すれ違う話
冬が訪れた。冷たい空っ風が肌を刺すようになり、高専のある筵山麓はいつ雪が降ってもおかしくないほどの気候が続いている。
冷たい空気を肺いっぱいに吸い込む。今にも雨か雪が降り出しそうな曇天に向かって息を吐き、窓を閉めたときだった。さん、と呼ばれて振り返ると、そこにはコートを羽織る伊地知さんがいた。
「伊地知さん、これから外出ですか?」
「ええ、五条さんが予定よりも早く戻って来られるので、迎えに」
「そうですか、お疲れ様です」
そう言って微笑んだあと、私は席に戻りパソコンへ向かった。伊地知さんは話を続ける。
「あの、よろしければさんも一緒に行きませんか」
「……私もですか?」
尋ねると、伊地知さんは困ったように眉を落として頷いた。話を聞けば、どうやら五条さんの機嫌があまりよろしくないらしい。先程部屋の隅で背中を丸めて電話していた伊地知さんの姿が蘇り、私はなるほど、と小さく呟いた。
今月に入ってから、日本各地で呪霊の発生が多く確認されている。それは学生をはじめとする呪術師はもちろん、普段現場に出ることのない学長までもが任務に駆り出されるほどだった。特級である五条さんも必然的に地方への出張が続いていて、機嫌がよくないのも納得である。
私が一番に五条さんを出迎えれば、五条さんの機嫌が多少なりとも回復するかもしれない。ばたばたと慌てた様子で準備をする伊地知さんは、そう期待しているのだと思う。でも、私はもう。
「……やめておきます。その、明日中に提出予定の申請書も溜まってますし」
「そう、ですか。そうですよね……」
申請書、そして五条さん。その二つが伊地知さんの脳内で天秤にかけられて葛藤しているようだったけれど、しばらくして伊地知さんは「分かりました」と力強く頷いた。しかし部屋を出たあとに心細くなったらしい。再びドアが開いて「……難しいですよね?」と伊地知さんが顔を覗かせたときはさすがに申し訳なさすぎて心が揺れたものの、私が謝ると彼は覚悟を決めたのか、「生きて帰ってきます」と立派なフラグを立てて去っていった。
覚悟――。五条さん、そして虎杖くんの足枷にはならない。自分の中でそう覚悟を決めたはいいものの、じゃあ具体的にどうすればいいのか、その方法を決めきれずにいた。上層部に利用されないために一番手っ取り早いのは、私が高専を去ること。二人の前から姿を消すこと。でもそれは簡単に五条さんが認めないだろうし、現実的ではないように思える。
だからまずは、二人と距離を置くしかなかった。そんなに上手くはいかないだろうし甘くもないだろうけど、私に利用価値がないことを証明するためには今のところその方法しか思いつかない。
五条さんも虎杖くんも多忙なため、物理的な距離は置くことができている。でもそれはいつまでも続かない。実際、五条さんはもうすぐ高専に帰ってくるのだ。
『今日戻ったら話がある』
今朝、五条さんからメッセージが一件届いていた。伊地知さんが話していたように、機嫌があまりよくないことが伝わってくる素っ気ない一言。それに対し、私は未だに返信できていない。話というのが何なのか分からないけれど、どんな話であれ聞いてはいけないような気がするのだ。
パンクしそうな頭でいつもより時間をかけて申請書類を片付けたあと、少し気分転換しようと私は立ち上がった。ファイリングされた古い報告書を保管庫へ持って行くために部屋を出る。ドアを開けた瞬間、廊下に溜まっていた冷気に全身を包まれて思わず身震いした。建物全体が古いためどこからか風が入ってくるのだろう。
乾燥しているせいか、廊下を歩くたびに床がぎしぎしと音を立てる。次からコート必須だな、と両腕を擦りながら廊下を歩いていたら、どこからか私を呼ぶ声が聞こえて足を止めた。
「せんせ~! ここ、ここ!」
「い、虎杖くん」
通り過ぎた一年生の教室から顔を出して手を振る虎杖くんにぎょっとする。気付かなかった、と言うと、彼は「何か考えごと?」と首を傾げた。聞けば、何度も私のことを呼んだらしい。
教室には珍しく伏黒くん、釘崎さんの姿もあった。一年生全員が揃っているのを見るのは久しぶりで一体何事だろうかと思ったけれど、すぐにこれが高校生の日常なのだと思い直して私は「こんにちは」と笑った。彼らが囲んでいるテーブルにはお菓子が積まれている。
「先生も座んなよ、お菓子食べてって」
「え? あ、いや私は」
仕事が、と戸惑う私を気にせず虎杖くんは空いている椅子を引きずって釘崎さんの隣に置くと、ほらほら、と着席を促してきた。そんな彼の笑顔に、ぐっと胸が詰まる思いがした。
覚悟を決めたのだから、早くこの場から立ち去らないと。そう考えてもう一度「仕事が」と言ったとき、釘崎さんが私の両肩にぽん、と手を置いた。そのままぐぐぐと力を込められて、抗えず椅子に腰を下ろす。
「こういう話は人数多い方がいいのよね」
「自分が払う金額を減らしたいだけだろ」
「あったりまえでしょ」
「な、何の話?」
釘崎さんと伏黒くんの会話についていけず思わずそう尋ねれば、私の正面に座った虎杖くんがずいっとチョコレートのポッキーを差し出してこう言った。この間、五条先生の誕生日だったんだよ、と。
「誕……えっ!」
「でもさ、先生ずっと出張でいないじゃん。誕生日会とかしたいけど無理だし、じゃあせめてみんなで金出して何か買おっかって話になってて」
「誕生日……」
知らなかった。ぽつりと呟けば、虎杖くんは先輩たちに家入さんでしょ、ナナミンでしょ、先生でしょ、と指を折って数え始めた。話を聞いたばかりだと言うのに、しれっと数に入れられている。けれどここで「私は遠慮しておきます」などと言えるはずもなく、私は黙ってポッキーを一本とった。
ひょっとして五条さんの話って、誕生日のことなのだろうか。何かプレゼントちょうだい、とか普通に言われそうだし──。考え込む私の隣で、釘崎さんが大きなため息を零す。
「ってかあんな金持ちに何やればいいのよ、欲しいもんなんて何でも自分で買えるでしょ」
「それなんだよなー、先生って趣味とかもねーもんなー」
考える気力をなくして気怠そうに机に突っ伏す二人と違い、伏黒くんは冷静な様子で「さんは」と私に目を向けた。
「五条先生の欲しいものとか、知らないんですか」
「五条さんの欲しいもの……?」
伏黒くんの言葉をそのまま繰り返しながら、そんなの考えたこともなかったな、と頭の中でぼんやり思った。五条さんの欲しいもの。五条さんが手に入れられないものって、一体なんだろう。
「休暇……?」
「無理」
私の回答に、三人の返事が重なる。確かに無理だろうな、と静かに納得していたら、私の背後に何かを見つけたらしい虎杖くんが「お!」と声を上げた。
「五条先生!」
おかえり! と笑う虎杖くんから、もう目を逸らすことができなくなった。覚悟、覚悟。距離を置く覚悟。頭の中で何度も唱えていたら、両肩に手が乗せられる。釘崎さんとは違う、大きく骨ばった手。頭上から、「ただいま」という声が降ってくる。
「みんなお揃いで、楽しそうじゃん」
顔を上げると、私を見下ろしていた五条さんは笑みを浮かべたまま「忙しいって聞いたけど?」と言った。
確かに、機嫌が悪そうだ──。五条さんの表情からそう読み取った私は、その原因が長期出張のせいなのか、はたまた私が迎えに来なかったからなのか、そのどちらだろうと疑問に思ったけれどすぐに考えるのをやめた。
距離を置こうって、決めたのに。覚悟を決めたはずなのに、こうしてたった一度、二人と顔を合わせただけで容易く揺らいでしまっている自分が情けなくて、勢いよく立ち上がる。ガタン、と大きく音を立てた椅子。誤魔化すように、私は机に置いていた報告書のファイルをまとめて手に取り笑った。
「私はそろそろ仕事に戻るね。五条さん、お疲れ様です」
「あ、じゃあ先生、さっきの話決まったらまた連絡すんね」
引き留めないでくれる虎杖くんに心の奥で感謝しながら、私は五条さんの横を通り過ぎ教室を後にした。
分かっている。こんなの意味ないって。その証拠に、早足で保管庫へ向かう私の後に五条さんが続く。先程まで感じていたはずの寒さが、まるでどこかに消えてしまったかのように身体が熱い。
、と五条さんに呼ばれ、肩が震えた。それでも足は止めなかった。
「ねえ、僕しばらく出張ないんだけどさ。今日の夜とか暇?」
「今日の夜は、ちょっと忙しくて」
「じゃ、明日は?」
「明日も、ちょっと……」
「明後日」
「難しいです」
後ろを歩いていた五条さんが、私を追い抜いて目の前に立ちはだかる。両腕にファイルを抱いたまま、私は視線を彷徨わせた。こんな場面も、どこで誰に見られているか分からないのだ。
「え、何? なんかおかしくない?」
「別に、普通ですよ」
「いや全然普通じゃないでしょ」
「普通ですってば!」
大声を出してしまいハッとして顔を上げれば、私以上に驚いている五条さんがいて胸が苦しくなった。
そんな顔をさせたいわけじゃないのに。気まずさから視線を落とし、小さな声で一言「すみません」と呟いてその場を去ろうとした。しかし、今度は二の腕を掴まれてしまい、通り過ぎることは叶わなかった。
「朝、話があるって連絡したんだけど、見た?」
「今日はその……ばたばたしてて、見れてなくて」
思わずそう嘘をつく。見たと言ってどうして返事をしないのかと聞かれたら、答えられる自信がなかったからだ。でもそんな嘘を五条さんに見抜かれる自信はあって、私は項垂れた。
ぎゅ、と、私の腕を掴む五条さんの手の力が強まる。嫌な予感しかしない。
「前に、僕のことを好きか聞いたら分からないって言ってたよね。少しは分かった?」
誕生日の話ならよかったのに。そう思いながら、私はゆっくりと五条さんを見上げた。誕生日だったから、プレゼントちょうだい。いつもの調子でそう言われるのならまだよかった。どう答えればいいか、そんなに迷うこともなかった。なのに、今その話をされてしまうと──。
「よく、考えたんですけど」
どうするのが正解なのかまだ分からないのに、何でもいいから答えを手繰り寄せようと慎重に言葉を選ぶ。
もし数週間前だったら。上層部に呼び出される前だったら。そんな思いが頭に浮かび、私はそれをすぐに打ち消した。今更そんなこと考えたってどうにもならない。想いに蓋をすると、決めたじゃないか。
「……好きじゃないと思います」
「は?」
「恋愛とか、やっぱりもういいかなって思ったというか……多分五条さんも私のこと別に好きとかじゃないと思いますよ。きっとそうです。ただ単純に、一回寝ちゃったから情が湧いているだけで」
だから、と呟いた後、何も言葉が続かなかった。しん、と静まり返った廊下の真ん中で、自分の心臓の音が胸ではなく頭の中で鳴り響いている気がする。
少しして、五条さんが「あのさあ」と苛立ち、そして困惑を滲ませた声を漏らす。
「の気持ちがどうかは一旦置いといて、僕の気持ちまで決めつけるのは違うでしょ」
「それは……」
「ねえ、何? 何考えてんの?」
二の腕を引き寄せられ、両肩を掴まれる。誰かに見られていないだろうかと、咄嗟に窓の外、中庭やその向こうに建つ校舎へ目を向ける。私の顔を覗き込もうとする五条さんの視線にたじろいで結局俯くことしかできなくなった私は、ぶんぶんと首を横に振った。
「別に何も、あの、こういう好きとか好きじゃないとかいう話、もうやめましょ」
再び辺りを沈黙が包む。しばらくして、五条さんの両手が私の肩から離れていく。
「……あっそ」
五条さんは低い声で、呆れたようにそう言った。
今すぐこの場から逃げ出したい。これでいい、と思う気持ちと、これでよかったのか、と思う気持ちがぶつかりあって、今にも泣き出してしまいそうだった。私に泣く資格なんてないのに、鼻の奥がつん、と痛む。
緊張でこわばる身体をなんとか動かそうとぐっと唇を噛み締めたとき、誰かが五条さんを呼ぶ声が聞こえて顔を上げる。五条さんの背後に、伊地知さんが立っていた。
「すみません、昨日対応していただいた案件につい、て……」
五条さんの身体に隠れていて見えなかったのだろう。私の存在に気付いた伊地知さんは戸惑った様子で目を見開いた。
「お邪魔しました。出直します」
「あ、いえ、私はもう戻りますので」
そう言って、私は二人に軽く頭を下げその場を後にした。もう五条さんが追いかけてくることはない。そう分かっていても気持ちが落ち着かず、廊下を曲がって二人から見えなくなったところで私は駆け出した。
暖房の効いた補助監督室は暖かくて、今まで自分がいた場所とは別世界のように思えた。両手に抱えていた報告書のファイルをどさりと机に置く。保管庫へ持って行くためにこの部屋を出たと言うのに、結局そのまま持ち帰ってきてしまった。
「馬鹿だな、私」
ため息を吐きながらそう呟けば、ファイルの上にぽた、と雫が落ちた。あ、と思ったときには、両目から一気に溢れ出した涙が次々と落ちていく。
ようやくできた大事な人をこんな方法でしか守ることができない無力さと、結局覚悟なんてできていなかった自分の浅はかさ。本当に、私は馬鹿だ。
やっぱり、高専を出ていこう。こんな状況で何事もなかったかのように過ごすことなんて、私にはできない。ぐす、と鼻をすすって顔を上げる。外では雪になりきれなかった雨粒たちが窓を弾き始めていた。
* * *
完全に、タイミングを誤ってしまったようだ。
そのことを猛烈に後悔する私の目の前で、五条さんはじっと窓の外を見つめている。さんが逃げるように去って行ったというのに動こうともしない。先程のさんの様子もおかしかったが、今の五条さんの様子も大概である。二人の間に何かがあったことは明白で、私は息を呑んだ。
さて、どうすべきか。以前に一度「干渉するな」と釘を刺されている以上、下手に動くことはできない。しかし、五条さんはともかくさんのことが少し心配だ。
意を決して声をかけようと口を開いたとき、五条さんが小声で呟いた。
「何をあんなに気にしてんだろうなー」
「あの、五条さ」
「伊地知」
「はい」
五条さんが振り向き、背筋が伸びる。駅まで迎えに行ったときとは違う緊張が走る。
「ちょっとさ、調べてほしいことがあるんだけど」
こういうときの五条さんが言う「ちょっと」は大体「ちょっと」ではないのだが。
今朝からスケジュールの変更に始まり予定が狂いまくりで、さらに今の五条さんの一言でタスクの優先順位が変わったことに文句の一つでも言いたい気分だったが、すべてを飲み込んでタブレットに視線を落とす。きっと今から五条さんが私に頼むことは、さんも絡んでいることなのだろう。
去り際の、今にも泣き出しそうなさんの顔が頭に浮かぶ。五条さんのためではない。これは、さんのためだ。
「何でもお調べします」
(2023.11.09)