脅される話



 週が明けた月曜日。体調不良で休んでいた伊地知さんが復帰した。


「大変ご迷惑をおかけしました……!」
「とんでもない! 元気になって何よりです」


 地面に頭がつくのでは、と思うほどの勢いで深くお辞儀をする伊地知さんにそう声をかけるも、なぜか顔を上げた彼の表情は曇ったままだった。
 おや、と思ったとき、視界に入った机の上が栄養ドリンクの空き瓶だらけで、慌ててそれらを片っ端から空の袋へ放り込んでいく。実を言うと伊地知さんが休んでいる間は睡眠時間を削って仕事をしていたのだが、そのことを悟られないように私は笑った。


「皆さんが協力してくださったので、私は本当に何も」
さん」
「あ、一つだけどうしても伊地知さんに見て判断していただかないといけない書類があって」
「……さん」


 がちゃん、と袋の中で瓶が擦り合う音がする。ぴたりと動きを止めた私は、不安そうな眼差しをこちらへ向ける伊地知さんを見つめ返した。
 お話しなければいけないことがあります、というどこか重苦しい言葉に、伊地知さんが抱いている謎の不安が私に伝染していく。何か、私の気付かないところで問題でも起きたのだろうか。もしや私の手配にミスがあったり──。


「実は……上層部の皆様が、さんにお会いしたいと仰っています」
「上層部……って、あの?」


 首を傾げながらそう尋ねると、伊地知さんは唇を引き結んで静かに頷いた。
 上層部。そう聞いて真っ先に頭に浮かんだのは、ため息を零すパンダくんの顔だった。以前、彼が私との雑談の中で呆れたように「悟は上層部とバチバチなんだよな」と肩を竦めていたことを思い出したのだ。
 それ以外で、私が上層部について知っていることは何もなかった。普段仕事をする上で私が上層部の方々と顔を合わせることはまずないし、私だけでなく伊地知さんをはじめとする他の補助監督の皆さん、そして実際に確執があるという五条さんも滅多に関わることはないと聞く。偉くて怖い人たちの集まり。そういった印象しか持っていなかった。
 そんな偉い方々が、私のような末端の人間を呼び出して一体何をするというのだろう。
 頭にそんな疑問が浮かんだものの、向こうから会いたいと言っている以上断ることはできない。現にそれができるのならば、とっくに伊地知さんの方から断りを入れているはずだ。そう考えながら、私は空き瓶の溜まった袋の口を縛り「分かりました」と頷いた。


「会ってお話するだけですよね? じゃあ行ってみます」
「一応……五条さんにお伝えしましょうか」


 伊地知さんの申し出に私は首を振る。


「さすがにこれくらいのことを五条さんに知らせるのはちょっと、申し訳ないですし」


 五条さんは早朝から一級案件の任務に出ていたはずだ。そのことを思い出すと同時に、先日ちょうどこの場所で五条さんに抱き締められた記憶と自覚した気持ちが一気に蘇り、羞恥心と余韻から軽い目眩がした。
 ちゃんと考える。そう五条さんに伝えた以上、自覚したこの気持ちは伝えなければならない、と思っている。でもなかなかタイミングが分からず、今だと思うときがあっても切り出し方が分からずにいた。結局、私の本心は五条さんに打ち明けることができず心に秘めたままだ。
 別のことに気を取られ始めた私とは違い、伊地知さんは変わらず心配そうに「でも、やはり」などと呟いている。どうやら上層部の皆さんは、私が思っている以上に怖い方々なのかもしれない。
 私は椅子の背凭れにかけていたスーツのジャケットを羽織り、もう一度笑ってみせた。


「大丈夫ですよ、すぐ戻ってきますね」


* * *


 午後になり補助監督室に戻ったとき、そこに伊地知さんの姿はなかった。代わりに私のパソコンに貼ってあった付箋には、伊地知さんの字で今日何度も聞いたお礼の言葉と、私の体調を気遣うと同時に午後休を取るよう綴られていた。隣には、蓋に「新田さんからです」と書かれた焼きプリンまで置いてある。
 一人しかいない静かな部屋で椅子を引き、腰を下ろす。落ち着かない気持ちをどうにかしようと、私は窓の外で木々が揺れる様子を眺めながら何度も深呼吸を繰り返した。
 今までに立ち入ったことのない、何とも不思議な空間だった。薄暗く、濁りを感じる部屋。漂っていたのはこちらを威圧すると同時に、招いておきながら私という存在を拒絶する空気。一歩足を踏み入れた瞬間、四方八方から感じた肌に刺さる視線と彼らが私を呼んだ理由に、ようやく私は伊地知さんの表情や言葉の意味を理解したのだ。
 少し、甘く考えすぎていたかもしれない。今までも、そしてこれから先のことも――。
 椅子に深く背中を預けて天井を見上げたとき、机の上に忘れて置いて行っていたスマホが震えてびく、と身体が震えた。画面に表示されているのは、五条さんの名前。先程、上層部から自分に向かって投げつけられた言葉の数々が頭の中を駆け巡り、一瞬スマホへ伸ばした手が止まる。しかしなかなか鳴り止む様子はなく、私は再度息を深く吸って吐き、通話ボタンを押した。


「はい、です」
『あ、出た。?』


 名前を呼ばれた瞬間、電話の向こうにいる五条さんの顔が浮かび、ぐっと胸の奥が詰まる感じがして言葉が出てこなくなった。何とか無理矢理、「どうしました?」と返事をする。


『伊地知からの電話に出れなくてかけなおしたんだけど、アイツ出なくてさあ。今一緒?』
「いえ、今は……伊地知さんは外出中です」
『あ、そ。まあいいや、京都での任務の報告書早く出せって催促だろうし』


 そうと分かっているなら早く出してください。伊地知さんにあまり迷惑かけないでくださいね。いつもならそう言い返すはずの私が黙り込んでいることを不思議に思ったのか、少しの沈黙のあと、五条さんの「ん?」という声が聞こえる。


『あれ? 、元気ない?』
「いえ、単純に寝不足です」


 誤魔化しのつもりだったけれど、実際に寝不足であることに変わりはない。最近の私の勤務状況を把握していた五条さんは、その言葉に納得したようで「だよね」と笑った。


「今日は午後休をいただいたので、部屋に戻って休みます」
『それがいいね。僕は夕方頃戻るけど、どうする? 添い寝しに行こうか?』
「五条さんは、報告書をお願いします」


 はは、と耳元で聞こえた五条さんの優しい笑い声に目を閉じる。じゃあ、お気をつけて。一言だけそう告げて、私は電話を切った。


* * *


さんは知っておくべきだと思うので」

 
 高専で働き始めてしばらく経った頃、伊地知さんからそう言われて渡された書類がある。表に押された赤いマル秘の印。枚数はそこまで多くはなく、捲ると真っ先に目に飛び込んできたのは虎杖悠仁というよく知る名前。そこには虎杖くんがどういう経緯で呪術高専に入ったのか、また彼が今どういう状況に置かれているのか、私が知らなかった事実が事細かく記されていた。
 秘匿死刑、執行猶予、特級呪物『両面宿儺』。あの日書類で見た単語を一つ一つ思い返しながら、自室に戻った私はベッドに転がり天井を睨みつける。
 虎杖くんは、死刑が確定しているものの現在執行猶予中だ。その執行猶予は、本人が何かしら別の罪を犯した場合、取り消しになることもあり得る。
 どうやら上層部としては、今すぐにでも虎杖くんの刑を実行したいらしい。その証拠に、今日彼らは私に対してはっきりとこう言った。君が虎杖悠仁の『見張り役』ならば、彼が危険人物であるという事実を鑑みて行動するべきだ、と。つまり、虎杖くんの執行猶予を取り消すことができるような情報を持って来い、またはなければそういう事実を作れ、と言っているのだ。
 以前に一度だけ、気になって五条さんに聞いてみたことがある。


「私みたいな一般人が働くことを、上の偉い方々は了承しているんでしょうか……」


 そんな私の疑問に、五条さんは「んー」と少しだけ考えて、すぐに親指を立てて笑った。


「その辺は僕がうま~く言っておくから、大丈夫」


 恐らく上層部が言っていた『見張り役』というのは、このとき五条さんが上層部へ私のことをそう説明したのだろう。そうでもしないと、きっと私がここで働くことは難しかったはずだ。


「動くべきって、そんなのできるわけないじゃん……」


 すぐそばにある枕を抱いてぽつりとそう呟く。目を閉じれば、未だに私のことを『先生』と呼ぶ虎杖くんの無垢な笑顔が浮かんだ。
 私は絶対虎杖くんには死んでほしくない。そう思っていても、もし私が意図せずに上層部の思い通りに動いてしまったとしたら――。そう考えると恐ろしくて、私は強く枕に顔を埋めた。
 誰かに相談したい。そんな願いと同時に瞼の裏に浮かんだのは、やはり五条さんの顔だった。でも。


「五条と良い仲のお前ならば、容易いことだろう」


 上層部の一人に嘲笑いながらそう言われ、私は言葉を失った。
 今日私が呼び出されたのは、上層部にとって私に利用価値があるからだ。今まで考えたこともなかったけれど、私の存在が虎杖くんや五条さんの足枷になることがあるかもしれない。上層部が私を楯に、彼らを苦しめることがあるかもしれない。
 今までうまく回っていたのに、急に歯車が噛み合わなくなるような、そんな感覚が私を襲う。五条さんのことが好きだとか、住む世界が違うだとか。それ以前に、私はみんなに関わるべきではないのかもしれない――。
 気が付いたら眠っていたらしい私は、部屋のドアをノックする音で目を覚ました。のろのろと重い身体を起こし、なんだか腫れぼったい目を擦りながら歩く。部屋の中に差し込む夕陽の柔らかな光。どうやらもう夕方のようだ。
 ドアを開けると、そこには五条さんがいた。彼は驚く私を見ると、にんまり笑いピースサインを作った。


「どうも、添い寝屋で~す」
「……え」
「今なら期間限定で三時間無料キャンペーンやってま~す」
「五条さん、もう任務は――」



 ――あ。
 私が心の中でそう声を上げたときには、五条さんの顔から笑顔が消えていた。アイマスクで見えなくても、彼の瞳に思わず萎縮してしまうほどの怒りが宿っているのを感じた。
 咄嗟に俯いた私に向かって、五条さんがもう一度「」と私の名を呼ぶ。声のトーンが先程とはすっかり変わってしまっている。息を呑んで恐る恐る顔を上げると、一歩こちらに歩み寄り部屋に入った五条さんは、腕を組み壁に寄り掛かって静かに私を見下ろしている。


「ねえ、全員殺す?」


 すう、と頭の中だけでなく、私と五条さんを包む空気までもが冷え込んでいく気がした。
 ああ、やっぱり――。私は目を伏せてどう返事をすればいいか分からないまま、首を横に振った。五条さんの言う「全員」が一体誰のことを示しているのか、考えなくても分かる。
 五条さんは軽く舌打ちしたあと、私の予想通り「伊地知から上に呼び出されたって聞いた」と言った。


「なんか変なこと言われたんでしょ。ごめん」
「五条さんが謝ることなんて何も、」
「上の連中はさ、僕に嫌がらせできるんなら何でもやるようなヤツらなんだよ」


 を巻き込むつもりはなかったんだけどね。
 口を尖らせて思案顔でそう呟いた五条さんは、少しだけ黙ったあと「よし!」と言って手を叩いた。


「やっぱりさくっと殺っちゃお! ちょっと行ってくる」
「や、殺らなくていいです! 本当に変なこととか、言われていないので」


 そう言って、立ち去ろうとする五条さんの袖を掴み慌てて引き止める。殺す、という不穏な言葉同様、こちらを振り向いた五条さんの表情は穏やかではない。そしてこれまた予想通り、五条さんは「じゃあ何言われたの」と首を傾げた。
 正直に、話してしまっていいのだろうか。
 五条さんに全部、包み隠すことなく話してしまいたい。そんな願いのすぐそばで、先程抱いた不安が徐々に大きくなりつつあった。私の存在が虎杖くんや五条さんの足枷になるのでは、という不安。
 固まっていたら、五条さんの顔が目の前に迫ってきて思わず顎を引いた。


「ええと、まあ……し、仕事は順調ですか? と」
「どこの会社の上司だよ、そんなわけないじゃん」


 当然の指摘で言葉に詰まる。私の答えを待つ五条さんから感じるじりじりとした圧に視線を彷徨わせていれば、五条さんはふう、と諦めたように息を吐いた。


「じゃあもう一個聞くけど」
「……はい」
、今しんどい?」


 そう尋ねる五条さんの顔を、私はようやくしっかりと見つめた。
 きっと今、私がしんどいと言えば五条さんは私のことを抱き締めてくれるのだろう。もしかしたら、私のために動いてくれるかもしれない。そう思いながら、私は黙って瞬きを繰り返した。あれほど何を考えているか分からなかった五条さんのことが、今では手に取るように分かる。
 私は首を横に振って笑った。私が笑えば、五条さんは安心してくれる。喜んでくれる。不思議と、五条さんにすべて話してしまいたいという気持ちは消えていて、逆の思いが私の心の中に芽生えていた。
 五条さんには話したくない。今日私が上層部から何を言われたのか、知られたくない――。


「全然しんどくなんかないですよ」
「本当に? 添い寝三時間無料キャンペーンいる?」
「大丈夫です、もう十分寝たので」


 そう言うと、五条さんはようやく安心したように笑ってくれた。その顔にほっと胸を撫で下ろす。
 これが今の私に唯一できることだ。大丈夫、五条さんに迷惑はかけないし、虎杖くんの不利になるよう動くこともない。二人の足枷になんてならない。
 今ならまだ間に合う。今ならまだ、気付いたばかりの本心に蓋をすることも簡単なはず。傷つくことは、きっとない。大丈夫――。
 心の中で何度もそう言い聞かせるように唱えて、私は笑った。



(2023.10.20)