それぞれ悩む話
「ため息なんかついて、どうしたんだ?」
あれは、桔梗だろうか。廊下から見える、よく手入れされた花壇。そこに凛と咲く藤色の花の正体について考え始めたとき、後ろからそう声をかけられて振り返った。私よりずっと大きくて可愛らしい彼の「ため息なんかついて」という言葉を頭の中で反芻したあと、「私、ため息ついてた?」と聞けば、彼は白く柔らかそうな身体を揺すって「自覚なしかよ」と笑った。
初めて会ったときはもちろん、その後もしばらくは『人の言葉を話し学生生活を送るパンダの男の子』に違和感しか抱かなかった。しかし人というのは単純なもので、時間が経てば案外どんなことでも受け入れることができるようだ。そして受け入れてしまった今、私にとって彼──パンダくんは、他の人には相談できないことを話すことができる唯一無二の存在になっている。
「五条さんが、最近変なんだよね」
私の隣に並び、私と同じように開いた窓から外を眺めるパンタくんにそう言うと、彼は「恋バナか?」と目を輝かせた。高専にいる人たちの中で、パンダくんが一番そういった話題に敏感な気がする。残念ながら、彼の期待に応えることはできないけれど。
目線だけを動かしてパンダくんを見上げる。彼は私と目が合うと、「冗談は置いておいて」と口に手を当てて咳払いをした。
「悟が変じゃないときなんてあるか?」
「それは、そうなんだけど」
いつにも増しておかしいのだ。そう伝えてはみたものの、パンダくんはいまいちピンとこないのか、腕を組んで「ううん」と唸った。やっぱり伝わらないか、と肩を落とすと同時に、伝わらなくて当然かもしれない、と納得もした。五条さんが変なのは恐らく私にだけ、と言うより、私が笑ったときだけなのだ。
花壇に咲く花へ意識を向ける前にずっと考えていた、最近の五条さんについて再び思考を巡らせる。伊地知さんや家入さんをはじめとする高専で働く人たちや、虎杖くんや伏黒くん、パンダくんたち学生。最近になって、彼、彼女らと私が何かしら会話をしているときに高確率で割って入ってくるようになった五条さんは、話に入ってくるだけでなく必ず何かを確かめるかのように私の顔を覗き込んでくるのだ。長身を屈めて、ずいっと、すごい勢いで。そしてその際に私が少しでも笑っていようものならば、真顔でこう言うのだった。
『笑ってるじゃん』
「そりゃあ笑うよ、人間だもん……」
「お、どうした急に」
項垂れる私の顔をパンダくんが覗き込む。そんな彼のつぶらな瞳と見つめ合った。今、私に対してパンダくんは五条さんと同じことをしているのに、どうしてこうも違うのだろう。
私の笑った顔、そんなにおかしいだろうか。ふとそう考えたけれど、さすがにそれをパンダくんに尋ねることはできず私は何でもない、と首を横に振った。
いつものように、五条さんは私の反応を面白がっているだけ。そしてパンダくんの言う通り、五条さんが変なのはいつものこと。何か引っかかるものを感じてはいるものの、自分にそう言い聞かせてそろそろ仕事に戻ろうと思ったとき。パンダくんからしみじみと「は、あれなんだな」と言われ顔を上げた。学生から下の名前で呼ばれることには些か抵抗があるものの、パンダくんだからよしとしている。
「悟のことが気になるんだな」
何を言われるのかと少し身構えていた私は、パンダくんの言葉に身体の力が抜けていくのを感じた。
「いや、別に変な意味はないよ? ただ、一応私を……助けてくれた人だから、様子がおかしいとちょっと気になるというか」
「そうか~? こんなところで悟のことを想ってため息ついてるなんて、ねえ?」
「……にやにやするのやめて」
「分かった分かった」
どうしても『恋愛』に結びつけたいらしく、分かったと言いつつ笑みをまったく隠せていない彼に念を押すように「パンダくんが想像しているようなことは何もないから」と言い背中を軽く叩いた。
別に、五条さんに限った話ではない。手のひらに触れる柔らかな毛並み。その温かさを感じながら、私は再び窓の外へ視線を向けた。
パンダくんの言葉を借りて言うならば、『誰かのことを想ってため息をつく』ことに辟易としている自分がいる。そんな自分に気付いてしまうあたり、まだ心の傷は癒えていないのかもしれない。
「恋愛とかさ、しばらくはないよ、私」
誰かを好きになって、好きになってもらって、信じて、信じてもらって、だからこそ傷つくこともあって。そういう機微のようなものに振り回されたり、心を消耗させるのはもううんざりだった。正直言うと、しばらくはないと言いつつ一生なくていいとさえ思っている。さすがにそれは周りからすると痛々しく見えるだろうから、口には出さないけれど。
パンダくんの背中から手を離せずにいたら、彼は静かに「そうか」と呟いた。
「……でも『しばらくはいいかな』ってなかなかのフラグっていうか、そういうときに限って大恋愛しちゃったり、」
「もう分かったから、この話はおしまいね」
「ちぇっ」
彼と話していると、毎回思う。パンダくんってパンダじゃないみたい。可愛らしく口を尖らせる姿に、思わず笑みが零れる。
「ねえ、ちょっと抱きついてもいい?」
「俺は抱き枕じゃないんだけどな」
暫し沈黙が流れたあとの私の急な申し出に、パンダくんは呆れたようにそう言いつつ何の躊躇いもなく私の方を向いて両手を広げた。その身体に飛び込む直前、ふと気になって「これ、セクハラかな」と尋ねれば、彼は首を傾げて「でも俺、パンダだから」と答えとは言えない答えを返してくれた。
コユキ。昔、実家でそんな名前の白猫を飼っていた。パンダくんの白くふわふわとした身体は、温かさや感触、においがコユキと似ていて、なんだか懐かしくてほっとする。大きく息を吸ったあと、私は彼に抱きついたまま顔を上げて笑った。
直後、そんな私の癒しの時間はすぐ終わりを迎える。花壇のある広場を挟んで反対側にある校舎の窓が、大きな音を立てて開いた。そしてそこから身を乗り出し叫ぶ人物の姿に、パンダくんは私を見下ろして自信たっぷりにこう言ったのだった。
「ほらな、変なのはいつものことだ」
* * *
「全然笑わないんだけど」
「……誰が」
「が」
ノックもせず顔を出した僕に向かって眉を顰めた硝子が口を開く前にそう言えば、彼女は「ああ」と小さく呟いて手元の書類へと視線を落とした。
「昨日、お前が帳を下ろし忘れたときの話したら爆笑してたけど」
「そういうんじゃなくて」
独特なにおいが漂う医務室をまっすぐ進み、窓際に置かれていた椅子に腰を下ろす。心地よい陽が当たるこの場所からは、棘のまめな水やりのおかげかきれいな花を咲かせた花壇がよく見える。そしてそのさらに奥の校舎には、窓際で会話を交わすとパンダの姿があった。
影が差していて、今がどんな顔をしているのかは分からない。二人から視線を逸らし、仕事に精を出す硝子へ身体を向ける。
「ってか僕の知らないところで僕の些細なミスをネタにするのやめてよ、悪趣味~」
「あれを些細と言えるお前の頭を開いてみたいもんだな」
「どうせさ? 飲み会でも僕のことネタにして笑ってんでしょ? 知ってるよ、伊地知たちとよく飲みに行ってんの」
なんでか僕は誘われたことないけど。なんでか、の部分を強調して言うと、硝子はこちらをちらりと一瞥し、「するわけないだろ、私たちの高尚な集まりでそんな下世話な話」と鼻で笑った。僕が誘われたことない点については見事にスルーされたけれど、まあそれはこの際いいだろう。とパンダは、まだ何やら話し込んでいる。
伊地知には笑う。硝子にも笑う。七海にも悠仁にも恵にも、学長にも笑う。恐らく今はパンダに対しても笑っているだろう。でも僕には笑ってくれない。僕にだけ、笑ってくれない。
最近暑くなってきたからだろうか、が珍しく普段下ろしている髪を高い位置で一つ結びにしていたことがあった。それが新鮮で可愛かったから、わざわざ呼び止めて「可愛い。一昔前の女子高生みたい」と褒めたのに、は笑って喜ぶどころか「まあ一昔前は女子高生でしたから……」と複雑そうな顔を浮かべ、逃げるように去っていった。
そのときは「?」だったけれど、よくよく考えてみればそれよりずっと前、お団子ヘアにしていた野薔薇に「お団子可愛いじゃん。なんかおいしそう」と声をかけたときも、彼女は「は?」と顔を歪めただけだった。最近の女の子は髪型を可愛いと言われても嬉しくないのだろうか。
あれからも野薔薇も、髪を結んでいる姿を見たことがない。
「お前が色恋で悩む日が来るとはな」
いつの間にか僕の隣に立っていた硝子がそう言って笑う。彼女の言うイロコイが一瞬何か分からなかったが、すぐに色恋であることを理解した僕はひらひらと手を振った。
「ないない、そういうんじゃないって。この僕が恋愛なんてすると思う?」
そもそもそんな暇ないし、と付け加えると、硝子はすべてを分かっているような顔で「ふうん」と言うだけだった。そのあと何か言われるかと思ったけれど、彼女はそれ以上何も言わなかった。
僕が恋愛なんかにうつつを抜かすようになったら、世の中終わりでしょ。そう独り言ちながら、僕を見下ろす硝子から視線を外し、再び二人のいる場所へ目を向ける。先程まで影が差していた場所に、陽が当たっている。
『自分には見せてくれない顔を他人に見せていたとき、苦しいですね』
いつだったか、に人を好きになるとはどういうことかと質問を投げたとき、少し悩んだからはそんな答えが返ってきた。そしてそんな答えを出した彼女は今、パンダを抱き締め僕には見せてくれない表情を浮かべている。
立ち上がり窓を開け、叫んだ。
「こら! セクハラー!!」
こちらを見つめると視線が重なった。先程までの表情とは打って変わって、驚いたように目を見開いている。
昔から自分の気持ちには正直に生きてきた方だと思う。大人になって、自分の気持ちだけでなく多少は他人の気持ちとやらを理解し、配慮できるようになったとも思う。けれど僕は今、自分が苦しいのかどうか、そんな単純な自分の気持ちが分からない。
苛立った様子で「うるさい」と呟いた硝子が拳で僕の頭を叩いた。大して力のこもってない彼女のパンチはあっさりと僕の視界を揺らす。パンダが何かをに呟いたように見えたが、その後がどんな顔をしたかまでは見えなかった。
(2023.02.28)