五条悟とワンナイトで
終わらなかった話



 東京の夜は、夜であることを疑ってしまうほどの光と喧騒に包まれている。

 ふらふらとした覚束ない足取りとは異なり、私の頭はきわめて冷静だった。適当に入ったバーで適当に飲んで、誰かに声をかけられることもなく一人で店を後にした私は、これまた適当に喧々たる新宿を歩き回る。

 たくさんの人、人、人。こんなに大勢の人間が同じ時間を生きているのに、どうして私は誰からも選ばれずに一人ぼっちなんだろう。

 そんな考えが頭を過って涙が零れそうになり、私は唇を噛み締めた。慌てて空を仰ごうと顔を正面に向けたとき、すぐ目の前に黒くて大きな何かが立っていて、衝突した私は驚いて足を止める。自販機だろうか、それとも電柱?
 ゆっくりと顔を上げていくと、そこにあったのは自販機でも電柱でもなく、驚くほど背の高い人間の大きな背中だった。

 そしてさらに驚いたことに、どうやら私は何にもぶつかっていないようだ。今までに経験したことのない不思議な感覚に「ん?」と声を漏らせば、その背中の持ち主も「ん?」と呟いてこちらを振り向いた。
 真っ先に注目したのは、薄闇でもよく目立つ白髪と、それとは対照的な黒のアイマスク。


「…コスプレ?」
「違うけど。ああ、帳上がっちゃったか」
「と…?」
「お姉さん、まだこっちごちゃごちゃしてるから、迂回してくれる?」


 『トバリ』という言葉の意味を理解できないまま『迂回』の意味を理解した私は、男性が指差した方向を振り返る。相変わらず明るく賑やかな景色が縦に狭まって見えて、どうやら自分が無意識に路地裏に入り込んでしまっていたことにようやく気が付いた。
 ふと、男性が指差している手で何かを掴んでいるのが見えて、私はそっと手を伸ばす。暗くてよく見えないが、なんだか黒い塊のようなものをよく見ようと目を凝らした。


「それ…なんですか?」
「…へえ、見えるんだ、いいね」


 私は息を呑んだ。「いいね」というたった一言で、全身がぞくぞくと震え上がるのを感じたからだ。気付けば私は男性の腕を掴んでいて、僅かに笑みを浮かべていた男性の口元が一瞬だけ強張る。
 そのときの私は相手にどう思われるかなんてどうでもよくて、ただひたすらに「一人にしないで」と縋りたかった。今さっき出会ったばかりで名前どころか顔すらよく分からず、ろくに会話も交わしていない相手に。


「ホテル行きませんか」


 そんな突拍子なことを言ってしまうくらい、私の頭は『冷静』とは程遠いものだった。


* * *


 薄暗く時間もよく分からない中で、私は呆然とした。その理由として、一番は初対面の相手をホテルに誘うという不埒極まる振る舞いをしてしまったから。そして二番は、その初対面の相手とのセックスが信じられないほど気持ちよかったからである。それはもう、過去のセックスが全て子どものままごとのように思えるくらい。

 そっと、ベッドの上の方へ手を伸ばす。パネルに並んだボタンをひとつ指で押すと、出入口付近の明かりが点いて僅かに部屋が明るくなった。と同時に隣で眠る男性が何やら寝言のようなものを呟いて寝返りを打ったため、心臓が飛び跳ねた私は咄嗟に口に手を当てて息を止める。
 しばらくして聞こえてきた規則正しい寝息に、私は静かに安堵のため息をついた。

 なるべく音を立てないように、寝ている男性に顔を寄せる。伏せられた睫毛は髪と同じ色をしていて、その奥に隠れている瞳は言葉を失うほど美しかったことを思い出す。あわせて、一切汚れを知らないような澄み切った瞳で私を見下ろし、時には乱暴な言葉を吐いて、それでいて私に触れる手つきは恐ろしいほど優しかったことも思い出してしまい、私は急いで床に落ちている下着や服を拾った。
 確かに気持ちよかったし、何よりまたあの瞳に見つめられたいと思う。でもほぼ勢いでセックスに持ち込んだ相手と素面の状態で向き合うメンタルは持ち合わせていない。

 静かに着替えを済ませた私は、テーブルの上に一万円を置いた。幸い会計後でなくても部屋の外に出ることができ、そろりとドアを開けた私はベッドで眠り続ける男性を振り返る。
 偶然出会っただけの、綺麗な男の人。そして日本一人口が多いこの東京で、恐らくもう二度と会うことがない人。
 私は何も言わず、そのまま重い扉を閉めた。


* * *


「…あれ、センセ?」


 紙パックの野菜ジュースから飛び出したストローを咥えたまま、私は声のした方へ視線を向ける。するとそこにはかつての教え子が目を丸くして立っており、私が彼の名前を呼ぶと嬉しそうに顔を輝かせた。


「え…虎杖くん?」
「すっげー偶然! こんなとこで先生と会えるなんて!」


 そう言いながら笑う虎杖くんに対し、私は若干戸惑いつつも「元気そうだね」と声をかける。
 虎杖くんは私が先月まで働いていた中学の卒業生であり、彼が二年生のときに私は担任を務めていた。見たことのない学生服を身に纏った虎杖くんを、私はまじまじと眺める。


「えーと、修学旅行…とか?」
「あ、俺今こっちの学校通ってんだよ、じいちゃん死んじゃってさ」
「そうなの…大変だったんだね」


 記憶が正しければ、虎杖くんにご両親はおらずおじいさんと二人で暮らしていたはず。労るように言葉をかけたものの、当の本人は聞こえなかったのか「今日は今の学校の先生と二人で出掛けてたんだけど、はぐれちゃって」と額に手を当てて辺りをきょろきょろ見回した。
 平日に、学校の先生と二人で? と疑問を抱いていたら、虎杖くんが声を上げる。


「いたいた、先生! こっちこっち!」


 大きく手を振る彼の視線の先に目を向けてすぐ、私は言葉を失った。人集りの中で頭ひとつ飛び抜けているその人物が、ゆっくりとこちらに近付いてくる。
 東京、日本一人口が多い場所、日本の総人口の十一パーセント強が住んでいる巨大都市──。


「この人が、今の俺の担任の五条先生! 五条先生、この人俺が中学のとき担任だった先生!」


 唖然として引き攣った表情を浮かべる私に対し、虎杖くんから『五条先生』と呼ばれたあの日偶然出会っただけの美しすぎる男性は、静かにアイマスクを外してじっと私を見下ろした。
 あのとき、また見つめられたいと思った瞳から今すぐ逃げ出してしまいたい。


「…ん、何で先生アイマスク外したん?」
「分かってないなあ悠仁、綺麗な女性の前では素顔を晒すのがマナーなんだよ」


 そう言って五条さんはにこりと笑うと、すっと私に右手を差し出した。


「初めまして、悠仁の担任をしてます五条です」


 彼の口から出た「初めまして」という言葉に、一気に身体の力が抜けていくのを感じた。それもそうだ、こんな明るい太陽の下で顔を合わせるのは初めてなのだから。仮にあの日、顔をきちんと見ていたとしても、平々凡々な私のことなんて覚えていないに決まっている。
 差し出された大きな手と握手を交わしながら言った「初めまして」という言葉は、少しだけ震えていた。


「それにしてもさ、先生は何で東京にいんの?」


 虎杖くんのその質問に、私は考えを巡らせる。しかしいざ私が答えようとしたとき、虎杖くんは思い出したと言わんばかりに自身の手をぽん、と叩いた。


「あ、そっか! 確か婚約者が東京の人なんだっけ?」


 久しぶりに耳にした『婚約者』という単語と、「じゃあもう結婚したん? おめでと!」言う虎杖くんの無垢な笑顔にくらりと目眩を覚えたとき、握手したままだった五条さんがぐい、と私の手を引いた。


「大丈夫ですか?」
「あ、だ、大丈夫です」


 倒れそうなほどの目眩ではなかったが、なぜか過剰に反応した五条さんが「道の端に寄りましょう」と私の肩を抱く。少しだけ動揺しつつ、言われるがまま三人で通行人の邪魔にならない場所へと移動した。
 もう一度「大丈夫です」と言うと同時に、五条さんが虎杖くんに水を買ってくるよう指示を出す。そして再び、先程よりも大きな声で「大丈夫です」と言うと同時に、心配そうな表情を浮かべていた虎杖くんは尋常ではないスピードで走って行ってしまった。

 突として訪れた、二人きりの時間。なぜか私の肩を抱いたままの五条さんの手に自然と意識が集中してしまい、この緊張が伝わらないよう私は平静を装いながら五条さんを見上げて微笑んだ。


「すみません、もう大丈夫なので…」
「そうですか、良かったです。ところで、先生は悠仁が何年生のときの担任だったんですか?」
「ええと、二年のときです…虎杖くんはたまにやんちゃしちゃう方だったので、ちょっとだけ大変でした」


 足元に視線を落とし、少し前の虎杖くんを思い出す。たまに他校の生徒と喧嘩をして職員会議で問題になっていたものの、彼がする喧嘩は道理が通っているものがほとんどだった。だからと言って、暴力は良くないけれど。
 ふ、と少し頬を緩めて「でも、いい子ですよね」と、慌てて水を買いに走って行く彼の背中を思い出しながら呟く。


「いい子ですよね~、ちなみに先生、朝起きたら一夜を共にした相手にラブホテルに置いて行かれてたときの気持ちってどんなものか知ってます?」


 ゆっくりと隣に立つ五条さんを見上げる。私の肩を抱く五条さんの手に力が込められると同時に、美しい彼の笑顔と面した私は頭から水を浴びたような恐怖を覚えた。


「そしてその一夜を共にした相手が、結婚しているのに初対面の男と羽目を外しちゃうタイプだって知ったときの気持ち、分かります?」
「け、結婚はしてない!」


 急に大声を出したせいで、行き交う人々の視線が私に集中する。一気に顔中に熱が集まり、身を縮こまらせて絞り出した声は自分でも驚くほどか弱いものだった。


「お、覚えてたんですね…」
「そりゃ、忘れないでしょ」


 さも当然のようにそう言ってのけた五条さんは、呆れたようにひとつ息を吐いて私の肩を抱く手の力を緩めた。
 それを皮切りに、ぽつぽつと順を追って説明をしていく。

 虎杖くんの言う通り、婚約者は東京の人であったこと。予定どおり結婚するために、仕事を辞めて宮城から東京に出てきたこと。しかし五条さんと初めて会ったあの日、婚約者から『やっぱり結婚できない』と言われたこと。

 静かに私の話に耳を傾ける五条さんに対し、私は頭を下げた。


「なので結婚はしてないんです。だからって許される訳じゃないと思いますが…その、勝手に帰ってしまって、ごめんなさい」


 頭上から五条さんのため息が振ってきて、私はびくりと身体を震わせた。


「じゃあ今は『職なし・家なし・彼氏なし』ってこと?」
「まあ…家は、一応マンスリー借りてます。宮城には帰れないので…こっちで仕事を探そうかと」


 軽い調子でふうん、と相槌を打った五条さんは、俯いた私の顔を覗き込んだ。先程までの貼り付けたような笑顔とは違い、今度は心から楽しそうに笑っているように見える。


「僕、こう見えてめちゃくちゃいいお家の跡取りなんだけど、そんな僕の童貞奪った責任をとってもらわないとな~」
「どっ! 童貞は絶対嘘でしょう…」


 あの夜、気を失いそうになるまで責め立てられたことを思い返してごくりと喉を鳴らせば、五条さんはさらに顔を寄せて「せ、き、に、ん」と囁いた。
 いつの間にか敬語でなくなっている。そう思いながら、私は一歩後ろに下がって「何をお望みですか…?」と質問を返した。明らかに警戒心丸出しの私に、五条さんは片手を広げて差し出す。


「とりあえず、何か身分を証明できるもの出してくれる?」


 急に職質を受けているような気分になった私は、少しだけ悩んだあと大人しく鞄の中に入れていた財布から運転免許証を取り出した。一応虎杖くんの担任の先生であることは間違いないのだから、悪用されるということはないはずだ。
 五条さんは私の手から免許証を奪うと、にやりと笑って私の名を口にした。





 小さく頷くと、五条さんはお尻のポケットからスマホを取り出し、免許証を撮影してどこかに電話をかけ始めた。


「…うんそう、ほら伊地知、事務作業やってくれる人間欲しいって言ってたじゃん? 今身分証送ったから…まあ、一応見える側だしいけるでしょ」


 そんな話し声を聞きながら、虎杖くんが消えていった方角を見つめる。どこまで行ってしまったのか、まだ戻ってくる様子はない。
 五条さんが「じゃあ、よろしく」と言うのを聞いて、私は慌てて五条さんへ視線を戻した。彼はスマホを片手に、機嫌よく笑っている。


「とりあえず、には僕の職場で働いてもらうよ」
「え? あの、学校…ですか?」
「うん、でも教師ではないけど。はい、これでとりあえず仕事と住まいは解決~! 荷物、今日まとめられる? 」
「あの、でも、急すぎるというか、よく知らない方にそこまでしてもらうのは、さすがに申し訳な、」
「僕の聞き間違いかな? よく知らないって言った?」


 五条さんは私の言葉を遮ってそう言うと、スマホを持ったまま空いている方の手を私の腰に回して抱き寄せた。突如近くなった距離と、密着した場所から伝わる五条さんの体温、そしてすぐ目の前に迫った綺麗な唇に嫌でもあの夜の記憶が蘇る。


「酷いな、僕はの左胸にほくろが二つ並んでることも知ってるっていうのに」
「な…!」
「あと背中を指でなぞるとすっごく可愛い声が出ちゃうことも、すっごく積極的で僕とめちゃくちゃ体の相性がいいってことも知ってるんだけどなあ」
「か、勘弁して…」


 からかうように私の腰を擦る五条さんの奥で、ようやく虎杖くんがこちらに向かって走ってくる姿が見えた。焦りながら「虎杖くんが、」と呟けば、五条さんはそっと私の耳に唇を寄せてこう囁いた。


「一回きりで終わらせようなんて許さないからね、


 あの日、誰からも選ばれないことを嘆いていた私がまさかこんな形で選ばれることになるなんて。
 嬉しそうに笑う五条さんと赤面して困り果てている私、そんな二人を見て戻ってきた虎杖くんが首を傾げたのは言うまでもない。



(2022.06.30)