自覚した話
「全身が痛い……」
「なんで?」
「五条さんがあのまま寝ちゃったからですよ」
私の嘆きと非難めいた眼差しに対し、五条さんは車内販売で買ったバニラ味の固いアイスクリームをスプーンで掬いながら「おかげでよく眠れたよ」と笑った。
京都から東京へ向かう新幹線の中。普通車より多少座席がゆったりしているグリーン車を利用しているとは言え、隣に座る五条さんは足元が少し窮屈そうだ。
昨日、私を抱き締めたまま夜中まで眠ってしまった五条さんは、目を覚ますといつも通りに戻っていた。怒っている様子でもなければ、苦しそうな表情を浮かべてもいなかった。
休めるうちに休んでほしい。そう望んでいた私にとって五条さんがよく眠れたのであればそれはそれで良かったのだけれど、呆気なく通常運転の五条さんに戻ってしまったことにほんの少しだけ拍子抜けしている。
五条さんはアイスクリームを食べ進めながら、大げさなため息を吐いた。
「あーあ。結局あんまり観光できなかったし、次は一週間ぐらい休みとって行こうよ」
「五条さんが一週間も休暇をとるなんて無理でしょう」
「お、とれたら行ってくれるんだ?」
「またすぐそういうことを……」
「約束ね」
また作られた、新しい約束。最初の頃は戸惑っていたそれにも、今ではすっかり慣れてしまった。
考えておきます、と言って、五条さんに買ってもらったアイスクリームを一口食べる。そんな私を見て、五条さんは満足げに微笑んだ。
* * *
朝早くに京都駅を出たので、品川駅に到着したのは十時前だった。土産屋に並ぶスイーツに目移りしている五条さんの背中を押しながら、港南口を出て階段を下りたところにいた伊地知さんの姿にハッとする。私はのんびり歩く五条さんを置いて車のそばに佇む伊地知さんの元まで走ると、彼の胸に京都のお土産が入った袋を押し付けながら早口で捲し立てた。
「伊地知さん、いくら五条さんの頼みとは言えなぜツインの部屋を……!」
「す、すみません、断り切れず」
「言っておきますが、やましいことは何もなかった、で……」
言い終えるより先に、私はある異変に気が付いた。伊地知さんの目の焦点が合っていない。よく見れば、頬も少しだけ赤いような気がする。
ひょっとして――。そう思いながらもう一度「伊地知さん」と彼の名前を呼んだところで、遅れてやってきた五条さんが私と伊地知さん、両方の肩に体重をかけるようにして長い腕を回した。その重みで、ただでさえ痛む首が悲鳴を上げる。
「内緒話~? 僕も入れてよ」
「五条さん、腕どけてください」
「仲間はずれサイテー! 先生に言ってやろ!」
「何言ってるんですか! その、伊地知さんが……」
私の言葉に「ん?」と首を傾げた五条さんが、隣にいる伊地知さんへと目を向ける。
「あれ、地震でしょうか……地面が揺れてますね」
五条さんに肩を組まれたまま、なぜか左右にふらふらと揺れながらそう話す伊地知さんに私たちは顔を見合せた。
何も言わずに五条さんが伊地知さんの額に手を当てる。突然のことにびく、と身体を震わせた伊地知さんに向かって、五条さんはけらけらと笑った。
「うん、結構熱あるね」
「笑いごとじゃないですよ、とりあえず病院寄りましょうか」
どうやら勘が当たったようだ。五条さん曰く熱がある伊地知さんを目の前に、体調が悪いのに私たちを駅まで迎えに来てくれたことに対する申し訳なさがこみ上げてくる。
近くの病院を検索しようと私がスマホを取り出すと同時に、五条さんは戸惑った様子の伊地知さんを後部座席へ押し込んだ。
「高専戻った方が手っ取り早いでしょ。硝子もいるし」
「確かに……それもそうですね」
「僕、運転するから」
「えっ」
五条さんって、運転できるのか。意外すぎて思わず口から出てしまった私の驚きの声に、五条さんは運転席のドアを開けながら不服そうに口を尖らせる。
「今、絶対『コイツ運転できんのかよ』って思ったよね」
「そんなことは……と言うより、私が運転しますよ」
「伊地知の今の様子だと明日も仕事できるか分かんないし、業務の引き継ぎ事項とか車の中で聞いといた方が後々いいでしょ」
ほら、早く早く。そう急かされるがままに私は伊地知さんの隣に乗り込んだ。
普段ふざけてばかりいるのに、こういうとき気が回るところはさすがだと思う。少しだけ悔しさも感じつつ、運転席に座った五条さんの背中に向かって「くれぐれも安全運転でお願いしますね」と言えば、彼はシートベルトを締めながら「信用されてないなあ」と苦笑を浮かべた。
* * *
「三十九、七度」
医務室で家入さんが告げた体温計の数字に、ベッドで横になっていた伊地知さんはぼんやりと天井の一点を見つめたまま「微熱ですね」と零すように言った。
「高熱です!」
「まあ、寒暖差と過労と五条の無茶ぶりによるストレスが原因だろ」
「なんか一個だけピンポイントすぎない?」
ベッドの周りを私と家入さん、そして五条さんに囲まれて、伊地知さんは居心地が悪そうに顔を歪めている。「大丈夫です」「仕事はできます」などと言いながら何度も起き上がろうとして、その度に家入さんによってベッドに沈められていた。
「とりあえず解熱剤飲んで寝て、楽になったタイミングで家帰りな。二、三日は安静にすること」
「でも、仕事が……」
「仕事のことは心配しないでください」
不安そうな目をこちらに向けた伊地知さんに、私は無理矢理笑ってみせた。
伊地知さんが不安に思うのも無理はない。私は補助監督の仕事内容を話で聞いて知っているだけで、実際には経験したことがないのだから。呪霊が見えるだけで呪力のない私が現場に出ることはまずないし、そもそも他の人に比べると私はできることが少なすぎるのだ。そんな私から「心配しないで」と言われても、不安が解消されるはずはないだろう。
他の補助監督や術師には既に連絡済み。私含め全員で伊地知さんの抱えている業務を分担する。その旨を伝えると、伊地知さんは相変わらず申し訳なさそうに「すみません」と眉を下げた。
「大丈夫ですよ、困ったときはちゃんと周りを頼るようにしますから」
と、偉そうなことを言ったはいいものの。
次々に届くメールの数々、整理して明日中に公的機関へ提出しなければならない書類の山。それらの前で、私は本日何度目か分からないため息を落とした。
伊地知さんは抱えている業務が多い。高専へ戻る車内で話を聞いたときにも感じたことだけれど、とにかく全てが伊地知さんに偏りすぎているのだ。細かい事務作業はもちろん、学生たちが担当する案件の精査や下見、祓除に伴う関係各所との連携、窓の手配、術師や補助監督のスケジュール調整、現場で起きた突発的な事案の処理、その他諸々。さらにはこれらの業務に加えて術師の送迎や直接的なサポートも行っているのだから、とにかく感服するとしか言いようがない。
乾燥して痛み出した両目に目薬を差したあと、私は気合いを入れなおすように深呼吸をした。とりあえず今日やらなくてもいい作業は明日に回し、急ぎの業務に集中する。書類を整理しながら、現場からかかってくる電話に対応する。突如入院することになった術師が担当するはずだった案件を、スケジュールを確認しながら別の術師に振り分けていく――。
突然、部屋が明るくなる。驚いてぎゅっと目を閉じると、背後から少し呆れたような声が聞こえた。
「随分遅くまでやってんじゃん、電気くらいつけなよ」
眩しさに目を細めたまま振り向けば、部屋の入口に私服姿の五条さんがいた。彼の右手は壁の電気スイッチに触れており、左手には白いビニール袋が提げられている。慌てて窓の外へ視線を向けると、いつの間にか外は暗闇に包まれていて私はぎょっとした。
「えっ、夜!?」
「その様子だと、高専戻ってきてから何も食べてないんじゃない?」
そう話しながら私のそばまでやって来た五条さんは、隣の席の椅子を引いて腰を下ろした。そして机の上に置いたビニール袋からペットボトルの緑茶を取り出すと、呆然としている私の目の前に差し出した。
「あと適当に食べるもの買ってきたけど」
「あ、ありがとうございます……」
「まだ終わんないの?」
「あと少ししたら、とりあえず今日やるべきことは終わるので上がります」
目を伏せたままそう、と頷いた五条さんは、袋の中から小さなカップの杏仁豆腐とプリンを取り出した。どっちを食べるか尋ねられたので、杏仁豆腐を、と答えれば、五条さんはプリンの蓋を開けて食べ始めた。
そんな五条さんを横目に見ながら、ペットボトルの蓋を開けて緑茶を口に含む。そういえば、食事どころか水分も取っていなかった。飲み慣れているはずの緑茶の美味しさに、私は初めてそのことに気が付いた。
五条さんに説明した通り、もう電話もメールも落ち着いて終わりが見え始めている。作業を再開させたものの、頬杖をついてこちらをじっと見つめる五条さんに耐えられなくなった私は、「どうしました?」とパソコンの画面から目を離すことなく尋ねた。
「いや? 困ったときはちゃんと周りを頼るって言ってたのになーと思って」
「ちゃんと頼ってますよ?」
五条さんの言葉に私は眉を顰めた。実際、伊地知さんが現場に出て行う業務は送迎も含めて他の補助監督や術師に依頼している。私がやっているのは、あくまで内側からのサポートと事務処理のみだ。
しかし私の返答に納得しなかったらしい五条さんに「そうじゃなくて」と言われ、私は隣へ顔を向けた。真っ黒なサングラス。その奥から覗いた瞳にどきりと心臓が跳ねる。
「の言う『周り』に僕は入ってないのかな」
ちょっとは頼られると思ってたんだけど。そう言ってふい、と視線を外した五条さんの拗ねたような横顔に「だって」と呟いたあと、私は口を噤んだ。
特級術師、かつ教師でもある五条さんにしかできないことがたくさんある中、私なんかが些細なことで頼るわけにはいかない。
しかし、そんな本音を言おうものなら彼の横顔はもっと不機嫌なものになるだろう。そう感じた私はペットボトルの横に置いてある白い杏仁豆腐に目を移す。いろいろ買ってきてくださっただけで十分です。いや、きっとそんなお礼を述べても納得しない。それなら。
「じゃあ、一つだけ教えてください」
「ん?」
「私も練習すれば、帳を下ろせるようになりますか?」
五条さんは一瞬だけ驚いたような顔をして、少しの沈黙のあと即答した。
「無理だね」
なんの前置きもなく結論だけを言うところが五条さんらしい。思わず笑ってしまったけれど、正直前向きな答えがもらえるのではと期待もしていたので落胆を隠すことができず「そうですよね」と短く返すことしかできなかった。
最低限、帳が下ろせるようになれば、現場に出ることもできるのではないか。他の人ができて私にはできないこと。それが何か一つでもできるようになれば、『住む世界が違う』という現実も少しは変わるのではないか。そう考えた上での質問だった。
五条さんは指を宙でくるくる回しながら、話を続ける。
「帳を下ろすには呪力が一定量必要だからね。それに向き不向きがあるから、呪力があっても全員が帳を下ろせるわけじゃないし」
「そうですよね……」
ぼんやりと、先程と同じ返事をする私。そんな私に向かって五条さんの手が伸びてくる。
「あのさ」
え、と思ったときには大きな手と指に頬を掴まれ、ぐいっと半ば強引に五条さんの方へ顔を向けさせられていた。
だから、ただでさえ首が痛いのに。抗議しようとしてすぐ、五条さんが真剣な表情を浮かべていることに気付いて全ての言葉を飲み込んだ。
「クソ真面目なのことだから? みんなにできて自分にできないことがあるってことをすごく悲観的に捉えてるのかもしれないけど?」
「う……」
図星すぎて言い返すことができない。何もかも見透かされている。
黙ってしまった私の頬を、五条さんは感触を楽しむかのように指でむにむにと押しながら微笑んだ。
「は自分ができることを全力でやってるんだから、問題ないでしょ」
みんな感謝してるよ、もちろん僕も。
優しく、言い聞かせるようにそう話す五条さんの指先がそっと離れていく。不覚にもその言葉が疲れた心に沁みて、途端に鼻の奥がつん、と痛み出した。奥歯を噛み締めて平静を装う私の頭に五条さんの手が乗せられる。そしてその手は、私の頭を乱暴に撫でた。
「絶対に僕を頼れとは言わないけどさ、しんどいときはしんどいって言って。今日とか休憩なしで何時間働いてんの?」
「……五条さん、なんだか先生っぽいです」
「ぽいっていうか、先生なんだけど」
その返答に思わず噴き出すように笑えば、五条さんは私よりずっと嬉しそうに笑った。その顔を見て、そうだった、と、私はあることを思い出した。
そうだ。私と住む世界が違うこの人は、私が笑うととても喜ぶんだった。
一頻り私の頭を撫でた五条さんは、最後にぽん、と軽く叩いて「さてと」と言いながら立ち上がった。ぐしゃぐしゃに乱れた髪を手ぐしで元に戻しながら顔を上げる。
「終わるまで待ってようかと思ったけど、どうしても邪魔しちゃうから退散するよ」
「……あの、五条さん」
急に立ち上がった私に、プリンの空き容器をゴミ箱へ投げ入れた五条さんが不思議そうな顔を向ける。
五条さんがそう思ってくれているように、私も五条さんに頼ってほしいと思っている。呼び止めたはいいものの、そんな今の自分の気持ちをどう言葉にすればいいか分からなかった私は視線を彷徨わせた。五条さんのようにまっすぐ自分を頼ってほしいとは言いづらくて、うまく言葉を紡ぐことができない。
「その、ええと」
「うん」
「……前も言いましたけど、五条さんだって、しんどいときはしんどいって言っていいんですからね」
「そういえば昔、からもそんなこと言われたね」
五条さんは私の目の前まで歩み寄ると、私の顔を覗き込むように背を丸め、いたずらっぽく笑った。
「しんどいって言ったら、は何してくれるの?」
「え……えと」
五条さんが、もししんどくなったら。そのときは――。
一分五万円。十万円。言い淀む私の頭の中を、過去に冗談のつもりで言った金額がぐるぐると巡る。
「……ちょっと」
「ん?」
「ちょっとですけど、ハグしてあげます。無料で」
ぼそりと、小さな声でそう言った途端に五条さんの表情が変わった。まさか私からそんなことを言われるとは思わなかったのだろう。不意打ちを喰らったように目を丸くした五条さんを見て思った。しまった――と。
私に向かって大きく両手を広げた五条さんが、声を張り上げる。
「しんどい、めちゃくちゃしんどい! しんどすぎて死んじゃう!」
「すみませんやっぱりなしで。退散してください」
「はーやーくー!」
ほらほら、と言って迫る五条さんを見ながら私は深い後悔に襲われていた。
ハグくらいなら、なんの問題もなくできる。そう考えた上での発言だった。けれどそれは、京都出張の二日間、五条さんから抱き締められる機会が多かったせいで感覚が狂っていただけだ、ということに気が付いてしまった。実際にハグするとなると、羞恥心で頭がおかしくなりそうだ。
期待に満ちた五条さんの瞳と、とんでもないことを言ってしまった、という気持ちで身体の内側がじわじわと熱くなっていく。五条さんの視線から逃れるように、手の甲で口元を押さえながら「やっぱり」と呟いて後ろへ一歩下がった私の腕を、五条さんが引いた。
初めてじゃない。今までに何度も抱き締められてきた。それなのに、なぜかいつもと違う。
五条さんの腕の中にすっぽりと閉じ込められた私は、胸の奥が疼き出すのを感じながら、そっと、割れ物に触るかのように彼の背に手を回した。抱き締められるのは初めてではないけれど、私が五条さんの抱擁に応えて彼を抱き締めるのはこれが初めてのことだった。
指先が五条さんの広い背中に触れる。大きな身体が、微かに震える。
「あー、もう」
頭上から、珍しく余裕なさげな五条さんの呟きが落ちてくる。その言葉に続きはなかったけれど、私を抱き締める腕に力を込めた五条さんはきっと嬉しそうに笑っているんだろうな、と思った。とくとく、と聞こえる心臓の音が心地よくて、ゆっくりと目を閉じる。
私と五条さん、住む世界が違うことは十分理解している。絆されているだけだ、と誰かに言われたら否定もできない。でも私は今、五条さんから与えられる温もりにすごく安心してしまっている。
どうしよう。私、五条さんが好きだ。
ずっと曖昧だった自分の気持ちをはっきりと自覚した途端、私はまた涙腺が緩むのを感じて五条さんの胸に顔を押し付けた。
もし、今の酷く情けない顔を見られてしまったら。そのときは、「五条さんのせいで身体中が痛いから」と言えば騙されてくれるだろうか。
(2023.10.05)