さよならをする話



「……やっぱり落ちそうで怖いですね」
「そ? 嫌なら戻る?」
「や、せっかくだし、このままで」


 五条さんの腕にしがみつくと、頭上から「了解」と短い呟きが落ちてきてさらに上昇していく。夜でもはっきりと分かるほど雪を被り白くなっている地面が徐々に遠くなり、先程まで私たちがいた建物が小さくなっていく。心もとない足元に意識が集中しないよう、私は階段を上るかのように宙を進む五条さんにあわせて足を動かし続けた。
 二十一時に僕の部屋に来て。
 夜に時間が欲しいと伝えたときにもらった返事の通りに彼の部屋へ行くと、そこには右手に黒のダウンジャケット、左手に黒のマフラーを持った五条さんが待ち構えていて、呆気にとられる私に向かって「じゃ、行こうか」と言った。どこに、と尋ねる暇もなく、あれよあれよという間に腕を引かれ現在に至る。
 まさか、空に連れて行かれるとは。
 京都出張以来の慣れない感覚。立って歩いているはずなのに足がどこにも触れていないというのは、やはり不安感が大きい。冷えきった空気のせいで露出している肌に刺すような痛みを感じたが、五条さんが用意してくれていたサイズの大きいダウンとマフラーのおかげで寒さはそこまで感じなかった。見上げると冬の澄んだ夜空にはたくさんの星が散りばめられていて、消えそうで消えない、儚くも確かな光を放っている。


「で、話って?」


 そう問われ、隣にいる五条さんへ視線を移す。さらけ出された水色の瞳は、つい先程までの私と同じように星屑たちを映している。


「あの日……五条さん、私に聞きましたよね。僕のことが怖くなったか、って」


 ぎゅう、と五条さんの腕に回した手に力を込める。
 あれからすぐに右手は問題なく動くようになり、身体的には元に戻りつつあった。それでも、朝起きてすぐ、食事中、誰かといるとき、一人でいるとき、眠る直前。そういう何気ない日常の中でふとあの日の恐怖や痛みを思い出し、すくんでしまうことがある。
 何もかもが元通りになるわけじゃない。これから先、あの日の記憶が私の中から消えることはない。でも、そんな状態でも私が今ここで踏ん張れているのは、他でもない五条さんの存在のおかげなのだ。


「私は、五条さんのことを怖いだなんて思いません。もし今回のことで責任を感じているのなら、それはやめてください」


 ゆっくりと五条さんが私を見下ろす。自然とその場で足を止めた私たちは冬空の下で見つめ合った。
 全部、間違いなんかじゃない。五条さんと出会ってしまったのも、声をかけて関係を持ってしまったのも、高専で働き始めたのも、五条さんを好きになってしまったのも。
 冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んで吐き出すと、鼻の奥がつんと痛んで視界が波のように揺らぎ始めた。俯きたくなるのを堪えて、泣くな、と頭の中で強く呟く。


「あと、私のことを『違う場所で生きている気がする』って、前に言いましたよね。私もずっと、五条さんに対して同じことを思っていて……その、私と五条さんは、何もかもが違う、から」


 何も言わず私の話に耳を傾ける五条さんに、どんどん声が震えていく。心の底からそう思った上で話をしているのに、いざ口にすると上っ面だけの言葉のようにも思えてきて、緊張と恥ずかしさと気まずさで喉の奥が重たくなる感じがした。
 外で良かったかもしれない。明るい室内ではっきり五条さんの顔が見えていたら、きっと今以上にうまく話せなかっただろう。
 ちゃんと付き合いたいとか考えないのか、と問う家入さんの横顔が頭に過る。
 何もかもが違っても。自分がこれから『どうしたいか』、五条さんと『どうなりたいのか』。その答えは。


「だけど私は、五条さんと同じ世界で、同じ場所で……五条さんの隣で、これから先も生きていきたいんです」


 私の声は相変わらず小さく震えていた。しかし静かな夜の中で伝えるには十分だったと思う。
 言えた、とほっとしたのも束の間、ずっと黙ったままでいる五条さんに不安の芽が大きくなっていく。


「あ、その……もちろん五条さんが、こんな顔にでかい火傷の跡がある女は嫌だって言うんなら、それはそれで一向に構わないので、お気遣いなく」

 
 相槌でも何でもいいから、せめて何か言ってほしい。そんな思いから焦りを含ませた声でそう言えば、月影だけの薄闇の中でも五条さんが明らかに不機嫌そうな様子で「は?」と顔を歪めたのが分かった。
 確かに何か言ってほしいとは思ったが、さすがに特級術師からの「は?」には萎縮してしまう。余計なことを言ってしまった、と自責の念に駆られた。


「僕のこと、そういう人間だと思ってるわけ?」
「いえ思ってないですすみません」
「せっかくプロポーズしてくれたのに、そんなバカなこと言わないでよ」
「っえ、プ!?」
「あ、違った?」


 予想していなかった横文字が飛び出してきたせいで、一瞬でかっと燃えるように顔が熱くなる。口を開けて狼狽える私を見つめたまま、五条さんは返事を待っているようだった。
 そういうつもりで口にした言葉ではなかったが、違うと全否定するのも何だか違う気がする。戸惑いから五条さんの腕を掴んでいた手の力が緩み、しまった、と自分が今いる場所に気がついてさっと血の気が引いていく。
 その瞬間、五条さんが私の両方の二の腕を掴み、私たちは正面から向かい合った。


「チャンスをあげようと思ったんだ」
「え?」
「あんなことが起きて、がこの世界を、僕を怖いと思っただろうから、僕から離れるチャンスをね」


 静かな口調で話す五条さんの言葉に、驚いて瞬きを繰り返す。零れそうだった涙も引っ込んでしまい、口元に笑みを浮かべている五条さんの瞳が僅かに揺らぐのが分かった。


「どう頑張っても僕からは手放せないから、離れるのならから離れてほしかった。てっきり話ってそういう話かと思ってたんだけど」
「……仮にそういう話だったら、五条さんはすんなり認めたんですか?」
「うん……いや、ここでを落としたかもしんない」
「なっ、やめてくださいよ!」


 慌てて五条さんの胸元に縋りつく。こんなところから落とされるなんて、たまったもんじゃない。
 五条さんは「冗談」と言って、脱力したように笑った。今日何度も見た作り笑いとは違う本当の微笑みに、つられて私の口角も緩む。
 最近感じていたよそよそしさにはそういう理由があったのか。何となく素っ気ないメッセージの文面を思い返しながら一人でそう納得していると、五条さんが深くため息を吐いて私の肩口に顔を埋めた。マフラーとは違う人肌の温もりを感じて、自然と五条さんの胸元を掴む手に力が入る。


「だからって……急によそよそしくなるのはずるいです」
「ごめん。でも僕がずるい人間なのは最初から知ってるでしょ?」
「それは、まあ、」
「本当にいいの?」


 食い気味にそう問われ、私は視線だけを動かして五条さんを見た。顔を埋めたままでいる五条さんがどんな表情をしているか分からず、私は彼の少し刈り上げられた襟足を見つめたまま「何がですか?」と聞く。
 ぐっと、五条さんの両手に力が篭もる。しばらくして顔を上げたと思ったら、五条さんは背を丸めたまま私の目の奥を覗き込んだ。真剣な眼差しに思わず息を呑む。


「このチャンスを逃したら、もうないよ。何があっても、何が起きても絶対に手放さないから。それに、僕と一緒にいても普通の幸せは得られないかもしれない。それでもいい?」


 そう言うと、五条さんはそうっと私の頬に触れた。火傷の跡を確かめるように優しくなぞる指先が思いのほか冷たくて、そんな五条さんの手に自分の手を重ねる。
 普通の幸せは得られないかもしれない。五条さんの考える『普通の幸せ』がどういうものなのか、私には分からない。でも、幸せにすると言われるよりもよっぽど五条さんらしい言葉に、私は息を吐いて笑った。


「それでもいいです。今までみたく五条さんに振り回してもらわないと、逆に落ち着かなくなっちゃいましたし」
「……そっか」
「とはいえ、振り回しすぎるのはちょっと」


 勘弁してほしいです、と言い終わる前に五条さんの右手が私の後頭部に回り、そのまますっぽりと五条さんの腕の中に閉じ込められた。不意をつかれ全身が硬直したものの、久しぶりに感じた五条さんの香りと温もりのおかげで、恐らく今日一日ずっと強ばっていた身体が解けていく。


と一緒にいると、すごく救われる気がする」
「私もです」
「いなくなったら寂しい。いなくならないで」
「はい」
「あと絶対に他の男のマフラー巻いたりしないで」


 私を抱きすくめる五条さんの腕の中で顔だけを上げる。急に何の話だろう、と考えてすぐ、昼間の出来事を思い出す。


「……もしかして嫉妬ですか?」
「まーね」
「でも、日下部さんですよ」
「日下部さん、イイ男じゃん」


 不服そうにそう言って口を尖らせる五条さんに、私は思わず噴き出した。もし五条さんが日下部さんに対して嫉妬しているこの事実を知ったら、日下部さんはどんな顔をするだろう。
 くすくすと笑い続けている私が気に食わなかったのか、五条さんは宙を移動しながらべえ、と舌を出して私を睨んだ。


「また僕に抱かれながら他の男のこと考えてるし~」
「いや、これはさすがに不可抗力でしょう……というか、またって何ですか」
「昔、僕にハグされてるときに悠仁のこと考えてたことあったじゃん」
「そんなことありましたっけ?」
「僕は記憶力いいからね。何でも覚えてるの」
「根に持つタイプなんですね……」
「ねえ、


 名前を呼ばれたと思ったら、私を抱き締める五条さんの力が一層強くなる。先程まで星屑たちを映していた瞳が、今はしっかりと私だけを捉えている。
 
 
「これから先、同じ世界で生きていこう」


 気がつけば、もう随分と上の方まで来ていたらしい。五条さんの背後へ視線を向ければ、遠くに街の灯りが細長く伸びているのが見える。
 もうしばらくすれば冬が終わり、春がやってくる。その次は夏、秋、そしてまた冬が来る。そうして季節は巡っていく。
 例えこれからどんな日々が訪れようとも。
 私は五条さんの隣で歩いていきたい。


「はい」

 
 身を捩り、お互いの身体に挟まっていた両手を引き出して五条さんの背中に回す。精一杯力を込めると、機嫌よく笑う声が聞こえて五条さんは私を抱き締めたままくるくると回り始めた。
 夜とはいえ、まだ高専では業務にあたっている補助監督や術師が何人もいる。こんなところを誰かに見られたらどうしようだとか、普段なら絶対に気にするはずのことも全く気にならなかった。どうやら五条さんよりも、私の方が浮かれているようだ。
 しばらくして、五条さんが何かに気付いたように「あ」と呟いた。


「ちなみに僕たちもう恋人同士だから。硝子から『は付き合ってるつもりはなさそう』って聞いたけど、もうそういうのナシね」
「わ、分かってますよ」
「浮気禁止、日下部マフラー禁止」
「分かってますってば!」
「よし。じゃ、そろそろ僕の部屋に戻ろっか」
「え?」


 驚く私に、五条さんは「ちなみにそういう意味で誘ってる」と言ってにんまりと笑う。そういう意味がどういう意味か、理解するのにそこまで時間はかからなかった。


「……や、でも、そんな急に言われましても、いろいろと準備がですね」
「何、今さら。別に初めてでもないじゃん」
「そ、そう……でした?」
「ハイ出た~! 覚えてません詐欺! まさか、なかったことにしようとしてる? 自分から誘っておいて、僕を置き去りにして?」


 最初のしおらしさはどこへ消えたのか、急に調子を取り戻したようにグイグイ迫る五条さんに思わずたじろぐ。距離を取りたくても彼の手は私の腰に回されたままで、仮に離れたとしても今いる場所的にそれはそれでまずい。
 あ、とか、う、とか返事に困っている私に顔を寄せた五条さんはわざとらしく首を傾げた。虎杖くんを挟んで再会を果たしたときと同じく嬉しそうに、悪戯っぽい笑みを携えたまま。


「一回きりで終わらせようなんて許さない、ってね」


 五条さんの形のいい唇が紡いだ懐かしい言葉に、私は観念してふっと笑みを零した。最初から、私はこの人には適わないのだ。
 唇が重なる直前、視界の隅に先程見えた街の灯りが映る。
 あの日の夜、あの灯りの中のどこかで、誰からも選ばれずに一人ぼっちだと嘆いていた哀れな私は、五条さんと出会い随分と遠いところまで来てしまった。でも、後悔はない。
 五条さんと生きていく。そう決めたから、もうあの灯りの中には戻らない。
 だから、さよなら。
 まるで一つの川のようにも見える無数の光たちに別れを告げて、私は静かに目を閉じた。



(2024.9.08 ~fin~)