絶体絶命の話
肺に取り込んだ空気の冷たさにひゅっと短く喉が鳴る。何も分からぬまま、慎重に、ゆっくりと呼吸を繰り返す、ただそうしただけで凍てつくような寒さに全身がぶるりと震えた。
埃と黴の臭いを感じながらうっすらと目を開けて見えたのは、ちかちかと頼りなさげに点滅する蛍光灯の白い光。目を細めたまま、剥き出しになった床板のざらついた感触を指先で確かめて、ようやく自分がどこかの部屋の床に横たわっていることを知る。さらに、起き上がろうと身体に力を入れたところで両手首と両足首が縛られていることに気が付いた。
「……は、何、これ」
普通ではない状況に、ただ息をするだけでどくどくと心臓が大きな音を鳴らす。口の中はすっかり乾ききっていて、唇を舐めると血が出ているのか、鉄の嫌な味がした。縛られている手を何とか動かして唇を拭うと、鼻血も出ているらしくべっとりと赤い血が付着する。
これは、一体、どういうことだ。
確か家入さんのところに行って彼女と少し話をして、その後は。こうなる前の記憶を遡ろうとしたところで、頭上からギイ、と軋む音が聞こえて、すぐにドアが閉まるような音が部屋に響いた。
かつ、かつ、かつ。誰かの足音が徐々に近付いてくる。指先、足先が寒さと恐怖で震える。視界に映りこみ、すぐ目の前で止まった黒い革靴。ゆっくりと目線を上へ動かしていく。
「目が覚めました?」
革靴の主の顔を確認する前に、そんな穏やかな声が降ってきて私は息を呑んだ。
気を失う直前に、私はこの人の声を聞いている。
『恨むなら、五条術師を恨んでくださいね』
東京校で五条さんのことをそう呼ぶ人を、私は一人しか知らない。
手足の痺れと身体中の痛みを堪えながら顔を動かし、私のそばに立つ彼を見上げる。上を向いたせいで鼻から出ていた血が喉の奥に流れ込んでくる。
家入さんと一緒にいたとき、私に電話をかけてきた人。そして、私をこういう状況に陥れた人――。
徐々に目が逆光に慣れていく。そこには、いつどんなときでも笑顔で仕事をこなす補助監督の彼の姿があった。以前、呪具を運ぶのを手伝ってくれたときと同じように優しく笑んでいる彼は、そっとその場に屈むと指の腹で私の頬を撫でた。
「手荒な真似をしてすみません。あ、でもこれからもっと手荒なことをするんですけどね」
すっかり冷えた頬の上を滑る指先。本来ならば安心するはずの他人の温もりも、今はおぞましさしか感じない。
「どう、して……まさか、上のひ、ひとたちに言われて」
掠れた声で途切れ途切れにそう尋ねる。
混乱する頭の中で真っ先に思いついたのは、五条さんや虎杖くんを排除するために私を利用しようとした上層部のことだった。私がなかなか思い通りに行動しないから。だから、ここで消すつもりなのだ、と。
私の言葉を小馬鹿にするように軽く笑い飛ばした彼は、私の頬から指を離すとこちらを覗き込むように首を傾けた。
「違いますよ。僕は上とか下とか、そういうの興味ないので。ただの私怨です」
「しえ、ん……」
がんがんと頭が痛みだし、思わず顔を歪める。倒れて頭を打ったのか、このただごとではない状況のせいでなのか、頭痛の原因は分からない。
私怨。そう聞いたら誰だって自分に対するものだと思うだろう。気付かないうちに、彼に何か失礼なことをしてしまったのだ、と。しかし、すぐに彼の言っていた「恨むなら五条術師を」という言葉を思い出す。
この人は、私ではなく五条さんのことを恨んでいる――?
私の表情からその考えを読み取ったのか、彼はその場に膝を抱えるように座り込むと、感情を昂らせることなく落ち着いた声で話し始めた。
自分は元々、五条家傘下の呪術師一族の出であること。しかし幼い頃に父親が呪詛師となったことで一族は除名処分を受けたこと。その後、一年も経たないうちに母親が自殺し、苦労した幼少期を送ったこと。
「とにかく大変でしたよ、あの頃は。狭い業界ですからね。呪術師になろうにも、『呪詛師の息子』『五条家から除名処分を受けた一族の子』という目で見られましたから。ま、努力の甲斐もあって補助監督として働くことは認められましたけど」
ふう、と息を吐き、遠い過去に思いを馳せるように宙を眺めたあと、再び彼は横たわったままの私へ視線を落とした。その目があまりにも冷ややかで、背筋がぞくりと震える。
「一族が以前と同じ地位・権力を取り戻すためにも、一度五条悟と直接話をしたかった。だから東京に来た。でも……」
急にガタン、と大きな音が聞こえて全身がびくりと跳ねる。音の正体を探る前に金属が擦れるような耳鳴りが始まり、私は嘔吐きそうになるのを必死に堪えた。
「最強が故の傲慢さ、って言うのかな……。人から全てを奪っておいて、本人は全てを手にしているからこそ何でも自分の思い通りになると思っている。そんな五条悟がね、僕はとても憎くなったんです」
「さ、っきから、何のはなし、を……」
「そんなときにさん、貴方が現れた」
ガタガタと何かがぶつかり合う音が続く。最初は風が窓を叩く音かと思ったが、どうやら違うようだ。
頭痛と耳鳴りに慣れ始め、目だけを動かして周りをぐるりと見渡す。部屋のどこにも窓がない、不思議な部屋。そのせいで、今が昼か夜かも分からない。
『遠くからで申し訳ないっスけど、あそこに一棟、黒くて窓が一個もない建物あるの見えます? 大丈夫だとは思うっスけど、念のためさんはあそこには近付かないように注意してくださいっス』
ふと、遠くを指差してそう話す新田さんの横顔が脳裏に浮かぶ。この懐かしい記憶は、私がまだ高専にやってきて日も浅い頃、手が空いていた新田さんに高専内を案内してもらったときのものだ。
風で揺れる金髪から目を離し、彼女の指差す方へ視線を向ける。新田さんの言う通り、そこには黒くて四角い箱のような、窓のない建物が見えた。
『分かりました。ちなみに……あそこはどういう場所なんですか?』
『あそこは――』
横たわっているせいで、鼻から溢れ出る血が頬を伝って古い木の床に染み込んでいく。どうしてこんなにも血が止まらないんだろう。
「一族の名誉、僕の大事な母、呪術師になるという道。僕からそれらを奪った五条家、その当主である五条悟にも同じ苦しみを味わってもらいます」
「同じ苦しみ、って」
そこで初めて私は自分の周りにあるものが数多の檻であることに気が付いた。ぐるりと、私たちを囲むように所狭しと置かれた大小様々な檻。
それらに気を取られている間に青白い手が伸びてきて、私の前髪を掴む。乱暴に引っ張られるせいで、嫌でも目の前の彼と視線が交わる。
「大切なものを奪われる苦しみを、です」
『高専で使用する低級から二級までの呪霊を保管してる建物っス』
彼の言葉と新田さんの言葉が重なった。
どうしてこんな目にあっているのか。自分が今いる場所と、これからここで何が行われるのか。それらを理解して、血の混ざった唾液を飲み込む。
話は終わりだと言わんばかりに、彼は私の前髪を強く引っ掴んで持ち上げたまま、反応を窺うようにこちらをじっと見下ろしている。冷ややかで何も映していないと思った瞳。その奥では、ただただ五条さんへの復讐心のみが静かに燃え続けているらしい。
大体、彼の言い分について理解はした。したけれども。納得なんて到底でるはずがない。だって、だってそんなの。
「……ごっ、五条さんは、何も悪くないじゃないですか……貴方が幼い頃のはなし、なら、五条さんだってまだ子ども、だったはず、だし」
ところどころ声を裏返させながら何とか言葉を紡いでいく。唇がふるふると震えるのは、寒さと恐怖、そして僅かに芽生え始めた怒りからだ。
きっと、五条さんのことだから。こんなにも他人から強く恨みを抱かれていることを知ったとしても、いつもみたいに笑ってこう言うだろう。
僕、五条悟だから。と。
でも、こんな理不尽な恨みを、そんな一言で完結させていいはずがない。
「みんな知らないだけで、五条さんだって、大事なものをたくさん失ってきたはず、だから」
「だから?」
「だ……から、あ、貴方は、ま、間違ってる……」
そう言い終えると同時にぐんっと力強く後ろへ引っ張られたと思ったら、後頭部に今まで経験したことのない衝撃が走った。自分のものとは思えない声が口から漏れて、目の前で無数の光が散る。
頭を激しく床に打ち付けられたらしい。ぐわんぐわんと脳が揺れる感覚を味わいながら、ぼやけて定まらない視界の中を彷徨う。再度襲ってくる痛みと吐き気に耐えようと歯を食いしばる。
はあ、とため息が落とされて、私の髪から手を離した彼はその場で立ち上がった。
「ただ見えるだけで術式も持たない人間が偉そうに」
蔑むように、冷たくそう吐き捨てた彼が檻の方へと歩いていくその隙に、先程ドアの開く音がした方へと視線を向ける。檻の隙間を縫って進んで行けば出口に辿り着けるのかもしれないが、両手両足を縛られているこの状況ではそれも難しい。
そのときだった。急に今まで感じていた冷気とは違う、冷たい何かが頭のてっぺんからつま先までを駆け抜けていき全身が硬直した。寒いはずなのに額にどんどん汗が滲んでいく。
この感覚、どこかで。
もはや逃げる方法なんて考えることもできず、動けない私に向かって彼は優しく語りかけるように話し始めた。
「本当はここの地下で保管されている等級の高いものを使いたかったんですが、申請がややこしくて。まあ、貴方みたいな人間ならこの程度で十分でしょう」
「な……、なに」
「普段自分が相手にもしないような低級の呪霊に殺された貴方を見たら、五条悟はどう思うかな」
この感覚は、五条さんに半ば無理矢理連れられて初めて祓除の現場に行ったときと同じものだ。
ゆっくりと、顔を彼の方へ向ける。そこにはあのときに見た無数の目があるものとも、小さい頃から何度も見てきたものとも違う呪霊がいた。目が合ってすぐ、頬を涙が伝う。
全部、間違いだったのだろうか。五条さんと出会ってしまったのも、声をかけて関係を持ってしまったのも、高専で働き始めたのも、五条さんを好きになってしまったのも。
うまく動かせない身体を必死に滑らせて、何とか距離をとろうと試みる。しかしすぐにそばにあった檻にぶつかり、呪霊の叫び声が鼓膜を劈いた。
「……わ、私はきっと、貴方を呪いますよ」
「どうぞ、ご随意に」
にこりと微笑む彼の姿が見えなくなる。私の前に立ちはだかった真っ黒な呪霊の十本以上ある指先が蠢いて、鎖骨の辺りを掠めていく。途端に白い炎が上がり、あまりの熱さに悲鳴を上げた。
勝手にいなくなられるのは嫌だって、言ってたのに。
二人で京都へ行ったとき、五条さんから静かにそう言われたときの記憶が走馬灯のように頭の中に流れ込んでくる。もういなくなろうだなんて思わないって、五条さんに伝えたばかりなのに――。
くるしい、いたい、あつい、たすけて、しにたくない。次第に声すら出せなくなっていく。
遠のいていく意識の中で、私は願った。もうここで死んでしまう運命なら、せめて五条さんが私の死体を目にすることがないように、跡形もなく、すべてを燃やしてほしいと。
真っ黒な呪霊と真っ白な炎。黒と白が混ざり合った景色がどんどん狭まっていく中で、どん、と激しく何かが弾け飛ぶ音を聞いた。そしてすぐに黒が消えて目の前が真っ白になる。
最後に、私はほっとした。ああ、よかった。すべて燃やしてもらえた、と。
(2024.08.03)