高専へお引越しする話
例年より早い梅雨明けを迎えたせいか、辺りにはすでに夏の空気が漂っている。真上から容赦なく照り付ける太陽の下に立つ私の目の前に停車したのは、一台の黒塗りの車。運転席から降りてきたスーツ姿の男性は、私を見つけると丁寧に頭を下げた。
「さん、でしょうか」
「はい。伊地知さん、ですよね」
初対面同士、車のそばで簡単に挨拶を交わす。今日までに何度か電話で話をしたことがある伊地知さんは、落ち着いた物言いや私の想像に反して随分若く見えた。
あの日、かつての教え子である虎杖くんと再会すると同時に、一夜を共にしたものの二度と会うことはないだろうと思っていた五条さんとも再会してしまった私は、あれよあれよと言う間に五条さんの計らいで彼の職場──虎杖くんが今通っている学校で働くことになった。それだけじゃない。住居も学校の敷地内にある寮の一室を借りることになったのである。
正直、この件についていろいろと思うところはあった。一度だけとは言え身体の関係を持ってしまった相手と同じ職場、しかも相手は虎杖くんの担任教師……。複雑な思いを抱えながらもこの話に乗ったのは、無職の私にとってはありがたい話だったというのもあるが、五条さんの口から何度も「責任」という言葉を吐かれたからだ。
自分から手を出してしまった相手にそんなことを言われたら、もう従わざるを得ない。それに加え五条さんは、普通の人とは思えないほど相手に有無を言わせぬ迫力のようなものがあって、最終的に私は頷くことしかできなかった。
本当に、ただの先生なのかな。心の中でそう思ったそのとき、「さんの」と伊地知さんに名前を呼ばれ私ははっとした。
「荷物ですが、送っていただいたものはすべてさんのお部屋に運んでいますので」
「ありがとうございます。何から何まですみません……」
「とんでもないです。では早速ですが行きましょうか、後ろにどうぞ」
そう促され、運転席へ戻っていく伊地知さんの背中を見ながら私は軽く深呼吸をした。
どちらにせよもう後戻りはできないのだから、あれこれ考えすぎるのはやめよう──。そんな前向きとも諦めともとれる思いを抱きながら私は後部座席のドアを開け、
「やっほ~元気~? 婚約者に捨てられた傷は癒えた~?」
すぐに閉めた。
「さん?」
「すっ、すみません」
困ったように私に声をかける伊地知さんに謝りながら、先程よりも重く感じるドアをもう一度開ける。こちらを向いて笑みを浮かべ、ひらひらと手を振る五条さんの姿に『考えすぎるのはやめよう』という自分の意志がぐらりと揺らぐのを感じた。
* * *
「それにしてもラッキーだね。普段めちゃくちゃ忙しいこの僕がわざわざ迎えに来るなんて、滅多にないことだよ?」
「そうなんですか……」
「たまたまスケジュールが空いたからさ、伊地知についてきたってわけ」
「たまたま空いたと言いますか、無理矢理空けたと言いますか……」
いかに私がラッキーかを力説する五条さんに対し、運転中の伊地知さんは軽く咳払いをした。
「それにしても……五条さんにさんのような非術師の知り合いがいらっしゃるとは思いませんでした」
バックミラー越しに私と目を合わせた伊地知さんは、そう言うと優しく微笑んだ。『ヒジュツシ』。聞き慣れないその言葉に疑問を抱いたと同時に、「どういうご関係なんですか?」という私でも答えが分からない質問が飛んでくる。
返答に困った私は、ふと隣に座る五条さんへ視線を向けた。この質問の正しい答えは何なのか。すると五条さんも私と同じようにこちらに顔を向けていて、私はただ瞬きを繰り返した。しかし彼の口角がゆっくりと上がるのを見た瞬間、背中に冷や汗が流れる。
「ん~、簡単に言うとに誘われて一回だけセッ」
「虎杖くん! 虎杖くん経由で、その……私、以前虎杖くんが通っていた中学の教員をしておりまして」
「そうだったんですね」
心に広がったのは確かな安堵感と、素直に信じてくれた伊地知さん、そして勝手に名前を使ってしまった虎杖くんへの罪悪感だった。五条さんを睨みつければ、先程の笑みを浮かべたまま「そうそう、悠仁経由で知り合ったんだよね」と一旦は私に話を合わせてくれた。──が、この五条さんの様子だと、私たちの出会いについて他言しないよう釘を刺しておく必要がありそうだ。
信号が青に変わった。止まっていた車が発進する。
「虎杖くんも、一人前の呪術師になるために毎日頑張っていますよ」
前方を見つめたままそう話す伊地知さんに、少し迷って「あの」と声をかける。
「ジュジュツシ、とは何でしょうか?」
「え?」
「すみません、無知で……」
聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。そんなことわざが頭に浮かんだものの、私の言葉でしん、と不自然に静かになった車内。その空気の変わりように「あれ?」と違和感を覚えたとき、車は徐々に減速し路肩に停車した。ハザードランプのカチカチ、という規則正しい音に合わせ、伊地知さんがどこかぎくしゃくとした様子で私たちの方を振り向く。少し青ざめているように見える伊地知さんは、私ではなく五条さんへと話しかけた。
「ご、五条さん、さんにはどこまでご説明されているんでしょうか?」
「説明?」
「私たちの業界について、きちんとお話されてますよね……?」
「特に何も話してないけど?」
あっけらかんとした様子でそう答える五条さんに対し、伊地知さんは「な」と一文字だけを発し、唖然とした様子で口をぱくぱくさせている。そんな彼の様子に、再度冷や汗が伝うのを感じた。
『私たちの業界』という伊地知さんの言葉を頭の中で繰り返す。業界って、五条さんは教員なわけだし教育業界のことではないのだろうか。
五条さんがため息を零すと、伊地知さんの身体が驚くほどよく跳ねた。
「問題ないでしょ、現場に出るわけじゃないんだしさ」
「そ、それはそうですが、きちんと説明しておかないと後々──」
「口で説明するより見せた方が早いでしょ。そのうち適当に祓ってるところ見せるから大丈夫だって」
二人の話についていけないまま、少々投げやりに答える五条さんと戸惑っている様子の伊地知さんを交互に見つめる。私のことで揉めているのは百も承知なわけだが、私が会話に入ると余計話がややこしくなりそうな気がして息をひそめていたら、私の肩に手を置いた五条さんにぐい、と身体を引き寄せられたので「うわっ」と小さく悲鳴を上げた。
「ダイジョーブ、大人しそうに見えては案外クレイジーだから。それに」
五条さんが顔を横に倒し、彼の頭と私の頭がこつん、とあたる。不覚にもときめいてしまったものの、伊地知さんの目の前で身体を密着させていることに少しずつ気恥ずかしさが込み上げてくる。
「は責任取らないといけないからね」
「……責任、ですか?」
不安げにそう尋ねる伊地知さんには返事をせず、五条さんは私と頭をくっつけたまま「ね? 」と囁いた。その瞬間に私を襲ったのは、五条さんの相手に有無を言わせぬ迫力と焦燥感だった。
私は可能な限り、と言うより絶対に五条さんとの関係や出会いを周りに知られたくないと思っているが、先程伊地知さんに問われたときの五条さんの様子から、彼自身はそこまで隠すつもりはないらしい。きっと、私の行動次第ではあっという間に暴露されてしまうだろう。
ごくり、と喉を鳴らす。口の中も唇も、すっかりからからに乾いている。
「ど、どんな仕事でもガンバリマス……」
日本語が不自由な外国人のようにそう返事をすれば、五条さんは満足げにけらけらと笑った。
「ほら、本人もこう言ってることだし? さっさと出発しよ。伊地知、車出して」
「え、あ、はい……」
納得はしていないようだったが、どうやら伊地知さんも五条さんに逆らうことはできないらしく、指示通りに車を走らせた。
会話は終了したものの、窓の外を流れる景色からどんどん建物や通行人の数が減っていくのに反して私の不安はどんどん膨れ上がっていた。深く考えない、深く考えない……。まるで呪文のようにそう頭の中で唱え続けていたら、膝の上に置いていた手の甲に何かが触れて全身が跳ねた。視線を下ろせば、その“何か”の正体が五条さんの手だったので、さらに驚いた。
「何して……」
今日初めて自分から五条さんに声を掛けたが、その呼びかけはほとんど声にならず吐息のように消えていった。手の甲に浮かんだ血管の上をするすると、撫でるように滑る五条さんの指から逃れるために手を引こうとすれば、許さないと言わんばかりに彼の手が私の手を上から押さえつけた。そのままそれぞれの指の間に、五条さんの指が差し入れられる。
伊地知さんがいる以上、大声を出すこともできず抗議の目を向ければ、当の本人は相変わらず涼しい顔をして外を眺めている。絶対楽しんでやってるな。
すると伊地知さんが「あ」と何かに気付いたような声を上げたので、慌てた私はそばに置いていたバッグを重なり合う二つの手の上に投げた。
「すみません、ちょっと電話を一本かけたいのでこの先のコンビニに立ち寄ってもよろしいでしょうか?」
「わっ、分かりました」
少し声が裏返ってしまったが、私たちが手を繋ぎあっている──正確には五条さんに無理矢理握られていることに伊地知さんが気付いた様子はなく、そのことに安心していたら少しだけ五条さんの肩が揺れたのが分かった。ちらりと視線を投げれば、口元に手を当ててくつくつと喉の奥で笑っている五条さんの姿が目に入る。
決めた。伊地知さんが車から降りたらきちんと言おう。こういうことは止めてくださいって。
* * *
「いつまで手握ってるんですか」
「、こわあ~い」
「こ、こういうことはっ!?」
コンビニの駐車場に停車し、伊地知さんが外に出てすぐだった。私の言葉に女の子のような反応を見せた五条さんは、握っていた私の手を強く引いた。急に伸ばされた腕に驚きと僅かばかりの痛みを感じたとき、視界いっぱいに少し身を屈めた五条さんの顔が広がる。そして、え? と声を上げる前に唇に噛みつかれた。
突然のことに口を閉じる隙すら、顔を逸らす余裕すら与えられず、僅かな隙間から五条さんの舌が入り込んでくる。空いている方の手で彼の肩を叩けば痛いほど強く手を握られ、なおかつ舌がさらに奥へと侵入してきたので私は目を見開いた。そして思い出すのは、あの夜のこと。やっていることはあのときと同じなのに、昼間で明るいからか、変に苦しくて羞恥心が湧いてくる。指も舌も唾液も、いろんなものが絡まりあって頭がおかしくなりそうだった。
喉の奥で「んん!」と声を上げると、五条さんは唇を重ねたまま、ふ、と息を吐いて余裕の笑みを浮かべる。悔しくて咥内を無遠慮に荒らし回る彼の舌を噛めば、少しだけ名残惜しそうに唇が離れていった。
「はは、顔真っ赤じゃん。茹でダコ?」
唇を手の甲で拭う私に向かって「そういうの逆効果だからやめた方がいいよ」というよく分からないアドバイスを投げた五条さんは、コンビニの入り口付近でこちらに背を向けて電話している伊地知さんへ視線を向けた。
「あ、せっかくだから伊地知に何か買って来させようかな」
「ひ、酷い……」
「酷いって、伊地知をパシろうとしてること? それともいきなりキスしたこと?」
そう言いながらくるりと振り向いた五条さんにいろいろと言いたいことはあったが、私はそのとき頭に浮かんでいたすべての言葉を飲み込んだ。多分、私は五条さんを言い負かすことなんてできないはずだから。
茹でダコと揶揄された顔から熱が引くのを待たずに、私は口を開いた。
「あの……確認なんですが、私たち付き合ってない、ですよね」
「付き合ってないねえ」
「付き合ってないのに、こんなこと──」
するなんて間違っています。……なんて、私は口が裂けても言えないし、そんなことを言う権利なんてない。
そのことを恐らく私より先に気付いていた五条さんは「付き合ってないのに、こんなこと?」と私の言葉をそっくりそのまま繰り返し、何も言えなくなった私を見て一層笑みを深くした。
「それにしても、これから楽しみだよね~」
五条さんが一体何を考えているのか、何をもって彼の言う『責任』を果たすことになるのか、現時点では全く分からない。ただ何となくうっすらと理解しているのは、私の目の前で楽しげに笑う五条さんは、握ったままの私の手だけでなく私自身を離すつもりは全くもってないのだろう、ということだけだった。
初めて会ったときは日本人離れした顔のせいかクールな人かと思ったけれど、今になって思う。五条さんはかなりの癖の強い、要注意人物かもしれない。本当に今更だけど。
このあと戻ってきた伊地知さんのおかげで予定よりも早く目的地である呪術高等専門学校に到着したとき、こっそり伊地知さんから「五条さんに何か弱みでも握られているんですか?」と耳打ちされ、泣きたくなりながらも首を横に振ることしかできなかった。
(2022.08.25)