体調が悪い日の話



 二日目である。
 学生の頃は、そこまで痛みを強く感じるタイプではなかった。しかし成人して年齢を重ねた今ではすっかり毎月の悩みのタネになっている。重い足取りで歩きながら、私は深く息を吐いた。そう、生理痛の話だ。
 そして、よりにもよってこのタイミングでいつも常備している薬を切らしていたものだから、いつにも増して気分は最悪だった。私の不調に気付いたらしい伊地知さんが「休憩、長めにとってくださいね」と言ってくれたので、私はその言葉に甘えて少しだけ部屋で横になろうと寮へ向かっている。
 今から外出して薬を買いに行くか……でも近くにドラッグストアなんてないし、そんな時間も体力もない……送迎に出ている新田さんに頼むか……でもそれはさすがに迷惑では……。悶々と、頭の中に浮かんでくる案を自身で次々と却下していく。
 腹痛のため背を丸めて歩いていた私は、正面から近付いてくるヒールの音に気が付いて顔を上げた。私と同年代に見える髪の長い女性が一人、こちらに向かってやってくる。
 ──誰だろう。そう思いながら軽く頭を下げると、彼女は私の前で立ち止まり首を傾げた。


「……あれ、あんた確か」
「えっ」


 美人だ。でも、目の下にはくっきりとした隈が浮かんでいる。目元の泣きぼくろをじっと見つめたまま記憶を辿っていくが、初対面で間違いはないはずだ。
 しばらくして、彼女はぽん、と手を叩き私を指差した。


「あれだ、結婚相手に捨てられたところを五条に拾われた女だ」
「う……」


 悪意は感じられないものの、配慮がないその言葉に思わず口ごもる。そんな私を見て彼女が「冗談だよ」と笑ったので、私も苦笑いを返した。冗談とは言え、そう言われてしまうと否定はできないのだが。
 ひょっとして、私が知らないだけで会ったことのない人たちの間でそういう話がある種のネタとして出回っているのだろうか──。腹痛に加えて軽い頭痛を感じたとき、彼女は私に右手を差し出した。


「家入硝子だ、よろしく」
「あ、です。よろしくお願いしま……す?」


 特に警戒することなく、差し出された手と握手を交わす。と同時に、彼女──家入さんが私の手を握ったまま食い入るように私の顔を見つめてきたため、少しだけたじろいだ。


「顔色悪いけど。何? 貧血持ち?」
「あ、いえ……実はその、生理痛で」
「ああ、薬あんの?」
「それが切らしてて……なので、休憩中だけ部屋で横になろうかと」


 私の説明に家入さんは「医務室に薬あるけど、いる?」と、親指で自身の背後を指した。そういえば、と私は改めて彼女の全身を眺める。白衣姿の彼女は、この学校の養護教諭なのだろうか。
 私の部屋まで持ってくるという家入さんの申し出を断り、私は彼女と一緒に医務室まで行くことにした。綺麗で落ち着いていて、なんとなくクールな印象の家入さんだったが、医務室へ向かう間「いくつ?」「酒飲める?」という軽い質問をはじめ、「なんで婚約者に捨てられたの?」という重い質問まで投げてきた。あまり早く歩くことができない私に歩調を合わせてくれるあたり、優しい人なのだろう。医務室のベッドが空いているからそこで休むといいとまで言ってくれた。
 まだ学校内の地図が頭に入っていない私にとって、医務室までの道のりは迷路を歩いているようなものだった。戻れるだろうか、と不安を吐露する私を見て、家入さんが笑いながら医務室のドアを開ける。


「おっかえり~、ってあれ? も一緒?」
「うわっ……」
「チッ」
 

 私だけでなく、家入さんもまさか医務室に先客がいるとは思わなかったのだろう。少々乱雑に書類やお酒が置かれたデスク近くの椅子に座る五条さんの姿に、私の驚きの声と家入さんの舌打ちが重なった。「さすがの僕も傷つくんだけどその反応~」と言いながら椅子をくるくると回転させる五条さんは、全く傷ついているようには見えない。
 家入さんは私の隣で大きなため息を零したあと、壁際にある戸棚の前まで歩き、扉を開けて中にあった箱を漁り出した。


「勝手に入んなよ、五条」
「だって硝子いないんだもん」
「なんか用?」
「野薔薇がさあ、今日任務でちょっと怪我したらしくて。本人は大したことないから大丈夫とは言ってたけど、場所が場所でさ」


 自身の頬を指でとんとんと突きながら「あとで声かけてやって」と言い立ち上がった五条さんを、家入さんは一瞥する。そして戸棚の扉を閉めて「分かった」と頷くと、ドアの前に立ち尽くしていた私に向かって持っていた小さな箱を投げた。落としそうになりながらもなんとかキャッチしたその箱には、青文字で『頭痛・生理痛によく効く』と記されている。


「ペットボトルの水ならそこの冷蔵庫に入ってるから、飲んでいいよ」
「ありがとうございます」
「何、体調悪いの?」


 背丈よりも低い冷蔵庫を開けようと屈んだ私のそばまで五条さんが大股で歩み寄る。何となく薬の箱を隠すように持ち、曖昧な返事をすれば五条さんは俯き気味の私の顔を覗き込んだ。


「そう言われると、顔青いね。生理?」


 驚いて顔を上げる。すぐ近くにある五条さんの顔を凝視すれば、彼はもう一度「生理?」と小首を傾けた。
 なんというか、二回も聞いてくるデリカシーのなさが五条さんらしい。恥ずかしさよりも変に感心の気持ちが勝ってしまった私が答える前に、五条さんに向かって家入さんから二度目の舌打ちが飛んだ。
 彼女は私の代わりに冷蔵庫からペットボトルの水を取り出すと、「ベッドはこっち」と言い私の腕を引いた。


「何から何まですみません、少し休んだら戻りますんで」
「別にいいよ、私はもう出るし」


 家入さんに促されるまま、部屋の一番奥にあるベッドの布団に入る。眠るつもりはないが念のため、スマホを取り出してアラームを一時間後にセットしておいた。薬も飲んだことだし、じきに楽になるはずだ。
 しかし、そう安心したのも束の間。家入さんが閉めてくれたカーテンが開き、なぜか五条さんが先程まで座っていた椅子とともにやって来る。そんな五条さんを家入さんは白衣のポケットに手を入れたまま軽く睨み付けたが、すぐに私の方へ視線を戻した。


「一応、ストレスが生理痛を助長するとも言われてるから」
「ストレス……」


 自然と五条さんへ視線が向きそうになるのを堪えて、家入さんを見つめ返す。彼女はこちらを真っ直ぐ見据えたまま「良かったんじゃないの、結婚前に別れられて」と、やはり遠慮することなく言ってのけた。
 そっか、そっちのストレスもあったか。そう人から気付かされるあたり、もう私は結婚がなくなったことをなんとも思っていないのかもしれない。そう思いながらも、私は頷いた。


「……それも、そうですね」
「でも男に振られて弱ってるときって、自暴自棄になったり変な男に付け込まれたりしやすいから、気を付けなよ」


 これにはさすがに我慢できず、五条さんの方をちらりと見て「……気を付けます」と小さな声で呟けば、彼は大きく頷きながら「ほんとそれ!」と声を上げた。ふざけているのか素で言っているのか、どちらだとしても厄介だ。私は胸の内で嘆いた。


* * *


「ちょ、ちょっと!」


 家入さんは医務室を出て行く直前、五条さんに向かって「お前も出て行くんだよ」と呆れたように声をかけたが、五条さんが「今日は夕方、上の連中の相手するだけだから」とベッドのそばに寄せた椅子に座ってしまったものだから、彼女は一人で出て行ってしまった。
 二人きり、落ち着かない。でもせっかくベッドを貸してもらったのだから、と自分に言い聞かせ「横になります」と宣言をして布団の中に潜り込む。すると上着を脱ぎ始めた五条さんの姿が目に入ったので、私は掛け布団を強く握りしめて悲鳴に近い声を上げた。


「なんで脱いでるんですか……!」
「え? だって生理痛って身体温めた方がマシになるんじゃないの?」
「それはそうかもしれないですけど、だからってそんな、こっ困ります迷惑ですやめてください」
「焦りすぎ。ジョークだよ、ゴジョーク」


 うまいこと言った! とでも言いたげな表情を見せた五条さんは、脱いだ上着を椅子の背にかけると、布団の隙間から中に手を差し込んだ。ジョークじゃなかったのか、と思いながら慌ててベッドの端に寄ろうとしたものの、「暴れない」と子どもを注意するような声で囁かれ、私の強張った身体に五条さんの手が触れた。そしてしはらく彷徨ったその手は、私の下腹部に乗るとぴたりと動かなくなった。


「どう、温かい? 、ただでさえ冷え性だからね」


 私が冷え性であることをなぜ知っているのか、という疑問が、初めて会った日の夜に「足冷たいね」と言われた記憶によって解消される。
 正直、仰向けよりも横向きになりたい気分だったし、服の上からだとなかなか五条さんの手の平の熱は伝わってこなかったが、それを言ってしまうと本当に布団の中に侵入されそうだ。そう思い、私は大人しく「温かいです」と返事をした。
 腹部を温めると血流が良くなって全身が温かくなる。そう説明する五条さんはどこか満足そうで、私は黙ったまま強く掴んでいた掛け布団を口元まで引き上げた。お腹や腰の辺りに感じるじくじくとした鈍い痛みに目を閉じる。五条さんの手が動く様子はなく、身体の緊張も少しずつ解けていった。
 ただふざけているだけかと思ったけれど、実はちゃんと心配してくれていたのかもしれない。今のうちにお礼だけでも言っておこうかと考えたとき、五条さんが「今度さ」と話を始めた。


「ケーキバイキング付き合ってよ」
「……五条さんって、甘党なんですか?」


 先日もらった、一人では食べきれない量のケーキが頭を過る。


「甘いものは好きでよく食べるね」
「今、あまり食べ物のこと考えたくないんですけど……」
「生理のときって甘いもの食べたくなるんじゃないの?」
「人によると思います。私は……からあげを食べたくなることが多いですかね」
「じゃあ、からあげバイキング行こ」


 からあげバイキングってなんだ。からあげ専門店のことだろうか。頭の中に「?」が浮かんだとき、下腹部に鋭い痛みが走ってぎゅっと目を閉じた。それに気付いたのか、五条さんは私のお腹をゆっくりと擦りながら「約束ね~」と歌うように言った。
 人が普通じゃないときにそういう約束を取り付けようとするところ、少しずるいと思う。そう思いながらも、うまく断る理由を考える余裕がなかった私は痛みに耐えながらこくこくと頷いた。からあげ専門店くらいなら、別に一緒に行ってもいい。
 その後も五条さんは、出張先で食べたご当地スイーツの話や学生たちの失敗談などをぺらぺらと話し続け、返事のいらない内容ばかりだったので黙って耳を傾け続けた。幸いにも時間が経つにつれて痛みは和らいでいったが、五条さんにとってはまだまだ辛そうに見えるのだろう。「女の子って大変だね」という言葉には、僅かにだが同情が含まれているように聞こえた。


「僕は生理痛もないし、体調崩すこともないから分からないけど」


 嘆息を漏らしながらそう言った五条さんに視線を向けて、口元まで引き上げていた布団を少しだけ下ろす。


「……体調崩すことは、あるでしょう」
「ないね」


 きっぱりとそう否定した五条さんは、空いている方の手でピースサインを作ると「僕、五条悟だから」と笑った。
 「五条悟だから」「五条さんだから」という言葉は、ここで働き始めてたくさん耳にしてきた。マイナス、プラス、どちらの場面でも使われる常套句のようなその言葉に、感心したり納得することもあれば疑問を抱くこともあった。今は、後者だ。


「身体は元気でも精神的にしんどいときとか、五条さんでもありますよね。そういうときはちゃんと休むべきですよ」


 少しだけ早口でそう言えば、五条さんは一瞬だけ虚を突かれたような顔をして「なんか元気になったじゃん」と私のお腹をぽんぽんと叩いた。
 自分で言っておいてこんなことを思うのもおかしい気がするが、今の私の言葉は少し生意気で、なおかつ自分が今休んでいることを正当化しているようにも聞こえる。でも心の中に生まれてしまったもやもやとした気持ちは、収まることなく口から溢れ出ていく。


「五条さんだって、一人の人間でしょ。しんどいときはしんどいって言わないと」
 

 ピースサインを作っていた五条さんの手が下りてきて、私の頭に触れる。


「言うじゃん、なかなか」


 頭をぐしゃぐしゃに撫でられ、枕の上に散らばっていた髪がさらに乱れていく。
 五条さんが言う「五条悟だから」という言葉。その後に続くのが「大丈夫」なのか「仕方ない」なのか、どちらなのかは分からない。でもどちらであったとしても、一人だけでもいいから彼を『五条悟』として見ない人がそばに必要なのでは、と思う。
 こんな、普段なら気にしないようなことをいちいち気にしてしまうのも、体調を崩すことはないと言ってのけた五条さんに少し腹が立ってしまったのも、全部全部この生理のせいだろう。
 茶化される前に、「言いすぎました」と先手を打つ。しかし五条さんは私の頭をひと撫でしたあと、息を吐きながら笑い今度は私の目元を覆うように手を乗せた。


「ちょっと寝なよ」


 優しく覆われているため、目を開ければ五条さんの指の間から天井の模様と部屋の明かりが僅かに漏れて見えた。しかし当たり前だが、五条さんの表情は窺うことができない。沈黙の中でぼんやりと、五条さんは私の言葉を聞いて何を思っただろう、と考えた。
 寝ようと思えば寝れそうだけど、起きていようと思えば起きていられる。薬のせいか、そんな曖昧な眠気が頭の中で漂っている。目を閉じて、腹部よりもダイレクトに感じる五条さんの体温を受け止める。
 そういえば、目元を温めると入眠までの時間が短くなるんだっけ。しばらく経ってからそう気付いたときにはもう瞼は重たくなっていて、自分が眠りの縁に立っているような気がした。一歩踏み出せば、眠りの中に落ちていくような、そんな気が。


「今、この間のの気持ちがすごくよく分かるよ」
「この間……?」
「あ、起きてた」


 眠そうな声かわいい、と笑う五条さんの声がどんどんぼんやりと輪郭のないものに変わっていく。もうそろそろ限界みたいだ。腹痛から解放された今、布団の中がものすごく心地良い。
 どこか遠いところで五条さんの小さな呟きが聞こえたような気がしたけれど、さすがにもう聞き返すことはできなかった。


『人の言葉に救われた、って言ってたの気持ち』



(2022.10.09)