好きとは何か考える話



「七海さんって私と同い年なんですね」


 伊地知さんから聞きました。そう付け加えると、私の隣に立つ七海さんの目元がぴく、と小さく動いたので私は心の中で呟いた。しまった、と。
 七海さんとは今日が初対面だ。今朝、送迎に向かう伊地知さんが「これいただいたのでよかったら食べてください」と言ってくれた萩の月の袋を開けたときに現れた七海さんは、私が挨拶するよりも先に合点がいったような様子で「ああ、貴方が」と言った。その言葉が何を意味しているかは考えなくても分かる。
 その後互いに軽く自己紹介はしたものの、いくら七海さんが私のことを知っていたとは言えいきなり年齢の話だなんてさすがに馴れ馴れしかっただろうか。
 七海さんがこちらに差し出していた出張旅費精算書を慌てて受け取った私は、すみませんと頭を下げた。


「いきなり年齢の話だなんて、失礼ですよね」
「別に私は女性ではないので特に何も思いませんが」
「そうだよ、七海は何とも思ってないから謝る必要なんかないって~」


 私のものでも七海さんのものでもない、場の雰囲気に似合わぬ底抜けに明るい声。私と七海さん二人の視線が、その声の主でもあり私の正面の席に座る五条さんへと向けられる。いつも伊地知さんが不在のときに我が物顔で彼の席を陣取る五条さんは、私がまだ一つも食べていない萩の月をもう二つも平らげていた。
 五条さんの発言にしん、と静まり返った部屋。しかしすぐに七海さんの口から盛大なため息が吐き出された。


「こんなところで油を売る暇があるようで羨ましい限りですね」
「こっちは昨日まで出張で夜にはまた任務なんだからさ、ちょっとくらいサボらせてよ」
「サボるだけならまだしも、さんのお仕事の邪魔をしているのでは?」
「そんなわけないじゃん、ねえ?」


 七海さんのおっしゃる通り、出張先のホテルの朝食の話とか最近見つけたおしゃれなケーキ屋の話とかそのケーキ屋の近くに住み着いている猫の話とか、そういう仕事に関係ない話をずっと聞かされているせいで業務に集中できません。と言うと余計に面倒なことになりそうなので、五条さんの言葉には反応せずに七海さんから渡された書類を一枚一枚確認していく。
 七海さんの提出する書類は、紙であろうとデータであろうと不備があることはまずない。きっちり抜けのない書類の束を机の上で揃えながら、七海さんに「問題ないです」と一言告げた。
 そういえば。五条さんが七海さんに菓子を勧める様子を眺めながら、ふとあることに気が付いた。五条さんは私たちの一つ上だから。


「お二人は高専時代からのお付き合いなんですか?」


 そう尋ねると、五条さんはにっと笑ってピースサインを作った。七海さんは、少しだけ不愉快そうだ。


「そうそう、超~~~仲良し」
「仲良くはありません」
「照れるなよ、こっちに戻るって決めたとき一番に僕に電話してきたくせに」


 ばしばしと遠慮なく七海さんの腕を叩く五条さんは楽しそうで、七海さんの眉間には深い皺が刻まれていく。仲が良いか良くないかは別として、いつ誰がいなくなってしまうか分からないような世界で昔からの知り合いがそばにいるというのは、心強い部分もあるだろうな。地元の銘菓を目の前にしてそのことを少しだけ羨ましく感じたとき、私の何気ない質問と似たような質問が今度は七海さんから飛んできた。「お二人は元々どういうご関係ですか」と、大して興味はないが一応聞いてみたというような、そんな口ぶりだった。書類をクリアファイルに仕分けしていた私の手が止まる。
 まず返事に困った。そして次に困っていることを悟られると変に怪しまれる、と思い焦った。頭の中でいろんな引き出しを開けながら、「五条さんとは」とどう答えるか決められていないまま彼の名前を口にする。


「どういう関係に見える?」


 虎杖くん経由で、と、いつだったか伊地知さんに聞かれたときと同じ答えを口にしようとしたとき、五条さんがそう言ったので私は正面に目を向けた。珍しくすっきりと整理されている伊地知さんの机。いつも山のように積み上げられているファイルがないため、背伸びをしなくても十分五条さんの顔が見えた。
 誤解を招きかねない五条さんの返答を私が正す前に、とん、とつま先に何かが当たる。特に何も考えず足元に視線を下ろすと、正面に座る五条さんの靴の先が見えた。長い足で、私の足を蹴ったのだ。
 『余計なことを言うな』という牽制だろうか。そう考えながら五条さんへ視線を戻すと、彼は机に頬杖をついたまま七海さんを見上げて笑っている。とりあえず黙ったまま様子を伺っていたら、、と私の名前を呼んだ五条さんはもう一度私のつま先を蹴った。
 

「教えてあげなよ、七海に」


 当たり前だが、今机の下で起きていることは七海さんからは見えていない。咎めるように目を細め五条さんを真っすぐ見つめる。面白がっている。いつもみたいに。


「言わなくて結構です」


 私の答えを待たずして七海さんはそう言うと、右手で眼鏡を押し上げた。微妙な空気が漂っている今も、五条さんは「気になるくせに」と言いながら私のつま先を蹴り続けている。五条さんの言葉を無視した七海さんが「私はこれで」と立ち去ろうとしたので、私は慌てて立ち上がった。


「お疲れ様です、書類ありがとうございました」
「いえ。さん、今後ともよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします。やっと七海さんにお会いできて嬉しかったです」


 そう言って七海さんへ笑いかけたとき、「ふうん」という五条さんの声が聞こえた。視界の隅にいた五条さんがどんな表情をしているかまでは分からなかった。


* * *


「笑うんじゃん」


 七海さんが部屋を出て行ってしばらくした後、お茶でも淹れなおそうかと立ち上がったときだった。そんな言葉が聞こえてきて、私は椅子の前に立ったまま頭の中で五条さんの言葉を繰り返した。笑うんじゃん、って──。


「笑いますけど?」
「ふーん」
「え? ……え!? 萩の月全部食べたんですか?」
「だって五個しかなかったし」


 伊地知さんの机に置かれていた箱に入っていたはずの萩の月全部がなくなっており、代わりに空になった袋が転がっていたのでぎょっとした。私の机にあるすでに開封済みの萩の月を眺めながら、一つも残せなかったことに対し伊地知さんへの申し訳なさが湧き上がってくる。
 さすがに食べ過ぎですよ、と言おうとしたが、私はその言葉をぐっと喉の奥に押し込んだ。先程七海さんがいたときまでは機嫌良さげだった五条さんの表情に陰りが見られたからだ。
 何を考えているのか、やっぱりいまいち分からないな。先日プレゼントと称して贈られた家具のこと、そしてすっかり変わった部屋を見て「うわ、あいつヤバ」と顔を引き攣らせた家入さんのことを思い返しながら、部屋の隅に置かれている電気ポットのお湯を空の湯呑みに注ぐ。そのお湯を急須に入れ、無表情でスマホを弄る五条さんの隣に立った。


「お茶、いります?」
「ねえ、僕らってどういう関係?」


 お茶のおかわりに対する返事はなかったが、私は少し迷って五条さんの湯呑みにお茶を注いだ。澄んだ緑色が湯呑みを満たしたところで、私は再び電気ポットの前に戻り先程と同じ手順を繰り返した。
 席に戻り、パソコンのメールを開く。届いていた報告書のデータを保存しながら、私は軽く咳払いした。


「上司と部下、ですかね」
「一回寝たのに?」
「……じゃあ、その、セフレみたいな感じですかね」
「一回しか寝てないのに?」
「じゃあ一回寝たけどその後は特に何かあるわけでもなかった上司と部下ですね」


 半ば投げやりにそう答えれば、納得がいかないのか五条さんは腑に落ちない様子で唇を尖らせ、何かを考えこんでいる。ふざけて聞いているのかと思ったけれど、意外にもそうではないらしい。


「そもそも、関係に名前をつける必要もないと思います」
 

 私は私、五条さんは五条さん。今、同じ職場で働いている。それだけです。きっぱりとそう言うと、それまでスマホに視線を落としていた五条さんは顔を上げて「へえ」と短く呟いた。そしてすぐに、「変わってるね」とも言った。パソコンの向こう側にいる五条さんと、アイマスク越しに見つめ合う。


「変わってる?」
「女性の方が、どういう関係かはっきりさせたがるものだと思ってたから」


 なんだか、らしくないな。真剣に話す五条さんの姿にそう思った。どういう関係かを今さら気にするだなんて、全然五条さんらしくない。さっき七海さんがいたときみたいに笑ってくれていれば、ここまで気にすることもないのかもしれないけれど。
 にこりとも笑わなくなってしまった五条さんから目を逸らし、画面右下に小さく表示されている時刻を確認する。あと三十分もすればお昼だ。追加でメールが届いていないことを確認しながら「お昼、どうされますか?」と声をかけた。実際に五条さんが昼食をどうするつもりなのか気になったし、何よりこの話を終わらせたかった。


「外で食べられるなら車出しますよ」
は?」
「私は、今日は寮の昼食を頼んでいないので適当にコンビニ行って買ってこようかと」
「んじゃ僕もそうする」


 ええ……。私より先に立ち上がり、その場で背伸びする五条さんを見上げながら内心がっかりしている自分がいた。お昼ご飯を食べながら少しでも仕事を進められたら、と思ったけれど、それも難しそうだ。
 すっからかんになった萩の月の箱やごみを片付ける五条さんの後ろ姿に向かってばれないようにため息をつき、私もパソコンを閉じて立ち上がる。引き出しの中から財布を取り出し、スマホと一緒に持って壁にかけてあるキーボックスを開け、自由に使ってくださいと言われている車のキーを手にしたとき、耳元で「ねえ」と声をかけられびくりと肩が震えた。振り返るとすぐそばに五条さんが立っていて、驚きのあまり後頭部をキーボックスの角に打ち付けたせいで口から変な声が漏れ出る。


「もう一個聞きたいんだけど」
「な、なんでしょう」


 五条さんから伸ばされた手が、私を通り越して壁の電気スイッチに触れパチン、という音が鳴った。この部屋に限らず、山の中にある校舎は電気をつけていないと昼間であることを忘れてしまう部屋が多い。そんな薄暗くなった部屋でやっぱり笑わない五条さんに少しだけ恐怖を覚えたとき、彼の口から思いがけない質問が飛び出した。


「人を好きになるって、どういうこと? どんな気持ち?」
「え?」


 きちんと聞こえていたけれど思わず聞き返してしまうほどの予想外な質問に、私はただぱちぱちと瞬きを繰り返した。しばらくしてそれは恋愛的な意味の『好き』ですか、と聞けば、五条さんは軽い調子でそうそう、と頷いた。


「いやね、友人に聞かれてさ、の意見を聞きたくて」


 こういうときに出てくる『友人』は大体架空の人物であることがほとんどだけれど、五条さんがそういうことに疑問を抱くというのもいまいちピンと来ないし、本当にご友人から相談されたのだろう。
 一度は結婚をしようと思った相手がいた私が言うのもなんだが、愛だの恋だのは定義が難しく私自身よく分かっていない。しかしこのままよく分かりませんと答えたところで五条さんは納得しないだろうから、過去に思いを馳せて自分の思う答えを考えてみる。


「人を好きになるって幸せなことだと思います……けど、苦しいときもありますね」
「苦しいときって、例えば?」
「んー、相手が今何をしていて何を考えているのか、気にしすぎちゃったり」


 冷静に考えて薄暗い部屋で二十代後半の男女が恋愛について議論を交わすって、ちょっと恥ずかしいな。テーマがテーマなだけに。でも意見を言っているのは私だけなので、恥ずかしいのは私だけかもしれない。


「あと、自分には見せてくれない顔を他人に見せていたとき、苦しいですね」
「あー、へえ、ふーん」


 興味のない話への相槌三選を並べられて些かむっとしたものの、本人はなるほどなるほど、と真剣な面持ちでぶつぶつ呟いていたので、興味がないと言うより私の答えを理解するために頭を回転させていて返事が適当になっているだけのように見えた。五条さんの求める答えを出せただろうか。
 外から学生たちのものらしい笑い声が聞こえてはっとする。元からおかしい五条さんの距離感に麻痺しつつある自分に喝を入れ、「そろそろ行きましょうか」と声をかけて車のキーを握り締めたときだった。私と五条さんのすぐ隣にあった扉ががらりと開かれ、再び七海さんが姿を現した。
 まさか入口のすぐそばに私たちがいるとは思わなかったのか、五条さんが私を挟んで壁(正確には部屋の電気スイッチ)に手を置いている姿勢に驚いたのか、七海さんの細い目が一瞬だけ見開かれる。咄嗟に私の口から出た「お疲れ様です」という挨拶は、最初からきれいに裏返ってしまった。


「コピー機を借りに来たのですが、後にします」
「いや、今で、今で大丈夫です」
「急ぎではありませんので」


 踵を返す七海さんの袖を掴もうとしたけれど、いやそこまで親しくないなと思うと身体に触れることができず、おろおろと手を動かすことしか出来ない私。そして何を思ったのか誰に向かって言っているのか、「いや~、僕との関係がバレちゃったな~!」と大きすぎる独り言を言ってのける五条さん。そのどちらに反応することもなく、七海さんは廊下の先を曲がって姿を消した。


「ちょっと!?」
「あはは」


 七海さんの姿が見えなくなってすぐに五条さんの肩を両手で強く叩けば、五条さんは特に痛がる様子もなく、ただただ愉快そうにけらけらと笑った。
 ああもう、と呟いて頭を抱える。そんな私を見て五条さんは相変わらず笑ったまま「なんかよく分かんないね」と言った。五条さんのその言葉の意味が『なんかよく分かんない』と思ったけれど、あまり深く考えることはしなかった。
 今の出来事で七海さんは勘違いをしてしまったかもしれない。そんな焦りが芽生えたのは確かだけれど、実を言うと目の前にいる五条さんがようやく笑ってくれたことに心から安心している自分がいて、彼を強く咎めることは出来なかったのだった。


(2023.01.25)