いつも通りじゃない話
白く柔らかな雪が絨毯のように積もった地面は冷たくて、そしてどこか温かかった。そんな雪の上で大の字になって寝転がり空を見れば、白と灰色の混ざった分厚い雲から次々と綿のような雪が全身に降り注いでくる。
天気予報で聞いた「この冬一番の大雪となるでしょう」という言葉通り、昨夜から降り続いた雪によって目覚めると辺り一面銀世界となっていた。空気を含んだ雪はいろんな音を吸収し、仰向けのまま耳を澄ませば離れた場所にいる生徒たちの笑い声が微かに聞こえるだけ。そんな中、美しく、そして儚くもある光景に見惚れていると、急に真上からぬっと見知った顔が現れたので私は思わず「ひいっ」と悲鳴を上げた。
「何やってんだ、お前」
ポケットに両手を突っ込んだままこちらを見下ろし、少々機嫌が悪そうに眉を寄せてそう尋ねるのは二年の担任である日下部さんだ。
彼の冷めた眼差しによって一気に現実へと引き戻される。いい大人が雪の上で大の字になっていることが恥ずかしくなり地面を押して起き上がれば、頭や背中についていた雪がはらはらと落ちた。
「ええと……リハビリがてら、みんなと雪合戦をと思いまして」
「馬鹿か。リハビリであんな怪物どもと雪合戦なんざ、骨折のギプスが外れた翌日にフルマラソン挑戦するようなもんだぞ」
呆れたようにそう言うと、座ったままでいる私が立てないでいると思ったのか、日下部さんは私の二の腕を引っ張って立ち上がらせた。仕事終わりなのか、彼の腰にはいつもの日本刀がある。
きっとみんなは私を気遣ってくれたのだろう。高専内の廊下で偶然会った虎杖くんをはじめとする一年、二年のみんなに誘われて雪合戦に参加してみたものの、元々なのかしばらく運動していなかったからなのか、早々に彼らのペースについていけなくなり戦線離脱してしまった。そして日下部さん曰く『怪物』である彼らは、そんな私や日下部さんに気付くことなく夢中で大小様々な雪玉を作っては投げることを繰り返している。
「アイツら、絶対何か賭けてやがんな……」
「いいじゃないですか。こんなに雪が積もることなんて、滅多にないでしょうし」
そう言って、近くにあったベンチに腰を下ろす。ベンチにもこんもり雪が積もっていたので、簡単に払ってから座ったもののやはり冷たくて全身がぶるりと震えた。
せっかくだから、海外にいる乙骨くんに写真でも送ろう。そう思い立ち、ダウンジャケットのポケットからスマホを取り出したときだった。目の前に立った日下部さんが急にマフラーを私の首にぐるぐると巻きつけてきたので、驚いた私は写真を撮るのも忘れて日下部さんを見つめた。
私の視線に気付き、日下部さんは目を細める。
「何だよ、オッサン臭いとか言うなよ」
「言いませんよ」
ありがとうございます、と礼を言うと、日下部さんは何も言わずに雪合戦を続ける生徒たちへ視線を向けて、コートのポケットから取り出した飴の包み紙を外し口の中に放り込んだ。
紺色のマフラーは軽くて柔らかく、呼吸を繰り返すたびに冷え切っていた首元がじんわり温かくなっていく。
ベンチの背凭れに背中を預け、雪だるまほどの大きさの雪玉を軽々と持ち上げる虎杖くんや、身軽な動きで木に飛び乗り雪玉を避けるパンダくんたちを写真におさめていく。数枚の写真を乙骨くんに送信したあと、すぐ下にあった五条さんとのトーク画面を開いた。昨夜届いた「伊地知」という一言と、おそらく野良猫だろうか、まるで前髪をセンター分けにしているかのような黒白のハチワレ猫の写真一枚。私から送った「おやすみなさい」の横に並ぶ小さな『既読』の文字。それらをぼんやりと眺めていたら、「お前さあ……」とどこか遠慮がちな声が聞こえ、私は顔を上げた。
「高専辞めるんだろ?」
「え? 辞めませんよ」
「……はァ!?」
「本当はすぐにでも仕事復帰したいところなんですが、伊地知さんと新田さんに断られてしまって。日曜まではお休みさせてもらうことになってます」
「何だよ……優しくして損した、マフラー返せ」
こちらへ片手を差し出す日下部さんに向かって「ええ……」と不満の声を漏らし、私はスマホの画面をオフにした。
家入さんから聞いていた通り、動かなかった私の右手は今や何の問題もなく機能しており、身体的には普段通りの生活を取り戻しつつあった。目を覚ましてから二日ほどは火傷跡が痒くて仕方なかったが、その症状も家入さんが処方してくれた薬のおかげで落ち着いている。
「……ま、それなら良かったわ。が辞めたら雑用を押し付ける相手がいなくなるからな」
マフラーを取り返すことを諦めたのか、日下部さんは手を下ろすと口の中で飴を転がしながらそう言った。
私の知る日下部さんは、根っこは優しい人ではあるが、不平不満が多く教師なのに面倒臭がりなところがある人だ。最初、彼に頼まれて書類仕事を捌いたのがきっかけとなり、今では数多くいる呪術師の中で五条さんの次に接点が多い人でもある。
先日私の身に起きたことは周知の事実だった。だから日下部さんは私が耐えきれずに高専を辞めると思ったのだろう。きっとその勘違いがなければ、このマフラーが私の首に巻かれることはなかったはずだ。
「素直に辞めたら寂しいって言ったらどうですか」
「別に寂しかねーよ……それにしても、お前の彼氏さんはちと冷たすぎるんじゃねぇか?」
「え?」
「結局お前のことは放ったらかしであちこち飛び回ってんだろ?」
「放ったらかすも何も、任務だから当然と言うか……それに、五条さんは彼氏ってわけでは」
「いって!」
話している途中で横から飛んできた雪玉が日下部さんの側頭部にヒットし、細かい雪の欠片たちがキラキラと私の目の前にまで散ってくる。雪玉の飛んできた方向を見れば、狗巻くんが照れたように頭の後ろに手を当ててこちらを見ていた。
そんな彼に向かって「てめっ、このノーコン!」と叫ぶ日下部さんに苦笑したあと、私は再び視線を落とし五条さんとのトーク画面を開いた。
五条さんは毎日忙しいはずなのに、任務先で見かけた野良猫や美味しかったスイーツの写真なんかをこまめに送ってくれている。でもそれらのメッセージには今までなかった『よそよそしさ』があり、逆に今まであった『今度二人で何をしよう』『今度二人でどこに出かけよう』という未来の話がなくなってしまっていた。
そのせいで、私は最後に五条さんと別れたときに感じた『不安』を未だに解消できずにいる。
私が襲われたことに対し、五条さんがいろいろ思うところがあるのは分かる。でも今までずっと強引だったくせに、急によそよそしくなるのは、ちょっとずるくないか。
思わずぽつりと零した「ずるい」という私の呟きを拾った日下部さんは、苛立った様子で「何がだよ」と口を尖らせた。
「つーかお前、五条のこと恨んでねぇのか」
狗巻くんへ悪態をつくのをやめ、こちらを見下ろす日下部さんの鼻の頭がほんのり赤くなっていることに気付き、マフラーを返そうと首元へ手を伸ばしたとき。思いがけない質問が飛んできて、私は「へっ」と素っ頓狂な声を上げた。
恨むって。私が、五条さんを?
「……どうして?」
「そりゃだって、五条のせいで、」
日下部さんは言葉を切って、一瞬だけ私の右頬を見る。そしてすぐに視線を外すと、言葉を選んでくれたのか「そうなったようなもんだろ」と曖昧に呟いた。
周りが実際のところどう思っているのかは知らないが、私の火傷跡に対し分かりやすく同情の目を向ける人はいなかった。もちろんそれは私のためにわざとそうしているということもあるだろうが、ここにいる人たちにとって傷跡や手足の欠損は珍しいことではないのだ。そう思っていたからこそ今の日下部さんの反応は新鮮だったし、また場数を踏んでいるであろう彼がそういう反応を示すことも意外だった。
「今回の件は……五条さんのせいではないですし、私が五条さんを恨むなんてことは絶対にないです」
きっぱりと、そう断言する私を日下部さんが黙ってじっと見つめているのが分かる。雪合戦はまだ決着がついていないようだが、視線を上げるといつの間にか雪は止んでいて雲の隙間から陽が差し始めていた。
今、日下部さんに言ったことは、あのとき五条さんに言えなかったことだ。ちゃんと本人に伝えたい。そしてそれをきちんと分かってもらわなければ、私たちはこれから先もずっとお互いのことを『違う場所で生きている』と思い悩み続けるような気がする。
はっ、と笑う声が聞こえて、私は日下部さんへ顔を向けた。ずっと下がりっぱなしだった彼の口角が上がっているのを見て、私は眉根を寄せる。
「私、何かおかしいこと言いましたか?」
「いや? お前、やっぱ非術師にしては変わってるよなぁ」
「やっぱって何ですか、やっぱって」
「……当たり前だが、術師と非術師ってのは生き方も考え方も丸っきし違う。特にホラ、五条なんかは俺たち術師とも立ってる場所や見えてるもんがちげぇからな」
日下部さんは私に背を向けると、腰に手を当ててストレッチするように背を反らした。ぽきぽきと背骨の関節から音が鳴る。
「だからどうせ上手くいかねぇと思ってたが……お前さんたちは案外そうでもないのかもな」
「……そう思います?」
「知らん」
「適当すぎる……」
「俺は別にお前らがどうなろうが知ったこっちゃないからな。いい大人なんだから適当にやりゃいいんだよ、適当に」
煩わしいものを振り払うかのように手を振りながら、いつものように軽い調子でそう話す日下部さんに私はため息を落とした。彼のいい加減さが少し羨ましくもある。
吐き出した白い息が消えると同時に、日下部さんがくるりと振り向いた。そしてベンチに座る私ではなく、私の後ろを指差して不快そうに顔をしかめる。
「で、そのいい大人がなんで無駄に殺気飛ばしてんだ。こっちは徹夜明けだぞ」
一体何を言っているのか分からず、無言で首を傾げる。すると後ろから覆うように大きな影が現れて、私は真上を向いた。
「ただいま」
薄い太陽の光を遮るようにそこに立っていた五条さんは、日下部さんではなくしっかりとこちらを見下ろし微笑んでいて私は目を丸くした。予定していた二週間まであと五日もある。
「お帰りなさい……? 随分早かったですね」
「報告で聞いてたより余裕な案件だったからね~高速で終わらせてきた。調子はどう?」
「あ、もう全然元通りです」
「オイ、無視かよ」
チッと舌打ちを飛ばした日下部さんは、頭をわしわしと掻いて深く長いため息を吐いたあと、今度は私を指差してマフラーは事務室に置いておくよう告げ、足早に去って行った。慣れない雪につんのめりながら歩く日下部さんの頭に、再び狗巻くんの投げた雪玉が当たる。そしてまた、日下部さんが腰の刀を抜きそうな勢いで怒鳴り始める。つい先程見たばかりの光景が再び繰り広げられていることに、思わずふふ、と笑みが零れた。
後ろに立っていた五条さんが私の隣に座ったので、びっくりして「濡れますよ」と言えば、五条さんは「どうせ着替えるからいいよ」と笑う。
「あったかそーだね、そのマフラー」
「あったかいです。カシミヤかな……五条さんは寒くないですか?」
「僕は全然。てかここで何してんの?」
「虎杖くんたちに雪合戦に誘われて。でも彼らのペースについていけず、離脱してたところです」
「そりゃそうでしょ。があの中に入るのは猛獣たちの争いの中に兎が飛び込むようなもんだよ」
「猛獣……さっき日下部さんはみんなのこと怪物って言ってました」
笑ってそう話すと、五条さんは短く「ふうん」と言って生徒たちの方へ視線を向けた。いつの間にか伏黒くんと釘崎さん、パンダくんと狗巻くんは私同様に離脱し、勝負は虎杖くんと真希さんの一騎打ちになっている。
黒い上着の襟に口元を埋め、生徒たちを眺める横顔をちらりと盗み見る。雪景色の中にいる五条さんは、白と黒のコントラストがよりはっきりしていてとても眩しい。
「あ! 五条せんせ~!」
こちらに気付いた虎杖くんが大きく両手を振る。それに応えるように、五条さんが手を振り返しながら「悠仁、前~」と声を上げる。真希さんが虎杖くんの油断を見逃すはずもなく、彼女の投げた大きな雪玉が虎杖くんの顔面にヒットし雪合戦は終結した。
「いいねぇ若いって。なんかさ、雪見てるとかき氷食べたくなってこない?」
「なってこないです……寒いですし……」
「そうかな~」
「夏が来たら、一緒に食べに行きましょうか」
一瞬の沈黙のあと、五条さんは柔らかな笑みを浮かべた。そして長い両脚を前に投げ出し、空を仰いで「夏か」と呟く。
ふっと、目の前が遠くなる感覚。胸が苦しくなって、私は静かに深呼吸をした。
いつも通り話せている。でも、いつも通りじゃない。
「五条さん」
もう、『違う場所で生きている』だなんて思いたくないし、思わせたくもないから。
「少しお話したいことがあって……今日の夜にでもお時間もらえませんか?」
もう終わりにしよう。交わらない平行線の上で、互いを見つめ合うのは。
私の言葉にほんの少し、でも私でも分かるくらい、五条さんの纏う空気が揺らいだ。
どうやら第二ラウンドが始まったらしい。私たちの目の前では、再び白い雪玉が飛び交い始めている。
(2024.08.24)