ふ、と目を開けると、真っ先に飛び込んで来たのは真っ白な肌にくりくりとした青い目を持った女の子のドアップ。数センチしか離れていないところにある彼女の顔を、わたしは意味が分からないまままじまじと見つめた。この子、だれ。というかわたし、そうだ、子猫を助けようとして、
「銀ちゃーん!!起きたアルー!!」
わたしが喋り出す前に女の子はドタドタと大きな足音を立てながら隣の部屋へと走って行ってしまった。ぼんやりとした頭を無理矢理起こす。どうやらわたしはソファの上に寝ていたらしい。床に落ちた毛布を拾うと同時に先ほど挫いた左足に白い湿布が貼ってあることに気付いた。ここは、どこなんだろう…。部屋はとても質素で、壁に掲げてある「糖分」と書かれた額が異様な雰囲気を醸し出している。
「よォ、どうよ気分は」
がらり、と襖が開いて現れたのは銀髪の男性。後ろには先ほどの女の子と、もう一人眼鏡をかけた男の子。わたしは返事をするのも忘れ、改めて変な恰好だ、と思う。銀髪の人だけじゃなくて、後ろの女の子も、男の子も。もしかして制服的なものなのだろうか。テーブルを挟んで置いてあるもう片方のソファに男性と女の子は腰かけ、眼鏡の男の子はお茶持ってきますね、と言って微笑んだ。心臓がどきどきと鳴っている。
「あの、ここは…」
「俺んち」
「万事屋アル!」
「ええと、すみません…わたし色々と混乱してて、」
どうぞ、と男の子が私の前にお茶を置く。わたしは自分の頭の中を整理するためにも、子猫を助けるために木に登ったところから今日起こった出来事を順番に目の前の三人に話す。だんだん落ち着いてきたわたしは苦笑いをこぼした。多分、疲れてたんだと思います、わたし。終いには空に船が浮かんで見えるだなんて、おかしいですよねえ。わたしはお茶を一口飲んだ。喉の奥がじんわりと熱くなっていく。お茶を飲んだら帰ろう。そして家に帰ってすぐ寝よう。なくなった財布や携帯のことは、また明日考えれば良い。とにかく自分の精神状態が不安だった。そこで何やらお菓子をガジガジと齧っていた女の子が元気よく声を上げる。
「お姉さんの住んでる所は天人の船飛んでないアルか?」
「え、あまんと…?」
「宇宙人アル!」
「は?」
「船が飛んでないってことは、結構な田舎から出てこられたんですか?」
「え?いや、東京ですけど」
「トーキョー?聞いたことないネ」
「え?えっ、ここ、どこですか」
「ここはかぶき町です」
「歌舞伎町!?新宿!?」
「シンジュク?」
なんでわたしそんなところにいるの!?歌舞伎町なら、わたしのいた場所からだと電車で四十分近くはかかる。
「ちょっと待ってください、歌舞伎町ならここは東京ですよね?」
「かぶき町はかぶき町アル!それ以外の何物でもないネ!」
流れる沈黙と冷や汗。おかしい。何もかもが。わたしは湯呑みを置いて、震え出す手をぎゅっと強く握りしめた。せっかく落ち着いてきたところだったのに、また頭の中で聞いたことのないあまんと、という言葉と光景がばらばらと散らばる。わたしは息を飲んで、毛布を丁寧に畳んだ。
「…わたし、帰ります」
「えっでも、」
「手当て、ありがとうございました」
頭を下げて目の前の三人にへらっと笑ってみせる。笑えていたかどうかは分からない。眼鏡の男の子は困ったように、でも、あの、と言葉を繰り返していて、女の子はきょとん、とこちらを見つめている。銀髪の男性は、ぼんやりとした眼差しで何かを考えているように見えた。何とか立ち上がり、足の痛みを堪えながらわたしはその家を後にする。
歌舞伎町に来たのは初めてだけれど、ゆっくり歩いているうちにここはわたしの知っている歌舞伎町ではないのかもしれない、と思う。もしくはわたしの頭がおかしくなってしまったのか。わたし以外の人々はほとんどみんな着物姿で、中には洋服の人もいるけれど頭が犬だったり猫だったり、ウルトラマンに見えてしまったりするのだ。その異様な光景に吐き気すら覚える。ひょっとしたら、木から落ちた時に頭を強く打ったのかもしれない。病院へ行こう。脳のCTでも撮ってもらおう。
どれくらい時間が経っただろうか。わたしは唯一見覚えのある場所、桜の木のところまで戻っていた。どうしてこんな近くにあるんだ。ぼうっと木を眺める。電車で帰ろうと思ったまでは良いのだけど、駅の場所が分からない。それに今のわたしには電車賃もない。周りに助けを求める勇気も湧かず、わたしは絶望の中に飲み込まれていた。桜の花びらは相変わらず綺麗で、皮肉なことに相変わらず船が空を飛んでいるのが見える。…もう一度、木から落ちてみようか。期待ではなく、投げやり的な考えだった。木に触れて、右足を上げた、その時。急に後ろから肩を掴まれ、わたしは声にならない悲鳴を上げる。
「ったく、人が心配してついて来てみりゃ自殺ですかコノヤロー」
「あ…」
さらさらと風に靡く銀色の髪。わたしは気が抜けてしまい、手を離されると桜の木を背にずるずると座り込んでしまった。視界に入るのは、なんだか薄汚れてしまったわたしの脚と、男性の黒いブーツ。男性はわたしの前にしゃがみ込んで、覗き込むように顔を近付けて来た。
「…俺だよ」
「…?」
「アンタが助けようとした猫、多分俺」
思いがけない言葉にわたしはぱっと顔を上げた。この人が、あの子猫?男性は、まァ俺にも良くわかんねーんだけど、と話を続ける。夢を見た。俺は子猫で、気が付いたらこの木の上にいて、アンタが登ってきた。そしてアンタが滑り落ちたと同時に俺も目が覚めて、その時アンタが俺の上にいた。話にすると簡単なものだった。けれど、それがもし本当なら、わたしは木の上にいた子猫を見つけた瞬間からこの人の夢の中に入り込んだということになる。そしてこの人が目を覚ましたとき、一緒に来てしまったのだ。認めたくはないけれど頭の中に一つの案としてあった、「わたしの住む世界とは別の世界」に。男性は胸元をごそごそと探り、一枚の名刺をわたしに差し出した。
「さかた、ぎんじ」
「違う、ぎんとき」
「坂田さん」
「万事屋ってのやってんだ」
万事屋アル!あの女の子の元気な声を思い出す。
「まあ簡単に言うと何でも屋?頼まれた仕事はとりあえず何でも片っ端から引き受けてるわけ、さっき家にいた眼鏡とチャイナは従業員な」
難しいこたァわかんねーけど。そう言って坂田さんは胡座をかいて座った。
「アンタは俺を助けようとして木から落ちた、そしてこの世界に来た」
「…でも、そんなこと」
「だーーから、難しく考えんなって」
俺は受けた恩はきっちり返す主義なんでね。それに俺は無関係、ってわけでもなさそうだしなァ。そう言って、坂田さんはにやりと笑った。ぽたぽた。坂田さんの笑みを見て、なぜか今まで我慢してきた分の涙が一気に目から流れ落ち、坂田さんがくれた名刺に大きなシミを作っていく。今日会ったばかりなのに、最初は関わりたくないと思っていたのに、安心している自分がいた。泣きながらやっとで声を絞り出す。
「っ、坂田、さん」
「おー」
「わたしを、っ元の世界に戻して、くださ、」
「その依頼、格安で受けてやるぜ」
世界は悲鳴も上げないが
頭の上にぽん、と坂田さんの大きな手が乗っかって、わたしは大声を上げて泣いたのだった。
(20140328)