消えた話
「あ、神聖な医務室で男とイチャイチャしてたじゃん」
ひく、と口元が引き攣る。医務室に現れた私を見るなり、にやりと笑ってそう言い放った家入さんに私は目眩でふらつきそうになるのを堪えて深々と頭を下げた。
「本当に申し訳ございませんでした……」
硝子にだって見られちゃってんだから。この間の、医務室でのやつ――。
乙骨くんを入れて三人で楽しく鍋をした日の五条さんの言葉が蘇る。頭どころか全身が爆発してしまいそうだった。
五条さんのいつもの冗談かもしれない。からかって、私の反応を楽しみたかっただけかもしれない。ほんの少し心のどこかでそう期待していたけれど、その期待は家入さんの今の一言でいとも簡単に打ち砕かれてしまった。穴があったら入りたいとはまさにこのことだ。
消え入りそうな声で忘れてくださいと言えば、家入さんは微笑を浮かべたまま無理だな、と呟く。逆の立場だったとしたら、確かに無理である。
少し間を置いて、家入さんは机の書類の中から一枚の紙を引っ張り出すと、それをひらひらと靡かせた。
「これ、連絡もらってた発注希望の消耗品リスト」
「あ、ありがとうございます……」
「可能であれば再来週頭までに納品してほしい」
「承知しました」
すんなりと話題が仕事の話に戻ったことに胸を撫で下ろす。よかった、このまま弄られたらどうしようかと思った。
家入さんのそばまで歩み寄り、彼女から書類を受け取ろうとしたそのときだった。家入さんは闘牛士が華麗に牛をかわすかのように、私の手が届かない位置に書類を持ち上げた。えっ、と思わず小さく声を漏らし見つめ合えば、家入さんはさらに笑みを深くする。
「その前に、あの日の場所代として詳しく聞かせてもらおうか」
「……詳しく、と言われましても」
「高専辞めるとか何もかもうまくいかないとか、誰かさんの悩みや愚痴を聞いてやったのにな~」
わざとらしいため息を吐きながら、これまたわざとらしく悲しそうな顔をしてみせる家入さんに思わず押し黙る。
彼女の言っていることはごもっともだ。先日のことといい、私はとにかく家入さんに迷惑をかけすぎている。だから家入さんが詳しく話せと言うならば正直に話すのが筋だと思う。そう、頭では分かってるんだけど。
しばらく押し問答を繰り返し、結局先に折れたのは私だった。家入さんのそばに置いてあったいつもの丸椅子を引き寄せて腰を下ろし、諦念のため息をつく。
「……あの日、家入さんが出て行ったあと、五条さんとちゃんと話をしまして」
「うん」
「その、す……好きだと言われたので、私もす、好きだと答えました」
「小学生みたいだな、お前ら」
家入さんは茶化すようにそう言うと、ひらひらと泳がせていた書類を私に手渡した。先程同様、ごもっともすぎて何も言い返すことができない。
事実を実際に言葉にしてみると恥ずかしいもので、火照った顔から少しでも熱を飛ばそうと手で仰いでいたら、家入さんは肩に手を置いて首をポキポキと鳴らしながら「ま、あれだ」と笑った。
「アイツが彼氏とか気苦労が絶えないと思うけど。上手くやりな」
「彼氏……か、どうかは、ちょっと微妙なところでして」
「は?」
家入さんがコーヒーカップに伸ばした手を止めて私を見つめる。
先日抱いてしまった、一つの疑問。好きと伝え合ったものの、私と五条さんは現在恋人同士なのだろうか。
そんな疑問が浮かんだ理由は大きく分けて二つ。「僕と・私と付き合ってください」「はい」というような恋人同士になるための段階を踏み損なってしまった、というのが一つ。そして、五条さんみたいな特別な人が特定の恋人を作るということがいまいち想像できない、というのが一つ、だ。
私の言葉の意図を組めず、どこか呆然としている家入さんに私は慌てて説明する。
「その、五条さんは付き合うとか、そういうことまでは考えてないんじゃないのかな? と思って」
「……ちゃんとそこまで話し合ってないの?」
「あのあと五条さん、伊地知さんに緊急で呼ばれてすぐ出て行ったので。それから日が経つにつれて、聞きづらくなり……」
「前言撤回、小学生以下」
コーヒーを一口飲んだ家入さんがそう言い放つ。返す言葉もない。きっと今時の小学生たちの方が、もっと上手くスムーズに恋愛しているはずだ。
いつだったか、五条さんは自身のことを誠実で一途だと話していた。それが本当なら、このままずるずると曖昧な関係が続いていく……というようなことはないと思うけれど、正直あまり自信がない。今までの人生、自分がどうやって恋愛をしてきたかすっかり記憶から飛んでしまっていた。
「はさ。ちゃんと付き合いたいとか、そういうこと考えないの?」
ボールペンを器用にくるくる回しながら誰かのカルテに視線を落とす家入さんの横顔を見つめる。
これまで私は、自分が『どうするべきか』を考えて動いてきた。でもそうではなくて、自分がこれから『どうしたいか』。五条さんと『どうなりたいのか』。無意識に考えることを避けていたこれらについて、きちんと答えを出さなければならない。
「私は――」
家入さんの瞳が私へと向けられた瞬間、ポケットに入れていたスマホがぶるぶると震え始めた。表示されている名前を確認して立ち上がる。
「すみません、仕事に戻ります。邪魔してすみませんでした」
「全然いいけど。ま、アイツに泣かされたらいつでも相談して」
そう言いながら拳で宙を殴ってみせる家入さんに、思わず笑った。
今日の夜。五条さんと話せるだろうか。
「じゃあ、また。お疲れ様です」
* * *
「あれ? 、ここにいると思ったんだけど」
「随分前に呼び出されて出て行ったぞ」
「なーんだ、つまんない」
温かい空気が充満した医務室を突っ切って白いカーテンを開け、その先に置いてあるベッドへダイブする。僕の身体を受け止めたベッドが激しく軋む音が聞こえ、硝子が「五条」と刺々しい声で僕を呼ぶ。後頭部あたりに咎めるような視線をひしひしと感じたが、返事の代わりに盛大なため息を吐いた。
せっかく早く帰って来れたから、の顔を見て癒されようと思ったのに。珍しく当てが外れた。
枕に顎を置いてスマホを取り出し、とのトーク画面を開く。『今日の夜、空いてる?』と打って、送信する。
「ところで、お前は同期にああいう場面を見られて恥ずかしいとか、そういう感情は湧いてこないわけ?」
硝子の侮蔑を含んだ眼差しとその言葉を受けて、僕はすっかり忘れていたことに気が付いた。そうだった。あのときのあれ、硝子に見られてたんだった。
「硝子のエッチ!」
「死ね」
「ひっど」
そう言って、無言のままのスマホを枕元に放り投げる。そして仰向けになり、天井に向かって「全然なーい」と笑った。
「第一、僕の辞書に『恥』という字は載ってないからね」
「うざ……死ねよ……」
「マジトーンやめてくんない。それより聞きたいんだけどさあ、世の中の恋人たちって普段何してんの? ピクニック?」
「小学生の恋愛相談は受け付けてないんで。てかそもそも、まだちゃんとと付き合ってないんだろ」
「え? 付き合ってるけど?」
ぱちぱちと、ストーブの中で火が散る音。しゅんしゅんと、ストーブの上でやかんが湯気を吐き出す音。そして沈黙。静まり返った部屋。
そこでようやく僕は顔を上げてしっかりと硝子を見た。
驚いている僕とは違い、硝子はうんざりしたような、疲れきった顔で深いため息を落とした。彼女のそういう顔、そういう反応には学生の頃から慣れてはいるが、今回ばかりはさすがに黙って見過ごせない。
「は、付き合ってるつもりではなさそうだったけど?」
「はあ~?」
勢いよく飛び起きると、ベッドが再びぎしりと嫌な音を立てた。
いやいや、付き合ってるつもりではなさそうって。そんなことある? ってか、付き合ってないのにあんなことするわけなくない?
そう言おうとして開けた口を僕はそのまま閉ざした。そういえば、僕らは付き合ってないのに『あんなこと以上のこと』をしてしまっていたのだった。しかも初対面で。
そのことを思うとが付き合っていないと考えてしまうのは仕方がないような気もするが、それでいいかどうかはまた別である。
「まあいいよ、どうせ今日の夜会って話すから」
そう言ってすぐ、医務室のドアが控えめにノックされる。だったら嬉しかったのだが、姿は見えずとも気配でそうでないことはすぐに分かる。
これまた控えめにゆっくりと開けられたドアから現れたのは伊地知だった。硝子と僕がいることを確かめたあと、視線を動かして部屋の中を見渡す。
「あの、さんがどちらにいらっしゃるか知りませんか? なかなか戻って来られなくて」
「電話かかってきて仕事に戻って行ったけど。一時間くらい前。伊地知がかけたんじゃないのか?」
「いえ、私はかけていませんが……」
突如、脳のずっと奥の方で何かにひびが入ったような、そんな音がした。ざわ、と部屋の空気が一変し、硝子と伊地知の視線がほぼ同時に僕へ向けられる。
放り投げていたスマホを手に取って確認するが、数分前にへ送ったメッセージは未読のまま。そのまま電話帳を開いてに電話をかけるものの、コール音が鳴り続けるだけで応答の気配はない。
嫌な予感がした。そして大抵、僕の嫌な予感は当たるのだ。
「ど、どこかですれ違ってしまったかもしれないので」
「僕も探す」
医務室を出ようとする伊地知に短くそう告げて立ち上がる。僕を見上げる伊地知の瞳には不安の色が滲んでいた。
釘は刺した。しかも、わりと強めに。だから無闇に上の連中がに手を出すことはない……と思いたいが、それも絶対にない、とは言えない。何せ、僕に嫌がらせするためなら生徒の命を犠牲にしてもいいと思っている奴らなのだから。
「……まだ、そうと決まったわけじゃない」
硝子が静かにそう呟く。僕に言い聞かせているようにも、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
硝子も伊地知も、僕の不在時に上層部がに接近したことを知っている。彼女に何を言ったのかも。だからこそ、二人は今の僕と同じ懸念を抱いている。
杞憂ならばそれでいい。もう一度電話をかけようとしたとき、医務室のドアが開いた。
「……ツナツナ」
少しだけ声を枯らした棘が、僕らの視線に不思議そうに眉を顰める。今日の棘は単独任務が入っていたはずだが、本人の様子から察するに終えて戻ってきたところらしい。
黙ったままの硝子と伊地知に代わって、僕は不穏な空気をごまかすように軽く手を挙げて笑った。
「棘、お疲れ! 特に問題なかった?」
「しゃけ」
棘はこくりと頷くと、制服のポケットから一台のスマホを取り出した。
最初は棘のものかと思ったが、違う。
「……どこで拾った?」
スマホはのものだった。棘から受け取って画面をタップすると、先程自分が送ったばかりのメッセージと着信が通知として表示されている。棘は軽く咳き込んで窓の外の方を指さした。
硝子はが一時間くらい前に出て行った、と言った。仮に医務室を出てすぐにスマホを落としたのなら、もうがスマホを落としてから同じくらいの時間が経っているはずだ。
業務時間内外問わず電話を受けることの多い彼女が、そんなに長い間スマホが手元にないことに気が付かないはずがない。
ホームボタンを押すとパスコード入力画面が表示される。迷うことなくすいすい数字を入力しロックを解除した僕の隣で、それを見た伊地知が「えっ」と小さく声を上げる。
ちらりと横目で見やると、伊地知は気まずそうに目を伏せた。
「なんで知ってるんだって顔してるね」
「い、いえ……まあ、はい……でも緊急事態ですので、ここは目を瞑ります」
「うん、そうして」
伊地知と言葉を交わしながらも、頭の中ではずっと最悪の事態とは一体何かを考えていた。何か問題が起きたとき真っ先に最悪の事態を予想するのは、ある意味癖のようなものだった。
例えば、上層部がを人質にして僕に無理難題を押し付ける、とか。いやでもそれはいくらでも対処のしようがあるし、そこまで最悪ってわけではない。やはり一番最悪なのはの『死』なわけだが、今の上層部にとっては彼女を殺すよりも生かしておいた方が、メリットは置いておいてデメリットは少ないと踏むはずだ。
そもそもの身に現状何か問題が起きていると仮定して、果たして本当に上層部が絡んでいるのだろうか――。
「僕って敵多いからなぁ……」
「五条さん?」
「なんでもない、ただの独り言」
ため息を落とし、着信履歴を開く。硝子と一緒にいたに電話をかけ、呼び出した人物が何かしら関わっている可能性が高い。
「……コイツか」
着信履歴の一番上にあった、見覚えのある名前。少し前、自室の窓ガラスを割られたことに怒っていたの姿が頭を過る。
そして、それと同時に浮かんだもの。それはあの日、随分と親しくしていた補助監督の男の笑顔だった。
(2024.05.31)