無自覚な話



「好きなの?」
「は?」
「好きなんじゃないの?」


 久しぶりの授業を終えて医務室のベッドにうつ伏せで寝そべっていた僕は、持っていたスマホから顔を上げて硝子へ視線を向けた。昨日は久しぶりに家で寝ることができたと話していた彼女の顔は、確かにいつもよりも清々しいように見える。
 硝子は椅子に腰かけたまま足を組み、こちらが聞き返す前に「のこと」と言ったあと、少し間を置いて付け加えるように「女として」と呟いた。
 愚問。そんな二文字が頭に浮かぶ。僕は仰向けになってスマホを放り投げ天井に向かって大きく息を吐いた。


「なんでそういう話になんの?」
「明らかに他とは違うだろ、扱いが。今までお前が特別扱いする女なんていなかったし」
「そりゃあそうでしょ。僕はほら、みんなの五条悟だからさ」


 そんな決め台詞とともに身体を起こし、顎に手を当ててふっと笑ってみせる。本来ならばここで世の女性たちから黄色い悲鳴が上がるところなのだが、今目の前にいるのは学生時代の悪友とも言える硝子だ。彼女はこちらを見ることなく、不快そうに顔を歪めて「うっざ」と吐き捨てた。せめて見て言って。
 深掘りするつもりはないのか、黙り込んで雑務を再開させた硝子に僕から話しかけることはせず、再びスマホを拾って画面をタップする。『東京都内にあるからあげ食べ放題の店特集』と表示されたページを親指でスクロールしていく。しかし内容は全く入ってこず、頭の中には少し前に「からあげバイキングに行こう」と約束したときのの苦痛に歪む顔が浮かんでいた。
 確かに硝子の言う通り、傍から見れば僕がにしていることは『特別扱い』になるのだろう。『結婚相手と別れて困っていたから』というただそれだけの理由で、菩薩でも善人でもないこの僕が非術師で一般人である彼女に手を差し伸べるだなんて、天と地がひっくり返ったとしてもありえない。みんなそう思っているのだ。しかも上層部の連中には『虎杖悠仁の知り合いで、僕の不在時には彼の見張り役を担ってもらう』と怪しまれないようフォローまで入れているのだから尚更だろう。
 僕がを高専に連れてきた理由は、上層部に説明した通り『が悠仁の知り合いかつ悠仁が信頼している相手だから』というのが一つ。そしてもう一つは、『彼女が僕にとっての危険人物だったから』だ。


「あ、悠仁」
「は?」


 突然ここにはいない人物の名を呼んだものだから、書類に目を落としていた硝子は不思議そうに顔を上げた。


「もう少ししたらここに来るよ」


 ドアを指さしてそう教えれば、遠かった足音が次第にこちらへと近付いてくる。ばたばたばたと大きくなった足音がぴたりと止んだ瞬間、ノックもなしに勢いよく開かれたドアから現れた悠仁はすぐに僕を見つけて「お」と口を縦に開けた。


「先生やっぱここか~! 伏黒と釘崎がめっちゃ探してんだけど」
「困ったな~、僕みんなの五条悟だからな~」
「何それ。ってか何見てんの?」


 遠慮することなく僕の手の中のスマホを覗き込んだ悠仁は、映っていたからあげの画像に「うまそう!」と大声を上げた。


「でもなんでからあげ?」
「今度、と二人で食べに行く約束してるんだよ」
「あ! やっぱり先生たちって、そういう感じ?」


 『そういう感じ』が何を意味しているかだなんて、考えなくても分かる。悠仁は明らかにそわそわとしながら期待の眼差しをこちらに向けているが、それでも本人は遠回しに尋ねているつもりなのだろう。まあ、今どきの健全な男子高校生なら『そういう話』になって当然か。
 僕は少し悩む素振りを見せたあと、どう答えたら面白いかを考えながらにやりと笑った。


「ひ・み・つ」
「まあないか! 先生、五条先生のこと『ない』って言ってたし」
「ぶっ」


 僕と悠仁が同時に発した言葉を、少し離れた場所にいた硝子は両方拾ったらしい。吹き出した彼女に視線を向ければ、こちらに背を向けてはいるものの肩が僅かに揺れていて僕は眉を顰めた。
 一方、大人二人の変化に鈍感な悠仁は「用が済んだらなる早で来てよ」とだけ言うと、あっさり姿を消してしまった。どうやら悠仁自身は僕に用事があるわけではなかったらしい。友人二人が探しているから、という理由だけで僕を探しに来た悠仁のお人好しっぷりに感心しつつも、少しだけ呆れてやれやれと呟きながらベッドから下りると、硝子が「よく分かったな」と座ったままこちらを振り向いた。


「分かった?」
「虎杖が来ることをだよ」
「そりゃ分かるでしょ」
 

 僕なんだから。自慢でもなんでもなく当たり前の事実を口にしながら、先程まで座っていたベッドを手でなぞる。横になっていた自分の温もりが僅かに残ってはいるものの、珍しく熟睡したラブホテルのベッドに比べるとずっと固くて冷たかった。
 呪力の有無に関わらず人の気配に敏感なのは生まれつきだ。そんな僕があの日、なぜだか分からないが一人で部屋を出たの気配を察知することができなかった。だからこそ彼女は僕にとっての危険人物だったのだ。
 僕を探しているらしい生徒たちの元へ向かおうとしたとき、硝子のため息が聞こえて僕は足を止めた。


「中途半端に関わるのは感心しないな」
「なんのこと?」
のこと」


 その話続いてたの、と言えば、持っていたボールペンで僕を指す硝子の鋭い視線が突き刺さる。


「この世界に引きずり込んだ以上、お前には責任があるぞ」
「責任とか僕そういうの苦手~。そりゃあ引きずり込んだのは僕だけど、本当に嫌なら逃げるんじゃない?」


 いつだったか、学長に言われてを初めて現場へ連れて行ったとき。腰を抜かしたに高専に来るかどうか判断を委ねながらも、腹を括った彼女に向かって「やめると言ったら許さなかった」と脅したことは黙っておいた。僕にとっては軽く曖昧な脅迫のつもりだったが、それが今も効いているのであれば仮にが本当に嫌になったとしても、今の状況から逃げ出す可能性は低いだろう。
 僕の言葉に何とも言えない表情を浮かべた硝子は、首を傾げこう尋ねた。「あの子の部屋、知ってる?」と。


「部屋?」
「元々置いてある家具家電以外、ダンボールが積まれてるだけで何もないんだよ」


 いつでも出て行けるように、ここに根を張らないようにしているのかもしれない。そう持論を展開する硝子に笑うことができなかったのは、目が覚めたらいなくなっていたのことと、随分前に急に姿を消したかつての親友の何もない部屋を思い出したからだ。
 スマホが震える。画面には悠仁の名前。野薔薇に呼んできたんじゃないのかよと詰められる悠仁の姿が目に浮かび、僕はそのまま早足で医務室を後にした。が、一つだけ気になることがあり閉めたばかりのドアを開けて顔だけを覗かせる。


「一つ質問」
「なに」
「やけに僕とのこと気にするの、なんで?」


 高専内の人間関係については僕以上にドライな彼女にそう尋ねると、硝子は毛先を弄びながら一言、「かわいいから」と当たり前のように言ってのけた。かわいいから、って……。


「僕が?」
「刺し殺すぞ」
「冗談だって」


 一瞬メスでも飛んでくるかと思ったが、明確な殺意以外が飛んでくることはなく、硝子は何かを思い返すように視線を宙へさまよわせた。


「なんか妹みたいじゃん」
が? そうかな」
「笑った顔とかかわいいし」
「笑った顔?」
「だから」


 泣かせるなよ。そんな硝子の忠告と同時に、廊下のずっと先から僕を見つけたらしい野薔薇の怒声が辺りに響き渡った。
 そういえば、の笑った顔を僕はちゃんと見たことがあっただろうか──。突如湧いてきたそんな疑問に対する答えを出せないまま、僕は野薔薇に確保されてしまったのだった。


* * *


ってさ、オンオフしっかり分けたいタイプ?」


 紙文化、根強く残りすぎでしょ。そう思ってしまうほど、僕が座る伊地知の席には書類がぎっしりと挟まれているファイルが小高く積み上げられている。対面する席に座って仕事をしているは、僕の問いかけにその小高い山からひょこっと顔を出した。彼女の訝しげな目を見て、やはり僕はの笑った顔をきちんと見たことがない、と改めて実感する。


「それは仕事とプライベートって意味ですよね」
「そうそう」
「うーん、私はそんなに……」
「そりゃそうだよね、今寮に住んでるくらいなんだから」


 そう言うと、は少し複雑そうな顔を浮かべて頭を引っ込めてしまった。向かい合って座っているのに僕から見えないは、カタカタとキーボードを打ち始める。スマホの画面に出ている『いいえ』を選択し、次に出てきた質問を読みあげた。


「次の日に着る服は前日に決めておくタイプ?」
「それ、なんですか?」


 またもや顔を出したがまるでもぐらのように見えて、思わず少し笑ってしまう。彼女は先ほどよりもずっと怪訝そうに眉を寄せている。


「さっきから何かの診断テストを受けてる気分なんですが」
「面白そうなの見つけてさ、にやってみよーと思って。ほらほら早く」
「服は……決めておくタイプです」
「おっけ~」


 面倒くさそうにしながらも、律儀に付き合ってくれるんだよな。そう思いながら全ての回答を入力し、表示された結果を上から下まで眺める。黙ってしまった僕に違和感を抱いたのか、の仕事の手が止まったのが分かった。


「……結果、出たんですか?」
「うん」
「どんな?」
「内緒」


 そう言って立ち上がると、「はあ?」と間抜けな声を上げてこちらを見上げると視線が重なった。きっと僕がこれからしようとしていることを、はよく思わないだろう。でも──。


「次会うときまで楽しみにしておいてよ」


 のことを、女として好きなのか。なぜか今、あの日愚問だと感じた硝子の質問を思い出した。
 確かには僕にとって特別だ。でもその気持ちは恋愛感情ではない。危険人物だと思ったは実際に蓋を開けてみれば、少し流されやすいところはあるが生真面目で素直な普通の一般人だった。だから今の僕の感情を例えるならば、偶然手に入れたおもちゃを手放したくなくなった、そんな感じだ。だって、きっと──。
 質問に答えるだけ答えて結果を教えてもらえなかったは、僕の言葉に納得がいかないのか不服そうに唇を尖らせてPCの画面を見つめている。試しに「ちゅーしてほしくてそんな顔してるの?」と聞けば、は少し怒った様子で僕へ視線を向けた。


「そんなこと、絶対にありえません」


 だって、僕に恋愛感情を抱いているわけじゃないだろう。


* * *


 週末。寮の部屋から出てきたは、白い無地のTシャツに紺色の短パンという休日らしいラフな格好をしている。


「誰なのか確かめずにドアを開けるのはさすがに不用心じゃない?」


 まさか訪ねてきたのが僕だと思わなかったのだろう。よくよく見ると化粧もしていない彼女は僕の指摘に目を見開いて唖然としていたが、すぐに慌てて留めていた前髪を下ろしながら声を上げた。


「なっ、え? どうしたんですか!?」
「お届け物でーす」
「え、えっ?」


 どうやら状況が理解できずパニックになったらしい。は咄嗟にドアを閉めようとしたが、僕は僅かな隙間に手を差し込みそれを阻止した。僕とが互いに反対側に引っ張るせいで、古いドアがみしみしと嫌な音を立てる。
 僕の力に敵うはずがないのに。片手の僕に対し両手でなんとかドアを閉めようと奮闘する彼女に向かって、僕はドアの隙間から中を窺いながらからかうように笑ってみせた。


「なに、もしかしてベッドに男でも寝てる?」
「そんなわけないじゃないですか、何しに来たのかちゃんと説明してくださいよっ」
「だから、お届け物だって。それに言ったじゃん、『次会うときまで楽しみにしておいて』って」


 その言葉を思い出したのか力が限界だったのか、しばらくしては諦めたようにため息を零すとゆっくり力を緩めていった。
 開いたドアの先に広がっていたの部屋を見て、なるほど、と思う。確かに硝子の言葉通りだ。もうがこの部屋に引っ越してきて数か月が経つと言うのに、今日引っ越してきたのかと疑うほど殺風景な空間がそこにはあった。
 入口でじっと部屋の中を眺める僕を目の前に、は居心地が悪そうに視線を泳がせている。そしてすぐに僕の足元に置いてあったダンボールの箱に気付き、「それは?」と指さした。


「僕からへのプレゼント」


 はい、と一番軽い箱をに渡す。は不思議そうに僕を見たあと、「ありがとうございます……?」と疑問符をつけながら軽く頭を下げた。無理矢理ドアを開けさせたものの、一応中に入っていいか尋ねればは渋々頷いた。
 残り二つの箱を部屋の中へ運び、ドアを閉める。そしてしゃがみこんで箱を眺めていたの隣に座った。


「とりあえず、カーテンとラグとサイドテーブル」
「はあ……?」
「僕カーテン付け替えるから、残りの箱開けて中身出しといてくれる?」
「はあ……」


 気の抜けた返事を繰り返すは僕が来てからずっと戸惑っている様子だったが、大人しく僕の指示通り箱のガムテープを剥がし始めた。僕は僕で、新しいカーテンを取り付けるために古いカーテンを外していく。ちらりとを盗み見ると、横顔には困惑の色が滲んでいた。
 に気付かれないよう改めて部屋の中を見渡す。いくら備え付けの家具があるとは言え、毎日この部屋で何を思って暮らしているのだろう。
 カーテンを付け替えラグを敷き、ベッドのそばにサイドテーブルを置く。たった三か所が変わっただけで一気に部屋の雰囲気が変わったような気がした。


「完了~! この間の診断テスト、その人にあったインテリアをおすすめしてくれるやつだったんだけど、どう?」
「いい感じ……ですけど」
「ちなみにそのカーテンさあ」


 窓際でカーテンに触れていたに値段を告白すれば、彼女は慌てて手を引っ込め「素手で触れない……」と嘆いていた。素手で触れないカーテンなんてある?
 しかし、これで終わりではない。後日小さめのソファとテーブルが届くことを伝えると、は「えっ」と声を上げて振り向いた。カーテンを付け替えるついでに開けた窓から入り込んできた風が、の細くて柔らかい髪を揺らす。
 

「あ、あの……ありがたいんですけど、そもそもなぜ急にインテリアなんでしょうか」
「別に? 硝子がの部屋は何もなくて可哀想って言ってたから」
「可哀想……」
「でもこれで、」


 これで──。
 急に口を閉ざした僕に、が「これで?」と不安そうに話の続きを促す。しばらく考えたあと、僕はの目の前に立ち彼女のさらさらとなびく髪を指で梳いた。


「いつ僕が遊びに来てもオッケーな部屋になるでしょ?」


 硝子が話していたように、本当にが『いつでも出ていけるように』と考えているのかは知らないけれど。これで少しでも、そんな気持ちが薄まってくれたら。
 そんならしくないことを考えている自分がおかしくて小さく笑えば、は「どんな部屋でもいきなり遊びに来られたら困ります」と目を伏せた。
 意外と長いの睫毛を眺めていたら、言葉では表せないような感情がふつふつと湧き上がってくる。いつもの僕ならさくっとキスしてしまう距離なのに、なぜだかそれはできなかった。


「……からあげ、いつ食べに行く?」


 指を髪を絡ませながらそう尋ねれば、俯いていたが顔を上げた。少しだけ赤く染まった耳朶に気付いたあと、こちらをまっすぐ見つめると視線が重なった。
 今、無性にの笑顔が見たい。相手に心から笑ってほしい、と思うのは今までの人生の中で初めてだった。そんなことを思う、やはりらしくない自分に再び笑いが込み上げてくる。
 まだまだ先は長いな。突然笑い出した僕に困り果てたの顔を眺めながら、そう思うのだった。


(2022.11.23)