小話その1(伊地知の憂鬱)
「あ、そうだ。伊地知さあ」
五条さんがそう切り出すときは、大抵ろくな話じゃない。あれ食べたいから買ってきてとか、今日中にクリーニング取ってきてとかそんな些細な雑用ならまだいいのだが、わりと偉い方々との会食に直前になって行く気がなくなったからキャンセルしておいてとか、自分が行くはずの任務を気まぐれで学生たちに『勉強』という名目で担当させたりとか、何かしらこちらのイレギュラーな対応が必要になる話をされることが多いからだ。
だから五条さんに「あ、そうだ。伊地知さあ」と話しかけられたときは、例えどんなときと場所であろうと全身に緊張が走る。ああ、今回は一体何を言われるんだろう。頼むから軽い雑用であってほしい……と、いつも心の中で手を合わせながらある程度覚悟を決めて返事をするようにしている、のだが。
「見たでしょ、さっき」
あのときばかりはこう思った。憤るお偉いさんたちに頭を下げ続ける方がずっとましだ、と。
* * *
暖簾をくぐると、あまり愛想の良くない店員が間延びした声でお決まりの挨拶を口にする。それと同時に、もはや定位置となりつつある奥の座敷から顔を出した家入さんが、入口に立っている私を見つけてちょいちょい、と手招きした。
さほど広くない店内はいろんな匂いと音が混ざり合っていて、一歩足を踏み入れただけで異世界に迷い込んだ気分になる。少しだけ油っぽく滑りやすい床を慎重に歩き辿りついた座敷には、家入さんと新田さん二人の姿しかなかった。半年ぶりの集まりが予想に反して寂しいことに驚く私を見て察したのか、グラスを片手に持った家入さんが「七海は遅刻、は誘ったけど荷物が届くからって断られた、他は知らん」と教えてくれた。なるほど、と頷きながらテーブルに突っ伏している新田さんの隣に腰を下ろす。一体何時から飲んでいたのだろう。
「とりあえずビールでいいだろ、適当につまみ頼みな」
「あ、すみません……できればお茶で」
「っていうかあ!」
てっきり寝ていると思った新田さんが急に身体を起こし声を上げたので、家入さんから手渡されたメニュー表が畳の上に落ちる。しかし驚いたのは自分だけで、家入さんは特に反応を見せることなく先程の無表情な店員を呼び寄せている。
メニュー表を拾いながら「大丈夫ですか」と新田さんに声をかけると、彼女は頭をふらふら揺らしてジョッキを掴み、残っていたビールを一気に飲み干した。
「伊地知さんは、知ってるんスかあ?」
「知ってる……? 何をでしょう」
「五条さんとさんのことっスよ!」
二人の名前を耳にした瞬間、あの日、あのときの五条さんの笑顔が頭に浮かぶ。いや、浮かぶというよりすでに頭にこびりついて離れなくなっているそれは、蛇のようにぎゅうぎゅうと私の心臓を強く締め付けた。
目の前に烏龍茶が置かれ、正面に座る家入さんが「はい乾杯」と雑にグラスを合わせる。やっぱ付き合ってるんスかね。そういう関係じゃないだろ。でも怪しいっスよ。女性二人のそんな会話を聞きながら、冷えた烏龍茶を口に含む。きん、とこめかみが痛んだ。
一般人だけど一応見える側だから。五条さんにそう紹介されたのがさんだった。いくら見えるとは言え、窓ならまだしも多くの呪術師の拠点ともなっている高専で働かせるのはいかがなものか。最初はそう思っていたけれど、あの五条さんが連れてきたわりにさんは常識人で、真面目だし仕事を覚えるのも早かった。最初は私以上に渋っていた学長も、今ではご指名で彼女に仕事を振るほどだ。おかげで常日頃から悩みのタネとなっていた胃痛も幾分かマシになった、と思う。その点は五条さんに感謝しなければならないだろう。
いらっしゃいませ、と抑揚のない声が聞こえる。と同時に、家入さんがグラスを置いた。
「まあ五条は好きなんじゃないの、のこと。バカだからちゃんと気付いてなさそうだけど」
その言葉に真っ先に反応を見せると思った新田さんが静かだったので隣を見れば、もう限界だったのかこくりこくりと船を漕ぎ始めていた。家入さんの言葉がひとり言にならないよう、「そう、なんですかね」と曖昧に返事をする。家入さんは私を一瞥すると、もう一度「あいつはバカだよ」と呟いた。
家入さんの言う通り、五条さんはさんのことが好きなのだろうか。『まさかあの五条さんが』と思う気持ちもあるが、五条さんのあのときの言葉はそんな感情から生まれたものだったのだろうか。
黙考する私に向かって、家入さんはため息を零した。
「まあだからといって、所詮他人である私たちができることなんて何もないけど」
「何の話ですか」
す、と静かに現れた人物に私と家入さんはほぼ同時に視線を向ける。そこに立っていたのはスーツの上着を片手にネクタイを緩める七海さんだった。
空いていた家入さんの隣に座る七海さんに向かって「お疲れ様です」と言う私の声と、七海さんを上から下まで眺めた家入さんの「あれ?」という声が重なる。
「今日、猪野は?」
「猪野くんは京都校の応援で神戸に行ってます」
「いいな神戸、灘の酒うまいんだよな」
どこかうっとりとした様子でそう呟いた家入さんだったが、すぐに「七海はマッコリでいいだろ」と言うと返事も聞かずに手を挙げてしまった。しかし異論はないのか、七海さんは私の持つジョッキを見て「伊地知くん、お茶ですか」と僅かに眉間に皺を寄せた。
「明日、早朝から送迎が入ってまして」
「……元々、伊地知くんをねぎらうために始まった会では?」
七海さんの言う通り、私の労をねぎらうという名目で家入さんが主体となって始まった会だったが、今や開催は不定期でただ飲みたい人だけが集まる会になりつつある(そもそも家入さんは最初からそれが目的だったようだが)。メンバーは主にこの四人+猪野さんで、あとは時間が合う補助監督や呪術師が参加したりと自由な感じだ。ちなみに五条さんは一度も参加したことがない。昔それとなく家入さんに聞いてみたら、けろっとした顔で「呼んでないけど?」と言われてしまったので、敢えてこちらから五条さんに声をかけることもなかった。
七海さんの指摘を笑ってごまかせば、家入さんは含み笑いして「そんなことより」と運ばれてきたマッコリを七海さんの前に置いた。
「五条の片思い、ってワードだけで酒が進むよな」
「あの人、呑気に片思いなんてしてるんですか?」
二人の辛辣とも言える言葉に乾いた笑いを返したものの、内心では少し焦っていた。なんとかして話題を変えたい。しかしいくら考えてもいい案はまったく出てこず、ただただ烏龍茶が減っていくばかりだ。ちらりと隣に視線を投げると、新田さんはもう深い眠りに落ちているようだった。
私の焦りをよそに、話題は変わらず五条さんとさんのことだ。
「はどっちかって言うと、五条より七海みたいなやつの方が好きそうだしな」
楽しそうにそう話す家入さんに、七海さんは少し間を置いたあと「ああ、噂の」と呟いてマッコリに口をつけた。
さんのことだから、自分が噂になっていることをあまり良く思わないだろうな。そう考えると少しだけ胸が痛む。でも確かに家入さんの言う通り、さんと五条さんより、さんと七海さんの組み合わせの方がしっくりくるような気がしないでもない。
「七海さ、ちょっと引っ掻き回してくんない? 二人のこと」
「ちょ、ついさっき、他人である私たちができることなんて何もないって言ってたじゃないですか」
慌ててそう言えば、家入さんは少し酔っているのか「おもしろそうじゃん」と無邪気に笑った。それだけでなく、あいつの中途半端なところが腹立つし、とよく分からないことを零す家入さんの隣で七海さんが冷静に「嫌です」と一蹴する。そんな七海さんのぶれない姿に胸を撫で下ろした。
むやみにあの二人の間に入るべきではないのだ。誰であろうと。
* * *
「あ、そうだ。伊地知さあ」
あの日、初めて会ったさんを高専まで送り届けたあとのこと。学長室へ向かう途中で御手洗に立ち寄った彼女を待っている間、いつものようにそう切り出された。
ああ、今日は何だろう。五条さんのいつもの声かけに一息ついて返事をする。すると五条さんは壁に寄りかかったまま、微かに笑みを浮かべた表情で囁くように言った。「見たでしょ、さっき」と。
「え……」
その言葉の意味を理解できなかったのは一瞬だけだった。すぐに五条さんが何のことを言っているのか気付き、ぶわ、と一気に全身から汗が吹き出すのを感じた。五条さんは笑っているけれど、楽しくて笑っているようには見えない。かと言って怒っている様子でもない。だからこそ余計に怖かった。
目の前が少しずつ遠のいていく気がする。油断すると気を失ってしまいそうだ。無意識のうちに片手に持っていた書類やタブレットを胸に抱き締めていた。
見たでしょ、と言われると、確かに見た。ただ、見たと言うより視界に入ってしまった、という表現の方が正しい。高専までの道中、電話をかけるために立ち寄ったコンビニの駐車場。車内で口付けを交わす二人の姿が頭に浮かび、目眩がした。あのときすぐに背を向けたので気付かれていないと思ったが、それは甘かったようだ。
「す、みません、見るつもりは……!」
「別にいいけど。ただ──」
* * *
「──知、伊地知」
名前を呼ばれて我に返る。顔を上げると頬杖をついた家入さんが私を指差し「ぼうっとして、何考えてんの?」と首を傾げた。心を落ち着かせるためにおしぼりでジョッキに付着した水滴を拭いながら、すみませんと頭を下げる。
「少し、その、五条さんのことを……」
嘘はついていない。険しい表情の七海さんが盛大にため息をついた。
「伊地知くん、この面子に囲まれている君にこんなことを言うのは無理がありますが、今くらい仕事のことは忘れてください」
「そうだぞ伊地知。とりあえず、今度七海には五条の目の前でを食事に誘ってもらって」
「嫌です」
私にとって、五条さんの言うことは『絶対』だ。あのとき、確かに怒ってはいなかった五条さんだったけれど、最後に少しだけ殺気立った様子でこう言ったのだ。
『ただ──僕、干渉されるの嫌いだから。言ってる意味、分かるよね?』
飲み干した烏龍茶のジョッキをテーブルに置くと、思ったより大きな音を立ててしまい家入さんと七海さんは会話を止めて私に視線を向けた。眠っていた新田さんも少しだけびくりと肩を震わせ、半分も開いていない目で辺りを見渡している。
「お、お二人のことは温かく見守りましょう!」
五条さんのあの言葉の意味。私に対して『干渉するな』、そして『私以外の人間にも干渉させるな』だ。
ありがとうございました、という淡々とした声と店の戸が開いて閉まる音が聞こえ、客が一組帰ったのか賑やかだった店内が静まり返る。自分に視線が集中していることが恥ずかしく「お互い大人ですから」と付け加えれば、七海さんが「そうしましょう」と静かに同意してくれた。いや同意というよりも、七海さん本人はただ何もしたくないだけだと思うが。
五条さんとさんが一体どんな関係なのか、本当のことは分からない。とにもかくにも、触らぬ神に祟りなし。これに尽きるのだ。
「伊地知……お前は本当に五条の母だな」
呆れたように、それでいて少しだけ面白おかしくそう言った家入さんの言葉に、『もし自分が五条さんの母親だったら』とありもしないことを考える。店員の女性からラストオーダーの時間であることを告げられると、それまでの会話などなかったかのように皆メニュー表に目を通し始めた。
私が五条さんの母親ならきっとこう言うだろう。もっと女性には優しくしなさいと。そしてできれば男性にも優しくしなさいと。堂々と、厳しく、そしてはっきりと──。
「無理だな」
「無理ですね」
どうやら声に出てしまっていたらしい。そう声を揃えた家入さんと七海さんを目の前に、私は静かに肩を落としたのだった。
(2023.01.15)