割られた話



 そういえば、来ないな。

 仕事を終えて寮の自室に戻り、外出時に立ち寄ったドラッグストアで買ったものが入った袋や荷物をテーブルの上に置きながらふとそう思った。引っ越してきたときに比べると格段に過ごしやすくなった部屋をぐるりと見渡す。そういえば、来ないな。五条さん。
 脱いだスーツのジャケットをハンガーに掛けながら、突如湧いてきた疑問に「いや別に来てほしいわけじゃないけど」と突っ込みを入れる。ただ、五条さん曰く『いつ僕が遊びに来てもオッケーな部屋』にするために選んでもらったインテリアがすべて揃ったにも関わらず、未だに彼がこの部屋を訪れないことが少し意外だっただけだ。五条さんのことだから、弾んだ声で「来~ちゃった」とか言いながら嬉々としてやって来そうなのに。
 バッテリーの残量が十パーセントを切っているスマホに充電コードを挿してベッドに放り投げ、備え付けのクローゼットから着替えと洗面用具が入ったポーチを取り出したときだった。すぐ近くでどん、という大きな音と同時に何かが割れる音がして、びく、と全身が跳ねる。手から滑り落ちたポーチを拾うより先に、私は正体不明の音がした方を振り返った。


「……あれ、」


 一番に目に入ったのは、開けた覚えのない窓。そこからなぜか入り込んできた風に頬を撫でられ、身体が固まる。そして、その風のせいで小さく膨らんだカーテンの中でもぞもぞと動く何かを視認した私は、声にならない悲鳴を上げた。泥棒……!?
 かちゃん、と窓の鍵が開く音が聞こえ、そのまま窓、そしてカーテンが勢いよく開けられる。恐怖のあまりその場で腰を抜かしてしまった私の目に飛び込んできたのは、泥棒……ではなく、窓枠に足をかけ部屋へ侵入しようとする五条さんの姿だった。
 時刻は二十一時を回っている。外は暗い。上下黒の服を着た五条さんはまるで夜の闇から溶け出してきたようで、それが神々しくも恐ろしくもある。


「来~ちゃった」


 そんな神々しくも恐ろしくもある五条さんは、口をぱくぱくと動かす私を見つけると、想像していた通りの笑顔で声を弾ませてそう言ったのだった。


「なにっ、何、しっ」
「いやあ、力加減ミスっちゃった」


 軽くコンコンしただけなんだけどね? 笑ってノックする振りをしながら、五条さんは私の部屋へ着地した。一瞬夢か幻でも見ているのかと思ったけれど、五条さんの靴が床に散らばった窓ガラスの欠片を踏む耳障りな音で現実であることを実感する。
 どうやら先程の大きな音の正体は、五条さんが私の部屋の窓を割った音、だったらしい。それは分かった。分かったけれど、この状況についてはまったく理解が追いつかない。なかなか落ち着く気配のない心臓を労わるように胸に手を当て、許可なく急に部屋に入ってきたこと、窓を割ったこと、土足であること、どれからどう指摘するべきかを混乱する頭でぐるぐると考える。
 そんな私に対し、「なんでそんなとこ座ってんの?」と不思議そうに首を傾げた五条さんを見て、ようやく身体の強張りが解けていくのを感じた。しかしそれと同時に、今度はふつふつと怒りが湧き上がってくる。私はそばに落ちていたポーチを引っ掴むと、そのまま五条さんの顔面に向かって投げつけた。大したスピードを出すことなく飛んでいったポーチは、五条さんの目の前でぴたりと止まり、再び床へ落下する。


「え? 怒ってる?」
「おっ、怒るでしょう普通! いきなり、窓ガラス割れっ、土足だしっ」


 怒って大きな声を出すのは久しぶりだった。うまく言いたいことをまとめられず、言葉に詰まる。五条さんは冷静に指先でアイマスクを首元まで引き下げると、足元に落ちたポーチを拾い、全く分からないとでも言いたげな目を私に向けた。


「大丈夫でしょ。今の時期、窓開けて寝ても寒くないし」
「そういう問題じゃ、ないです……」


 あまりにもとんちんかんな答えに怒っているのが馬鹿らしくなった私は、息を吐きながらそう呟いた。掃除機は持っていないから、とりあえず今日は大きな破片だけ拾って……細かいガラス片は明日、寮母さんに掃除機を借りて片付けよう。そう考えながら立ち上がった。
 もともと、五条さんがこの部屋に遊びに来たら来たできちんとおもてなしするつもりだった。一応自室とはいえ寮だから、何か間違いが起こることもないだろうと思っていたし。でもそれはあくまで『常識的な時間に』『常識的な場所から』来た場合、である。いくらなんでも、この訪問の仕方はおかしすぎるだろう。
 ガラス片の上に立ったまま動くことなく、五条さんが「ん」と私の投げたポーチを差し出す。何となく目を合わせづらくて、五条さんの顔を見ないまま彼に近付きそれを受け取れば、頭上から「いつもあんな風に笑ってんの?」という些か苛立った声が落ちてきて、私は思わず顔を上げた。
 そして目が合った途端、一気に全身が粟立つのを感じた。今までに何度も五条さんの瞳を『きれいだ』と思ったけれど、きっと『怖い』と思うのはこれが初めてだ、と思う。


「な、何の話……」
「今日一緒にいるところ見かけたけど、随分と仲良いんだね」
「え?」


 五条さんが一体何の話をしようとしているのか、皆目見当もつかない。でも彼のどこか不穏な様子に、私は息を呑んだ。互いに黙ったまましばらく時間が流れ、私が意を決してもう一度尋ねる前に五条さんがぽつりと、「あの補助監督」と呟いた。


「補助監督?」


 想像していなかった言葉に、私はそう聞き返した。『補助監督』と言われて一番に思い浮かんだのはもちろん伊地知さんだったけれど、五条さんの言う『補助監督』が伊地知さんのことを指していないのは考えなくても分かる。今日いるところ見かけた、という言葉を元に次に候補に挙がったのは、私が高専に来る一か月ほど前に京都から東京へ異動になったという男性の補助監督のことだった。


さんって、五条術師と仲良いですよね」

 
 京都で育ったというわりに訛りのない彼は、呪術師全員を『〇〇術師』と呼ぶ上品さを持ち合わせた人だった。しかし、緊張した様子で「僕は五条術師を目の前にするとどうしても緊張してしまって」とはにかんでいた彼とは、特別親しいわけではない。ただ今日はたまたま、修理を終えた呪具を運ぶのを善意で手伝ってくれただけだ。
 私の次の言葉を待っているらしい五条さんを目の前に、「別に仲が良いわけでは……」と説明しながら、胸、と言うより胃の奥あたりがもやもやする感じに襲われた。別に何も悪いことをしたわけではないのに怒られているようで納得がいかないし、言い訳のようなことしか言えなくなっている自分にも何だか腹が立つ。そして何より、機嫌の悪い五条さんにどうしても困惑を隠せなかった。だって、どうしてこんなにも五条さんが怒っているのか、分からないし。


「やっぱ、いいや」


 そもそも今まで私が誰かと会話していると必ずと言っていいほど割って入ってきたくせに、なぜ今回はそうしなかったのだろう。そんな疑問が浮かんだとき、五条さんはさらりとそう言って私に背を向けた。


「えっ」
「おやすみ」
「えっ!?」


 私の驚いた声に、五条さんは振り返ることもせず窓枠に片足を乗せる。気が付いたときには、そんな五条さんの服の裾を両手で引っ張っていた。
 つい、引き止めてしまった。内心慌てながら目線だけを上に動かすと、下ろしていたアイマスクに指をかけてこちらを見下ろす五条さんと目が合った。彼の瞳に対して抱く感情は先程と変わらない。けれど私は唾をごくりと飲み込んだあと、五条さんの服から手を離すことなく「あの」と切り出した。


「五条さんは、な、何がしたいんですか? というか、私にどうしてほしいんですか」
 

 私の今の立場的にもっと強気に出ていいはずなのに、あまりにも五条さんが冷ややかな目を向けるものだから後半は声が消え入りそうになってしまった。怖気づいていることに感づかれないよう目を逸らすことなく、皺になるかもしれないと思いつつも五条さんの服の裾を強く握りしめる。
 ふと、つい数日前の出来事が頭に浮かんだ。あの日、区役所の帰りに二人で寄り道をして高専まで帰ったことは、私にとって楽しい思い出の一つとなっていた。それなのに、あんなに楽しかったのが全部嘘のようだ。また五条さんとぎくしゃくしてしまうのは、嫌だ。
 ふい、と私から顔を逸らした五条さんが「別に」と小さく呟く。彼は私の手を振り払うことはせず、窓から出て行くことを諦めたのか、再度部屋の方に下りて私に身体を向けた。


「僕はただ、に笑ってほしいだけだよ」
「笑ってほしくてこんなことを……?」


 足元に散らばるガラス片に視線を落とす。怒ることも笑うこともできず感情が迷子になっている私を目の前に、眉間を押さえながら「んー、どう言えばいいかな」と言い淀む五条さんを私はまじまじと見つめた。普段思ったことや言いたいことを憚りなく言ってしまう姿しか知らないせいか、慎重に言葉を選んでいる横顔がなんだか別人のように思える。
 まあ、要するに。一言そう言うと、五条さんは少しだけ柔らかくなった表情を私に向けた。


には僕だけに笑ってほしい、ってこと」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。でも五条さんの口から躊躇いなく吐き出された言葉を理解した瞬間、ぶわっと顔が熱くなるのを感じた。
 この人は、一体どういうつもりでこんなことを言うんだろう。またからかわれる、また『茹でダコ』って言われる。私は咄嗟に顔を伏せ、同時に五条さんの服から手を離した。
 しかし意外なことに、からかわれることも『茹でダコ』と言われることもなく沈黙が流れ、私はおそるおそる顔を上げた。いつになく真剣に私を見つめる五条さんと視線が重なり、思わず一歩後ずさる。履いていたスリッパがガラス片を踏んだ音に自分で驚いたとき、五条さんが私の手首を掴んだ。ぐ、と込められた力に息が止まる。


「あのさ」
「は、はい」
「考えたんだけど」
「おーい、先生たち? 大丈夫?」


 口から心臓が出るかと思った。私のものでも五条さんのものでもない声が聞こえた方、窓の外に慌てて顔を向けると、寮の出入り口前で三階の窓際にいる私たち二人を見上げる虎杖くんと伏黒くんの姿があった。どこか買い物にでも出かけていたのだろうか、ラフな格好の二人の手には白いビニール袋が掲げられている。私が口を開くより先に、五条さんが二人に向かって軽く手をあげた。


「悠仁に恵じゃーん、夜遊びは感心しな」
「すごい音がしたんですけど」


 五条さんの言葉を遮ってそう言った伏黒くんは、ちらりと私を一瞥したあと険しい目つきで五条さんを睨みつけた。あんた、何してんですか。伏黒くんのその言葉に、さっと血の気が引いていく。ひょっとしたら、何か変な勘違いをされているかもしれない。


「伏黒くん、これは、」
「いや~、の部屋にゴキブリが出たみたいでさあ」
「……は?」
「それで驚いたが窓ガラス割っちゃって。さすがの僕もびっくりだよ」
「はあ!?」


 さも当然のようにぺらぺらと嘘を語り出した五条さんに、私は声を上げた。先程までの真剣な表情は気のせいだったのか。そう思ってしまうほどの呆れ顔で肩を竦める五条さんに、私は手首を掴んでいる彼の手を振り払って詰め寄った。


「どうしてそんな嘘つくんですか、五条さんが割ったんでしょう」
「あ、そっかそっか。ゴキブリじゃなくて、昼間に補助監督の男といちゃいちゃした余韻で興奮して割ったんだったね」
「何バカなこと言ってるんですか? 頭おかしいんじゃないですか?」
「誰かさんに比べたら僕はまともな方だと思うけどな~」
「んな、」


 あまりの言いように拳を握りしめたときだった。再び虎杖くんが「先生たち」と呼ぶ声が聞こえ、我に返った私はしまった、と思いながら再度彼らの方へ視線を向けた。そして、気まずそうに笑う虎杖くんと面倒くさそうにため息を吐く伏黒くんの後ろにいた人物の姿に、私はもう一度、しっかりと「しまった」と思った。そばにいる五条さんも気付いたのか、小さく舌を打つ音が聞こえる。


「……そこのバカ二人」


 役職に就くと、自然と現場に出る機会が減る。だから身体が鈍らないよう、空いた時間で身体を鍛えている。いつだったか、私にそう話してくれた学長はまさにその鍛錬の最中だったのか、黒のジャージ姿で虎杖くんと伏黒くんの後ろに禍々しいオーラを放ちながら立っていた。見間違いであってほしい、聞き間違いであってほしい。そう思ったけれど、どれだけ瞬きをしても学長は確かにそこにいるし、彼の言った「バカ二人」には確実に私も含まれている。


「今すぐ降りて来い」

 
 黙りこくった私たち二人に向かって、学長は静かに地面を指差した。


* * *


「学生たちの前で何をやってるんだお前らは」
「申し訳ありません……」


 渋る五条さんを強引に連れて下に降りれば、学長は私たち二人を見るなり指の関節を鳴らしながら地を這うような声でそう言った。サングラスで目が見えないから、というのもあるけれど、さっきの五条さんと同じくらい怖い。
 頭を下げる私に相反して、五条さんは何食わぬ顔で私の隣に立っている。誤解を解くためにも「窓ガラスは……」と口にすれば、学長は呆れたように「そんなことは言わんでも分かる」とため息を零した。


「まったく……悟、なんでこんな夜にの部屋の窓を割ったんだ」
「別に、ちょっと話があったからノックしただけですよ」


 軽く叩いただけで割れる窓の方に問題がある。あっけらかんとそう言ってのける五条さんを私はちらりと盗み見た。


「あのさ」
「は、はい」
「考えたんだけど」



 結局、五条さんは何を言おうとしていたのか。「僕だけに笑ってほしい」という言葉の真意は一体何なのか。五条さんの考えていることが分からないのは、もちろんなのだけれど──。
 言い合いを続ける二人の横で、先程五条さんに掴まれた手首をそっと指でなぞった。強く掴まれたわけではないのに、じんじんと鈍く熱く痛む気がする。けれどそれは不快な痛みではなくて、そのせいで迷子になったままの自分の感情がどこへ辿り着こうとしているのか、さらに分からなくなっている自分がいた。


(2023.04.04)