京都出張①
突然言い渡された京都出張は、てっきり先日寮の自室の窓を割るなどの騒動を起こしたことに対する処分のようなものだと思っていた。なので学長から「向こうの教職員と顔を合わせておいた方が後々いいだろう」と告げられたときの私はきっと間抜けな顔をしていたと思う。一度だけ京都校の面々が交流事業のため東京に来た際、私は別業務で外出が多く最後まで挨拶できなかったから、その上で学長は気を遣ってくれたのかもしれない。
出張についての話が終わり学長室を後にしようとしたとき、呼び止められた私はドアの前で振り返った。
「あまり喧嘩するなよ」
誰と、とは言われなかった。そのときの私は、一体どんな顔をしていただろうか。
* * *
「二泊とは言え、さんに抜けられるのはなかなか痛いですね……」
東京から京都までは新幹線での移動となる。初日の今日は夕方から移動ということもあり、実際に京都校へ行くのは明日の予定だ。品川駅まで車を走らせながら独り言のように呟いた伊地知さんは、バックミラー越しに私の視線に気付くと慌てて取り繕うように笑った。
「でも、いい機会だと思います。なかなか私たちのような裏方が京都の術師と顔を合わせることもないですし」
「はい……あの、ホテルでできる仕事はやりますので気にせず回してくださいね」
明日挨拶が済んだら、その足で東京に戻ってくることだってできる。最近の伊地知さんの業務量を目の当たりにしていた私がそう告げると、それまでずっと黙って隣に座っていた五条さんが「はあ~?」と些か驚いたような声を上げた。同時に、運転している伊地知さんの肩がびくりと震える。
「何言ってんの、も二泊するんだよ」
「五条さんは任務がありますけど、私は明日挨拶が終わったあと京都に残る意味がないと言いますか」
「明日は挨拶終わったら二人で京都観光、さらに泊まって明後日も京都観光、なかなかの過密スケジュールじゃん」
「いや、五条さん任務ありますよね?」
「秋の京都、たったの一泊ってありえないでしょ。ねえ、伊地知?」
あ、ずるい。そう思い、眉を寄せる。そんな振り方をしたら伊地知さんは同意することしかできないじゃないか。一週間でも短いくらいだ、と口を尖らせる五条さんに対して、伊地知さんは何も言わずに苦笑を零した。
五条さんへの気持ちを、真剣に考える。そう決めて、そう宣言して、まだ数日しか経っていない。答えが出ていないのは当たり前だと思う一方で、こういうのは深く考えて答えを出すものでもないのでは、と思い始めている自分もいる。
駅に着きどこか複雑な表情を浮かべた伊地知さんと別れ、新幹線の改札内コンコースで楽しそうに駅弁を選ぶ五条さんの整った横顔を盗み見る。今の私たちってどういう関係なんだろう。以前五条さんに同じことを聞かれて、そのときは「関係に名前をつける必要もない」と突っぱねたのに。そのことを思い出したとき、ポケットに入れていたスマホが短く震えた。確認するとメッセージが一件。送り主は、つい先程別れたばかりの伊地知さんだ。内容は、私たちを京都駅まで迎えに来てくれる京都校の補助監督の連絡先。そして一行空いて最後に一言、こう書いてあった。
「『先に謝っておきます、申し訳ありません』……?」
「何、なんかやらかしたの?」
頭上からそんな質問が落ちてきて顔を上げる。私の持つスマホを覗き込むようにしてこちらを見下ろす五条さんの両手には、種類の違う駅弁が四つも乗っかっていた。五条さんと駅弁、交互に視線をやりながら首を横に振る。
そんなに買うのかと尋ねれば、五条さんはさも当然と言わんばかりに頷いた。
「全部おいしそうだし。このでかい玉子焼きが入ったやつとかさ」
五条さんが顎で指した駅弁には、確かにお弁当に入れるにしては大きすぎる玉子焼きがどっしりと鎮座していて、そのきれいな黄色にじわじわと食欲が湧いてくるのを感じた。も二つくらい食べるでしょ。のんびりとした調子でそう言いながらレジに並ぼうとする五条さんの背中を、私は慌てて追った。新幹線の発車時刻が迫っていることに対する焦りもあったからだろう。一つでいいです、と返事をしたときには、伊地知さんの謎のメッセージのことは頭の隅の方へと追いやられてしまっていた。
* * *
「ツイン!?」
明日の朝九時にはお迎えに参ります、と丁寧に告げた補助監督と別れてすぐ、京都校から車で四十分程の場所にあるホテルのフロントに私の悲鳴に近い叫び声が響いた。
私の耳が正常ならば、受付に立つフロントマンは宿泊カードを見て確かに「デラックスツインルームをご用意しております」と言った。この際、『デラックス』は置いておこう。問題はその次だ。
カウンターの上に置かれたカードキーを見つめたまま、もう一度「ツイン……」と小さく零し顔を上げる。フロントマンの目には僅かに動揺の色が滲んでいた。
「あの、何かの間違いってことは……」
「間違いじゃないよ~」
京都駅に着いて立ち寄った売店で買った、抹茶クリームのシュークリームを呑気に頬張る五条さんの言葉に私とフロントマン、二人の視線が向けられる。アイマスクを外した五条さんの瞳はいろんな光をぎゅっと集めたようにきらめいていて、どこか楽しそうでもある。
複雑そうな顔で私たち二人を見送った伊地知さん。そして彼から届いた謎の謝罪メッセージ。五条さんの顔を見た瞬間、それらの点と点が繋がった。
「僕が伊地知に頼んだの、ツイン一部屋にしてって。ダブルの方がよかった?」
「な、ん、で、そんなことを~!」
「いいじゃん、お互いちゃんと考えるいい機会でしょ」
私が反論するより先に、五条さんの長い腕が伸びてきてカードキーを手に取る。ちゃんと考える、というのは、あくまで『一人で』ちゃんと考える、という意味だったのに。
狼狽える私とは違い、いつも通り落ち着いている五条さんは「ほら、行くよ」と笑みを浮かべて奥のエレベーターへと向かう。私たちの後ろに並んでいた男性がチェックインし始めたのを見て、私は渋々歩き出した。
用意された部屋は名前の通り豪華で、二人が泊まるには十分な広さだった。そもそも私は一般的なシングルルームに泊まると思っていたので、余計にそう感じるのかもしれない。入ってすぐ左側に広々とした洗面所と浴室があり、抜けると大きなベッドがどん、どん、と二つ並んでいる。奥にはテーブルと一人掛けのソファがこれまた二つ置いてあり、大きな窓からは京都の夜景がよく見えるようだ。
同じ部屋に泊まるのは、初めてではないけれど──。五条さんは窓際のベッドに腰を下ろし黒の上着を脱ぐと、さながら恋愛ドラマのような展開に立ち尽くす私に気付いてふは、と笑った。
「そんな顔しないでよ、何もしないって」
ぼすん、と勢いよく後ろに倒れた五条さんはすぐに何かに気付いたような声を上げる。そして私の方を向いて肘枕をしながらこう言った。
「もちろん、何かしてほしければ話は別だけど?」
「馬鹿なこと言わないでください」
何もしない、というのは本当。何かしてほしければ話は別、というのは嘘、というより冗談。それくらいは分かるようになってしまっていた私は一つため息を吐いて、今からシングルルーム二部屋に変更してもらおうか、という考えを捨てた。五条さんの寝転がるベッドを通り過ぎ、窓際のテーブルのそばに荷物を置いてソファに座る。
東京から京都までは新幹線で約二時間。意外と近いイメージだけれど、それ以外の時間──東京の高専から品川駅まで、また京都駅からここホテルまでの移動時間が長かったせいで、もうすっかり夜である。テーブルに置いたPCを起動させている間に窓の外へ目を向ければ、高専の寮からではなかなかお目にかかれないきれいな夜景が広がっていた。
届いているメールを確認し始めて五分ほど経った頃、つん、と後頭部の髪の毛を引っ張られ振り返る。するといつの間にか身体を起こし胡座をかいていた五条さんが、片手を伸ばして私の毛先を摘まんでいた。
「……何かついてました?」
「別に? ただ僕のこと無視して仕事始めちゃったから邪魔してやろうと思って」
「明日も早いですし、五条さん先に休んでいいですよ」
同じ部屋に泊まる以上「お先にお風呂どうぞ」とはなかなか言いづらく、地下にある大浴場の利用可能時間が二十三時までであることを伝える。しかし五条さんは聞いているのかいないのか、曖昧に返事をして作業を再開させた私の髪を本格的にをいじり始めた。
「全部後ででいいよ、とこうやってゆっくり過ごすの久しぶりじゃん」
「そう、でしたっけ」
「区役所帰りにからあげとたこ焼き食べに行った日以来じゃない?」
まあたまに会って話すくらいはしてたけどさ。そう話す五条さんの声色と肩より下まで伸びた私の髪を梳く手つきがあまりにも優しいものだから、変なことしてないで早く寝てくださいとか、窓割ったことまだ忘れてませんからねとか、言おうと思った言葉が全部喉の奥に引っ込んでしまった。後ろに全部持っていかれた髪が、何やら分けられて絡み合っていくのを感じる。
そういえば、元婚約者にもこうやって髪を触られることが多かった。不器用な私とは違い、器用で何でもできる人だったから。きれいな髪なんだから何もしないなんてもったいない、とか言って──。
「きれいな髪なんだから、もっとアレンジとかしたらいいのに」
「えっ?」
ちょうど思い出していた元婚約者の言葉と似た台詞が真後ろから聞こえてきたものだから、私は驚いて声を上げた。五条さんは一瞬だけ手を止めたけれど、ただ単に聞こえなかったと思ったのだろう。もう一度「きれいな髪なんだから」と、先程と同じ言葉を吐きながら手を動かし始めた。
別に今更昔のことを思い出したところで傷ついたりはしない。けれど、何も感じないわけではない。もう滅多に思い出さなくなった懐かしい顔が脳裏に浮かんで、私は眉を顰め強く目を閉じた。そんな私の表情の変化に気付いたらしい五条さんが、「なに、その顔」と不思議そうに呟く。
「あ、いえ……明日、緊張するなと思って」
「なんで?」
「伊地知さんから京都校は保守的な気風が強いと聞いているので、私みたいなただ呪いを視認できるだけの人間が挨拶に行ったところで、あまりよく思われないんじゃないかなと思っ」
「でーきた!」
京都出張の話を聞いたときからずっと胸の内に抱えていた不安を吐露している最中、五条さんは明るい声でそう言うと、どうやら完成したらしいアレンジされた私の髪の毛先を持ったまま私の顔を覗き込んだ。
「似合うね、僕天才だわやっぱ。ヘアゴムとかない?」
「……ないです」
「なんでそんなしかめっ面なの」
返事をせず、口を一文字に結んだまま自分の頭に手を伸ばす。三つ編みか何なのかよく分からないけれど、そこまで長くもない髪が後ろの方できれいにまとめられていることだけは分かる。
また今度やってあげる。五条さんは一言そう言うと、私の髪から手を離した。ばさり、と束になっていた髪が肩に落ちてきて、それを手櫛で元に戻す私に向かって「心配ないよ」と五条さんが笑う。
「明日は歌姫もいるみたいだし、大丈夫でしょ」
「歌姫、さん?」
「一応僕の先輩、僕より弱いけど」
さらりとそう言ってのけた五条さんの顔を見つめたまま何度か瞬きをする。そもそも五条さんより強い人なんて、いないのでは。そう言えば、彼は得意気でもなければ喜ぶ様子もなく、当たり前と言わんばかりに素直にうん、と頷く。
「まあ仲良くできると思うよ、普通にいい人だから」
五条さんが誰かのことを説明する際に『いい人』という言葉を使うのを初めて聞いた気がする。そのことに気付いたとき、どこからか低いバイブ音が聞こえて私ははっとした。
その音の正体はベッドに投げられていた五条さんの上着のポケットに入っていたスマホで、それを手に取った五条さんは軽く笑って「噂をすれば」と私に画面を向けた。表示名は『庵歌姫』。私が返事をするより先に、五条さんはスマホを耳にあて「やっほ~、元気?」と軽く挨拶をした。同僚や先輩と言うよりかは、親しい友人にそうするように。
正面に視線を戻し、届いているメールを再び捌いていく。珍しいじゃん、歌姫から僕に電話だなんて。うん。え、今から? ああ、まあそれなら仕方ないね、いいよ。貸し一つだね。後ろから聞こえてくる五条さんの声に意識が向いて、キーボードを打つ手が止まる。
「、僕ちょっと出てくるね」
「……今からですか?」
我ながら冷たい声だったと思う。振り向けば、五条さんはもう上着を着て立ち上がっていた。そして私の咎めるような視線に気付くと、アイマスクを指でくるくると回しながら再び私の髪に触れる。
「僕がいないと寂しい?」
「そんなことないですけど」
「は先に寝てて」
明日の朝九時には迎えが来るのだ。朝、そんなにゆっくりしてられる時間はないはず。寂しいとかそういう問題ではなくて、ただそれを心配しているだけで──。
五条さんが出て行った部屋はとても静かに感じた。伊地知さんが気を利かせてくれたのか、私宛に届いているメールはいつもよりずっと件数も少なく、今ここで私のできる仕事はあっという間に片付いてしまった。
手持無沙汰になると余計なことを考えてしまう。いつまでもこのまま五条さんの帰りを待つわけにもいかず、仕方なくシャワーを浴び終えたときにはもう日付けが変わろうとしていた。伊地知さんにメッセージを返信したあと、五条さんに『何時頃戻りますか?』と送信しようとして、その九文字を一つずつ素早く消していく。きっと、京都には歌姫さんだけでなく知り合いがたくさんいるのだろう。五条さんには、私の知らない五条さんの世界がある。そんな当たり前のことに、なぜだか孤独感が強まったような気がした。
明日への不安が私をおかしくしているだけ。そう思いながら私は大きくて冷たいベッドに潜り込んだ。自分の欝々とした気持ちに蓋をするように。
* * *
雨が降っている。
ぼんやりとした頭でそう思いながらいつもより固いベッドの中で足を伸ばしてすぐ、雨だと思った音が雨ではないことに気が付いた。これは、シャワーの音だ。枕元で充電していたスマホの画面を目を細めながら確認すれば、朝の五時になったところだった。
こんな時間まで、どこで何してたんだろう。一体、歌姫さんと。そこまで考えて、私はスマホを伏せ再び目を閉じた。別に五条さんが朝帰りしようが、私には関係ないし。
静かになったかと思ったらドライヤーの音が聞こえ、その音が止まったと思ったら今度はドアが開く音がした。息を潜める必要はないのに、無意識にそうしてしまう。気遣うような足音が窓際のベッドへ向かうと思ったら、それは私のベッドのそばで止まる。そしてすぐに、横向きで寝ている私の背中側が大きく沈んだ。
えっ、と声を上げる前に、ベッドに潜り込んできた五条さんの腕が私のお腹をがっちりとホールドする。シャワーを浴びたばかりだからか、五条さんの固く筋肉質な身体から私の背中に伝わってくる体温は熱く、思わず息を呑んだ。そしてすぐに、五条さんの掌がもぞもぞと動いて私の腹に直に触れる。
「ちょっ、と!」
「やっぱ起きてたか、チッ」
「舌打ち!?」
飛び起きようとした私の身体を五条さんの腕が強く引き止める。振り向こうと身を捩るけれど、互いの身体が密着しすぎていてうまくいかない。自分と同じ匂いを纏わせた五条さんに耳元で「何もしないって」と囁かれ、全身が硬直した。
「十分、何か、してます」
「これくらいは大目に見てよ」
「……こんな時間まで、何してたんですか」
歌姫さん、と。という言葉を飲み込んですぐ、五条さんの私を抱きしめる力が強まる。
「なんだ、やっぱり寂しかったんじゃん」
「違っ、ただ朝早いのに、まさかこんな時間まで戻ってこないと思わなくて」
「に怒られるの、僕嫌いじゃないな」
「はあ?」
「朝早いから、ちょっとだけでも寝とこ~」
話が通じない。こつん、と頭のてっぺんに何かが当たり、それが五条さんの顎であることに気付く。五条さんの言う「おやすみ」という言葉が脳内に響いて、一瞬だけ思考が停止した。
というか寝るなら自分のベッドで寝て欲しい。そう言おうとしてすぐ、小さな寝息が頭上から聞こえてきて私は小声で「まさか寝ました?」と尋ねた。返事はない。
閉じられたカーテンの向こう側に広がる空が白みはじめてきたのが分かる。まだ早いのに、もう眠れる気がしない。かと言ってベッドから、五条さんの腕の中から抜け出せる気もしない。私のばくばくと鳴り続ける心臓の音とは対象的な規則正しい寝息を聞きながら、私は強くお腹に回された腕を押し返すのを静かに諦めた。
(2023.06.30)