しまった、と思ったときにはもう遅い。
わたしは目の前にある太い桜の木の幹にしがみつきながら心の中でそう呟いたあとにもう一度、今度は声に出して呟いた。しまった、と。頭の中が「しまった」でいっぱいになる。そろっと視線をあげる。細い木の枝の先の方に子猫がぶるぶると震えて座っていた。多分、このまま手を伸ばしても子猫には届かないだろうと目測する。仮に届く距離だったとしても、子猫は警戒してわたしから離れていくだろう。とりあえず、と足場を確認したところで軽い眩暈に襲われる。
「や、やば」
猫がだんだん上に登っていくのを慣れない木登りと格闘しながら追いかけているうちに、いつの間にか結構高いところまで来てしまったらしい。一般的にはそんな高さではないのかもしれないけれど、何せわたしは高所恐怖症なのだ。そんなわたしが、なぜ木から下りられなくなっている子猫を助けようとしているのか。もちろんそのまま見過ごすことが出来なかったというのもある。それともう一つ、子猫がなんとなく、私に何かを訴えているような気がして…良い大人のくせに、何不思議ちゃんみたいなこと言ってるんだ、恥ずかしい。近くを誰も通らないことに感謝するが、誰か来てほしい気がしないでもない。ごくり、と唾を飲み込み、もう一度子猫を見上げた。太陽の光が桃色の桜の間から差し込み、思わず目を細める。
「、え」
先ほどまでぶるぶると震えていたはずの子猫がしゃん、と背を伸ばしてこちらを見下ろしている。白い毛並みは光が当たっているせいか輝いて眩しく、色で表現するならば、銀色。子猫の表情は読み取れないけれど、二つの小さな赤い瞳がしっかりとわたしを捉えている。わたしは思い切って腕を伸ばした。と同時に、樹洞に引っ掛けていた足がずるりと滑る。
だから、しまったと思ったときにはもう遅いんだってば!
わたしは我が身を襲う浮遊感と、次に訪れるであろう衝撃に耐えるためにぎゅっと強く目をつむる。風が桜の花をなぞる音が一瞬だけ止んだ。そして訪れた、衝撃。
「あだっ!」
「うおっ!?」
は、恥ずかしすぎる…!うつ伏せの体勢で地面に落ちたわたしだけれど、思っていたより痛みは少ない。いたたた、と身体を起こし、目を開けると真っ先に飛び込んできたのは、銀色。よかった、この子もわたしと一緒に木から下りられたんだ。正確には落ちた、だけど。
しかし、
「捕まえ…た、?」
わたしが子猫だと思って掴んだものは、綺麗な銀色の髪を持った、男性の頭だった。
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え?何これどういうこと?
目を覚まして周りを窺うと、どうやら今俺は木の上に座っているらしい。何がどうなってこんなるんだよ、え?木登りとか夏休み中の小学生ですかコノヤロー。いやいや落ち着け俺、確か俺はふらっと散歩に出かけて、まあいつも通りふらっとパチンコに行って、そしてまたまたいつも通り大負けして、人生詰んだんじゃねェかおい、と思って河原近くの桜の木の下に寝転がって、ああ桜綺麗だな、とか思って、寝た。うん、ここまでは間違いねェ。いやまあパチンコで大負けしたのは間違いであってほしいが、俺は木に登った覚えはない。なんだ?夢遊病か?ストレス溜まってんのか俺?まあ、とりあえず下りよう。ため息をついて、頭をわしゃわしゃと掻く。が、いつもとは違う感覚。なんだ?俺は自分の手を見る。
いやいやいやいやないないないないないって何だこれェェェェェェ!?
目の前にあった自分の手は、いつもの自分の手ではなく、さらに言えば人間の手でもない。ぷくぷくと膨らんだ肉球、ふわふわの毛。慌ててもう片方の手にも目をやるがこれまた同じ。もう一度頭に触れるとありえない場所に耳らしいものが二つ。分かった!夢だこれ!夢!まだ目が覚めてないんだよ!ったくよ、やっぱストレスだこれ。なんでもかんでもストレスのせいにするのは現代人の悪い癖だと思うよ?だけどさァ、こんな変な夢見るなんて間違いなくストレスストレス、
ってなんか下から女が登ってきてるんですけどォォォォォォ!?
ちょ、ま、なんか顔怖い!すげー俺のこと睨んでるんですけど!思わずぷるぷると震える身体に鞭打って上へ登っていく。来るな来るなと目で訴えても、女はめげることなく俺を捕まえるためか上に登ってくる。なんだよ、夢にしては木の感触やらリアルすぎねェか?とりあえず座れる程度の細い枝の方へ移動し、もう一度女に目をやる。困ったような、それでも強い意志が窺える二つの瞳が俺を捉える。よくよく見ると顔が怖いのではなく表情が強張っているだけのようた。…なんつーか、神様も気が利かねーなァ、どうせ夢見せてくれるんだったら俺は人間のまんまで、この女とにゃんにゃんする感じの夢見せてくれれば良かったのによ。女の手がこちらに伸びてきたと同時に、がくん、と女が滑る。おい!と叫んだつもりがそれは声になることはなく、俺も女の後を追うようにして木から落ちた。
「ったく、変なゆ、め…」
目を開けると、見慣れたいつもの場所、いつも通り人間な俺。そして俺の上に乗っかっている女。え?あれ?おんな?
淡くても色は色
「捕まえ…た、?」
女は俺の頭をふわ、と触りながらそう呟いた。夢の中で見た強い意志を含んだ目。ほっとしたように細くなったかと思えば、少しずつまん丸く見開かれていった。女の背後では、桜の花びらが何枚も空中を泳いでいる。
(20140328)