「五条さんって、高いところが好きなんですかね?」


今日の任務の報告書をまとめながら何気なく発した言葉に、私の目の前で新聞を読んでいた七海さんがちらりとこちらに視線を向けた。


「さあ、私は五条さんについて詳しくないので」
「なんかよく高いところにいるイメージがあるんですよね…この前の任務でも、私が祓い終わって帳が解かれたあと浮いてたんですよ、宙に」


そこまで説明したところで、そもそもなんであのとき私の任務地に五条さんいたんだっけ?と疑問を抱いたが、詳しいことは分からない。ぼんやりと考えながら、まとめ終わった報告書を上から見直していく。特に問題も抜けもなさそうだったので、報告書をテーブルの上に置いてすっかり冷めてしまったコーヒーに口をつけた。


「『浮いている』というより『落ちない』という表現が正しいと思いますが」
「そう…ですね?どういう意味ですか?」
「…まあ、近くで見るより、俯瞰した方が見えるものもあるのではないでしょうか」


大して興味もなさそうに、さらりと説明を放棄した七海さんに曖昧に頷いてみせる。私はマグカップをテーブルの上に置き、前のめりになってこそこそ話をするように七海さんに顔を寄せた。


「五条さんの前では絶対言えないんですけどね?」
「…
「ほら、ことわざであるじゃないですか、『馬鹿と煙は高いところへ上る』って」
「楽しそうだね〜、


私でも七海さんでもない誰かの声が聞こえて、ぽんっと双肩を叩かれる。その瞬間、背中がぞくりとして一気に汗が吹き出すのを感じた。頭の中に浮かんだ『まさか』を全力で否定する。

──ありえない、だって、確か遠方出張で戻りは明日だって…。

恐る恐る振り返ると、そこには満面の笑みを浮かべた五条さんの姿があった。とりあえず私もにっこり笑ってみせるが、顔が強張り口元が引き攣ってしまう。


「お、お疲れ様です!あれっ、明日戻って来られるって…」
「なんかあっさり終わっちゃってさ、一日早く帰ってこれたんだよね」
「そうなんですか、さすが五条さん!」
「うん、で?誰が馬鹿だって?」


顔面蒼白。ひょっとしたら聞こえていなかったかもしれない、という私の淡い期待は見事に打ち砕かれ、心臓の鼓動がどんどん早くなっていく。ゆっくり顔を前方に戻し、視線で七海さんに助けを求める。しかし、七海さんは我関せずといった感じで新聞に目を落とし、優雅にコーヒーを飲んでいた。

とりあえず…逃げよう。


「えーと、あ、報告書提出してき、うわっ!」


報告書を手にして立ち上がろうとした瞬間、目にも止まらぬ速さであっという間に私は五条さんの肩に担ぎ上げられてしまった。腹部に感じる圧迫感に足をバタバタさせながら「五条さん!すみません!」と慌てて謝罪する。が、本人は私の言い訳を聞く気は一切ないようだ。


「七海、借りていくけどいい?」
「…別に私のものではありませんので」
「はは、そうだよね〜」


そんな言葉を交わし、回れ右をした五条さんは出口に向かってスタスタと歩き始める。「七海さん!」と叫んで両手を伸ばしてみたものの、七海さんは私を一瞥し、一言「ご武運を」と言うだけだった。

そのまま部屋を出て、誰もいない廊下を五条さんに担がれて進んでいく。五条さんが進む方向とは逆方向に頭があるので、どこに行こうとしているのかさっぱり分からない。これはもう山奥に連れていかれて殺されるのでは?と考えたそのとき、唯一の同期である伊地知の驚いた声が聞こえてきた。


「五条さん…と、さん?一体これはどういう状況で…」
「伊地知、助けて…!」
「ちょうどよかったじゃん、、報告書出すんだろ?」


五条さんはそう言うと、私の手から報告書を奪い取り伊地知に無理矢理押し付けた。任務に同行したのは別の補助監督なので、伊地知に渡したところで本人は困ると思うのだが…。伊地知は突然渡された報告書と私たち二人を交互に見ながらどうするべきか迷っているようだったが、五条さんの顔を見て怯えたように「確かに受け取りました!」と言ってそそくさと逃げてしまった。

悲しいことに、私も伊地知も高専時代から五条さんには逆らえない。「の今日の仕事おーわりー」と言い放った五条さんは、再び歩き始めた。

途中で階段に差し掛かっても、五条さんはスピードを緩めることなく一段飛ばしでのぼっていく。私、そんなに軽い方でもないのに、どうしてこんなにも身軽に動けるのだろう。


「五条さん、あの、下着見えちゃうんですけど…」


頭が下にあるせいで、少しくらくらしてきた。すごい今更なことを言って片手でスカートを押さえる。


「大丈夫大丈夫、の白いパンツなんて誰も興味ないって」
「ちょっと!見てるじゃないですか!」
「んもーうるさいなあ、ほらついたよ」


少し、いや大分ご機嫌ななめな五条さんがどこかのドアを開けると、生温い風が吹いて私の髪を揺らした。

──ここ、屋上…?

ようやく自分が今いる場所に気付いた瞬間、再び背筋がぞくりと震えた。しかし五条さんはそんな私を気にかけることなく、屋上をどんどん突っ切っていく。


「五条さん、ど、どこへ…」
「ほら、僕高いところ好きだからさ〜」
「すみません!失言でした!本当すみません!」
「よし、行くよ」
「ひっ…!」


簡単に屋上の柵を飛び越えた五条さんは、そのまま宙に向かって一歩踏み出した。短い悲鳴を上げた私は、自分の下着の心配も忘れて五条さんの背中にしがみつき、ぎゅっと目を閉じる。しかし、いくら経っても私の苦手なふわっとした浮遊感や、落ちていく感覚を感じることがない。私はそっと目を開けた。


「う、浮いてる…」
「落ちないだけだよ」


五条さんは七海さんと同じことを言うと、そのまま宙を歩き続けた。どんどん屋上が遠くなっていき、徐々に不安を感じる。これって、今は五条さんに担がれているから落ちないだけであって、五条さんが私を離したら普通に落ちるよね?


「あ」
「えっ」
「悠仁たちがいるよ、手でも振ってみる?」
「い、今とてもじゃないですけどそんな余裕は…」
「そうだね、は僕に言うことあるもんね」


五条さんはそう言って立ち止まると、肩に乗せていた私をあっという間に横抱きにした。いきなりのことだったので再び情けない悲鳴を上げ、慌てて五条さんの首に両腕を回す。いわゆるお姫様抱っこと呼ばれる体勢で正直めちゃくちゃ恥ずかしいけれど、場所が場所なのでなりふり構っていられない。五条さんはというと、片手でアイマスクを外し綺麗な瞳で私を見つめている。

私は震える声で改めて謝罪した。


「五条さんのいないところで、失礼なことを申し上げてすみませんでした…」
「違うな〜」
「えっ」
「ほらほら、落としちゃうよ」
「いやっ!ちょっ」


五条さんが私の両脚を支えていた手を離し、私は五条さんの首と肩にしがみついてぶら下がる体勢となった。やばい、本当に落ちる!というかこの姿勢、五条さんにもまあまあ負担がかかるのでは!?懇願するような目で五条さんを見つめるが、当の本人はもう一度「言うこと、あるでしょ?」と圧をかけてくる。今言いたいことなんて一つしかない。私はごくりと唾を飲み込んで、口を開いた。


「は、離さないで…」


そう言うと、真顔だった五条さんはにこりと笑って「いいよ」と呟き、私の背中と膝裏を支え自分の体に引き寄せた。安定した体勢に、少しだけほっとする。ちらりと五条さんを盗み見ると、少しだけ機嫌が直ったのか鼻歌を歌っていた。


「別に、高いところが好きってわけじゃないんだけどさ」


五条さんは遠くを見つめながら、「もういろいろと見落としたくないんだよね」と笑った。

『いろいろ』が一体何を指しているのか分からなかったが、そんな五条さんの横顔に自分の発言が情けなくなってしまい、もう一度「すみませんでした」と謝罪する。


「いいよ、その代わりにはこれからちょくちょく空中散歩に付き合ってもらうから」


いきなりの決定事項に、私は目を丸くした。


「えっ?それは…この体勢でですか?」
「そう、この体勢」
「それはちょっと…」
「嫌?下りる?」


五条さんが再び手を放そうとしたので、私は再度両腕に力を込めて五条さんにしがみついた。


「やっ、だ、だめ、ご、五条さん…」
「…お前それ、わざと?」
「え?」
「いや、何でもない」


はあ、と頭上からため息が振ってきて、「わざとじゃないからたち悪いんだよなー」と呟く五条さんに首を傾げる。と言うか、ため息をつきたいのはこっちなんだけどな。そう思いながら、ようやく私は周りの景色を眺めた。

自ら望んだわけではなかったけれど、いつも五条さんが見ている景色をこうやって見ることができるのは、かなり貴重な経験かもしれない。そう思った私だが、地上でどんな話が繰り広げられていたかなんて知る由もなかった。


* * *


「…んん?あれ、五条先生とさんじゃね?」


ふと目に入ってきた人物を細目で確認し指差すと、その場にいた全員が空を仰いだ。と同時に、釘崎が舌打ちをする。


「何アレ、人が汗水垂らして訓練してるっつーのに、鼻の下伸ばしてさんにベタベタしてんじゃないわよ」
「釘崎、よく五条先生が鼻の下伸ばしてるって分かるなあ」
「棘、そろそろあの二人が結婚するかしないか賭けよーぜ」
「しゃけしゃけ」
「えっ!?五条先生とさんってそういう感じなの!?」


驚いた俺の問いかけに、釘崎、パンダ先輩、狗巻先輩が目を丸くしてこちらに視線を向ける。


「何だ、お前知らねーのか」


呪具を下ろした禪院先輩が、呆れたようにため息をついた。


「高専で知らねーやつはお前ぐらいだぞ」
「えっ、マジ?伏黒も知ってんの?」


勝手に一人だけ休憩していた伏黒に話を振る。伏黒はペットボトルの水を一口飲んだあと、「…まあ、あの人らとは長い付き合いだからな」と呟いた。


「…あれだよ、五条先生の完全なる片想い」


少し間が空いて俺の絶叫が響き渡り、釘崎にうるさいと頭を叩かれた。

五条先生も、人の子だったんだなあ。俺はそんな当たり前の事実に少しだけ感動して、頭上にいる先生に心の中でエールを送ったのだった。


(2022.03.22)