振り回されてばかりな話
『鍋』
手元に置いていたスマホが短く震えたので画面を覗くと、そこには見慣れた名前の下に取ってつけたような一文字が表示されていた。続きがあるのかと思いメッセージを開いてみたものの、やはりそこには漢字が一つ、ぽつんと寂しくあるだけで。
「鍋……?」
「鍋?」
私の小さな呟きに、正面に座って書類を片付けていた伊地知さんが反応した。顔を上げて不思議そうにこちらへ視線を向けた伊地知さんは、私の表情に首を傾げる。
「すみません、鍋と聞こえた気がしまして」
「あ、いえ、合ってます。合ってるんですけど」
実は、と言って私は伊地知さんにスマホの画面を見せた。表示されているのは、任務が終わり恐らく移動中であるはずの五条さんから一分前に届いたメッセージ。伊地知さんは椅子から腰を浮かせ、眼鏡のブリッジを指で押さえながら私の差し出す画面をまじまじと見つめ、静かに眉を顰めた。
「確かに、鍋ですね」
「何かの隠語……ですかね?」
「いや、単純に鍋が食べたいって意味じゃないでしょうか」
そんな考察を繰り広げていたちょうどそのとき、持っていたスマホが再び震えたので二人揃ってびくりと肩を跳ねさせた。しかも今度は、その謎のメッセージを送ってきた相手からの電話である。
少し慌てたようにどうぞ、とジェスチャーする伊地知さんに頷いて私は緑のボタンをタップした。
「お疲れ様です」
『おっつかれ~。ごめんごめん、途中で間違えて送信押しちゃってさ』
電話の向こうの五条さんは陽気にそう話す。声の奥から聞こえるのは微かな走行音。予想通り、移動中の車内から電話をかけてきているようだ。
鍋、というのが一体何のことか分からないまま、私は何を頼まれてもいいようタブレットに五条さんのスケジュールを表示させた。明日、五条さんは久しぶりに終日オフらしい。
『あのさ、今日の夜鍋しようよ。三人で』
その言葉に、スケジュールをスクロールする手がぴたりと止まる。伊地知さんの言っていた通り、鍋というのは隠語でも何でもなく単純に食事のお誘いだったようだ。
でもなぜ急に鍋? と疑問に思いつつ、私は目の前の伊地知さんをちらりと一瞥した。今朝聞いた話では、今夜伊地知さんは学長の会食に同席すると言っていたけれど。となると五条さんの言う三人というのは、五条さん、私、そしてあと一人は誰だろう。
そう尋ねる前に、五条さんは運転手の補助監督にコンビニに寄るよう告げたあと、たくさん野菜をもらったのだ、と言った。
「野菜ですか? どなたから……」
『今日の任務地、農村だったでしょ。それで依頼者のとこで採れた野菜をさ、お礼に持って帰ってって。なかなかの量』
「なるほど、それで鍋」
『夜、空いてる?』
「私は空いてますけど、三人って……あと一人は?」
そう聞くと同時に、電話の向こう側から「先生」と誰かが五条さんを呼ぶ声が聞こえた。おや、と不思議に思いながら耳を澄ます。五条さんと補助監督以外にもう一人、誰かいるようだ。
すいすいと指を動かして学生たちのスケジュールを眺めていたら、少し間が空いて五条さんが楽しげに笑う声がした。
『あと一人は、会ってからのお楽しみ』
「え、気になるんですが」
『肉とか足りない材料は買って帰るから。また到着時間分かったら連絡するね』
「……分かりました」
通話が切れてしまったスマホをぼんやりと見つめる私に、伊地知さんが「どうでしたか?」と少々心配そうに尋ねる。
「単純に鍋のお誘いでした」
「やっぱり」
「……今日、五条さんって単独任務でしたよね」
「ええ、そうですが……」
誰かと一緒だったようだと説明すると、伊地知さんは作業の手を止めて壁時計をちらりと見やったあと、「もうそんな時間ですか」と言った。つられて時計に視線を向ける。午後四時を回ったところだ。
五条さんのことを先生と呼ぶのは彼の教え子である学生たちしかいない。しかしその学生たちは、各々任務や休暇で不在にしている。任務組にはそれぞれ補助監督が一人ずつついているので、五条さんを乗せた車が誰かを拾って帰る必要もないはずだ。
見当のついていない私に対し、伊地知さんは五条さんと一緒にいる人物のことをどうやら知っているらしい。よく分からないでいる私を見て、伊地知さんは何かに気がついたような声を上げた。
「そういえば、さんにはお話していませんでしたね」
「何でしょう……?」
「今日は彼が日本に帰ってくるんですよ」
彼。そう言われてもやはり思い当たる人物はなく、鍋と同じ漢字一文字に首を傾げる私に、伊地知さんはどこか嬉しそうに微笑んだのだった。
* * *
高専の寮には寮母が常駐しているが、今日みたいに学生全員が不在で夕食の申告がなかったときや夜遅く、また寮母本人が休みで不在のときなどは、学生から教職員まで誰でも自由に食堂の厨房を利用することができる。もちろん共用の場なので利用後は元の状態に戻す、冷蔵庫の中に何か入れる際は日付と名前を書く、などの細かいルールはあるものの、ここで暮らすようになってから何度か学生たちが料理しているところを見かけたことがあった。
「鍋、鍋……あった」
コンロ下の棚に重ねられたフライパンたち。その奥に収納されていた黒釉の土鍋を引っ張り出していたとき、食堂のドアががらりと開く音が聞こえ、私は厨房からカウンター越しに顔を覗かせた。
「ただいま~! 外、すっごい寒いよ」
「お帰りなさい、お疲れ様でした」
まるで小学生の子どもが帰宅したかのような元気な声に厨房を出ると、ぎゅうぎゅうに野菜が詰められたビニール袋を両手に掲げる五条さんがいた。片方の袋からはネギが飛び出していて、思わずふふ、と笑みが零れる。
そんな私に、五条さんは少しだけ赤く染まった鼻をすすり「ん?」と首を傾げた。
「なんで笑うの?」
「いや……五条さんにネギ、似合わないなと思って。スーパーでカゴ持って買い物してる姿とか想像できないです」
「そーお? 帰りに肉買いに店寄ったけど、普通に主婦のマダムたちに溶け込んでたよ。ねえ?」
五条さんに同意を求められた人物は白い服を着ていた。そのせいか薄暗い廊下からゆらりと浮き出てきたようで、全身黒の五条さんとの対比に思わず目を見張る。
「いや、溶け込んでは……会計まで僕たちをつけてきた女性、多分万引きGメンの方ですよね」
「マジ?」
「……乙骨、くん?」
くん呼びで良いのか少し迷いながらぽつりとそう言うと、呼ばれた本人は私を見てふにゃりと溶けるように笑った。
五条さんと同じ、数少ない特級術師。そんな肩書きから屈強な若者の姿をイメージしていた私は、実物との乖離に素直に驚いた。うっすらクマの滲む目元はどことなく家入さんに似ているけれど、笑った顔は年頃の好青年といった感じである。
「初めまして、さん。乙骨憂太です」
「初めまして。長期の海外出張、お疲れ様でした」
「サプライズのつもりだったんだけど、あんま驚いてないね?」
そう言って私の顔を覗き込む五条さんに伊地知さんから乙骨くんの帰国を聞いたのだと言うと、彼はふうん、と言って少しばかり不服そうに口を尖らせた。
二人が持ち帰った野菜は電話で聞いていた通りなかなかの量だった。それに加え、肩に掛けられていた刀に目がいって気がつかなかったが、乙骨くんは二十キロはありそうな米袋を片手で抱えているではないか。びっくりして重かったでしょうと言いながら乙骨くんの顔を見ると、彼は私をじっと見つめ徐々に顔や耳を赤くしていった。
その反応を不思議に思う私に気付いたらしく、乙骨くんは誤魔化すようにぶんぶんと首を横に振る。これくらい何も持ってないのと同じですよ、と言って米袋を運ぶ乙骨くんの背中を見つめながら、彼は意外とシャイで、意外と力持ちなのだなと思った。
さすがに日本の反対側から戻ってきたばかりの学生に準備を手伝わせるのは気が引ける。そんな私の言い分を聞き入れてもらい、調理は私、そして鍋をやろうと言い出した五条さんでやることにした。
「三人で鍋するだけじゃ消費しきれないよね、これ。米もあるし」
「明日、寮母さんに寮の食事で使ってもらうようお願いしておきますよ……あ、そうだ。業者さんからお歳暮でいただいたプリンがあって、食べますか?」
赤ん坊のようにずっしりと重い白菜を置き、奥にある大きな業務用冷蔵庫を開けて振り返ると真後ろに五条さんが立っていてどきりとした。まるで洗顔するときのヘアバンドのようにアイマスクを額まで上げて素顔をさらけ出している五条さんは、私を見てにこにこと微笑んでいる。私の退路を断つように立っている五条さんに、今度は私が「どうして笑うんですか?」と尋ねる番だった。
「んー? お帰りなさいって言われたり二人で料理したり、なんか新婚ぽいなーと思って」
「しん、新婚って……」
「ね、ちゅーしていい?」
「なっ」
学生のいる場で何を!?
そう叫びそうになるのを堪え、咄嗟に乙骨くんが座って待つ食堂へ目を向ける。しかし開いている冷蔵庫のドアのせいで、私たちのいる場所は彼からだと死角になっているようだ。
いつものことだが、五条さんは私の反応を見て明らかに楽しんでいる。大きな仕事を終えてきたとは思えない軽やかな微笑みに、冷蔵庫の中から漏れ出る冷気ではどうにもならないほど身体が熱くなっていって、押し問答する隙すら与えず五条さんは私の腰へするりと手を回した。
あ、逃げられないかも。そう覚悟したそのときだった。
「あの……」
ものすごく遠慮がちな声が聞こえて、私は大慌てで腰に回されていた五条さんの手を引き剥がした。立ち塞がる彼の脇からすり抜けて「はい!」と返事をすれば、目を丸くした乙骨くんがカウンター前に立っている。
「やっぱり僕も何か手伝います。座って待ってるだけじゃ申し訳ないので……」
「え、あっじゃあ、野菜洗うの手伝ってもらおうかな」
どぎまぎしながらそう話す私の後ろで、五条さんは悠長に「憂太、プリン食べない?」と言った。乙骨くんにバレないようこっそり五条さんを睨みつければ、彼はにんまりと笑みを深くした。
* * *
「乙骨くんは、普段料理するの?」
白菜の葉を一枚ずつ剥がして水で洗う乙骨くんに何となくそう尋ねれば、彼は少しだけ悩んで「最近は全然」と答えた。それもそのはず、彼は今年一年の約三分の二を海外で過ごしていたのだ。
そうだよね、と相槌を打つ私に、葉についている泥を落としていた乙骨くんはぱっと顔を上げた。
「でも去年はほとんど日本にいたので結構してましたよ。一時期、二年のみんなと料理にハマった時期があって……」
蛇口から出る水がシンクを叩く音が響く。何も言わなくなった乙骨くんに気付き、野菜を切る手を止める。ふと彼に目を向ければ、手元の水しぶきに視線を落としたままぽつりと零すように「みんなともっと一緒にいたいです」と呟いた。
乙骨くんの今回の帰国は一時帰国なので、年が明けたら彼は再び日本を飛び立ってしまう。それまでに同級生たちと会えないということはないはずだけれど、それでもきっと乙骨くんの望む時間を過ごすには全然及ばないだろう。
変なこと言ってすみません、と眉を下げて笑った乙骨くんは、洗い終えた白菜をザルに上げた。
「もうさすがに慣れましたけどね、一人は。僕にしかできない任務もあるわけだし、わがままなんて言ってられないですよね」
「……慣れなくていいよ」
「え?」
乙骨くんにしかできない任務がある――それは確かにそう。わがままなんて言ってられない――それも、確かにそう。でも乙骨くんが置かれている状況に、一人でいることに慣れる必要はないと思った。慣れないとやっていけないのかもしれないけれど、でも。
「一人は寂しいでしょ」
洗ってもらった白菜をざくざくと切りながらそう呟く。私の立場で彼の今の状況を解消してあげられる術はないけれど、自分より一回り近く若い彼に、寂しさ、そして寂しさに耐えることに慣れてほしくない。
そこまで考えて私はハッとした。学生とは言え特級術師ともあろう方に、偉そうなことを言ってしまったかもしれない。乙骨くんはぼんやりと私を見つめていたけれど、その目は私ではなくどこか遠くを見ているようだった。
「ご、ごめん、なんか変な空気にしちゃって。というかあれだよ、乙骨くんは一人じゃないよ。いや海外にいるときは一人なんだけど、あの、もし寂しくなったら、時差とか気にせず私に連絡くれてもいいからね」
しどろもどろになりながらそう話す私を見て、乙骨くんはようやく笑った。今日初めて会ったときと同じく力が抜けたような、すこし泣きそうな笑顔だ。
「昔、同じようなことを……一人は寂しいよって、言われたことがあったなと思って」
「あ、そうなの? 誰に?」
「五条先生のそばに、さんみたいな方がいてくれて良かったです」
「うん……うん?」
質問の答えになっていない返答に思わず間抜けな声を上げる。いや答えについては置いておいて、もし聞き間違いでなければ、今の乙骨くんの言い方だとまるで私と五条さんがどんな関係か知っているようじゃないか。
「なので、もし先生がいないときに困ったことがあったら言ってくださいね。まあ僕がいないときの方が多いんですけど……五条先生の大事な人は、僕にとっても大事な人ので」
「だ、大事な人って、乙骨くん」
「そうだな、例えば」
次の瞬間、足元から何かがずずずと這い上がってくる感覚が私を襲った。それが何かを考えるより先に、右手に持っていた包丁がまな板の白菜の上に滑り落ちる。
「例えば、上層部絡みとか」
五条さんと初めて祓除の現場に行き呪霊と遭遇したときと似た、いやあれよりも恐ろしく禍々しい何かが一気に身体中を駆け巡っていく。乙骨くんの背中の辺りから強く感じるその『何か』に、あ、とかう、とか返事にならない声を漏らしたとき、五条さんの「完成!」という大きな声が厨房に響いた。
「悠仁直伝の肉団子! これすっごく美味しいから絶対食べてみて」
「へえ、虎杖くんの……それにしても量多くないですか?」
「三人ならこれくらい余裕でしょ」
銀色のバットに並べられた肉団子を前にきゃっきゃとはしゃぐ二人に私は口を噤んだ。花でも飛ばしているのか、と思うほどほんわりとした笑みを浮かべる乙骨くんの周りに、先程までの不穏な空気は漂っていない。
大丈夫だよ、という声が聞こえて我に返れば、いつの間にか五条さんが私のすぐ隣に立っていた。ぎくしゃくと頷いて、再び包丁を握る。自分が乙骨くんに何を聞き何を言おうとしていたのかはすっかり忘れてしまっていた。
* * *
みんなに写真を送りたいので、と言って火をつける前の鍋を写真に収める乙骨くんを横目に、まだ大量の野菜が入っている袋のそばにしゃがみこんでいる五条さんの背中に「あの、五条さん」と小声で話しかける。そのときには波立った気持ちもいくらか落ち着いていた。
五条さんの背後に立って上から覗き込む。五条さんは真上を向いて私と目を合わせた。
「どうしたの?」
「あの一つ聞きたいことが……って言うか、何してるんですか?」
真っ白な大根を両手に持ちこちらを見上げる五条さんに思わずそう尋ねる。ネギだけでなく大根もなかなか似合わない。
んー、と曖昧に返事をしながら五条さんは袋の中をがさがさと漁り始めた。大きな体躯を縮こまらせている彼の隣に私もしゃがんで袋の中を覗く。
「ちょっと探し物。コンビニで買ったやつ、袋の中に入れといたんだけど」
「何買ったんですか」
「あれだよ、あれ。箱」
「箱?」
私は首を傾げた。確かにコンビニで店員さんに袋いらないですと伝えたあと、買ったものを手荷物の中に入れたはいいけど奥の方に落ちちゃってどこにあるか分からなくなること、私もたまにあるけど。
それにしても鍋、彼、そして箱。今日は正体不明な漢字一文字が多いな、と頭の中で零す。
同級生たちとやりとりしているのか、椅子に腰を下ろし嬉しそうにスマホを触る乙骨くんをぼんやり眺めていたら、目当てのものを見つけたらしい五条さんが「あったあった」と言った。そして彼が袋の奥から引っ張り出したものに私はぎょっとした。
箱。それも手の平サイズの小さな黒い箱。表面には大きく『0.01』と記されていて、それが一体何の数字なのかは聞かなくとも分かる。私たちはしばらく無言のまま見つめ合った。
「……いや、そんな引かないでよ。いるでしょ」
「……いりません」
「え、マジで? 嬉しいけど、それはちょっと僕的にはまだ早いかなと思ったり」
「そういう意味じゃなくて! え、というかこれ買うとき乙骨くんって」
「いたよ、隣に」
ひいい、と情けなく小さな悲鳴が口の端から漏れて私は床に膝をついた。いや、でも、これを買うときに乙骨くんがそばにいたとしても、使う相手が私とは思っていないかもしれないし。と、そこまで考えて頭を抱える。挨拶を交わしたあとの乙骨くんの様子や彼の「五条先生の大事な人」発言から考えると、それはほぼないかもしれない。
なるべく五条さんとの関係については、周りに隠せるうちは隠したいと思っていたのに。そう思って項垂れてすぐ、ふとあることに気がついた。
お互いに、お互いを「好き」と認識して伝え合ったけれど、結局私と五条さんは今、恋人同士なんだっけ――?
小さな箱を上に投げてはキャッチすることを繰り返しながら、五条さんは黙ってしまった私に少し呆れたような息を吐いた。
「てかもう今更じゃない? 硝子にだって見られちゃってんだから」
「……え、は? 見られたって、何が……」
「この間の、医務室でのやつ」
次は悲鳴も出なかった。まさかの事実に目を見開く私に対し、五条さんは「僕に夢中で気付いてなかった?」と言うと、愉悦に浸るかのように目を細め笑みを浮かべた。一瞬で顔中が熱くなり、私は声を上擦らせる。
「ど、どうしてすぐに教えてくれなかったんですか……!」
「まあいっか、と思って。見せつけたかったし」
「見せっ……い、いろいろと酷いですよ!」
「自分で言うのもあれだけど浮かれてんだよ、僕」
人の気も知らずに「だから許してよ」と言って、こてんと頭を横へ倒す五条さんの眩しく碧い瞳に私は全ての言葉を飲み込んだ。いわゆる惚れた弱みというやつだ。心の中ではすごく怒っているのに、そんな可愛いことを可愛い顔で言われたら、何も言い返せなくなってしまうじゃないか。
それにしても、私はどんな顔をして乙骨くんと接すればいいんだろう。今まで乙骨くんはどういう思いで私と話をしていたんだろう。
「大丈夫ですか?」
カウンターの内側に隠れるようにしゃがみこんでいる私たちを覗き込んだ乙骨くんがそう尋ねる。私は咄嗟に立ち上がった。
「だ、大丈夫! 鍋、そろそろいい頃かな」
乙骨くんの視線から逃れようとコンロの方へ目を向けると、土鍋の蓋の穴からは白い蒸気がしゅうしゅうと勢いよく逃げ出していた。お腹空いた~、と気の抜けた声で零しながら立ち上がった五条さんの片手には相変わらず箱が握られたままで、私はポケットへ隠す気も恥じらいも全くない彼からそれを奪い取ろうと手を伸ばした。
そこからの出来事は、まるでスローモーションで再生されているかのように見えた。引っ掴むはずだったその小さな箱が私の指先に弾かれる。宙を飛んでカウンターを飛び出したそれは、透明なフィルムに包まれているおかげでするすると床を滑っていく。
しまった、と思うのと、箱が何かにコツンと当たって止まるのと、乙骨くんが「あ、学長」と呟いたのはほぼ同時だったように思う。
「あれ? 会食じゃなかったでしたっけ?」
私が思っていたことを、背後に立っていた五条さんがそのまま口にする。学長は無表情のまま、短く一言「延期だ」と言った。自身の靴に当たって止まった小さな箱に学長は気付いているのかいないのか。黒いサングラスのせいで視線がどこに向けられているか分からず、私は額からぶわりと汗が噴き出すのを感じた。これはまずい。非常にまずい。もし気付いているのなら、どうにかしてごまかさないと――。
一方、幸いにも飛んでいった箱には気付いていないらしい乙骨くんが、鍋の火を止めて無邪気に学長を夕食に誘う。
「学長も良ければ一緒にどうですか? 五条先生とさんが作ってくれたんです」
「いや、俺はいい。乙骨は長期の出張で疲れただろう、しっかり食ってしっかり休め」
「はい、ありがとうございます」
「そしてそこのバカ二人」
ぎくりとする私の隣で乙骨くんが「バカ二人?」と復唱し、戸惑いの表情を浮かべるのが分かった。こんなときに不謹慎だけれど、そう称されることに懐かしさを感じる。学長が私と五条さんのことをまとめて「バカ二人」と呼ぶのは、これが二度目だ。
厨房には完成した特製鍋の良い香りが漂っていた。そんな中、五条さんが先回りして「あとで学長室行きまーす」と軽い調子で手を挙げる。それを聞いた学長は、乙骨くんの存在もあってかそれ以上追及することはせず、呆れたようにため息を零し去っていった。
「バカ二人って……どうしてさんが含まれてるんですか?」
「え、その言い方だと僕が含まれてることに疑問はないわけ?」
「いや、うーん、五条先生は、まああれじゃないですか」
「何、あれって」
そんな話を続ける二人から離れ、私は学長が拾わなかった箱を手に取りポケットの中に突っ込んだ。恥ずかしさよりも全身を襲う疲労感の方が勝って、なんだか一気に老けた気がする。深く息を吸って大きく吐こうとしたそのとき、、と呼ばれて私は振り返った。
こんな状況で、どうしてそんなにも楽しそうなんですか。そう文句を言ってやりたくなるほどの綺麗な笑顔で、五条さんはカウンターに乗り出すように上半身を預けてこう言った。
「また二人で仲良く怒られよーね」
惚れた弱み、その二だ。
私は何も言い返せないまま、ポケットの中の箱を静かに握りしめた。
(2024.03.20)