勘違いした話



「今日はほら、僕、メグミとデートだから」
「デートって……まあ二人きりというのは最近なかったのでは?」
「そ、だから早く待ち合わせ場所に着いといてあげようと思ってね」


 メグミも久しぶりに僕と会えるの楽しみにしてるだろうし、という五条さんのどこか弾んだ声を聞きながら、私は扉へ伸ばしていた手を静かに下ろした。腕にかけていた三つの紙袋ががさりと乾いた音を立てる。後に続く伊地知さんの声がとても遠くに聞こえた。
 紙袋に入っているフィナンシェ、日本酒、チョコレートは、休みの日、街へ買い物に出たついでに先日生理痛で迷惑をかけてしまった伊地知さん、家入さん、五条さんの三名に買ってきた所謂『お詫びの品』というやつだ。伊地知さんと五条さんが一緒にいるなら片方を探す手間が省けてラッキーと喜んだのも束の間、突然私の知らない女性の名前が聞こえてきて今に至る。
 メグミ。ここにやってきて初めて聞くその名前から、自然と頭の中に妖艶な女性の姿が浮かんだ。二人の会話の内容から、五条さんと『そういう仲』の女性であることが窺える。
 別に、五条さんに恋人がいてもおかしくないし。そう自分を納得させて再び扉に手をかけたが、なぜ私はこんなにも動揺しているのか、という疑問とは別の新たな疑問が生まれてくる。
 そうだよ、五条さんに恋人がいるのなら。


「最低、じゃない?」


 五条さんも、そして私も。
 このままいつも通り部屋に入ってしまっても何の問題もないし、むしろ部屋の前で立ち尽くしている方がおかしい。そう思うのに、なぜか身体が動かない。変に緊張してしまっている私の手が動き出す前に、目の前の扉が音を立てて開かれた。


「あれっ? じゃん、何してんの?」


 びっくりしたように声を上げた五条さんだったが、表情に驚きは見られない。五条さんは、いつもそうだ。
 えっと、と歯切れの悪い私の返事を待たずに、五条さんは私の持っている紙袋を指差し「それ、何?」と首を傾げた。つい先程まで五条さんに渡そうと思っていたものなのに差し出すことができず、私は紙袋を背中に隠す。


「なんでもないです」
「そっか。じゃあ僕、急ぐから」


 いつもの五条さんならもっと食い下がるくせに。そしていつもの私はそんな五条さんに辟易とするはずなのに、なぜだか今はあっさりと引き下がった五条さんに腹が立っている。
 気が付いたら、私の隣を通り過ぎた五条さんの背中に声をかけ、彼を呼び止めていた。振り向いた五条さんは優しく微笑んでいて、余程今からメグミさんに会うのが楽しみなのだろうと思うと全身から力が抜けていく気がした。


「……楽しんできてくださいね」
「ん? うん、了解~」


 今の私にできることは少し嫌味を言うくらいだったのだが、五条さんに通用するはずがない。これまたあっさりとした様子で彼は手をひらひらと振り、それ以上何も言わず私に背を向け、軽い足取りで姿を消してしまった。ずっと持っている紙袋が、石でも入っているのではと疑ってしまうほど重く感じる。
 いやだから。五条さんに恋人がいてもおかしくないし。もう一度心の中でそう呟いたとき、少しだけ開いた扉の隙間からひょこっと顔を出した伊地知さんが眼鏡をあげながら不思議そうに私の名を呼んた。


さん、おはようございます。どうされました?」
「……最低ですよ」
「えっ!? すみません!?」


 五条さんに恋人がいてもおかしくない、けれど──。まるで頭上から『後悔』と書かれた紙が貼ってある岩が落ちてきた気分だった。
 後悔、と一言で言っても内容は様々だ。一番は、何と言っても五条さんをホテルに誘ってしまったこと。そのほか高専へ向かう車の中で油断してキスされてしまったこと、ハグさせてと言われて大人しくハグさせてしまったこと、生理痛のときに五条さんがくれた温もりに少しほっとしてしまったこと。今更ながら、それら全てを後悔した。だって普通に考えて、恋人のいる男性にしていいことでもなければされていいことでもないはずだから。
 そして何より、五条さんは一体どういうつもりなのか。五条さん自身が私の知る常識から外れていることは分かる。でもこれはさすがにアウトだろう──。そこまで考えて、目の前に立つ伊地知さんの顔が青ざめていることに気付き、私は頭を下げた。そして伊地知さんのことではないと告げたとき、心の底から安堵したように息を吐いた伊地知さんを見て『五条さんももっと分かりやすい人ならいいのに』と私ではどうしようもないことを思った。


* * *


 あの日迷路のようだと思った医務室までの道のりは、いざ歩いてみればそこまで心配するほどではなかった。夕方、今日の業務を終えた私は、辿り着いた医務室のドアを軽くノックする。返事はなく、不在だろうかと思いながらもう一度拳を作ったとき、中から「どうぞ」と小さく声が聞こえて私はドアを開けた。


「失礼します」
「なんだ、か」


 くるりと椅子を回転させた医務室の主・家入さんは、私の顔を見て「伊地知と伏黒の足音じゃなかったから、警戒した」と笑った。足音、と呟けば、どうやらこの高専で医務室に入る前にノックをするのは伊地知さんと学生の伏黒くんという子だけらしい。


「そういえば、まだほとんどの学生たちと会ったことなくて……その伏黒くんにも会ってみたいですね」


 足音で人物を判別できる家入さんに感心しながらそう言えば、彼女は「すぐ会えるだろ」と言いながら自身のそばに置いてあった丸椅子を引き寄せた。


「伏黒は虎杖の同級生で、五条の生徒だし」
「五条さんの……」
「まあ座んなよ。、コーヒー飲める?」


 会うのは今日が二回目だが、ずっと昔からそうしていたように下の名前で呼んでくれる家入さんのおかげで、身体の強ばりが解けていくような気がする。冷蔵庫の隣に置いてあるドリップ式のコーヒーメーカーの前に立った彼女に、私は笑顔で頷いた。
 白い湯気が立つコーヒーカップの横に並べた紙袋。家入さんはそれを一瞥し、不思議そうな顔を私に向けた。


「何、これ」
「この間迷惑かけちゃったので……その、お礼というかお詫びの品です」
「別に大したことしてないのに」
「ちなみに梵です。ミニボトルですけど」
「いいね」


 家入さんの目に光が宿ったのを確認し、私はほっと胸を撫で下ろした。以前、彼女のデスクに置いてあったお酒を参考に辛口ですっきりと飲める日本酒を選んだのだが、どうやら正解だったようだ。
 淹れてもらったコーヒーを啜ると、苦味と僅かな酸味で混沌としていた頭の中が徐々にはっきりとしていく。しばらくお酒についての雑談を交わしたところで、家入さんは私が膝の上に置いていたもう一つの袋を指差した。


「それは?」
「あ、これは……チョコレートなんですけど。良かったら家入さん食べませんか?」
「あー、甘いものは私食べないから」
「そうですよね」
「それも誰かにあげるつもりだったんじゃないの?」


 じゃなきゃそんなチョコ、滅多に自分じゃ買わないだろ。デスクに頬杖をついてそう言った家入さんに、私は少し悩んでこくりと頷いた。
 そういえば、二人は親しそうだったな。先日、ここで会話を交わしていた家入さんと五条さんの様子を思い返しながら、私は「あの」と呟いた。他人のプライベートを根掘り葉掘り聞くのは趣味ではないが、このまま何も知らない振りをすることはできないし、そもそも許されることでもないだろう。何より、まずはきちんとした情報が欲しい。コーヒーカップを置いた私は、つらつらと話を始めた。


「これ、五条さんにあげるつもりだったんですけど」
「うん」
「やめようと思って」


 深刻な様子の私とは異なり、家入さんが「なんで?」と尋ねる声はとても軽い。別に落ち込んでいるわけじゃない、ただ今までの自分の行動や対応を振り返って心が押し潰されそうになっているだけ。そう自分に言い聞かせてはみるものの、自然と首が項垂れていく。


「五条さんの……彼女さんに申し訳なくて」
「はあ?」
「申し訳なさすぎて、死んでしまいたい……」
「全然話が見えないけど、面倒くさそうなことだけは分かる」


 ぎしり。寝不足なのか、大きな欠伸を零した家入さんが背もたれに深く身体を預けたので、椅子が鈍い音を立てる。そして涙目で天井を見上げたまま「なんだっけ、五条の彼女?」と言い鼻で笑った。
 さすがにいくら家入さんが相手でも、今までのことをあけすけに話すことは躊躇われる。私は口重に朝聞いた伊地知さんと五条さんの会話について説明したあと、迷惑をかけたとは言えわざわざデパートで買ってきたチョコレートを渡すと何かしら誤解が生じるのでは、と不安を口にした。
 なるほどね~とのんびり呟いた家入さんは、紙袋から出した梵をじっくりと眺めたあと急にぱっと顔を上げた。


「って言ってるけど?」
「え?」


 家入さんの言葉の意味が分からず、彼女の顔をまじまじと見つめる。しかしおかしい、家入さんは私ではなく、私の背後へ視線を向けている。
 まさか──。慌てて振り返ると、そこにはにんまりと笑みを浮かべた五条さんと、汚れて破れた制服を身にまとい疲弊している様子の男の子が立っていた。な、と小さく声を上げて立ち上がった拍子に、ガタンと椅子が倒れる。そういえば、ドア閉め忘れてた……。というか、どうしてここに……?
 かつかつと、わざとらしく足音を立てて五条さんが私の方へ歩み寄る。


「ふんふん、なるほどね~。僕に彼女がいるって勘違いしちゃったわけだ、ちゃんは」
「いや、その……あ!」
「とりあえずこれは僕がもらっておくね、ありがと」


 あっという間に私の目の前までやってきて、あっという間に私の手からチョコレートの入った紙袋を奪った五条さんは、至極楽しそうな表情のまま「ちょうど甘いもの食べたい気分だったんだよね~」と機嫌よく袋の中を覗き込んだ。
 なんとかして彼から取り返そうと試みるも、五条さんの頭上へ持ち上げられてしまったものに私の手が届くはずもない。返してください。これ元々僕に渡すつもりだったんでしょ。違います。嘘つき。しばらくの間そんな攻防を続けていたが、視界の隅に映り込んだ男の子の姿に私はぴたりと動きを止めた。虎杖くんと同じく制服を着ているのだから、学生なのだろう。年下の、しかも初めて会う子に醜態を晒したことが恥ずかしくなった私は、五条さんから手を引くと倒れたままだった椅子を元に戻し、彼に向かって頭を下げた。


「初めまして、あの」
は会うの初めてだったよね」


 男の子に声をかけたつもりだったのに、なぜか私の言葉を遮ってそう答えた五条さんはぱん、と手を叩くと、男の子の肩にぐいっと手を回した。その瞬間、男の子の眉間に深い皺が刻まれる。


「僕の可愛い~~~教え子の、伏黒恵くんでーす!」
「やめてください」
「伏黒……え、ノックの?」


 私の呟きに、伏黒くんは「は?」と短く声を上げると、切れ長の瞳をこちらへ向けた。というか、メグミ?
 頭に「?」を浮かべて、ぽかんと互いの顔を見つめ合う私たちを気にすることなく、五条さんは伏黒くんの肩に腕を回したままぺらぺらと話を続ける。


「いや~、はそそっかしいね。恵のことを女の子だと勘違いするなんて……どう思う? 恵」
「あ……といいます」
「ああ、虎杖からいつも話聞いてます」
「うん、鮮やかなガン無視だね」


 分かりやすい嘘泣きを披露しながら「さすがの僕も泣いちゃうよ」と言う五条さんの腕を伏黒くんは振り払い、「怪我してんすよ、こっちは」と険しい顔を見せた。へらへらと笑う五条さんに対し、それまで傍観していた家入さんが真剣な様子で立ち上がる。


「なんだ、怪我したのか」
「多分……肋骨いってると思うんですけど」


 怠そうにしながらも、てきぱきと指示を出しベッドを空ける家入さんの邪魔にならないよう部屋の隅に寄る。頭の中で五条さんの説明を何度も繰り返し、ようやく全てを理解した。メグミって、伏黒くんのことだったのか……。
 家入さんと伏黒くんをぼんやりと眺めていたら、とんとんと肩を叩かれて振り返った。今回の(私の中での)大騒動の原因である五条さんの顔を見た瞬間、この人がデートとか変なこと言うから……と愚痴が零れだしそうになる。それを必死に堪える私に対し、五条さんは愉快そうに笑ってチョコレートが入った紙袋を顔の横に掲げた。


「勘違いさせちゃったお詫びに、これが食べさせてよ、僕に」


 お詫びって、なんだっけ。


* * *


 伊地知さんならきっとうまく助けてくれるはず。そんな淡い期待とともに向かった補助監督室に伊地知さんの姿はなく、図らずも二人きりになってしまったことに私は深いため息を吐いた。


「ねえ、一つ聞きたいんだけどさ」


 部屋の隅に置かれているテーブルとソファ。一見来客用にも見えるが、今のところ連勤に疲れ果てた新田さんが「いい加減休みが欲しいっス~!」と叫びながらソファにダイブする以外でこのスペースが使われているところを見たことがない。
 そんな場所に悠々と座る五条さんの隣で、チョコレートからグラシンカップを外していた私は顔を上げ「なんですか?」と尋ねた。


「僕に彼女がいるって勘違いしたとき」
「それはもう忘れてください」
「どう思った?」


 どう、と言われましても。いつの間にかアイマスクを首まで下げていた五条さんは、裸眼を細め「妬いた?」と首を傾げた。


「この世の中には物好きがいるんだなと思いました」
「辛辣すぎるんだど僕なんかしたっけ」
「それと……そういう相手がいるのに私に構う五条さんは不誠実だとも思いました。あと、私も最低だなって」


 指先で持つチョコレートが体温で少しずつ溶けだしていく。自分の中で渦巻いていた感情をようやく吐き出せたことで少しすっきりしたような気もするが、言葉にしたらしたで私が『思った』ことは果たしてこれだけだったのだろうか、と自分で自分を疑ってしまう。
 ふうん、と軽く相槌を打つ五条さんに口を開けるよう促せば、アルコールが含まれていないか私に確認したあと素直に口を開けた。
 食べさせることに抵抗はある。でも拒んだらさらに厄介なことを言われるだろう。さっさと済ませてしまった方がいいと結論を出した私は、五条さんの口の中にチョコレートをぽい、と放り込み「うま!」と喜ぶ五条さんに「よかったです」と返事をして再び箱の中のチョコレートに手をつけた。


「僕は案外、誠実で一途だよ?」


 チョコレートを持ったまま、得意げに「安心した?」と笑う五条さんの顔をまじまじと眺める。安心したのは間違いないが、それは五条さんが誠実で一途だからではなくて誰も傷つく人間がいなかったからだ。
 返事に戸惑う私の横で、五条さんは変わらず笑みを浮かべたままでいる。


「でもどうせなら妬いてほしかったな~。そのために、わざとが勘違いするような言い方したのに」
「……え?」


 持っていたチョコレートが箱の中へと滑り落ちる。そのとき、今朝扉を開けて私の目の前に現れた五条さんのことを思い出した。驚いたような反応を見せつつも、表情はすごく落ち着いていたこと。いつもなら絶対しつこく食い下がるところを、あっさりと引き下がったこと。
 包み紙を剥がしたチョコレートを少々乱暴に五条さんの唇へ押し付ければ、彼は笑いながらそれを口へ含んだ。五条さんのきれいな唇が指に触れないよう、すぐに手を引っ込めて声を上げる。


「悪質ですよ!」
「はは、ごめんって。ん、これもおいしい」
「……というか、五条さんは……」
「ん?」
「その……なんで私に妬いてほしかったんですか」


 一番聞きたかったことを隠してそう尋ねる自分の声と、チョコレートへ伸ばした指先が微かに震えている。
 ふ、と影が落ちてきて顔を上げればすぐそばにある五条さんの顔。いつも急に近くなるこの距離になかなか慣れることができない。


「言わなきゃ分かんない?」
「は、はい」
「そんなの、決まってるじゃん」


 自分で自分のことを『誠実』だと評価を下した五条さんは、無垢な笑顔を私に向けてこう言った。


「面白いかなーと思って!」


 強くてわがままで、たまに優しくて。でも平気で嘘をついたり酷いことを言ったりする。ここに来て知った五条さんの性格を、今改めて思い知らされたような気がした。そしてこの人のこういうところを目の当たりにするたびに、五条さんと私ではやはり何かが違うと強く感じる。
 きっと五条さんは、今私が何を思っているかなんて分からないし、分かりたいとも思わないんだろうな。そう考えて、私はなぜか傷付いている自分の心から意識を逸らすように、残っているチョコレートへ視線を落とした。
 残りはあと四つ。もう手は震えていない。


「口、開けてください」
「あーん」
「はい、次」
「ちょっと、餌やりじゃないんだから」


 もっとゆっくり食べさせてよと年甲斐もなく駄々をこねる五条さんに、問答無用でチョコレートを突きつけていく。
 一番聞きたかったこと、聞かなくてよかった。もし聞いていたら、きっと大笑いされていただろう。


『五条さんは、私のことが好きなんですか?』


 本当に、聞かなくてよかった。


(2022.11.08)