初めて笑った話
「やっほ~そこのお姉さん、僕とお茶でもしない?」
「何してるんですか……」
今日の予定。まず午前中に、来週分の各案件に関わる申請書を区役所へ提出。午後からは休みを取ったので、昼食後に映画館で最近気になっていた作品を鑑賞する。昨晩決めたそんなスケジュールが、突然現れた五条さんの姿によってガラガラと崩れ落ちる音がした。
ただでさえ白髪・長身で目立つ上に私服でサングラス片手にウインクを決める五条さんは、発言も相まってもはやナンパ師にしか見えない。そしてそんなナンパ師にしか見えない五条さんの声は、吹き抜けとなっている区役所一階フロアによく響き渡った。
自分の番号が呼び出されるのを静かに待つ人々や、窓口に座る職員の女性たちの視線が集まる。そのことに気付いた私は、顔中が熱くなるのを感じながら五条さんの袖を引っ張り目立たない壁際まで誘導した。
「何してるんですか?」
周りを軽く見渡したあと、小声で、それでいて語気を強めてもう一度そう尋ねる。すると五条さんは飄々とした様子で「に用があって」と屈託のない笑顔を見せた。
「私に?」
「約束してたでしょ、からあげ食べに行くって。そしてそのあとたこ焼きとパンケーキ食べて、遊園地のアトラクション全制覇するって」
「後半の約束は身に覚えがないんですけど」
「ついでに婚姻届出してく?」
親指で、矢印とともに『区民課』と書かれた案内板を指す五条さんのいつもと変わらぬ軽口に、私は返事の代わりに大きなため息をついた。
急に訪れた、最近様子がおかしくて困っている相手との二人きりの時間。この状況、どうしたものか。しばらく悩んだ末に私は五条さんの袖から手を離し、彼の背後を指さした。
「ちょっと、お手洗いに行ってきます」
別にお手洗いには行きたくて行くわけではない。飛び込んだ一番奥の個室でスマホのメッセージアプリを開き、伊地知さんの名前をタップする。とにもかくにも、大事なのは伊地知さんへの報・連・相だ。今の状況を簡潔に文章にして、何の迷いもなく送信ボタンを押した。電話した方が確実だろうけど、さすがにこんな場所で通話することは憚られる。すぐに返事が来るだろうか、という私の不安を解消するかのように、持っていたスマホが軽く震えた。さすが、仕事ができる人はレスが早い。
伊地知さんからの返事も、私のメッセージ同様簡潔なものだった。五条さんは夕方から学長および上級術師との会議が入っていること。そのため十六時までに彼を高専まで送り届けてほしいということ。それに加えて私への謝罪と、今日の午後休は別日に振り替えてくださいとも書かれていた。
こうなってしまった以上、面倒だけど、少し気まずいけれど、仕方ない。そう覚悟を決めて外へ出れば、少し離れた場所で壁に寄りかかり私を待つ五条さんの姿が真っ先に目に入った。もし私が五条さんと知り合いでなかったとしても、今と同じようにまず彼のことを見てしまうだろう。それくらい、五条さんの纏う空気は他の人と全然違うように思えた。
出てきた私に気付いた五条さんが、笑顔で右手を上げる。
「伊地知と連絡とれた?」
微笑む五条さんの目の前に立ち、私は一つ息を吐いた。どうやらばれていたらしい。でもそれなら話が早い。
「高専まで送ります、帰りましょう」
「会議は十七時から。五分前に高専についてればオッケーだけど、伊地知のことだから余裕をもって十六時までに連れ帰って来いとか言ってたんじゃない?」
何もかもお見通しだと言わんばかりにそう言った五条さんは、黙っている私の肩に腕を回した。ずっしりと体重をかけられたせいでよろめいた私が「うわ」と声を漏らすと同時に、耳元でちゃり、と金属の擦れる音がする。顔を上げると、目の前には見慣れた車の鍵。
「隙だらけだねえ」
五条さんはそう言うと、私のバッグに入っていたはずの鍵を左右にゆらゆらと揺らした。取り返そうと私が鍵に手を伸ばすと、五条さんはそれを私の手の届かない位置まで持ち上げる。
意地が悪い人。そういう思いを込めて五条さんを見つめれば、彼は愉快そうに笑った。
「高専まで車なら一時間あれば余裕でしょ。三時間は遊べるじゃん」
「三時間でからあげ・たこ焼き・パンケーキを食べて遊園地のアトラクション全制覇は無理だと思います」
「それもそうだね。じゃあパンケーキと遊園地はまた今度にしよう」
てっきりごねると思っていたのであっさり引き下がった五条さんに少し驚いたけれど、ひょっとしたら最初からそのつもりだったのかもしれない、と思った。結果として、また新たな約束を生み出されてしまったし。
五条さんの提案に私はぐっと押し黙る。しかし今のこの状況、どう考えても私が折れるほかはない。不本意ながら「分かりました」と頷けば、五条さんは機嫌よく「じゃあ行こう!」と私の肩を抱いたまま歩き始めた。楽しそうに、ドナドナを歌いながら。売りに出される子牛になった気分だった。
お店については五条さんが事前に下調べしていたらしく、そのおかげでスムーズにからあげとたこ焼きの店二軒をはしごすることができた。五条さんはどこに行っても目立っていて周りから、主に女性からの視線を集めていたけれど、当の本人は気にしていないのか、それとも単純に気付いていないのかいつも通りだった。どこを切り取っても絵になる人。お世辞にもきれいとは言えない店内でたこ焼きを頬張る五条さんを見て、なんとなくそう思った。
* * *
「はさ、仕事慣れた?」
せっかくのデートだし。そう言って後部座席ではなく助手席に座った五条さんを乗せて、車を高専まで走らせる。最近なぜ私が誰かといるときに笑うとおかしな反応をするのか、聞いてみようと思った矢先にそう言われたので、「えっと、はい、多分」と曖昧な返事をしてしまった。
「多分?」
「いや、まだやったことのない仕事も多いので、堂々と慣れたって言いにくくて」
「は真面目だなあ」
「でも皆さん親切にしてくださるので、なんとかやっていけてます」
補助監督の皆さんも呪術師の皆さんも、突然現れた何の能力もない私にとても優しくしてくれている。改めてそのことを思いながら、何気なく「呪術師の皆さんって、すごいですよね」と呟けば、五条さんは「すごい?」と首を傾げた。
高専へ近付くにつれてだんだんと交通量が減っていく。少しずつ、今まで当たり前に享受していた『普通の世界』から『私』が切り離されていくのを感じる。私は話を続けた。
「私みたいな凡人からすると、呪術師を続けているってだけですごいなって思うというか……ほら、続けることも才能でしょ」
以前の職業柄、いろんな子どもたちを見てきたから余計にそう思うのかもしれない。続けることは、意外と難しい。だからこそ、五条さんがずっと呪術師を続けていること自体もある意味一つの才能だと思う。
そう話すと、五条さんは「そんなに褒めるなよ~」とハンドルを握る私の腕を突っついた。顔を見なくても、声の調子だけでどんな顔をしているか分かる。
「呪術師であることが当たり前だったから、そういう考え方もあるのか~って目から鱗だね」
「五条さんの環境を考えると、そうかもしれませんね」
高専までの道中にある最後の踏切に引っかかり、車を停止させる。かんかんかん、と規則正しく鳴る遮断機の音の合間に、「まあ確かに」と五条さんの声が聞こえて私は顔を横に向けた。
「続けられなかったやつもいるしね」
右から左へ流れるように電車が走り去っていく。五条さんの呟きに私は「えっ?」と声を上げた。しかし五条さんは曖昧に笑うだけで、遮断桿が上がったので私は再び車を発進させた。
気のせいか、少しだけ、変な空気になった気がする。僅かな違和感に戸惑いながら、さらに以前車の中で無理矢理キスされたことをこのタイミングで思い出してしまい、自然と自分の左半身に意識が集中してしまう。いやさすがに隣に座っているとはいえ、運転中の人間に手を出してくることはないだろう、多分……。
そんなことを考えていたら急に名前を呼ばれたので、返事をする声が裏返ってしまった。
「と話してると、いろいろ気付かされることが多いんだよね。前もそうだったけど」
「前?」
「豁然開朗だね」
五条さんの言う『前』がいつどのことを言っているのか考えようとしたとき、さらに聞き慣れない言葉が飛び出してきたので私は前を見つめたまま「か、かつ……?」と呟いた。
「目の前が開けるって意味だよ」
「……五条さんの口からそんな難しい言葉が出てくるなんて、すごく意外です」
「はあ~?」
心外だ、とでも言いたげな声を上げた五条さんの手が私の頬に伸びてくる。そしてそのままぐい、と頬を指で抓られ、私は「ちょっと!」と左手で彼の手を払おうとした。が、五条さんはやめるつもりがないのか離そうとしないし、もうすでに山道に差し掛かっていることもあって片手で運転するわけにもいかず、諦めた私は再び両手でハンドルを握った。痛みは感じない。けれどさすがに頬を引っ張られていると喋りづらいし、何より落ち着かない。
「危ないので、やめてください」
「言っておくけど僕結構、っていうかかなり頭いいからね? 呪術師じゃなかったら今頃ノーベル賞とってるから。物理学賞、化学賞、生理学・医学賞の三部門全部とってるから」
「ふ、あはは」
急に話が飛躍したので、私は思わず声を上げて笑った。『頭がいい』と言うわりには出てきた例えが小学生のようで、なんだかおかしかった。
それまでぐいぐいと私の頬を引っ張っていた五条さんの手が、そのまま動かなくなる。急に訪れた沈黙を不思議に思いつつも、ぐねぐねと曲がる山道を登ることだけに集中する。すると黙っていた五条さんは私の頬から手を離すと、ぽつりと小さな声で「車、停めて」と呟いた。ちゃんと聞こえていたけれど、あまりにも急な要望だったので思わず聞き返してしまった。
「え? こ、ここでですか?」
「うん、停めて」
停めてと言ったって。スピードを落としてはみたもののこんな山道で停車できる場所などそうそうなく、ちょっと待ってください、と言いながら三分ほど車を走らせたところでようやく停車することができた。
「まさか気付いてないの?」
停めてすぐ、五条さんの第一声に私はただ首を傾げる。
「何がですか?」
「、僕に笑ってくれたの初めてだよ」
「え? そんなわけないでしょう」
「そんなわけあるんだって」
急に何を言うかと思ったら、と半ば呆れながらもう一度「そんなわけ」と言ったところで、それまで自分の中にあった自信が徐々に小さくなっていくような気がした。五条さんと初めて会った日、高専へ来た日、現場に連れて行ってもらった日。五条さんと過ごした時間を覚えている限り思い返したあと、すっかり小さくなった自信はあっという間に消失してしまった。
確かに、五条さんの言う通りかもしれない。私、五条さんに対して笑ったこと、なかった。
「やっと笑ってもらえたよ」
どこか安心したようにそう言って、少しだけ倒した座席に背中を預ける五条さんをまじまじと見つめる。ひょっとして、五条さんが最近おかしかったのって──。
ぴ、と私の目の前に五条さんが人差し指を立てる。
「ねえ、もう一回笑って」
「『笑って』って言われて笑うって、なかなか難しくないですか?」
そう言いながらも、込み上げてくる笑いをどうしても抑えることができない。そんな私を見て、五条さんも笑った。そうか、五条さんはただ私に笑ってほしかったのか。
「ちょっとさ、もう一か所付き合ってくれない?」
しばらく二人で笑い合ったあとで五条さんがそう言ったので、私は咄嗟に表示されている現在時刻を確認した。十五時三十分。伊地知さんに言われた時間まで、あと三十分しかない。
「でももう時間ないですよ」
「ここからなら近いと思うんだけど、ほら、二人で初めて行った現場」
「初めて行った現場、って……」
そう言われて真っ先に頭に浮かんだのは、無数の目を持つ呪霊。宙に浮いた瓦礫。死への恐怖。慌てふためく私と相反して至極冷静だった五条さん。そして、高速道路沿いにひっそりと佇んでいた、改装中のラブホテル。
「あそこ営業再開したんだよ。今日は宿泊無理だから、とりあえず休憩二時間くらいで」
「高専まで急ぎましょう」
この人は調子に乗らせてはいけない人だった。そのことを思い出し、話を遮ってエンジンをかける私の隣で五条さんがぼそりと「顔が……戻った……」と呟くのが聞こえて、私は不覚にも吹き出してしまった。
心が軽くなっている。今日、区役所で五条さんと会ったときよりも、確実に。無事に十六時までに高専へ到着できそうだから、というのももちろんあるけれど、それだけが原因でないことは分かっていた。
「あの」
「ん?」
「今日、結構楽しかったです」
ありがとうございました。前から目を離さずにそう言うと、少しだけ間を置いて五条さんが「僕も」と言うのが聞こえた。
「じゃあ今度は約束通りパンケーキ食べて遊園地行こう、二泊三日で。ホテル予約しとく。部屋はダブルでいいよね」
「お断りします」
(2023.02.28)