京都出張②
京都校は東京校と同じく山奥に存在しているらしい。
事前にそう聞いていても思わず不安を抱いてしまうほど、私と五条さんを乗せた車はどんどん山深いところへと進んでいく。開けた窓から入ってくる涼風の冷たさや、ざわざわと辺りの木々が揺れる光景はほんの少しだけ気味が悪く感じた。
「やっば不安?」
隣に座っている五条さんにそう尋ねられ、黙って窓の外を眺めていた私はゆっくりと顔を向ける。
「さすがにここまで来たら、あとはなるようになれって感じですね」
「ま、別行動にはなるけど僕の用事はすぐ終わるし、お互いさっさと終わらせて観光行こ」
「……いやだから五条さんは、」
任務がありますよね? そう言い切る前に、五条さんの「着いたよ」という言葉で私は前方へと視線を向けた。そして山の中から突如現れた歴史を感じさせる建物の数々、東京校とはまた一味違う崇高さに思わず息を呑んだ。
「やっほ~歌姫、と葵も一緒なんだ? 待った?」
車を降りてすぐ、校舎らしき建物の入口に立っていた男女に五条さんがそう声をかけたので、後部座席の反対側から降りた私は運転手の補助監督に挨拶をし急いで五条さんの隣に立った。緋袴姿で頬から鼻にかけて大きな傷のある女性と、五条さんと同じくらい長身で体格の良い男性。二人の視線は、声をかけた五条さんではなく私へと向けられている。
とりあえず挨拶、と思い口を開いたとき、女性が舌打ちをして「別にアンタを待ってたわけじゃないわよ」と怪訝そうな顔を見せたのでぎょっとした。
この人が、歌姫さん――。昨晩、ホテルの部屋で電話していた五条さんの声色が頭に蘇る。しかし想像とは違い、そこまで五条さんと親しいようには見えない。五条さんに対し悪態をつく彼女を見つめていたら、ぱちりと目が合って肩が小さく跳ねた。
「はじめまして、です。今日はお忙しいところありがとうございます」
「庵歌姫です、よろしく。こっちは三年の東堂葵」
「三年?」
歌姫さんばかりに気をとられていて、まさか男性が学生とは思わなかった。驚いて目を向ければ、彼は私を品定めするかのように上から下まで眺めたあと、顎に手を当てて嘆息を漏らした。
「五条悟……意外にも女の趣味はつまらんようだな」
「えっ?」
「そう~? 僕、女の趣味はわりといい方だと思うけど?」
「東堂、アンタはさっさと任務行く!」
一人呆気にとられる私の目の前で叱るように歌姫さんはそう言ったあと、もう一度私を見て「行きましょ」と建物内を指さした。聞き捨てならない発言だったけれど、どこか呆れた表情を浮かべる歌姫さんの目が「気にするな」と言っているように思えて、私は何も言わず頷いた。
歌姫さんの話によると、学生は任務や休暇などで全員不在、ただし顔を合わせておくべき教職員は全員校内にいるらしい。私が今日来ることは知らせてある、と話す歌姫さんは、私たちの後ろについて歩く五条さんを振り返ると「アンタは学長に呼ばれてるでしょーが!」と叫んだ。
一つ分かったことがある。五条さんと歌姫さんは、まあまあ仲が悪いようだ。
* * *
「これでよし、と」
「ありがとうございます」
スマホに新しく追加された歌姫さんの連絡先。五条さんと別れたあと私は早々に挨拶を終え、ついでだからと歌姫さんに校内を案内してもらっていた。その最中に連絡先を交換しておこうという話になったのだ。
歌姫さんは初めに受けた印象よりずっと優しく話しやすい人で、私が名字で呼ぼうとすれば名前で良いと言ってくれたし、彼女自身も私のことを下の名前で呼んでくれた。年上だけれど、まるで友達のように接してくれる彼女は恐らく私の事情も知っていたのだろう。恨めしい顔をして「男なんてクズばっかなんだから」と話す歌姫さんに、私は思わず笑ってしまった。
教室に理科実験室、体育館。校内の設備は東京校とほぼ同じで、それでも少しだけ京都校の方が年季が入っているように見える。ただし人材不足は変わりないようで、どこへ行っても誰とも鉢合わせることはなかった。
「クズと言えば、アイツに変なこととかされてない?」
室内訓練場を通り過ぎたとき、思いついたように歌姫さんがそう言ったので私は「アイツ?」と聞き返した。しかし、すぐに歌姫さんの表情が今日五条さんと会話をしていたときと同じものであることに気付いた私は「あっ」と小さく声を上げた。
「五条さん、ですか?」
「そうよ、あの馬鹿変態目隠し野郎よ。あいつ昔から狂ってるから、大変でしょ」
歌姫さんはそう吐き捨てると、「そろそろ戻りましょ」と言い来た道を戻り始めた。早いもので、通り過ぎた教室の時計を見ると京都校に来てから一時間が経とうとしていた。
歌姫さんの言う通り、五条さんと接していて「大変だ」と感じることは多々あるように思う。しょっちゅうからかわれるし、大事な仕事中に邪魔されることだってある。狂っているかどうかは置いておいて、五条さんという存在に振り回される日と振り回されない日だったら、圧倒的に前者の方が多いだろう。でも――。
「大変なことは確かに多いです、けど」
「けど?」
不思議なことに今頭の中に浮かんでいるのは、寮を出て二人で互いの気持ちについて話し合った夜のこと。あの日、正面から私に向き合ってくれた五条さんの姿だった。人間らしく、少し幼くも感じたあの日の姿に口元が緩んでいく。
「五条さんは五条さんで真剣なんだなって分かったので、大丈夫です」
「そう……えっ、ちょっと待って!?」
急に大声を上げて私の腕を掴んだ歌姫さんに、私は目を見開いた。ちょっと待って、という歌姫さんの声が長い廊下に響き渡る。その場で足を止め、互いに顔を突き合わせながら私は全身が熱くなっていくのを感じた。ひょっとして、いやひょっとしなくても、結構恥ずかしいことを言ってしまったかもしれない。
唇を震わせながら、歌姫さんが「まさか」と呟く。赤くなっているであろう私の顔とは違い、彼女の顔は少し青褪めているようにも見える。どんな恐ろしい言葉が続くのだろうと、私は息を呑んだ。
「すっすすすすす好きとかじゃないわよね、あの馬鹿を」
「ちっ、違いますよ!」
予想外の言葉に面食らったものの、私は全力で否定した。正確に言うと「まだ好きかどうか分からない」のだけれど、歌姫さんの発言とあまりの慌てようにそれを言ってはいけない気がしたのだ。
ぶんぶんと首を横に振る私の反応に安心したのか、歌姫さんは胸を撫で下ろし「よかったわ」と言うと、長く安堵のため息を吐いた。そんな彼女の姿にある考えが頭をよぎる。今度は私が「まさか」と言う番だった。
「歌姫さん、五条さんのこと――」
「やめて、死んでも無理ってか想像するだけで無理」
両方の二の腕を擦りながら冷静に拒絶した歌姫さんは、苦々しい顔をしたまま再び歩き始めた。長い髪と、その髪を束ねるリボンが静かに揺れる。
「そもそも好き嫌い以前に、アイツと恋愛なんて無理じゃない?」
「え?」
歌姫さんの隣に並んですぐ、彼女の言葉に私は首を傾げる。恋愛なんて無理と話す歌姫さんはまっすぐ前に視線を向けたままで、それでいてどこか遠くを見つめているようにも見えた。
「だってアイツ、私らと住む世界が違うじゃない。五条家の当主だし」
歌姫さんの横顔を、私はどこか呆然と見つめた。住む世界――そうだった。私と五条さんとでは、住む世界が違う。歌姫さんの言葉を聞く今の今まで、すっかりそのことを忘れてしまっていた。
思い返せば、そのことを自覚したのは初めて五条さんと現場に行き、彼の呪術を目の当たりにしたときだったと思う。そして高専で過ごす時間が長くなればなるほど、誰かから五条さんの話を聞けば聞くほど、その思いは強くなっていった。それなのに、いつの間にか住む世界が違うということを忘れてしまっていたのはなぜか。それは五条さんがあまりにも普通の男性として私に接してくるからで、私もそんな五条さんを普通の、一人の男性として見るようになっていたからだ。
五条さんと同じ呪術師の歌姫さんでさえ、「住む世界が違う」と言っている。じゃあ、呪術など使えない私は――。
「昨日の夜だって、こっちのヘルプのあとそのまま自分の特級任務こなしてんだから、普通じゃないわよ」
「……え?」
昨日の夜? そう尋ねれば、歌姫さんは「ね、狂ってるでしょう」と笑った。
朝まで帰ってこなかった本当の理由。よく考えれば分かるはずなのに、どうして気付かなかったんだろう。
一歩一歩進むたびに、気分が沈んでいくのを感じる。言い表すことのできない感情が心臓を掠めていったような気がした。
* * *
「いや~、おじいちゃんボケ進んでるんじゃない?」
最初に歌姫さんたちが待っていてくれた場所に現れた五条さんは、私たち二人の姿を見つけると何より先にそう言って笑った。返事をするのも面倒なのか小さく舌打ちを飛ばす歌姫さんの隣で、こちらに歩み寄る五条さんをじっと見つめる。その視線に気付いてか、五条さんは「ん?」と不思議そうな顔をして私の目の前に立った。慌てて表情を作ったものの、遅かったようだ。背中を丸めこちらを覗き込んでくる五条さんに、歌姫さんが「近い!」と怒鳴る。
「挨拶、無事に済んだ?」
「あ、はい……歌姫さんのおかげで、問題なく」
「そっかそっか、じゃあもうここに用は無いね」
そう言うと、五条さんはぐい、とアイマスクを指で押し上げて辺り、というより空を見上げた。そんな彼の様子に私も釣られて空を仰ぐ。
「帰るなら車出すけど?」
「いや、いい」
歌姫さんの「はあ?」という呆れた声と、私の「え?」という戸惑い混じりの声が重なった。こんな山奥からの移動に車は必要不可欠なはず。そう思いながら五条さんの方を向いてすぐ、なんの断りもなく私の両脇に腕を差し込んだ五条さんは軽々と私の身体を持ち上げた。ぶらん、と宙に浮いた両足。自然と全身に力が入る。
突然のことに抗議するより先に、私だけでなく五条さんも浮いていることに気付いた私は声を上げた。
「ちょ、ちょっと、え!?」
「気分転換に飛んで行くよ、歌姫またね」
唖然としている歌姫さんがどんどん小さくなっていく。少しの風で身体が大きく揺らされる気がして、不安定な姿勢に足をじたばたと動かせば五条さんは私の身体を優しく抱き寄せた。足、僕の足の上に乗せていいよ。そう言われて素直に従うと、少しだけ体勢が安定してようやく私は五条さんに非難の声を上げた。
「いっいきなり何するんですか! 歌姫さんに挨拶もできてないし、急にこんな……!」
「だって、しんどそうだったから」
五条さんのその言葉に、私は何も言えなかった。どういう仕組みなのか分からないけれど、五条さんは私を抱いたまま宙をふわふわと漂っている。怖くて下を見ることができない。それでも、周りの景色や風の強さでそれなりに高いところまで来たことが分かる。慣れない浮遊感に耐えるためにすぐ目の前にある胸元を強く握り締めれば、五条さんが満足気に笑みを深くするのが分かった。
しんどそうだったから。そう言っただけで、五条さんは特にそれ以上何も聞かずに抹茶のパンケーキを食べに行こうと笑った。有名な、お箸で食べる抹茶のパンケーキがあると。思い出した。少し前に、パンケーキを食べに行く約束を半ば強引にされたっけ。
しばらくして、私は五条さんを見ることなく「歌姫さんから聞きました」と呟いた。
「ん、なにを?」
「夜中に……任務行ってたって」
「ああ、うん」
特に隠しているつもりはなかったのだろう。素直に認めた五条さんに、言ってくれれば良かったのに、とは言わなかった。今、私の心の内で燻っている複雑な感情。それが芽生えた原因は、何も夜中に任務に行っていたことを私だけ知らなかったから、だけではない。
「そのおかげで、こうやってと二人で過ごせる」
「……観光なんてしてる場合じゃないですよ、早くホテルに戻って休みましょう。寝れるときに寝ないと、」
「お、随分と積極的じゃん」
「そういう意味じゃ、っちょっと!」
五条さんがゆっくりと、自身の身体を後ろに倒していく。驚いた私は慌てて五条さんの身体にしがみついた。恐らく落ちることはないのだろうけど、それでもやはり時折感じる浮遊感からは逃れられないし、怖いものは怖い。私の怯えた顔を覗き込んだ五条さんの笑い声が広い空に響いた。
やっぱり歌姫さんの言う通り、私と五条さんとでは住む世界が違うし、五条さんは普通じゃない。そのことを改めて、身をもって感じる。すっかり黙ってしまった私に気付いた五条さんは私が怒っていると思ったのか、私の背をぽんぽんと優しくあやすように叩いた。
どれくらいそうしていただろう。少し目を閉じておいて、という五条さんの指示通りに目を閉じてすぐ、ぐんっと身体がどこかに引っ張られる気がして呼吸すらできなくなった。でもそれはほんの少しの間のことで、一瞬だけ頬を強く撫でた風がおさまったことに気付く。
「目、開けていいよ」
耳元でそんな囁きが聞こえ、私は恐る恐る目を開けた。
私と五条さんはどこかの屋上にいた。五条さんの足の上から薄汚れたコンクリートの上に着地したとき、まだどこか身体が浮いている感じは残っていたものの心から安堵した。今までの人生の中で、こんなにも地面のありがたさを感じたことはない、と思う。
「ここは……?」
「市街地に近い廃ビルなんだけど、ドアの鍵が壊れてて下まで行けるから重宝してるんだよね」
さすがに人がたくさんいるところで降りるわけにはいかないし。そう話しながら、錆びついた柵越しに景色を眺める五条さんの視線の先に目を向けると、先程までいた場所とは全く違う場所にいて私は言葉を失った。『飛べる』とは聞いていたけれど、ただ空をふわふわ飛ぶだけじゃなかったのか。僅かにふらふらと揺れる私の身体に気付いてか、五条さんが私の肩を抱く。
「じゃ、早速行こうか」
いつの間にかサングラス姿へと変わっていた五条さんのきらきらと眩しい笑顔を見て、中学校教師時代、修学旅行を楽しむ生徒たちの顔を思い出したのは内緒である。
* * *
「五条さんって……すごい食べますよね」
私の言葉に振り向いた五条さんの右手には、先程立ち寄った店で買ったみたらし団子が握られている。ちなみにその前に入ったカフェでは抹茶のパンケーキはもちろんのこと、黒糖わらび餅と宇治冷やしぜんざいを食べていた。昨日は新幹線の中で駅弁を三つも平らげていたし、五条さんの体格が良いのも納得である。
「はさ、もうちょっと食べた方がいいよ」
「私は普通に食べてますよ、五条さんが食べすぎなんです」
「今朝抱いて眠ったときも、ほっそ~内臓どこ~? って思ったもん」
「……というか、観光って言うより食べてばっかりなんですけど」
そう言うと、五条さんはみたらし団子を串から齧りとり、咀嚼しながら「次はあんみつかな」と言った。その言葉に私は呆れてため息をつくしかなかった。
なんとなく周りを見渡せば、秋という旅行に最適な時期だからか、日本人だけでなく海外からの観光客も多いように感じた。それでもやはり五条さんはただ歩いているだけで注目を浴びている。そんな五条さんの隣を歩いていることが、なんだか物凄く恥ずかしく感じた。普段はあまりそんなことは感じないけれど、恐らく歌姫さんとの会話がきっかけでそう感じていることは自分でよく分かっている。
いつの間にか俯いていたらしく、五条さんの「あの店、良さそうじゃない?」という言葉で私は顔を上げた。
「え、本当にまだ食べ――」
五条さんの指さす方向に視線を向ける。そしてその場で立ち止まった。
「ちょっと並んでるけど。食べるのはあの店で最後にしよ」
正確に言うと、立ち止まったのではなくその場から動けなくなったのだ。視線の先にあるのは、レトロな佇まいで入り口にシンプルな暖簾のかけられたお店。五条さんの言う通り店先には数組の男女が並んでいて、私はその最後尾に並んでいた男性の姿に目が釘づけになった。
連絡先は消していない。だから私のメッセージアプリにはいつまで経っても、一度とは言え生涯添い遂げようと思った男の丸く切り取られた横顔が残り続けている。
離れた場所に立っている男性が隣の女性に親しげに声をかける。そのときに見えた横顔が私の想像していたものとは全くの別物であることに気付いたとき、強い力で二の腕を掴まれたので全身がびくりと跳ねた。恐らく何度も名前を呼んでいたのだろう。五条さんが訝し気な眼差しをこちらに向けていて、一気に噴き出した額の汗を私は手の甲で拭った。
「え、大丈夫? 顔色悪いけど、食べすぎた?」
「いや、その、しっ」
「し?」
「知り合いに、似ている人がいて……でも、」
別人でした。と小さく零すように言えば、私の狼狽ぶりを見てすぐに察したのか、五条さんはすぐさま顔を上げて先程まで私が見ていた場所へと視線を向けた。
ちゃんと見れば別人であることはすぐ分かるはずなのに。こんなところで、会うはずがないのに。それなのに見間違えたのは、昨晩久しぶりに元婚約者のことを思い出したからだろうか。
二の腕を掴んでいた五条さんの手が離れていく。そして今度はその手が、私の手を包み込むように握りしめた。手のひらから伝わってくる熱に、自然と全身の強ばりが解れていく。
「世の中には自分にそっくりな人間が三人はいるとか言うしねえ……ま、僕に似てるやつなんていないけど」
「そう、ですね」
「てか僕の方がずっと格好いいじゃん、別れてよかったね?」
そう問いかける五条さんに、私は返事ができなかった。何を言えばいいか分からなかったのではなく、自分でも驚くほど心臓がうるさく鳴り続けていて、まだ少し頭が混乱していたのだ。
ぎゅう、と私の手を握る五条さんの手の力が強まる。そこでようやく私は五条さんを見上げた。が、その場でくるりと回転し、来た道を戻り始めた五条さんに引っ張られるようにして歩く私からは、五条さんがどんな顔をしているのか見えなかった。
「あの、五条さん?」
道行く人たちの合間を縫い、大股でどんどん突き進んでいく五条さんに声をかける。五条さんはとても落ち着いた様子で、でもこちらを見ることなく静かに言った。
「確かに観光なんてしてる場合じゃないかもね」
* * *
朝まで過ごしたホテルの部屋はすっかり元通りになっていた。ベッドのシーツもバスルームのタオルも、僅かにずれていた椅子の位置まできれいに整えられている。
ありとあらゆる手段を使って一時間足らずでホテルに辿り着いたはいいものの、道中私が何を話しかけても五条さんの返事は素っ気ないものだった。確かに、観光なんてしてる場合じゃない、早くホテルに戻ろうと言ったのは私だ。でも、さすがに何もかもが急すぎて戸惑いを隠せずにいる。
「ちょっと飛ばして帰ってきちゃったけど、大丈夫?」
「私は全然……大丈夫ですが」
「そっか、じゃあ寝よっか」
「は、」
五条さんの言葉の意味を理解するより先に、ずっと繋ぎっぱなしだった手が離れたかと思ったら、とんっと肩を押された。え、と思ったときには既に私の身体は背中からベッドに沈んでいて、そんな私の身体に跨った五条さんは丁寧にゆっくりと自身の上着のボタンを外している。あまりの急展開に私は悲鳴を上げた。
「なっ! なんっ……何してっ」
「寝れるときに寝ないとって、が言ったんでしょ」
「それは、一人! 一人でって意味で」
「ねえ、はさ」
ぎしり、というベッドのスプリングの音に、ごくりと喉が鳴った。
五条さんは何もしない。予想外のツインルームを与えられたときにそう確信したはずなのに、今になってそれがぐらぐらと揺らぎ始めている。
脱いだ上着を隣のベッドに投げた五条さんは、サングラスを外すと両手を私の顔の真横についてじっとこちらを見下ろした。その目の奥で一体何を考えているのか、今の私にはさっぱり分からなかった。
真上から、私の全身を覆うように降ってくる圧。それに気圧されながら、私は温かくも冷たくも見える五条さんの瞳を見つめ返し、動かずに言葉の続きを待った。
「元婚約者に、もう一度やりなおそうって言われたらどうする?」
「へ?」
思いがけない質問に、口から間抜けな声が漏れ出る。困惑していると、五条さんはもう一度「どうする?」と先程よりも低い声で尋ね、私に顔を寄せた。迫り来る端正な顔立ちに眉を顰める。
「そんなこと、考えたことないですけど……やりなおさないと思います、よ」
その答えに嘘偽りはない。それでも、私の返事に五条さんが表情を変える様子はなかった。
さっきは自分でも信じられないほど取り乱してしまったけれど、もし仮に、本当に本人に再会してそう言われたとしても私が首を縦に振ることはないだろう。一度信用をなくした相手と元通りの関係になることはない。そう思っているから。
鼻先が触れそうな位置まで迫った五条さんに向かって「なんか、怒ってます……?」と尋ねると、ようやく五条さんは表情を変えた。罰が悪そうに細められた碧眼。ふ、と視線を逸らされたと思ったら「ごめん」という謝罪の言葉が降りてきて、そのまま私の顔の真横に五条さんは顔を埋めた。はあ、と盛大なため息が耳元で聞こえる。顔を横へ向けると、五条さんの白い髪の毛先がちくちくと頬に当たった。
「ってさ、ふら~っとどこかに消えちゃいそうだよね」
「え?」
「手元に置いたのに、僕とは違う場所で生きている気がする」
嫌なんだよ、勝手にいなくなられんのは。どこか切なく感じるその言葉に耳を傾けながら、私は今朝の出来事を思い出していた。
朝、まだ眠る五条さんの腕の中から抜け出して洗面所へ行き、戻るとベッドの上で身体を起こしていた五条さんが私を見て言ったのだ。またいなくなったのかと思った、と。
確かに私には前科がある。でも、ひょっとしたら五条さんは、誰か大切な人がいなくなるということを経験したことがあるのかもしれない。ずっしりとした五条さんの体重を全身で受け止めながら、私はぼんやりと真っ白な天井を見つめた。
なぜか、勝手にいなくなったりしませんよ、とは言えなかった。違う場所で生きている気がする。五条さんが私に対して思っていることは、逆に私が五条さんに対して思っていることでもあるから。こんなにも近くにいるのに、どうして互いにそう思ってしまうのだろう。
ここで私が五条さんを抱きしめれば、何かが変わるのかもしれない。そう思ったけれど、私の腕が彼の背中に回ることはなかった。
(2023.08.14)