考えて気付いた話
自意識過剰。そんな言葉が頭に浮かんで、私はすぐにハンドルを大きく捻り頭からシャワーを浴びた。少しだけ熱く感じるお湯が身体を伝ってタイル張りの床へと流れていく。それでも一度頭の中にこびりついてしまった五文字は、そう簡単には消えてくれない。
「なんだかなあ……」
全身に残った泡を洗い流し、お湯を止めたあとに呟いた独り言がシャワールームに寂しく響いた。
数日前、五条さんが突然私の部屋の窓を割って侵入してきた日からずっと同じことを考え続けている。五条さんは、ひょっとして私のことを好いているのではないだろうか、と。もちろんそれは、恋愛的な意味で。もし仮にそうじゃないとしたら、彼の言動に説明がつかない。しかしそう考える一方で、五条さんのことだからやはり面白がっているだけなのでは、という考えが拭えないのも事実である。
気替えを済ませ、脱衣所の隅に置いてある姿見で全身を見れば、高専に来て痩せたときよりも少し体型が戻っているように見えた。きっと、たまに受けていた五条さんからのスイーツ攻撃の影響だろう。
五条さんについて、誰かに相談してみようか。そう何度も考えたけれど、パンダくんはどうしても私と五条さんをくっつけたがるし、家入さんは最近忙しいらしくあまり会えていない。伊地知さんはこんなことを相談されてもきっと困るはずだし、虎杖くんは論外だ。
日々思い煩う中で唯一の救いは、五条さんが出張に出ていて不在であることだった。今顔を合わせたところで、きっと変に意識してしまってまともに話せる気がしない。
こんな気持ちになること、もう一生ないと思っていたのに。髪を乾かし終え、廊下へ出てすぐに前方から歩いてくる人の気配を感じて顔を上げた。
「あれ、釘崎さん」
「さん! あ~そっか、まだ使えないんだっけ?」
久しぶりに会った彼女は私服姿で、私に気付くとそう尋ねながら首を傾げた。
釘崎さんとは、虎杖くん経由で知り合ってから何度か業務上やりとりをする機会があり自然と親しくなったのだが、学生寮と私の住む職員寮は隣接しているもののそれぞれが独立した建物なので、寮内で顔を合わせることは滅多にない。しかし数日前から職員寮のシャワールームが老朽化に伴い工事を始めたため、寮に住む職員は皆学生寮のシャワールームを使用していた。先程彼女が言った『まだ使えない』とは、そのことだ。
どんなに早くても一、二週間はかかるらしい。そう言う私に釘崎さんは駆け寄ると、「ちょうど良かったわ」と笑い、拝むように両手を組んだ。
「実は化粧水切らしてるの忘れてて、貸してもらえると助かるんだけど」
「そうなんだね、いいよ」
自分が彼女と同い年の頃は、化粧水なんて毎日つけていなかった気がするな。最近の若い子の美意識に感心しながら持っていたポーチを開けたとき、ふとあることを思いついて顔を上げた。
「部屋に何種類かシートマスクあるけど、そっち使う?」
「使わせてもらうわ」
即答。きら、と目を輝かせた釘崎さんに、思わず口元が綻んだ。
学生寮と職員寮を繋ぐ二階の渡り廊下へと向かいながら、釘崎さんの話に耳を傾ける。最近あった任務の話、虎杖くんの一発芸がつまらなかった話、伏黒くんが任務中に転んだけど何事もなかったかのように振舞っていた話。彼女の話を聞いていると、少しだけ安心した。呪術師とは言え普通の、年相応の子どもたちであることを実感できるから。
さんは最近どうなの、と聞かれ、私はううん、と唸り天井を見上げた。何か特別な変わったこと……伊地知さんが少しだけ髪を切っていたことだろうか。そう言うと釘崎さんは眉を顰め、ぽつりと一言「地味ね」と呟いた。
あと変わったことと言えば。業者の選定に時間がかかっており、未だに段ボールで塞いだままになっている自室の窓のことが頭にちらついたとき、隣を歩く釘崎さんが「は?」と声を上げる。職員寮に入ってすぐだった。前を見つめる彼女と同じ方向に視線を移した私は、その場で立ち止まった。
「何でいるのよ、出張中でしょ」
「第一声がそれって酷くない?」
一旦戻ってきただけ。そう言いながら肩に手を置き、首を鳴らしながらこちらへ歩いてくる五条さんは少し疲労が溜まっているようにも見えた。珍しくアイマスクもサングラスもしておらず、表情がよく見えるからそう感じるのかもしれない。
五条さんは私たちの前で立ち止まると、釘崎さんに対し「恵に用があるんだけど、アイツ部屋?」と尋ねた。
「知らないわよそんなこと。任務も入ってないし、いるんじゃない?」
「そ、ありがと」
にこ、と笑みを浮かべた五条さんが、ちらりと私を一瞥する。目が合って咄嗟に「あ」と呟いてしまった私は、それを打ち消すようにすぐさま「お疲れ様です」と頭を下げた。
意識するな、自然に、自然に。自分にそう言い聞かせてみたものの、その時点でもう意識せず自然に接するなんて無理な話である。何を考えているのか、はたまた何も考えていないのか。私の言葉に五条さんが「うん、お疲れ」と返すと、その場に微妙な空気が流れるのが分かった。しばらくして釘崎さんも何かを察したのだろう、彼女が「え?」と首を傾げる。
「何、二人って仲良いんでしょ? 虎杖から聞いたわよ」
「え、あ~、まあ、普通に……?」
いや、聞いてどうする。そして虎杖くんは釘崎さんに私たちのことをどう話しているんだ。
曖昧な返答をしてしまったことによる後悔に襲われていたら、私を見つめたまま五条さんは「そうそう、普通に仲良し~」と言い、へらりと笑った。ふと、以前に七海さんのことを「超仲良し」と言っていた五条さんの笑顔が頭に浮かぶ。
何となく、このままではいけない気がした。真面目に、ちゃんと話し合わなければいけないことがあるように思う。でも予想以上に気が張ってしまい、今すぐに立ち去りたいと思っている自分がいる。
そんな私の気持ちに気付いたのか、五条さんはそれ以上何も言わず「じゃ、僕行くね」と手を振ると私の横を通り過ぎた。
「二人とも早く寝なよ? 夜更かしはお肌の大敵でしょ」
そんな、普段通りの軽口も忘れずに。
塞いでいるとは言え、さすがに窓が割れている自室に釘崎さんを招き入れるのは抵抗がある。ドアの前で待っていてもらった釘崎さんに一枚入りのシートマスクを手渡すと、彼女は顔の前でぱん、と両手を合わせた。
「このお礼は必ず!」
「気にしなくていいよ、そんな高いものでもないし」
「何ならアイツに高いもん買わせるわよ」
わらしべ長者よ。そう言ってくい、と親指で歩いてきた廊下を指す釘崎さんに、私は笑って首を横に振った。
短い付き合いだが、釘崎さんは鋭い上に周りへの気遣いもできる子だ。そんな彼女は特に深掘りすることもなく、今度の出張の際にお土産を買ってくる、とだけ告げて足早に去って行った。
疲れているだけ、というわけではないんだろうな。ベッドにぼすん、と座り、そのまま後ろへ倒れ込む。割れた窓と段ボールの隙間から入り込んでくる鈴虫の声に耳をすませながら目を閉じた。
このままではいけない、ちゃんと話し合わなければいけない。そう考えているのは、私だけなのかもしれない──。
こんこん、と控えめにドアを叩く音が聞こえて、私は目を開けた。釘崎さん、何か言い忘れたことでもあったのかな。度々ごめん! と手を合わせる彼女の姿を想像しながら起き上がり、何も考えずにドアを開けた。
「何か忘れ」
「ねえさっきさ、僕のこと引き止めるタイミングじゃなかった?」
頭の中で想像していた人物とは全く違う相手からの突然の言葉に、私は口を開けたままその声の主を見上げた。先程伏黒くんに用があると言って笑っていた五条さんが、伏黒くんの部屋ではなく私の部屋の前で、笑うどころか機嫌が悪そうにこちらを見下ろしている。
予想外のことが起きると、どうやら時間が止まったように感じるらしい。じ、と私を見つめる五条さんの碧眼から目を離せないまま、引き止めるって言ったって、と小声で呟く。
「釘崎さんも、いたし……」
「なんかこう、僕と気まず~くなるの嫌なんだけど」
『気まず~く』の部分を強調して顔を歪めた五条さんの姿に、それまでどこか呆然としていた私はようやく笑った。どうやら、私だけではなかったようだ。そのことに気付いたとき、少しだけ安堵している自分がいた。
日中はそうでもないが、夜になると日一日と秋めいていくのを感じる。部屋を出るときに羽織ったカーディガンの前を両手でぎゅっと掴みながら、五条さんと二人で外に出て歩いた。
寮を少し離れると辺りは疎林になっている。明るい部屋で面と向かって話す勇気がなかった私にとって、白く冴えた素月の明かりはちょうどよかった。もちろん緊張はしている。それでも五条さんが私と同じ思いだったということが分かっただけで、幾分か気持ちが楽になったような気がする。
そういえば、と思い伏黒くんへの用事は良かったのかと聞けば、五条さんは「別に恵に用なんてないよ」と笑った。その横顔になぜか胸が締めつけられる思いがして、私は足元に視線を下ろした。
「この間、何か言いかけましたよね?」
そう聞けば、五条さんがこちらを見る気配を感じた。本当のことを言えば『僕だけに笑ってほしい』という言葉の真意を一番に問いたかったけど、それはひとまず置いておくことにする。
俯いたまま、話を続ける。
「考えたんだけど、って言葉の続きが気になりまして」
「ああ」
私が言いたいことを理解したのか、五条さんは短くそう返事すると歩みを止めた。一歩先で私も立ち止まり、五条さんを振り返る。
「ちょっと前にさ、僕とで七海をからかったことあったじゃん?」
「……私、七海さんをからかったことなんてありませんけど」
「そのときにが僕に言ったんだよ、人を好きになるのは苦しいこともあるって。自分には見せてくれない顔を他人に見せていたとき、苦しいって」
目を伏せてそう話す五条さんに、今度は私が「ああ」と返事をする番だった。五条さんと七海さん、そして私。三人で軽く会話したあと、人を好きになるとはどういうことかと五条さんから尋ねられたことを思い出す。いつになく真面目だった五条さんの表情も一緒に。
「僕は、が僕以外の人間に笑っている姿を見ると『げっ』て思うんだよ」
「げっ?」
「『げっ、笑ってんじゃん』って。そんでもってわりとイライラするから、これは多分苦しいってことなのかもしれない」
つまり僕は。そう言って私の方へ歩み寄る五条さんが、初めて出会った夜の五条さんと重なって見える。
偶然出会っただけの、綺麗な男の人。そして日本一人口が多いこの東京で、恐らくもう二度と会うことがない人。そう思っていた相手と関係を築き、しまいにはこんな深い話をしているのだから、人生とはよく分からないものだ。
あの日、また見つめられたいと思っていた瞳は今、しっかりと私だけを映している。
「僕はのことが好きってことになるんだけど」
「……ご、」
「そうなのかな?」
……そうなのかな?
思わずオウム返ししそうになった私に対し、五条さんはもう一度「僕ってのこと好きなの?」と聞いた。その答えは五条さんの中にしかないはずで、私に分かるわけがないのに。
どう答えればいいか分からない。それでも、『好き』というたった二文字の言葉に心がかき乱されていく。
「わ、私に聞かないでくださいよ」
「ええ~」
不満たっぷりの声を上げた五条さんは、私の反応を楽しんでいる様子でもからかっている様子でもない。真剣な眼差しから察するに、恐らく本当に自分の気持ちが分からないのだろう。
「は気にならないの? 僕がを好きかどうか」
「それは、」
気になりますけど。そう呟くと気恥ずかしさが込み上げてきて、私は五条さんから視線を逸らした。
「でも『私のことを好きか』なんて、余程自分に自信があるか、相手が私を好きって確証がないと聞けないです、普通」
「あ、そんなもんなんだ? 僕は聞けるけど」
飄々とした様子で五条さんはそう言うと、軽く、「今日晩ご飯何食べた?」と聞くくらいのノリでこう尋ねた。
「は僕のこと、好き?」
本当に聞いちゃうんだ。その潔さに面食らうと同時に私はあることに気が付いた。五条さんが何を考えているのか、どうしたいのか。そればかり気にして、自分がどうしたいのか、五条さんのことをどう思っているのか、きちんと考えたことがないことに。
先程込み上げてきた気恥ずかしさよりも驚きの方が上回ってしまい、頭が混乱する。私は五条さんのことをどう思っているんだっけ。好きか嫌いか、そのどちらかに分けるなら『好き』なんだろうけど、高専にいる人たちは皆同じく『好き』に分類されている。でも五条さんと他の人たちが同じかと聞かれれば、それは違う。
元婚約者のことは確かに好きだった。じゃあその『好き』と五条さんに抱く『好き』は同じなのだろうか。心を消耗させたくないという思いから恋愛を避けようと意識してきたせいで、今の私は五条さん並に自分の気持ちが分からなくなっている。
、と呼ばれて我に返った私は、慌てて口を開いた。
「わ、からない……です」
分からない。情けないことに、それ以外の答えが出てこなかった。突如訪れた沈黙が、五条さんの笑い声によって破られる。
「いい大人が二人して自分の気持ち分からないって、なんかウケる」
一頻り笑ったあと、五条さんは腕を上げて伸びをしながら「まあ急いで答えを出すような話でもないか」と言い歩き出した。それも確かにそうだ。でも、いつかは答えを出さなければいけない話でもある。
「五条さん」
「ん~?」
「ちゃんと、考えますね」
ちゃんと、考えます。もう一度、五条さんにではなく自分に言い聞かせるようにそう呟いた。五条さんのことをどう思っているのか、ゆっくり真剣に考えてみよう。こちらを振り向いた五条さんは私を見ると、「分かった」と笑んで頷いた。
月に薄雲がかかり、辺りが薄暗くなる。ちょうどそのとき、車のエンジン音が聞こえ寮の前に一台の車が停車するのが見えた。前照灯の眩しさに目を細めれば、五条さんが小さくため息を零す。
「僕もう戻んなきゃ」
「えっ」
思わず声を上げた。確かに釘崎さんには『一旦戻ってきただけ』と説明していたけれど、まさかこんなに早く戻らなきゃいけなかったとは。
「うわ、すみません、貴重な時間を」
「」
急いで車の方へ戻ろうとしたとき、五条さんが私の腕を引いた。そのまま、すっぽりと抱きすくめられる。え、と声を上げるより先にぽんぽん、と優しく背を叩かれ、「湯冷めしてない?」と耳元で囁かれたので思わず息を呑んだ。僅かに冷えていた耳は、言葉だけでなく吹き込まれた息の温度をまざまざと感じとってしまう。
「だっ、大丈夫です!!」
「うわ、声でか」
びく、と肩を揺らした五条さんは笑いながら身体を離すと、私の顔を覗き込んで「ハグは一分五万円、だっけ?」と微笑を浮かべた。一瞬何の話かと思考が飛んだけれど、すぐに以前ハグされたときの会話を思い出す。
あれは適当に言っただけ。そう言い返そうとしたが、目の前にある五条さんの顔が月明かりのせいか妙に艶っぽく見えて、咄嗟に「十万円です」と言いながら五条さんの肩口を押し返した。値上がり幅に爆笑する五条さんの声が辺りに響いた。
外に、しかも私が一緒にいるとは思わなかったのだろう。車の横で待機していた伊地知さんは五条さんの後ろにいた私の姿を見て目を丸くし、すぐに慌てた様子で頭を下げた。
「すっ、すみません、お邪魔をしてしまったようで……!」
「本当だよ、マジビンタじゃ済まないよこれ。ねえ?」
「ただ一緒に散歩してただけで、そんな謝られるようなことは何も……」
「そうそう、すご~く大事な話をしながら散歩してたんだよねえ」
狼狽する伊地知さんの目の前で五条さんの横腹を抓り、彼を睨みつける。五条さんはポケットから取り出したアイマスクを着けている途中で、アイマスクの隙間から私を見下ろすとしたり顔で微笑んだ。
「そうだ、」
「はい?」
後部座席に乗った五条さんが、窓を開け私の名前を呼ぶ。風に揺れる髪を押さえつけながら返事をすれば、「学長から話があると思うけど」と切り出される。
「僕と、来週二人で京都出張だから」
「えっ」
「それまで風邪引かないように。京都、楽しもうね」
そう言って一笑したあと、五条さんは前を向き伊地知さんへ「出していいよ」と告げた。窓がゆっくり閉まり、そのまま車が動き出す。
来週、二人で、京都出張。五条さんの言葉を頭の中で並べたあと、私はもう一度「えっ!」と大声を上げた。
ゆっくり、考えられるのかな。心の中にそんな不安が芽生え、小さくなっていく車に向かって私は嘆息を漏らしたのだった。
(2023.05.02)