救われたあとの話



 遠くの方で、誰かの声が聞こえる。
 自然に重い瞼が上がり目に入ってきたのは、天井、そして天井から吊り下げられたレールと白いカーテン。微かに聞こえるパチパチという音は、ストーブで火が燃える音だ。
 これは夢だろうか。夢にしては、随分とよくできている。
 確かに感じる医薬品の匂いにそう感じた瞬間、はっきりとしない頭の中に自分の身体が燃え始めた瞬間の映像が流れ込んできた。呪霊の甲高い声、炎が上がる音、悲鳴と笑い声。合間にホワイトノイズを挟みながら様々な音が脳内を駆け抜けていき、咄嗟に飛び起きようとした。しかし実際には自分が寝ているベッドのスプリングがぎしりと音を立てるのみで、思うように動くことができない。
 どくどくと早くなっていく鼓動。震え出す手をぎゅっと強く握り締めたところで、切るような音を立ててカーテンが開き家入さんが現れた。
 驚いて目を見張る私に、口元を隠していた白いマスクを指で引っかけて下ろした彼女は一言、「おはよう」と言う。


「お……は、よう、ござ……」
「あーやっぱ声酷いね。気分は?」


 黙ったまま首を横に振る。

 
「そりゃそうだ。何があったか覚えてる?」


 そう尋ねながら白衣の胸ポケットから体温計を取り出した家入さんは、掛け布団を軽くめくるとそれを私の脇に差し込んだ。その先端の冷たさにびくりと身体が震える。
 生きている。
 家入さんの質問でそう確信する。これは夢じゃない。私、生きているんだ。
 しばらくして電子音が数回鳴る。家入さんは体温計に表示されている数字を確認すると、怪訝そうに眉をひそめた。


「高いな。しばらくは高熱が続くかもしれないから絶対安静で」
「あの、私、どうやって……その、助かったんですか……」


 掠れたガラガラ声で家入さんにそう問いかける。少し声を出すだけで喉がズキズキと痛み、唾を飲み込むと思わず怯んでしまうほどの激痛が走った。きっと叫びすぎたせいだ、と心の内で思う。
 何があったかは覚えている。でも、身体が焼ける痛みで意識を手放したあと、何が起きてどうして私がこうやって生きているのか、一番大事な部分の記憶が抜け落ちている。
 家入さんは後ろで一つに結んでいた髪を解くと、ため息を吐いてそばに置いてあった椅子に腰を下ろした。


を攫ったあの補助監督。アイツからいろいろ聞いたかもしんないけど」


 腕を組んでそう前置きしたあと、家入さんは事の詳細を話し始めた。
 家入さんの言う通り、彼女から聞く話は補助監督の彼から聞いた話とほぼ同じだった。五条さんへの私怨。ただそれだけで私が狙われた。知らなかったのは、今回の事件の数日前に補助監督の彼が「五条悟に復讐する」と身内に漏らしていたこと、丸一日私はこの医務室で眠り続けていたこと、そして私を危機一髪で救ってくれたのが五条さんであることだった。


「五条が周りから嫌われてんのはそう珍しい話じゃないけど、よっぽど恨んでたんだろうな。じゃなきゃ、わざわざアイツがいるときに高専内でこんなことしないだろ」


 家入さんはそう言って、二度目のため息を零した。
 不気味に微笑む顔が頭の中に浮かぶ。きっと、私を高専の外へ連れ出して殺すより高専内で殺してしまった方が彼にとって都合が良かったのだろう。そうした方が、私の死体を早くに五条さんが見つけることができただろうから。
 そう考えると、横になっているのに目眩がした。目の前がぐらぐら揺れて、気持ちを落ち着かせようと大きく息を吸い込んだとき、家入さんが私の手を握り締めた。視線を上げると、家入さんの表情にはいつにも増して疲労が色濃く出ていて、ただでさえ日々の業務で忙しいなか私の治療に当たってくれたのだろうと想像する。
 無力。そんな二文字がぽとん、と心のど真ん中に落ちてきたような気がした。私、無力だ。家入さんと五条さんがいなければ、今頃私は骨と灰になっていただろう。
 せめて心配をかけすぎないようにと、笑うために口角を上げた。しかし思うようにいかない。皮膚が突っ張るような違和感を覚え、ふと顔に手を伸ばしたとき、家入さんが「」と私の名を呼ぶ。


「一つ話しておくことがある」
「……はい」
が呪霊によって受けた身体の内部の損傷は元通りにしてあるから、問題なく今まで通りの生活を送ることができる」


 そう言うと、家入さんは私の手を離し立ち上がった。カーテンの向こう側へ消えていく彼女の背中を見送って、自分の頬に触れる。固くて冷たい、少しザラザラとしている皮膚。指先から伝わってくる初めての感触に、家入さんが何を話そうとしているのか分かって私はぽつりと呟いた。


「……生きてるだけで、十分ですよ」


 戻ってきた家入さんの手に握られている手鏡。それを一瞥したあと、私は彼女を見つめた。すぐに、迷うことなくその手鏡をこちらへ差し出すところが家入さんらしかった。


「もう痛みはないだろうが、反転で火傷の跡を消すことはできない」


 受け取った手鏡に映る自分は酷く疲れた顔をしていて、たった一日で一気に老けたように感じた。眠り続けていた一日で、と言うより、攫われて理不尽な目にあったあの短い時間だけで老けたんじゃないか、と思う。きっと五条さんに助けられたときもこんな顔をしていたんだろうな。それは少し、嫌だな。
 と、意識を逸らすように様々なことを考えてみても、私の目は右頬にしっかりと残る赤黒い跡に釘付けになっていた。恐る恐る薄水色の病衣の前をずらすと、その火傷跡はあのとき呪霊の指先が掠めた鎖骨から胸の上、そして二の腕にまで不思議な模様のように広がっている。
 生きてるだけで十分だと言ったばかりなのに、いざ目の当たりにするとショックで言葉が出てこなかった。黙ったままの私に家入さんが「大丈夫か」と声をかけたところで、ハッとなった私の手から胸元へ手鏡が滑り落ちる。


「……まあ、今日はここで休みな。私も泊まるし」
「あ、ありがとうございます……」
「とりあえず学長や五条たちに目覚ましたって伝えに行くけど。しばらく一人にして平気?」
「平気……です、あ、でも」


 私は言い淀んだ。正直に言うと、一人になりたくなかった。だってあの日、私は一人になった瞬間襲われたのだから。


「――さんは、これから……どうなりますか」


 名前を呼ぶのも躊躇われるが、気になってそう尋ねる。指先の震えは布団を強く握り締めてごまかした。
 間違っても自分を襲った相手のことを心配しているわけではない。彼には同情なんてできないし、腹ただしさもまだ消えていない。きっと何かしらの処分が下るのだろうが、仮にそうだとしても、彼の五条さんに対する恨みは消えるどころかさらに増していくはずだ。そう考えると、また私が狙われる可能性もあるし、今度は五条さん本人がトラブルに巻き込まれるかもしれない。命が助かったとは言え、とにかく不安で仕方がなかった。
 家入さんは私の胸元に落ちた手鏡を手に取った。そして何の感情も挟まずに、あっさりとした様子でこう告げたのだった。


「死んだよ。と言うより、五条が殺した」


* * *


 眠りから覚める直前の、夢と現実の狭間で微睡む時間が好きだった。でもそれはあくまで心地よい眠りの中にいた場合に限った話である。
 頬にぴとりと冷たい何かが触れて私は目を覚ました。寝起きとは思えないほど自分の呼吸が荒いこと、忙しなく心臓が動いていることに驚いていると、私の頬に手を当てていた人物が「うなされてたよ」と教えてくれる。
 いつの間にか眠っていたらしい。もうすっかり日が暮れてしまっている。電気のついていない医務室は暗く、窓から差し込む頼りない月明かりだけでは私に触れている人物の顔を判別することはできなかったが、それでも輝いて見える白い髪と声ですぐに誰だか理解した。


「五じょ、さ」
「寝てなよ。熱あるんでしょ?」


 ぎし、と音が聞こえて、五条さんがそばにあった椅子を引き寄せて座る。私の汗で張りついた前髪を掻き分けて額を撫でてくれる冷たい手が心地よくて、起き上がるのを諦めた私は静かに目を閉じた。


「来るのが遅くなってごめんね。いろいろ立て込んでてさ」
「いえ……あの、五条さんが私を、助けてくれたって」
「うん」
「ありがとうございます……ダメですね、自分のことすら、守れないなんて」


 何の力も持たない私でも、五条さんのそばで彼を守る方法が探せばあるかもしれない――。少し前にそう考えていた自分が何だか、ものすごく恥ずかしい。
 しばらくの沈黙のあと、小さく、でもはっきりと「ごめん」という謝罪の言葉が聞こえて目を開ける。珍しくアイマスクもサングラスもしていないのか、細められた碧眼が見えた。
 家入さんが知っていたのだ。五条さんが、今回私が襲われた理由を知らないはずがない。そう思うと、もう痛くないはずの傷跡がじくじくとまるで膿んでいるかのように痛み始める気がした。


「五条さんが謝ることは、何一つないですよ」
「上の連中に気を取られてて忘れてたけど、僕のことを恨んでる人間って山のようにいるんだよねえ。守れなくて、ごめん」


 私は力いっぱい首を横に振った。
 五条さんに守られたいだなんて、少しも思っていない。そもそも多忙極める五条さんが常に私を守るだなんて無理がある。だから今回の件について五条さんに謝ってほしくないし、責任を感じてほしくもない。そのことをうまく説明できず「もう終わったことですから」と呟いて目を伏せる。
 五条さんが、小さくふう、と息を吐いた。


「それと、あの男のことだけど」
「……亡くなったって、家入さんから」
「補助監督とは言え、仮にも呪術を扱う人間が呪霊を用いて非術師に危害を加えることはあってはならないことなんだよ。本来なら呪術総監が懲罰を科すところなんだけど、状況が悪かったからね」
「五条さん」
「だから、殺した。それだけ。のためじゃない」


 殺した。
 覚悟はしていたが、その言葉が重くのしかかってくる。
 それでも私のためじゃないという言葉からは、補助監督の彼の死について私が責任を感じないように、という気遣いと優しさが感じ取れた。
 話している間、ずっと私の額を撫で続けていた五条さんの手がぴたりと止まる。


「怖くなった? 僕のこと」
「……そ、そんなこと」
「って、こんなときに聞くことじゃないか」


 はは、という乾いた笑い声とともに、五条さんの手がするりと離れていく。


「学長と伊地知から伝言。仕事のことは気にせず、とにかくお大事にって」


 真面目な誰かさんはすーぐ無理しようとするからなあ、と、からかうような口調でそう呟きながら五条さんは椅子から立ち上がった。咄嗟に離れていった彼の手を掴んで引き留めようとしたが、私の右腕はぴくりとも動かない。
 ようやく目が暗闇に慣れてきたところだったのに、立ち上がったせいで遠くなった五条さんの顔が再び見えなくなる。口を開くより先に、カタ、と音がして五条さんが枕元にあるサイドテーブルに何かを置いた。


のスマホ、棘が拾ってくれたんだよ。ここに置いておくね」
「あ、ありがとうございます……あの」
「僕、またしばらくあちこち行かなきゃいけないんだけど。必ず連絡するから」
「はい、あの五条さん」
「ちょっとでも無理したらデコピンの刑だからね。言っとくけど僕のマジで痛いよ~?」
「五条さんっ」


 今日一番の大声が出て、喉がヒリヒリと痛んだ。
 五条さんがふざけて私の話を聞かないことは今までに何度もあった。そのたびに呆れて、怒って、最終的にはいつもちゃんと話を聞いてもらえて。でも今日の五条さんは違う。ただふざけて私の話を聞かないのではない。なんというか、私から、私の言葉から、まるで逃げようとしているような、そんな感じがする。


「いつ、戻ってきますか」
「予定では二週間後ってとこかな」
「……待ってますから、私」
「うん。ちゃんと帰ってくるよ」
 

 ぽん、と頭に手を置かれる。優しく髪を梳いた手はほんの少しだけ名残惜しそうに離れていき、五条さんは姿を消した。
 必ず連絡するという約束も、ちゃんと帰って来るという約束も、五条さんはきっと守ってくれる。それなのに、どうしてこんな不安になるのだろう。
 

ってさ、ふら~っとどこかに消えちゃいそうだよね』
『え?』
『手元に置いたのに、僕とは違う場所で生きている気がする』



 いつかの五条さんの言葉が頭の中を巡る。
 いろいろあったから、気持ちが不安定になっているだけだ。そう思い眠ろうと目を瞑ったものの、結局明け方まで睡魔は訪れなかった。



(2024.08.17)