地知は「どうしました?」と眉を顰めた。

「来月もさ、出張ありの任務を優先で入れてくれると助かるな~と思って」

 私の一言で、伊地知の表情がさらに険しいものへと変化する。私以上に五条さんに逆らうことができない伊地知のことだから、ひょっとしたら何か言われているのかもしれない。そのことを察した私は笑顔で「よろしく!」と手を挙げて、そのまま外へ出た。伊地知が呼び止めるのを無視して、早足で歩いていく。
 私が何か適当な理由を並べたところで、五条さんはきっと空中散歩をやめることに同意しない。そう考えた私は、愚策であることを重々承知した上でとにかく逃げることにした。以前まで消極的だった遠方での任務もたくさん入れてもらったし、学生たちと戯れる時間もなくして高専内で過ごす時間を短くした。五条さんだって私以上に忙しいわけだし、このまま時が経てば「あの頃はよく空中散歩してたよね」と楽しい思い出話にできるかもしれない、と思ったのだ。
 人の噂も七十五日。最近は私と五条さんについての噂話を耳にすることもない。逃げることを実行してすぐの頃は怒った五条さんに追いかけられる夢を見たりもしたけれど、今のところ五条さんから連絡が来ることもないし、案外向こうもやめるタイミングを伺っていたのかもしれない。
 無事に任務を終えることができたのに、廊下を進む足取りが重い。なんだかすっきりしない気持ちを胸に抱えながら、私はぶんぶんと頭を振った。明日の準備をして、さっさと帰ろう──。

「あれ、じゃん」

 今日、帰りの車内で確かに伊地知はこう言っていた。五条さんは明後日まで京都ですよ、と。前方からこちらに向かって歩いてくる男は、どこからどう見ても五条さんだ。あの人を見間違える人間が呪術界にいるわけがない。青褪める私に向かって笑みを浮かべ、楽しげにおっひさ~と手を振っている様子から見るに、私が想像するより怒っても気にしてもいないらしい。
 大丈夫、いつも通り、と頭の中で唱えながら、引き返すことはせずにそのまま前進する。私も五条さんと同じように笑って手を振り返したけれど、果たしてうまくできていたかどうかは分からない。五条さんとの距離が、少しずつ狭まっていく。

「最近会ってなかったけど、元気?」
「元気です~お疲れ様です~では~」
「かーべー」
「え?」
「どん」

 挨拶を交わすだけ、と思っていた五条さんが、急にひらひらと振っていた手を壁につき私の行く手を阻んだので思わず息を呑んだ。どん、の部分で五条さんが力強く壁に手をついたこと、そして今私と五条さんのいる場所は老朽化が進んでいる建物であることから、天井から小さな木屑がぱらぱらと落ちてくる。はい確定。五条さん、お怒りです。
 私が話し出すより先に、五条さんは「僕は優しいからね」と息を吐きながら言った。

「一応言い訳聞いてあげるよ、僕を避けている理由は?」
「さっ! 避けるだなんてそんな、最近任務で高専にいないことが多くてですね……」
「伊地知から聞いたけど、なるべく遠方での任務を自分に振ってくれって頼んでるんだって?」

 五条さんの偽スケジュールを私に伝えるのみならず、よりにもよって一番ばらしてほしくないことを五条さんに言うとか伊地知お前~!? そう脳内で叫んでもあとのまつり。焦る私を冷静に見下ろす五条さんが、徐々に顔を寄せてくる。久しぶりの至近距離に心臓が爆発しそうだけれど、そんなことを考えている場合ではない。今、五条さんが壁についている右手は、そのまま壁だけでなく私をも簡単に吹き飛ばすことができるのだ。
 実は高いところが苦手で、とか? いやでも高いところが苦手な呪術師なんてそもそもいないし、最近すっかり寒くなってきたから、とか? でもそれは厚着すればいいだけのことだし……。それらしい言い訳を考えながら「あのそのえっと」と口ごもる私の顎に触れた五条さんが「」と私の名を呼んだとき、五条さんの背後から小さな足音が聞こえてきた。三人ほどの気配を察知した途端、だんだんと血の気が引いていく。少し前に書庫で聞いたあの言葉が蘇ってきて、私は顎に触れていた五条さんの手を強く握った。

「と、とりあえず場所変えませんか、人が来るので」
「なに、一緒にいるとこ見られてまずいことでもあんの? 散々空中散歩見られてんのに」
「だってこのままじゃ」
「僕は優しいからね」

 先程聞いたばかりの台詞を再び吐いた五条さんは壁から手を離し、「選択肢を二つあげる」と言うと、その手を今度は私の腰に回した。突然のことに、選択肢を二つと言われましても私としては場所を変えるの一択なんですが……という不満は飲み込むしかなかった。

「今からここで抱き合っているところをみんなに見せつけるか」
「だ!?」

 なぜ!? という私の叫びと同時に、五条さんは腰に回していた手に力を込めて私の身体を引き寄せた。お腹や胸、空中散歩のときでさえ触れ合うことのなかった場所が密着していて、強い目眩を感じる。服を着ていても分かる五条さんの体格の良さに頭がおかしくなりそうだ。
 足音が徐々に近付いてくる。こんなところ、見られたら。

「それか、今から僕と久しぶりの空中散歩を楽しむか」

 五条さんが提示した二つの選択肢、どちらを選んでも見られてしまえば噂話が復活してしまうことは間違いないだろう。
 五条さんは一層笑みを深くした。

「さ、どっち?」

* * *

 肌を刺す空気の冷たさと口から漏れ出る白い息が、前回の空中散歩から一つ季節が過ぎ去ったことを教えてくれる。天気はよく風はないものの、夕方ということもあり気温は低い。コートにマフラー、そして背中には貼るホッカイロという重装備の私を抱きかかえ宙を進む五条さんは、寒くないのか先程と同じ格好で「いい天気じゃん」と笑った。マフラーに口元を埋め、遠く先を見つめる五条さんをそっと盗み見る。結局この一回で、今までの私の苦労は水の泡だ。そう嘆きたくなる気持ちもあったけれど、この角度から見る五条さんは久しぶりで、何度も目にしているはずなのになんだかむず痒い気持ちの方が大きかった。
 五条さんが顔をこちらに向ける。咄嗟に視線を逸らした。

「んで? なんで避けてたわけ?」

 雑談することさえ許してくれないのか、早々に本題へと入る五条さんの目隠しの奥から視線をびしびしと感じながら、消え入りそうな声で「別に避けてないです」と呟いた。嘘だ。

「避けてたでしょ」
「避けてないです」
「避、け、て、た、でしょ?」
「避、け、て、ま、し、た! すみません!!」

 せん、せん、せん……と、やまびこが起きて私の声が反響する。私はマフラーをさらに引き上げ、そのまま目元まで隠した。五条さんに次何を言われるのか怖かったのと、見られることに耐えられなくなったのだ。しかし五条さんの追及は続く。

「なんでよ、さすがの僕も傷つくんだけど」
「だって」
「だって?」
「……五条さんと私が付き合っている、っていう噂が流れてたし、それでその、みんな五条さんと私じゃ釣り合わないって言ってて」
「……誰が言ってんのそれ」
「……秘密です」

 言い終えると鼻の奥がつん、とした。寒いからでも、五条さんの声色が変わったからでもない。気持ちを落ち着かせるために、マフラーの中ではあ、と息を吐いた。

「五条さんに迷惑とかかけたくないし、それに、もう集中できないんです」
「集中って、なにに?」
「景色に……」
「それは別に集中しなくてよくない?」
「変に緊張とかしちゃって、心臓が持たないんです。どきどきして今も死にそうなんです。そもそも、五条さんだって……五条さんだって、私が勝手に空中散歩やめても何の連絡もしてこなかったじゃないですか……」

 分かっている。最後のは違う。最後のは、ただの八つ当たりだ。やめようと決めたのは自分なのに、連絡してこなかった五条さんを責めるのは間違っている。
 言い終えると、五条さんが歩みを止めた。ずいぶんと高いところまで来たのか、先程まで聞こえていた鳥の鳴き声も聞こえない。さすがに今のは怒っただろう。そう思いながら顔を覆うマフラーを両手で強く握りしめたとき、五条さんが吹き出す声が聞こえたので、驚いた私はゆっくりと目元だけをあらわにして彼の顔を見上げた。

「ふ、ははは」
「なにがおかしいんですか」
「いやだってそれさあ……まあいいや」

 ひとしきり笑った五条さんは「そういうことね」と納得したように言うと、上を向いて大きく息を吐いた。白い息がふわ、と舞って、すぐに消えていく。

「じゃ、の希望通り空中散歩は今日でおしまいにしよう」
「あ、えっ」

 さらりとそう言ってのけた五条さんに、私は戸惑いを隠せなかった。何も言えずただ五条さんを見つめる私に、彼は首を傾げる。こんなにあっさりと、やめることを了承してくれるだなんて。どこか拍子抜けしてしまった私は小さく頷いたあと、ゆっくりと沈んでいく夕陽へと目を向けた。今日でおしまい、ということは、この景色をこういう形で見るのはこれが最後になる、ということだ。
 そう、これでいい。今私が感じているこの物悲しい気持ちは、きっとこの夕陽のせいだ──。もう一度、五条さんへ視線を戻す。夕陽の光でいつもより一層輝いて見える白い髪の毛が眩しくて、シャッターを切るように何度も瞬きをした。

「ただ、の要望だけ聞くってのもフェアじゃないよね」

 すん、と私が鼻をすする音と五条さんのそんな言葉が重なって、「うえ」と変な声が漏れる。フェアじゃない、と言われても。五条さんの言いたいことが分からず、私は黙ったまま「そうだなあ」と悩む素振りを見せる彼の次の言葉を待った。
 かあ、と大きく鳴いたカラスが私たちの真下を飛んで行く。その鳴き声にびくりと身体が震えたとき、五条さんが「よし!」と大きな声を上げたのでさらにどきりとした。

「さっきの噂、本当にしちゃおうよ」
「え?」
、僕の本当の恋人になってよ」
「……え!?」

 え、え、え……。再びやまびこである。何度も「え?」と呟く私を見て、五条さんは愉快そうに笑っている。からかっているのかと尋ねる前に「本気だよ」と言われたものだから、私は再度マフラーを引き上げて顔を隠した。
 気のせいか、五条さんの私を抱える力が強くなった気がする。早鐘を打ち続ける心臓に身体が飲み込まれてしまいそうだ。

「でもそんなの、五条さんに迷惑が」
「迷惑ならこんなこと言わないよ」
「でも、ま、周りになんて言われるか、」
「周りなんて気にする必要ある?」

 『でも』のあとに続く言葉が、何一つ通用しない。五条さんがくつくつと喉の奥で笑う。背中のホッカイロが燃えているのかと思うほど全身が熱くなっていく。

「で、でも」
「早く『はい』って答えないと、落としちゃうよ?」

 ふ、と五条さんの腕の力が緩み、身体が宙に放り出されそうになる。その瞬間、私は両手を伸ばして五条さんの首にしがみついた。はい、はい、と、うわ言のように呟きながら。

「ばかだなあ、は」

 五条さんは呆れたようにそう言ったあと、そのまま私を抱き締めた。強く、そしてとても優しい力で。

「僕がを離すわけないでしょ」

 やっと捕まえた。耳元でそんな囁きが聞こえて、私は静かに目を閉じた。五条さんの言葉は不思議で、そのときにはもうそれまで悩んでいた全部がどうでもよくなっていた。私の脳が単純なのか五条さんがすごいのか、きっと両方だろう。

「……あの」
「ん?」

 腕の力を緩め顔を上げれば、私のとても小さな声を拾った五条さんが首を傾げながらこちらを見つめている。非常に言いにくいんですけど、と前置きをして新たな要望を伝えれば、一瞬だけ真顔に戻った五条さんはすぐに盛大に笑ったのだった。

「空中散歩、やっぱり継続でお願いします」


* * *


 机に頬杖をつき舌打ちを打つ釘崎。その隣で静かに本を読む伏黒。任務帰りに寄ってもらったコンビニで買った肉まんの袋を片手に教室へ戻ると、そんな二人の姿が目に飛び込んできて俺は頬を掻いた。

「えーと、なんで釘崎そんな機嫌悪いん?」

 俺の問いかけに釘崎はもう一つ舌打ちをしたあと、「賭けに負けたのよ」と吐き捨てるように言った。釘崎の言う『賭け』が一体何の話なのか分からず伏黒に助けを求める。伏黒は無言の俺に気付いてこちらを一瞥したあと、本のページを捲った。

「真希さんと賭けてたらしいぞ」
「だからその賭けが何なのかが俺よく分かってねえんだけど」
「五条先生とさんが、年内に付き合うか付き合わないか」
「へえ?」

 席に座り、袋を漁って肉まんを取り出しまだ僅かに温かいそれにかぶりつく。そういやちょっと前に五条先生とさんが付き合ってる? とかいう噂が流れて、うわー五条先生やったじゃん! とか思ってたんだけど、結局それはただの噂話でなぜかめちゃくちゃ凹んだんだよな。
 そこまで思い返したところで、俺は伏黒の言葉のある部分が気になって顔を上げた。

「え、年内?」
「ああ」
「今十一月で、年明けてねえけど」

 釘崎は「賭けに負けた」と言った。年が明ける前にもう勝負がついたということは──。食べかけの肉まんを持って固まる俺に、相変わらず本に目を落としたままの伏黒が「そういうことだ」と呟く。

「マジで!?」
「マジで」
「へえ~! あ、だからか」

 ふと、今日俺についてくれた補助監督の人のことを思い出す。数か月前に新しく入った男の人だったけど、そういやなんか元気なかったんだよな。さんって男女問わず補助監督の人らに人気らしいし、五条先生とさんのビッグカップル誕生って結構そういう人たちにダメージ与えたんじゃねえの?

「まさかさんの目が節穴とは予想外だったわ」

 釘崎が呆れたようにため息を零す。先輩と何を賭けたのか聞けば、『来年一年間、休みがかぶったときは相手に昼食を奢る』らしい。休みが不定期の俺らにとって、同じ一年ならまだしも二年である先輩と休みがかぶることはそんなにないとは思うけど、それにしても一年って期間長くね?
 残っていた肉まんを口に放り込む。少し迷って、袋に入っているもう一つのピザまんを「食う?」と釘崎に差し出した。
 今度、五条先生にはお祝いにあんまん買ってあげよっと。


この場所から、また



(2023.02.08)リクエストありがとうございました!