向き合う話①
「高専を辞めようと思っています」
そう言うと、ちくちくとフェルトに細かく針を刺し続けていた学長の手がぴたりと止まる。しかしそれは一瞬のことで、学長はサングラスの隙間からちらりと私を見たあと静かに「そうか」と言い、再び人形を作る手を動かし始めた。
初めて私がこの部屋を訪れたとき、学長は一般人である私が高専で働くことに懐疑的だったけれど、これまで何かと気遣ってもらいよくしてもらった恩がある。だから五条さんが任務に出ている今、まずはこの人に話をと思ったのだけど。意外とあっさりとした反応に少しだけ拍子抜けする。
「悟は了承しているのか」
「それは」
「引き留めはしない、だがお前をここに連れてきたのは悟だ。アイツの許可くらいとっとけよ」
「分かって、います」
私の何だか頼りない返事に、学長はふっと穏やかな笑みを零した。そしてサングラスを外し「俺はお前を買っていたんだがな」とため息混じりに言うものだから、不覚にも胸がきゅっと痛んで私は唇を結んだ。
「最後に、一つだけ忠告しといてやる」
退室しようとドアを開けたところで学長にそう言われ、私は振り向いた。お世辞にも可愛いとは言えない、まだ片腕しかついていない製作途中の人形を持った手でこちらを指さした学長がにやりと笑う。
「勝手にいなくなってでもしてみろ。地の果てまで追いかけてくるぞ、アイツは」
勝手にいなくなられるのは嫌だ。学長の『忠告』で、京都出張へ行ったときにそう話していた五条さんの姿が頭を過る。
私が今高専で働くことができているのは五条さんのおかげだ。だから学長の「五条さんの許可をとれ」という言葉には素直に納得しているし、勝手にいなくなるつもりもない。しかし数日前に気まずい別れ方をしてから五条さんとは顔を合わせていないし、だからこそどう切り出せばいいか悩み続けている。
もっと、しっかりしなきゃいけないのに――。学長室の前で声に近いため息を吐き切って顔を上げれば、真正面に家入さんが立っていてびくっと身体が跳ねた。
「い、家入さん」
「ウケる、気付かなすぎ」
驚いたせいで、ばくばくと心臓が鳴り続けている。はは、と白い歯を見せて笑った家入さんの目の下には相変わらずくっきりとクマが浮いていて、彼女は白衣のポケットに両手を入れたまま私の顔を覗き込むと「もう仕事終わり?」と首を傾げた。
「はい、今日はもう上がりです。家入さんは?」
「私は今日夜勤」
「そうですか、お疲れ様です」
そう言うと、家入さんは冬の夜勤は二割増で面倒くさいと眉を顰め、肩を竦めてみせた。
家入さんは仕事柄昼も夜も基本的に校内で待機していることが多いようだが、たまに呼び出されて現場へ出向くこともあると聞く。今日は夜から雪になるかもしれないとニュースで言っていたし、外出するとなるとなかなか大変だろう。
そこまで考えたとき、家入さんが脇に分厚いファイルを挟んでいることに気付いて私は「あっ」と声を上げた。学長室のドアの真ん前に立ちっぱなしだったことに気付き、慌てて一歩横にずれる。
「すみません邪魔して、学長いらっしゃいますよ」
「んー、あとででいいや」
「え?」
「それよりちょっとついてきて」
もう一度えっと言ったところで家入さんが私の手首を掴む。学長に何か用があったからここに来たのではないのか。そう思いながら、何の説明もなしにずんずん廊下を進んでいく家入さんに「いいんですか?」と尋ねてみたものの、彼女はちらりと私を見て僅かに口角を上げただけだった。
* * *
「あ、石油ストーブ」
家入さんに手を引かれ向かった先は彼女の仕事場である医務室で、私は窓際に置いてあったストーブの前でそう呟いた。じんわりとした温かさと焦げ茶色で四角い形はどこか懐かしさを感じる。ストーブの上にはやかんが置かれていて、その口からはしゅんしゅんと白い湯気が立ち始めていた。
「なんて言うか、家入さんがこういう石油ストーブ使ってるって意外でした」
「そう? 便利じゃん。温かい上にお湯沸かせるし、熱燗作れるし」
「熱燗?」
「うん。飲む?」
慌てて首を横に振る。お酒好きの家入さんのことだから本当に熱燗を作り出すのではと一瞬ひやっとしたけれど、彼女は棚から取り出したマグカップの中に紅茶のティーバッグを入れてやかんのお湯を注いだ。ずっと使っていたドリップ式のコーヒーメーカーは最近壊れてしまったらしい。
どうしてここに連れてこられたのかよく分からないまま空いていた丸椅子に座り、紅茶を用意する彼女の背中を見つめる。
私がここでお世話になったのは、学長や五条さんだけじゃない。右も左も分からなかった私に親切にしてくれた人たちが高専にはたくさんいて、家入さんもその内の一人だ。だからちゃんと、彼女にも話さなければ。
家入さんは私に紅茶を手渡すと、椅子を二つ私のそばまで引きずって片方の椅子にミルクと砂糖を置くと、もう片方の椅子に腰を下ろした。
「で、何? 辞めんの?」
「んぐっ……」
口に含んだ熱い紅茶が気管に入り、盛大に噎せた。どうやら先程の、学長との会話を聞かれていたらしい。しかしその割に家入さんは大して驚く様子もなく、げほげほと咳込む私を眺めながら冷静にマグカップから立ちのぼる湯気を吹き飛ばしていた。
ようやく落ち着いたところでため息を落とす。ここ数日、私のため息の量は明らかに増えている。
「……はい、いろいろ思うところがあって」
「もう決めたの?」
「決めました」
「それにしてはめちゃくちゃ迷ってる顔してるけど」
そう指摘され、さっと両手を上げてマグカップで顔を隠す。家入さんの笑い声が聞こえた。
「五条は何て?」
「あ、五条さんにはまだ話せていなくて……でも、ちゃんと折を見て言います」
「無理だと思うけどなあ」
ぽつりと呟いた家入さんの言葉に、私は何も言えなくなり押し黙った。
確かに今のところどう五条さんに話を切り出してどう説得するか、いい案は浮かんでいない。でも先日の様子だと五条さんは大分私に呆れていたようだし、学長のように案外すんなりと認めてくれる可能性もある。
私が高専を辞めることを認めてほしいし、引き留めてほしくない。でも引き留められなかったら、それはそれでまたショックを受けるのだろう。
自分の矛盾した気持ちと、我ながら面倒くさすぎる性格に声を漏らしながら項垂れれば、家入さんが「やっぱ酒にするか」と言ったので私は慌てて顔を上げた。
「家入さん、まだお仕事でしょう」
「でも紅茶飲みながらする話じゃなくない? 酒飲めるでしょ?」
「お酒は……飲めるんですが、控えてて」
「ふうん。酒で何か失敗でもした?」
失敗、という言葉に口元がひく、と引き攣った。お酒が原因でやらかしてしまったことと言えば一つしかない。とは言えあの一件がなければ、今の私はいないのだけれど。
家入さんは聞いてみたもののあまりその話自体に興味はないようで、すぐに「そもそも何で辞めんの?」と話を元に戻した。
「辞める理由があるんでしょ?」
「……私は、もうここにいるわけにはいかないんです」
「わけ分からん」
そう一蹴した家入さんは「難しく生きすぎじゃないの」と付け加えると、天井に向かってふうと息を吐いた。
私の言葉に驚き困っていた五条さんの顔があの日から何度も何度も頭に浮かび、その度に胸を強く締めつけられている。高専を辞めたあとのことはまだ何も考えられていない。家入さんの言う通り難しく生きすぎていて、ややこしく考えすぎているのかもしれない。それでも私のせいで五条さんと虎杖くんに何かあったら、と考えずにはいられなかった。いつか、この決断を良かった、正しかったと思える日が来る。そう、思いたいのだけれど――。
「なんか……何もかもがうまくいかなくって」
つい吐き出してしまった弱音。こんなこと言ったって家入さんを困らせるだけなのに。黙ってじっとこちらを見つめる家入さんと目が合って、私は無理矢理笑ってみせる。
「すみません、これからまだお仕事あるのにこんな話……」
「何もかもがうまくいかないとき、どうすればいいか教えてあげようか」
え、と思って家入さんを見つめれば、彼女はマグカップを少し離れた自身のデスクの上に置いて自信たっぷりな様子でこう言った。
「何もしない、何も考えない」
「……え?」
「だって何しても何考えても結局うまくいかないんでしょ? じゃあどんな行動も思索も無駄じゃん」
「そうなんですかね。そうなのかな……?」
「ってなわけで、ショーカンするけどいいよね」
ぱ、とポケットから取り出したスマホをすいすいと操作する家入さんを、ただただぼうっと見つめる。どこかに電話をかけ始めた彼女を目にした瞬間、ようやく「ショーカン」という言葉が「召喚」と変換されてぶわっと額から汗が噴き出した。
私が「まさか」と呟くのと、家入さんが電話の相手に向かって「あ、五条?」と言ったのはほぼ同時だった。咄嗟に立ち上がったせいで、カップの中で大きく揺れた紅茶が太腿辺りにぼたぼたと落ちて染みを作る。
「あっつ!」
「そうそう、言われた通り捕獲しといたけど。今? 医務室で紅茶こぼしてる」
「いっ、家入さん……」
紅茶を置いて人差し指を口元に持っていき、何も喋らないでとジェスチャーで訴えてみる。が、慌てふためく私に向かって家入さんはひらひらと手を振るのみで、「うん、なんか辞めようとしてるっぽい」などと話を続けている。
よりにもよってそれを言うなんて、と思いながら電話の向こうで五条さんがどんな顔をしているか想像して私は頭を抱えた。いやでも、自分の口からどう切り出そうか迷っていたから、むしろ話してもらえて好都合なのかもしれない。
そこまで考えたところで、家入さんは「了解」と短く言って通話を終えた。スマホをポケットの中に戻すと、彼女は何事もなかったかのように再び紅茶を飲み始めた。一体、二人の間でどんな会話が繰り広げられたのか。分からないままごくりと唾を飲み込む。
「あの……」
「五条、今からここ来るって」
「え!?」
「今さっき高専戻ってきたんだってさ。ちょうど良かったじゃん、折を見て話すって言ってたし」
「で、でもさっき家入さん、何もかもうまくいかないときは何もするなって……」
そう言うと家入さんはどこか遠くを眺めながらふっと笑みを浮かべ立ち上がった。
「そろそろ学長のとこ行くか」
「待っ、せめて家入さんもいてくださいここに!」
「あ~、今日忙しくなりそうだな~」
白衣を掴んでひいひい言う私の背後で、がらりと遠慮なく医務室のドアを開けられる音がした。ストーブのおかげですっかり南国のようになっていた部屋に、ひんやりとした冷たい空気が混ざり込んでくる。
アイマスクに人差し指を引っ掛けて顎まで下げた五条さんは、外から帰ってきたばかりなのか鼻の頭と耳がうっすらと赤く染まっていて、そんな彼の瞳と視線がぶつかった途端に心臓を握り潰された気がした。いくら何でも、早すぎやしないか。
無言でつかつかと歩き、五条さんは心の準備ができていない私の目の前を通り過ぎていく。そして彼はストーブの前にしゃがみ込んだ。
「うっわ懐かしい。これ僕らが学生の頃に寮の食堂で使われてたやつじゃん」
「そうそう、処分するって聞いて引き取った。まだ使えるし」
「あったけ~」
ストーブに手をあてる五条さんの背中を複雑な気持ちで見つめる。家入さんと話す様子はいつも通りだ。でも、明らかに違う。そっと家入さんを横目で見れば、彼女は残っていた紅茶を飲み干し、やれやれと肩を叩きながらデスクの上に置いていたファイルをまとめ始めていた。
首を横にぶんぶんと振る。でも相変わらず私のジェスチャーは家入さんに受け入れてもらえない。視線を外した家入さんが「五条」と呼ぶと、五条さんはストーブの方を向いたまま「んん」と眠そうな返事をした。
「私、学長のとこ行ってそのまま仮眠しに行くから」
「おー」
「鍵は開けといて。じゃ」
「家入さん……」
小さな声で彼女の名前を呼ぶ。行かないで、という思いを込めてみたものの、家入さんは私の肩をぽんと叩くと「ま、頑張れ」と愉快そうに微笑んだ。
家入さんのいなくなった医務室は静かで、とにかく居心地が悪かった。時折ストーブがぼこぼこと音を立てるのを聞きながら、私はぎゅっと両手を握り締めた。
簡単なことだ。たった一言、辞めますと言えばいい。
そう思うのに、何も言葉が出てこない。未だにストーブの前にしゃがんでこちらを見ようとしない五条さんが何を考えているのか、どんな顔をしているのかが気になって、ためらってしまう。
そういえば、昔の五条さんは私と一夜限りの関係を持ったという事実について、ことあるごとに「みんなに喋っちゃうかも」と言ってへらへらと笑っていた。最近は聞かなくなったけれど、辞めると言ったらまたそうやって脅されるだろうか。辞める人間には通用しない気がするが。
この間は逃げてしまったけれど、今日はそうはいかない。静かに深呼吸をしたあと、意を決して私は口を開いた。
「あの、五」
「」
す、と立ち上がった五条さんが振り返る。医務室のドアを開けたときと表情は変わらない。それが逆に私の不安を煽った。
私の名前を呼んだだけで、五条さんはそれ以上何も話すことなく私に歩み寄る。大股でゆっくり、でも一瞬で私の目の前にやってきた五条さんの圧に負けて、私は真後ろにあった椅子にすとん、と尻餅をつくように座ってしまった。そんな私を見下ろした五条さんは、先程まで家入さんが座っていた椅子に腰を下ろす。五条さんの脚が長すぎるせいで膝がぶつかりあい、言おうとしていた一言が一瞬で飛ぶ。
「ちゃんと、話をしよう」
想像していたよりもずっと穏やかな優しい声色が、暖かな室内に響いた。
(2023.12.13)