初めて現場へ行く話
「まずは現場に連れてってやれ。ここで働くかどうかは、その後本人に判断させろ」
高専へ到着後、二人に連れられて最初に向かった場所は学長室だった。本当に教師かと疑いたくなるほど強面の学長からやはり五条さんとの関係性を問われたのだが、表情を変えずにしれっと小指を立てた五条さんのせいで学長の眉間に刻まれた皺が一層深くなり、全力で否定したあとにそう言われたのだった。
「伊地知~、ちょうど良さそうな案件ある?」
「お待ちください、今調べます」
学長室を後にし、目の前を歩く五条さんの言葉に伊地知さんがタブレットで何かを調べ始める。二人の背中を眺めながら広い廊下を歩く私は、学長の『現場』という言葉に疑問を抱いていた。確か、車の中で五条さんも言っていた気がする。『現場に出るわけじゃない』と。それは教師として働くわけじゃない、という意味に捉えていたけれど──。
学校で働く人たちにとっての現場は、普通に考えたら学校だろう。しかし学長や五条さんの口から出る『現場』という言葉には、普通じゃない、何か重みのようなものを感じる。
「さすがに特級案件に同行……は危険すぎるので、明日虎杖くんたちが担当になっているこちらはどうでしょう。場所的にも、彼らを向かわせるのは気が引けますし」
「いいじゃん。じゃあ早速行こうか、」
「あっ」
自分の中で、割れる直前の風船のように膨れ上がっていた不安。その処理に困っていたとき、二人がほぼ同時にこちらを振り向いたので私は一瞬戸惑いの声を上げた。耐え切れず「現場って……」と呟けば、五条さんの手がにゅっと伸びてくる。
「なあに不安そうな顔してんのー?」
「うわ」
伸びてきた手は私の頭に触れ、遠慮なんて微塵も感じられないほどの乱暴さで髪をぐしゃぐしゃにした。揺れる髪の隙間から、愉快そうに笑みを浮かべている五条さんの姿が見える。
「別に大したことない、ただの楽しいお出かけだって。気楽にいこうよ、気楽にさ」
私のことを気遣って言ってくれているのか、それとも何も気にしていないのか。恐らく後者だろうなと思いつつも、この五条さんの言葉で積もり積もっていた不安が少しだけ消えたような気がして、私はそれ以上尋ねることはせず黙って頷いた。
* * *
「私は別件があるので一旦離れますが、終わったら連絡ください。迎えに来ますので」
「りょうか~い」
「帳、忘れないようにお願いしますね」
背後で伊地知さんの運転する車が走り去っていくのを見送ることも忘れ、私は目の前にそびえ立つ建物をぽかん、と仰ぎ見た。
高専から車で三十分。着いたのは、高速道路沿いにひっそりと佇むお城のような建物だった。遠くからだと真っ白に見えた外壁は、そばに寄って見ると灰色にしか見えない。そしてそんな灰色の外壁に堂々と掲げられた看板には、『HOTEL』と記されている。
「……」
「えっ、やだ何その目、もしかして何か変なこと考えてない? やらし~!」
「だっ、だってここ……!」
ラブホテルじゃないですか!
そう叫ぶ私の隣で五条さんが何かを唱え、それをきっかけに突として上空に現れた黒い闇が周辺を包み込むように広がりながら落ちてくる。見たことのない景色に言葉を失い呆然とする私の肩を、五条さんが力強く抱いた。
「さあ、いよいよ楽しいお出かけの本番だよ~」
「か、帰ります!」
目の前にある建物がラブホテルだから、というより急に訪れた闇にただならぬ恐怖を感じ、全力で抵抗を試みる。しかし五条さんは動じる様子もなく、後ろに仰け反る私をずるずると引きずりながら「終わったらね」と意味深な言葉を吐いた。主語がない……。
結局私の希望が叶うことはなく、誰もいない受付や点灯していないパネルの前を通り過ぎ、鼻歌を歌いながら進む五条さんの後を追う。薄暗く、人の気配は全く感じられない。まあラブホテルってそんなものかと思っていたら、五条さんが前を向いたまま「今、ここ改装中だから誰もいないよ」と呟いたためさらに緊張が増す。
静かな廊下、唯一聞こえるのは私と五条さんの足音だけ。五条さんと学長の言う『現場』とは改装中のラブホテルのことなのか、伊地知さんはなぜこんなところに私たちを連れてきたのか、そもそもここで一体何をするのか──。様々な思いが頭を駆け巡り、どこへ向かうのか疑問に思った私はちらりと五条さんの背後から彼が進む方向を覗き見た。ドアの開いた客室からマットレスのみが敷かれたベッドが見えて、慌てて目を伏せる。
「っていうか」
五条さんがぴたりと足を止めこちらを振り向いたので、私もその場に立ち止まった。
「何この距離、なんでそんな離れてんの?」
「いや……ちょっと場所もあれですし、半径1メートル以内には近付かないでください……」
「そんな警戒しなくてもよくない?」
半分呆れたような笑みを零した五条さんはこう付け加えた。今更でしょ、と。まあ確かにそう言われると何も言えないのだけど。
何かに気付いたのか、五条さんがふと私の頭上を見つめた。それに釣られて私も顔を上げ、あちこちに染みのある天井を眺める。
「あ、来た」
「え? 何が──」
天井から五条さんへ視線を戻したときだった。どん、と大きな音が鳴り床がビリビリと震え、爆音とともに天井が抜けて私の後方に何かが落下した。
一瞬地震かとも思ったが、足元が揺れている感じはしない。突然のことで反射的に身を低くしていた私は、ばくばくとうるさく動き出した心臓の辺りを手で押えながら勢いよく振り返った。ぱらぱらと天井から落ちる小さな瓦礫や砂埃の中に見える、黒い“何か”。その正体を確かめようと目を凝らしたとき、驚くことにその“何か”にびっしりと並んでいた無数の目が一斉にぎろりと動いたため、私は悲鳴を上げて五条さんに飛びついた。
「あれ、半径1メートルルールは?」
「おっ、おば、おばけっ……!」
「おばけ~? そんなん、いるわけないじゃん」
そうか、五条さんには見えていないのか──。
絶望的な気持ちで五条さんを見上げたが、五条さんは「一回しか教えないからね」と言うと、しっかりと黒いおばけを指さした。
「あれはおばけじゃなくて呪霊。人間の負の感情から生まれた『呪い』が形になったもの」
「呪霊……!? 何言って、っていうかやっぱり見えて」
「呪いは呪いでしか祓えない。僕たち呪術師の仕事は、ああいう呪いを祓うこと。高専は呪術師を育成する学校。はい、説明終わり」
「に、逃げなきゃ……!」
「話聞いてた?」
一つため息をついた五条さんは、後退りしようとする私の二の腕を掴むとそのまま私を自身の身体に引き寄せた。逃げたい、逃げなきゃいけない。でも、五条さんが一歩も動こうとしないためどうすることもできない。
負の感情、呪いを祓う、呪術師。先程五条さんから早口で告げられた言葉が頭の中を巡る。理解しようと考えれば考えるほど混乱してしまい、ひょっとして自分は今夢を見ているのでは、とも思ったが、五条さんの身体に密着した部分は悲しいことにしっかりと温かい。
震える私とは違い冷静な五条さんは、私を見下ろすとこう尋ねた。
「今までだって、ずっと見えてたでしょ?」
五条さんの言う通り、私は小さい頃からおばけ──五条さん曰く呪霊と言うらしい──が見えた。しかしそのことを母に相談しても相手にされず、学校のクラスメイトに言えば『変わった子』認定され、唯一見えることを信じてくれた祖母からは「見えないふりをしなさい」と助言された。見えないのが普通だから。そして、おばけたちは自分たちのことを見てくれる人間が大好きだから、と。
おばけに好かれたくなかったし、何より普通でいたかった私は祖母の助言通り見えても見えないふりをしていた。そのおかげか、私に対しておばけが何かアクションを起こすことはなく、今まで危険な目に遭うこともなかった。
「た、確かに見えてましたけど」
でも、今私と五条さんの目の前にいるものは、今まで見てきたものとは全く違う。目が多いからとかそういうのは抜きにして、『見えないふり』が通用するとは思えない。
「あんな……あんなに大きくて、恐ろしいのは初めてです……!」
「へえ、運が良かったんだね」
さらりとそう言ってのけた五条さんは、相変わらず私に視線を落としたまま「ちなみにと初めて会ったときも~」と呑気に話を続けた。
おばけ、もとい呪霊の周りに落ちていた大小の瓦礫がふわりと宙に浮き、ぞくりと悪寒が走る。これは、いよいよまずいのでは。私は咄嗟に五条さんの服を引いた。
「あのときの呪霊、無駄に逃げ足早くて世界陸上思い出しちゃってさ~。そういや、何かスポーツやってた?」
「前っ……まえ、前前前前見てください!!」
「うわうるさっ、ヤってるときはあんなに声我慢してたくせに」
「ひっ」
呪霊が動き、振りかぶると同時に浮いていた瓦礫が一箇所に集まる。そして大きな塊のようになったそれが私たち目掛けて飛んできた。
あ、死ぬ。口からそんな嘆きが零れ落ち、訪れるであろう衝撃の恐怖から強く目を閉じて五条さんに抱き着いた。しかし予想に反し、何も起こらない。自分の心臓や呼吸の音以外、何も聞こえない。
「」
「……!?」
「目開けて、ちゃんと見て」
身体を引き離され、後ろから両肩に添えられた五条さんの大きな手。この場に不釣り合いな落ち着いた声でそう囁かれ、私は恐る恐る目を開けた。
人は身の危険を感じたとき、視覚の処理能力が通常よりも高まることから、見ているもの全ての動きがゆっくりに感じることがあると聞く。私の身体が今そうなっているのか、目を閉じる直前、確かに飛ばされたはずの瓦礫が私たちのそばで静かに浮かんでいた。しかしそれはいくら瞬きや呼吸を繰り返しても動かないままで、私たちに当たる気配はない。
「もう一つ教えてあげる」
声がして、五条さんの顔が自分の顔の真横にあることに気付く。片目だけを露わにした五条さんは相変わらず余裕の笑みを浮かべたまま、まっすぐ呪霊を見つめていた。
やっぱり綺麗な目。こんなときなのに、そんなことを思う。
「は死なないよ、僕がいるからね」
その言葉の真意を尋ねる前に、五条さんがすっと手を上げる。次の瞬間、再び大きな音が鳴り私は全身を震わせて再び目を閉じた。ふわ、と生温い風が顔にあたり、訪れたのは静寂。しばらくして、終わったよ、という言葉が聞こえ、ゆっくり目を開けた。
天井にぽっかり開いた大きな穴、床に散乱した瓦礫の山、宙を舞う砂埃。絶対に夢じゃない。夢じゃないのに、先程まで目の前にいた呪霊の姿はない。
ぼうっとしている私の両肩をぽん、と五条さんが叩き、身体が跳ねた。顔を上げれば、元通りアイマスクをはめた五条さんが笑っている。
足に力が入らず腰が抜けた私は、その場にぺたりと座り込んだ。
「こっ……」
「こ?」
「こんなことって……」
「こんなことがあるんだよね、みんな知らないだけで」
これが『現場』で僕らの『仕事』。漂い続ける砂埃を片手ではらいながら、当然のことのようにそう告げる五条さんを見上げる気力はなかった。
「学長は顔に似合わず優しいからさ。いくら現場に出ないとは言え、この世界を理解していないまま関わらせるのは可哀想だと思ったんでしょ」
「……そ、そうですか」
「うん、で?」
え? 小さく呟いてやっとの思いで顔を上げる。同じタイミングで私の目の前にしゃがみ込んだ五条さんは、互いの鼻先が触れてしまいそうなほどの至近距離で首を傾げた。
「大体こんな感じだからさ、例えば今日一緒に楽しく飯食った仲間が翌日普通に死んだりするような世界だけど、どうする? やめとく?」
「え……」
さらりと言うには重すぎる内容にぎょっとしたあと、あんなに責任責任! と騒いでいた五条さんから『やめる』という選択肢を与えられたことに驚いた。そしてその次に悩む私の頭に浮かんだのは、高専での伊地知さんの言葉。
『明日虎杖くんたちが担当になっている……』
「……えっ? まさか虎杖くんも、その、こういうことを?」
「ん? ああ、悠仁ももちろんだし、高専に通う生徒は全員現場に出てるよ」
ポケットからスマホを取り出し、「今日もみんな元気に出かけてるね」と話す五条さんの顔を見つめたまま私は愕然とした。あんなのと、こんなことを? 虎杖くんみたいな、子どもたちが?
大人と子どもの間にいるような中高生の彼らはまだまだ未成熟で、だからこそ大人が守り支えてあげなければならない。私はずっとそう思っていたし今でも思っているけれど、こんな世界が昔からあったのであれば、私は守っているつもりで実はずっと守られていたのかもしれない。
「やめ……ないです」
「怖くないの? 散々叫んでたけど」
「こわ……くないです」
かつての教え子がこんな世界で生きていると知ってしまった以上、もう元の生活に戻れる気がしない。私の返事ににんまりと笑んだ五条さんは、そのまま私の髪に触れた。付着していたらしい砂やごみを指先ではらいながら、「ま、やめるなんて言ったら許さなかったけどね、僕が」とぞっとするようなことを言う。
「じゃ、改めてよろしくってことで」
差し出された手をまじまじと見つめ、ゆっくりその手と握手を交わした。ぎゅ、と握られた手を引き上げられ、五条さんと一緒に立ち上がる。
もう後戻りはできない。でもそれは、五条さんと再会したときから決まっていたことだ。
する、と五条さんの手が私の腰に回される。
「とりあえず無事に終わったことだし、伊地知呼ぶ前にどう? さくっと一発ヤってく?」
「遠慮しておきます」
「つれないな~」
「終わったなら帰りましょ、今すぐ帰りましょう。出口あっちですよね? 伊地知さん呼んでもらえますか?」
「やっぱ怖いんじゃん」
(2022.08.31)