ハグされる話
「あっ!」
「……あ」
一度目の再会のときに感じたのは、驚きと喜び。そして今、二度目の再会を果たした私の心に広がるのは、悲しいことに戸惑いだけだった。
「先生やっと会えた! 高専で働きだしたってマジだったんだね!」
伊地知さんに頼まれて学長へ過去の報告書ファイルを届け、補助監督室へ戻る途中のことだった。廊下の角でばったりと遭遇したのはかつての教え子である虎杖くんで、彼は突然現れた私に一瞬目を丸くしたものの、すぐに人懐こい笑みを浮かべた。
そんな眩しい彼の笑顔に、胸がぎゅうと強く締め付けられる。私は咄嗟に目を伏せた。
「あ、うん……何と言うか、かくかくしかじかで……」
うまく経緯を説明することができずそう言葉を濁せば、虎杖くんは少しだけ気まずそうに「五条先生から話聞いたよ」と声を落とした。
五条先生から話聞いたよ──。その言葉を耳にした瞬間、さっと血の気が引いていくような気がして勢いよく顔を上げる。俯いていた私の急な動きに、思っていたよりもすぐそばに立っていた虎杖くんは「うお!」と驚いた声を上げて身を反らした。
「は、は、話って? 何を聞いたの?」
「え? いや、その……結婚の話がなくなって、それで先生が困ってたから高専で働いてもらうことにしたって」
「そっちか……」
「どっち?」
いくらあの常識外れな五条さんでも、さすがに自分の生徒に「実は一回だけ寝ちゃってさ~」だなんて開けっ広げにプライベートを話したりはしないか……。結婚の話がなくなったことも私にとっては恥と言えば恥なのだが、とりあえず一番知られたくない事実は伝わっていないようだ。
ほ、とため息をついて胸を撫で下ろす私に、虎杖くんは眉を下げて「大丈夫?」と首を傾げた。私の様子がおかしかったらそう聞いたのか、結婚がなくなったことに対しての心配なのか。優しい虎杖くんのことだから、きっと両方の意味での「大丈夫?」なのだろう。そう思い、頷いて笑ってみせれば虎杖くんは僅かに顔を綻ばせた。
「でも、私もう先生じゃないから。先生って呼ばなくていいからね」
「それはムズくね~? だって俺にとって先生は先生だし」
「それもそっか」
「……俺、実は先生が高専で働くことになったって聞いて、ちょっと喜んじゃったんだよね」
指で頬を掻きながらそう話す虎杖くんに、二、三度瞬きを繰り返す。そんな私の表情を見て、虎杖くんは慌てて両手をぶんぶんと振った。
「あ、もちろん結婚の話がなくなったことは、その……残念だなと思うけど。辛かった……だろうし」
ひとつひとつ、丁寧に言葉を選びながら話す虎杖くんは、私に気を遣っているようにも見える。そんな彼にありがとうともごめんねとも言えず、私は黙って顎に手を当て何かを考えている虎杖くんの次の言葉を待った。
「ほら俺、人見知りとかしないじゃん?」
「そうだね」
「けどさ、やっぱりいきなり知らない場所で暮らすことになって、それなりに不安もあったわけで」
そういえば、と思った。虎杖くんがどういう経緯で高専に通うことになったのか、私は知らない。彼は私とは違い呪術師なのだから、きっと私の事情とは似ても似つかない事情があってここにいるのだろう。
けれど『いきなり知らない場所で暮らすことになって、それなりに不安もあった』という虎杖くんの言葉が自分の今の境遇、感情と重なり、私は親近感を抱かずにはいられなかった。
「そんなときに、昔の自分を知ってくれてる人がそばに来てくれたらさ……嫌な人は嫌なんだろうけど、俺は嬉しいなーって」
「虎杖くん……」
「だから、んー、先生は先生できっと大変だったんだろうけど。俺は先生が来てくれて嬉しいよ、うん」
この年齢の男の子にしては珍しく自身の心の内をすんなりと述べた虎杖くんは、何度もうんうんと大きく頷いたあと、ふと何かに気付いて私の背後へ視線を向けた。振り返れば、廊下の奥で補助監督の新田さんが手を振っているのが見える。恐らく、今から虎杖くんは任務なのだろう。私は離れた場所にいる彼女にぺこりと頭を下げた。
以前、五条さんから『高専に通う生徒は全員現場に出る』と聞いてはいたが、私の想像以上にその頻度は高いらしい。その証拠に、私が高専で働き始めてもうすぐ一か月が経つが、実際に生徒と顔を合わせたのは今日、虎杖くんが初めてだ。
新田さんが私に会釈を返してくれたと同時に、虎杖くんがほっとしたように息を吐いた。
「先生に会えたらそれを一番に言いたかったんだよね、俺!」
「ありがとう……虎杖くん、本当いい子に育っちゃって……」
「ふは、何それ。先生もいい人だから、またすぐにいい相手見つかるって」
「そういうのはもういいかな……」
「五条先生は? 独身だしイケメンだし強いし」
まさかの人物の名前に、驚くよりも先に「それはない」と即答する。それを聞いた虎杖くんは「ひっでえ」と非難の声を上げたものの、言葉とは裏腹におかしそうにけらけらと笑い始めた。私も自然と口元が緩んでいく。
一頻り笑ったあと、虎杖くんは「じゃ、俺行くね」と私に向かって手を振った。
「うん……あ、虎杖くん!」
私の隣を通り過ぎ走り去ろうとする虎杖くんの背中に呼びかければ、彼は笑みを浮かべたままこちらを振り向いた。無意識に呼び止めてしまったため、言葉に詰まる。
『頑張って』と言うのは、なんだか違う気がする。だって、きっともう虎杖くんは十分すぎるほど頑張っているはずだから。私はぐっと拳を握りしめ、彼の真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
「あんまり……無理しちゃだめだよ」
「……応!」
少し前までは、やんちゃばかりしていたのにな。
虎杖くんの姿が見えなくなってからも、私はしばらくその場に立ち尽くしたまま、ぼんやりと彼の中学時代を思い返していた。短い間に、あんなに成長するなんて──。
私も頑張ろう。虎杖くんの姿に元気づけられそう決意したとき、ふわ、と吹いた風に背中を押されたような気がして後ろを振り返った。しかし、そこにはただ長い廊下が続いているだけ。違和感を覚えつつ、そろそろ戻らなければともう一度振り向いたときだった。
「いいな~」
「ひっ」
目の前に突如現れたのは、真っ黒なアイマスク。身を屈め、私に視線の高さを合わせている五条さんの整った顔だった。
驚きのあまり、おかしな悲鳴を上げて膝から崩れ落ちそうになる。……が、実際に崩れ落ちなかったのは五条さんが素早い動作で私の二の腕をぐい、と掴み、私の身体を支えたからだ。
近すぎる五条さんの顔から目を逸らせないまま口をぱくぱくとさせれば、五条さんは「金魚」と呟き口角を上げた。
「そんな呪霊が出たときみたいな反応されたら、さすがの僕も傷つくんだけど」
「だ、だって急に現れるから……!」
「それにしてもいいな~、僕も『あんまり無理しちゃだめだよ』って優しく言われた~い」
「聞いてたんですか……」
「そんでもって『早く帰ってきて私を抱、い、て』って言われた~い」
目元がひくひくと引き攣るのを感じながら私の頭に浮かんだのは、『呆れてものも言えない』という言葉と、数日前、雑談の中で伊地知さんから言われた言葉だった。
『いいですかさん、業務に関係のない五条さんのおふざけにはあまり真剣に付き合わない方が良いです。さんの心身のためにも』
──とりあえず話を変えよう。そう思い「どうかされましたか?」と質問を投げかければ、ようやく五条さんは背筋を伸ばし、私から顔を離した。しかし掴んでいる私の二の腕はそのままだ。
「伊地知から、は学長のところに行ってるって聞いたからさ。もう済んだ?」
「はい。私に何か用事ですか?」
「うん、ちょっとさ、ハグさせてくんない?」
「……なぜですか?」
「僕、今から出張なんだよ。二週間」
全く答えになっていない返答に思わず「はあ?」と間抜けな声を上げる。しかし五条さんは気にする様子もなく、かなおつそれ以上説明する気もないようで、空いている方の手を広げてハグ待ちのポーズをとった。
いや、そもそもここ、学校の廊下なんですが。もしそう言えば、きっと「じゃあ場所を変えればハグしていいんだね」と屁理屈を言われるだろう。しかし強引に抱き締めてこないあたり、今のところ私には断る権利がありそうだ。
どうやって解放してもらおうか思案していたら、上からわざとらしい大きなため息が落ちてきて、私の二の腕を掴む五条さんの力が僅かに強くなった。
「僕のこと、結婚相手として『ない』って即答しててショックだったな~」
「それも聞いてたんですね……」
「悠仁には、僕とが出会った日にあんなことやこんなことしちゃったこと黙っててあげたけど」
五条さんの指先が目の前に迫ってきて、反射的に目を閉じる。とん、と額を突かれゆっくり目を開くと、悪戯を仕掛けて相手の反応を楽しんでいる子どものように微笑んでいる五条さんがいた。
「僕すぐ気が変わるからさ、ぽろっと本当のこと喋っちゃうかも」
伊地知さんに聞いておくべきだった。『五条さんにおふざけされたときの対処法』を──。そんな後悔に襲われたが、今となってはもう遅い。
* * *
「あ~落ち着く」
せめて人目につかないところで、という私の要望は聞き入れてもらえたため、今私と五条さんは普段あまり人が来ることはないという資料室にいた。壁一面に並んだ本棚には過去の業務に関する資料だけでなく古本も多く保管されていて、そのせいか少しだけ空気が埃っぽいようだ。
確かに誰も来なさそうな場所ではあるが、逆に誰かが来たら言い逃れできないのでは……。五分だけ、という約束で棒立ちの私を正面から抱きしめる五条さんからは、今のところ変な気を起こしそうな気配は感じられない。五条さんの温かな体温が、じわじわと私の中に溶け込んでいく。
五条さんは落ち着くと言っていたが、私はとてもじゃないが落ち着けるはずもなく少しだけ迷って「あの」と声をかけた。
「なぜハグなんでしょうか……」
「いや~今回の任務結構やばめでさ。さすがの僕も死ぬかもしんないから、念のため」
「え? で、でも皆さん五条さんは最強だって言っ」
「ってか、痩せた? 痩せたよね、これ」
私の話を遮った五条さんの手が、私の背中を滑っていき腰骨を優しくなぞる。ぞわ、とした感覚に全身がびくりと跳ね、慌てて平静を装ったものの五条さんはわざとらしく私の耳元に唇を寄せると「そういえば背中弱かったね」と囁いた。
からかうような言葉のせいで一気に顔が熱くなっていく。五条さんを強く睨みつけたが、もちろん私の睨みに怯むような人ではない。私は諦めてため息を零した。
「……痩せました。環境も一変しましたし、プライベートもまだごたついてて食欲が……」
「プライベート?」
「結婚式を挙げる予定だったので。式場のキャンセルとか各方面への謝罪とか、新生活費用を返金してもらったりとか……大変なんです」
本来なら正当な理由のない一方的な婚約破棄に当たるため慰謝料請求もできるのだが、そこまでする気力なんて湧いてこなかった。式場キャンセルにかかる費用は全額向こう持ちだし、『とにかく早く全てを終わらせてしまいたい』というのが今の本音だ。しかし、もしこれが婚姻届を出したあとの出来事だったら……と考えるとぞっとする。
自分から聞いてきたわりに「ふーん」と興味無さそうな反応を示した五条さんは、私の腰骨を擦るのをやめて背中に手を回し、再び私を腕の中に閉じ込めた。ぼす、と顔が五条さんの胸に埋まり、一層五条さんの匂いが強くなる。
──油断すると、あの日の夜に意識が戻ってしまいそうだ。それだけは避けたいと、私は強く目を閉じた。
「じゃあ元気出たんじゃない? さっき」
「え?」
息を呑み、いつまでこうしているんだろうと不安を抱いたとき、五条さんにそう言われ私は顔を上げた。眉を顰め「元気?」と聞き返せば、「悠仁と久しぶりに話せて」と返ってくる。
「悠仁がに会いたいって言ってたから、学長のところに行けば会えるかもよって教えてあげたんだよ」
そうだったのか、と頭の中で思いながら、どこか得意気に「僕、有能~」と笑う五条さんを見つめる。出会った頃から自由な言動を見せる五条さんが気を利かせてくれたことに驚きつつ、私は虎杖くんの言葉ひとつひとつを思い返していった。
昔の自分を知ってくれてる人がそばに来てくれたら、俺は嬉しい。私よりずっと若い彼にそう言われてしまったけれど、それは私の台詞だった。今日ほど虎杖くんの存在に救われたことはない。そのことに気付いた途端、鼻の奥が痛みだし目頭が熱くなっていく。
あ、まずい、泣く。ぐっと呼吸を止めて視線を落としたとき、上から「僕に抱かれながら他の男のこと考えてる……」と恨めしそうな声が振ってきた。すっと頭の中が冷静になっていくのを感じて、私は再び顔を上げる。
「いや、言い方……久しぶりに人の言葉に救われたな、って考えてただけです」
「そういうの、あるよね。僕は教師だから、言葉に救われることより言葉で救っちゃうことの方が多いけどね」
私はあなたの言葉に救われるどころか、いつも崖から突き落とされている気分ですけどね。心の中でそう悪態つきながら、五条さんの身体を押し返す。正確な時間は分からないが、五分なんてとうの昔に過ぎているはずだ。
しかし何を考えているのか、五条さんの身体はびくともせず、私から離れる様子は見られない。それどころか私に体重をかけてのしかかってくるものだから、私の背中は後ろの本棚にぶつかり、五条さんと本棚に挟まれてさらに逃げられなくなってしまった。
「ちょっと……!」
「僕もの言葉に救われたーい」
所謂『壁ドン』と言われる体勢なのだが、ときめきよりも五条さんから感じる圧への恐怖の方が勝っている。すっかり気圧された私は視線を泳がせながら、ぼそりと呟いた。
「……あんまり、無理しちゃダメデスヨ」
「適当だな……でも、ありがと」
最後、ついでのように五条さんの口から零れ落ちた感謝の言葉に私は押し黙った。その短い言葉から、初めて五条さんの本心が見えたような気がしたのだ。
『最強』と称されるくらいなのだから、誰からも心配してもらえなかったりするのだろうか……。もしそうなら、それはすごく悲しいことだ。
いざふざけるのを止められると徐々に恥ずかしさが込み上げてきて、約束の五分間が終わっていることを切り出しにくい。しかしいい加減戻らないと、伊地知さんに迷惑がかかってしまう。
五条さんと本棚の間でもぞもぞと小さく身を捩る私に、五条さんは「続きは?」と首を傾げた。その言葉の意味が分からず、私も彼同様に首を傾げる。
「え? 続き?」
「ほらほら、『早く帰ってきて私を抱、い、て』は?」
まるでひょっとこのように唇を前に突き出してそう言う五条さんに向けて、私は盛大なため息を吐き出した。しかし、呆れつつも再びふざけてくれた五条さんに少しだけほっとしている自分がいる。私は彼の肩をぐい、と押した。
「もう終わりです。次からハグはお金とりますからね、一分五万円です」
「はは、払う払う」
ぼったくりのような金額を吹っ掛けたつもりだったが、五条さんの何とも思ってなさそうな返事に一瞬だけ警戒する。しかし彼はそれ以上私に触れることなく、大きく伸びをし欠伸を零しながら「やっぱりにはリラックス効果あるわ」と呟いた。やっぱり、ってなんだ。
* * *
「すみません、遅くなりました」
小走りで補助監督室に戻ると、今から外出するらしい伊地知さんが椅子にかけていたスーツを羽織っているところだった。そういえば今日はこのあと、術師の方の送迎があると言っていたことを思い出す。
伊地知さんは怒ることなく、優しく微笑んだ。
「いえ、学長に届けていただきありがとうございます」
「あの……伊地知さん」
「なんでしょう?」
「五条さん、今日から二週間出張って聞いたんですけど……」
そう話をしながら自席に着席し、呪霊発生地の各役所に提出する書類の数を確認する。机を挟んで目の前に立つ伊地知さんが「二週間? 出張?」と私に尋ねた。
走って戻ってきたからか、今から伊地知さんにする質問のせいか、心臓がどくどくとうるさく鳴っている。書類から視線を上げ、私は意を決して口を開いた。
「その、五条さんが怪我したり、死んじゃう可能性って……ありますか」
後半、尻すぼみになりながらもそう問いかけると、伊地知さんは眼鏡の奥で何度か瞬きをして、不思議そうな表情を浮かべたままふい、と首を振った。
「ないですね」
「ないですか」
「ないです」
きっぱりと答えた伊地知さんに、もう一度「ないですか……」とため息混じりに零せば、伊地知さんは冗談ぽく「あった方がいいんですか?」と小さく笑った。つられて笑いながら、今度は私が首を横に振る。五条さんがさらりと言った「死ぬかも」という言葉を聞いたときから心の中に居座っていた不安が、少しずつ消えていく。
いつも通り、伊地知さんの口からはあの言葉が出てくるのだろう。『五条さんは最強ですから』という、絶対的な信頼があるからこそ言える言葉が。そう思ったのだけれど。
「今日、五条さんは近場での任務なので日帰りですよ」
予想に反した言葉が飛んできたため、私は自分の耳を疑った。
「え?」
「任務の難易度的に、本来なら五条さんのような特級術師の方が当たるような案件ではないのですが……何にせよ今日は人手が足りなくて」
「……」
「五条さんが出張だなんて、どなたが言ってたんですか?」
口を閉じるのも忘れてぼんやりと伊地知さんを見つめれば、荷物の整理をしていた伊地知さんは手を止めて私を見つめ返した。そしてすぐに引き攣った笑みを浮かべ「た、たまにそういう嘘つくときあるんですよね」と呟いた。お互いに『誰が』とは言っていない。でも『誰が』なのかを分かってしまっている。
蚊の鳴くような声で「気をつけます」と呟けば、伊地知さんは「すみません」と頭を下げた。
今度五条さんに会ったら、一発ひっぱたいてやろう。少しでも心配した私の分と、謝らなくていいのに謝ってくれた伊地知さんの分だ。
* * *
「早く帰って来れたから抱いてあげようか?」
夕方、涼しい顔で現れた五条さんにそう耳打ちされて私は右手を挙げた──が、大量のケーキが入った箱を手渡され「元気出して、ちゃんと食べなよ」と言われたものだから、私の右手は宙に浮いたまま行き場をなくしてしまったのだった。
(2022.09.23)