還来
少女は自分の名前を、、と言った。年は十になったばかり、父親と母親、そして少女の三人で暮らしているらしい。
父親は城勤めかと尋ねれば、少女は『カイシャ勤め』だと言う。家はどこにあるかと尋ねれば、雑渡たちが聞いたことのない地名を言う。逆にタソガレドキの話をすれば、少女は首を傾げる。言葉は通じるが、話は通じない。まさにそんな感じである。
当たれるところはすべて当たった。しかし、調査範囲を広げても、少女の身元が分かるような情報は得られなかった。
その一方で、分かったこともある。
少女はとにかく、何も知らなかった。着物の着方も、草履の履き方も、水の汲み方も、火の起こし方も。
今までどうやって生活していたのか、雑渡は不思議で仕方がなかった。だがそれとは対照的に、娘が欲しかったらしい彼の母は嬉しそうに一つひとつを丁寧に少女へ教えていた。最初は戸惑っていた少女も、次第に雑渡の母に言われることを懸命に理解しようとし始めた。知らない人間がその様子を見たら、本当の母と娘だと思ったことだろう。
そんな生活が、ひと月は続いた。
雑渡は屋敷を空けることが多く、少女と顔を合わせる機会は滅多になかった。それでも、会うたびに少女の顔つきが少しずつ明るくなっていくのが分かった。
そしてある日。珍しく休みの取れた雑渡が、縁側で忍具の手入れをしていたときのことだ。
「気になるなら、そばに来て見てもいいよ」
手裏剣を磨いていた雑渡は、廊下の突き当たりに隠れてちらちらとこちらの様子を窺っていた少女へそう声をかけた。
本人はうまく隠れているつもりだったのだろう。不意を突かれた猫のようにびくりと身をすくませたあと、少女はおずおずと雑渡の方へ近づいてきた。そして、雑渡との間に一人分の距離を空けて腰を下ろす。
「……それ、手裏剣ですか?」
長い沈黙のあと、少女は雑渡を見上げてそう尋ねた。久しぶりに聞いた声には、若干ではあるが雑渡への恐怖と警戒の色が滲んでいる。
手裏剣を知っているのか、と聞けば、少女は頷いて言った。本で見たことがある、と。
「……打ってみる?」
試しに手裏剣を差し出してみれば、少女はぶんぶんと激しく首を振った。
まあ、忍びの見習いでもない子どもに手裏剣を打たせるわけにもいかないか。雑渡はそう考えながら、掲げた手裏剣をそのまま庭の柿の木に向かって打った。
手裏剣が橙色の柿の実をかすめ、枝だけを正確に断ち切る。ぼとりと地面に落ちた柿の表面には、傷一つない。
「えっ」
さして考えもせず雑渡が取った行動に、すぐ隣から驚きの声が上がった。
見れば、少女が口を開けて目をきらきらと輝かせている。
「す、すごい……!」
「そう?」
「今のは、狙ってやったんですか?」
「まあ、狙わないとできないから」
喋りながら、もう一つ柿を打ち落とす。少女が嬉しそうに笑い、拍手する。その姿を見ているうち、雑渡もいつしか柔らかな笑みを浮かべていた。
そして雑渡は、枝に残る柿を次々と落とし、気づけば木には葉だけが残っていた。まだ食べごろではない青柿まで打ち落としてしまったのである。
やりすぎた、と一人反省する雑渡の前で、少女は庭に出て柿を拾い始めた。
腕いっぱいに柿を集めては、縁側へ運び、一つひとつ丁寧に並べていく少女。何気なく眺めていた雑渡は、少女の横顔が以前よりもずっと穏やかになっていることに気づいた。
やがて少女が顔を上げ、雑渡と視線を合わせる。
「昆奈門様は……強い忍者なんでしょ」
「誰から聞いたの?」
「お豊さんから。昆奈門様は次のコガシラ、クミガシラになる人だって」
『小頭』『組頭』を言いづらそうに口にした少女に、雑渡は「どうかな」と曖昧に返事をする。
雑渡自身、出世にはさほど興味がなかった。もちろん忍びであることに誇りはあるが、まだ二十一歳。先のことを急いで考える必要もなく、今の立場に甘んじていることにも、これといって不満はなかった。
再び縁側に少女が座る。今度は一人分の距離を空けることなく、雑渡のすぐ隣で足をぶらぶらと揺らす。
「でも、手裏剣も上手だし、周りの人がそう言うってことは、今までたくさん頑張ってきたってことですよね」
「……言うねえ」
雑渡はにやりと笑った。たとえ相手が物知らぬ少女であっても、そう言われて悪い気はしない。
そんな彼を見て、少女もにこっと微笑む。先程に比べると、だいぶ緊張も解けてきたようだ。
「わたしもたくさん頑張ったら、またお母さんとお父さんに会えるかな……」
ぽつりと呟かれた少女の言葉に、雑渡は何も答えなかった。
内密に黒鷲隊にも協力を仰いではいるが、今のところ成果はない。そんな状況で、会える、と無責任な希望を口にすることはできない。ひょっとしたら、少女は『捨てられた』という可能性もあるのだ。
しばし黙り込んだ末、雑渡は答える代わりに少女の頭をそっと撫でた。
「柿の実は みな落ち果てて 枝ばかり 残れる木には 秋風ぞ吹く……」
いつの間にか背後にいた雑渡の母が、実のない柿の木に気づいて歌を詠む。
ぎく、と肩をすくめた雑渡と少女は、こっそりと顔を見合わせたあと、堪えきれぬように口元を緩ませた。
▼
「についてですが、正式に雑渡家の娘として迎えたいと思っています」
十日ほど忍務で留守にしていた雑渡が戻ってくると、彼の母は有無を言わさぬ口調でそう言った。
土産に買ってきた団子を口に運びかけた雑渡は、そのまま動きを止め、彼女へ目を向ける。
「もう迎えているではありませんか」
ふと浮かんだ疑問をそのまま口にすると、彼の母は呆れたように息を吐いた。
気にせずに、雑渡は団子を口に含んで咀嚼する。
「正式に、と言ったのです」
「つまり?」
「つまり――良い嫁ぎ先を探してあげねばなりません」
んぐ、と団子を詰まらせた雑渡は、そのまま激しく咳き込んだ。手にしていた団子を危うく落としかけるも、すぐさま茶を口に含み喉へと流し込む。
ようやく息をつくと、雑渡は静かに呼吸を整えた。
「……それはさすがに、気が早いのでは?」
「私があの子の歳の頃には、もう親はどこの家へ嫁がせるか考え始めておりましたよ」
「しかしは、まだ身の回りのことや家のことも、そう上手くはできないでしょう」
「それは嫁ぎ先が決まってからでも、十分間に合います。何も今すぐ嫁ぐわけではないのですから」
「いや、しかし」
「私も先に死ぬ身です。あの子がまた、一人になることは避けたいのです」
「私が面倒を見ますよ」
「今日はよく喋りますこと」
雑渡は団子の串を指でくるくると回しながら、不意に口を閉ざした。
雑渡自身、うまく己の心情について説明ができなかった。ただ、少女がどこかへ嫁いでいくということが、どうも想像できない。理屈ではなく、胸の奥に引っかかるものがあって、素直に賛成できないのだ。
「面倒を見るも何も、其方にはちゃんとした許嫁がいるではありませんか」
彼の母は目を細め、静かに茶を啜り言った。
「狼隊に、ちょうど良い相手はいないのですか?」
「私の把握している限りではいませんね」
「高坂殿の倅はどうでしょう、月輪隊の。たしか歳も近かったはずですが」
「月輪隊は武闘派で気性の荒い男ばかりですので、あまりおすすめはしません」
「では、隼隊は?」
「身の危うい忍務が多いですから、夫に先立たれる可能性が高いかと」
「そういえば、黒鷲隊にもちょうどよい年頃の子らがおりましたね」
「黒鷲隊の者に嫁がせるなど、人質として差し出すようなものです」
互いに一歩も譲らぬ会話を繰り広げていたときだった。
「お入りしてもよろしいでしょうか?」
部屋の外から声が聞こえ、雑渡は妙に思いながら襖を見つめた。
その声は少女のものだった。だが最近の少女であれば、雑渡が帰ってきたことを知ると何をしていてもパタパタと駆けてきて、元気よく「おかえりなさい!」と飛びついてくるのだが。
雑渡が口を開くより先に、彼の母が「どうぞ」と言う。
ゆっくりと襖が開き、少女が姿を現した。敷居の前に膝を揃えてちょこんと正座し、静かに頭を下げている。
少女が身に纏う紅色の着物は、雑渡が忍務に出る前、城下の反物屋で少女のために選んだものだった。仕立て上がり次第、届けるよう店の主人に頼んでいたのである。
少女は雑渡と彼の母の間に腰を下ろすと、雑渡を見てふわりと微笑んだ。
「昆奈門様。ご無事のお戻り、何よりでございます。また、このような素敵なお着物まで、本当にありがとうございます」
「え、あ、うん」
これまでにない丁寧な言葉遣いと所作に、雑渡はあからさまに狼狽えた。
たった十日。その短い間で、少女は随分と教育されたようだった。まるで本物の良家の娘を前にしているようだ。
雑渡は、以前とは変わってしまった少女に買ってきた団子を勧めることもできず、黙り込んだ。嫁ぎ先についての話をしていたということもあり、言いようのない寂しさが募っていく。
「では、わたしは夕餉の支度がございますので、失礼いたします。昆奈門様、ゆっくりお休みくださいませ」
「え、あ、うん」
少女が部屋を後にすると、同じ返事しかできなかった雑渡を見て彼の母は小さく笑い、団子を手に取った。
「女子というものは、あっという間に化けるのですよ」
「……そのようですね」
「其方は、自分の許嫁には文の返事を出したこともなければ贈り物をしたこともない。それなのに、には着物を贈り面倒まで見るという。そのことを知れば、其方の許嫁はどう思うでしょうねえ」
「……は、子どもですよ」
「そうでしょうか?」
先程までとは違い、何も言い返せなくなった雑渡はただ黙り込み、持っていた串を皿の上に置いた。
まさしく、ぐうの音も出ないとはこのことである。
▼
すっかり疲れ切った雑渡は、ため息を吐くと重い足取りで母のいる部屋を後にした。
少女の言葉通り、夕餉まで少し休もうか。そう考えたとき、視界の隅に紅色の着物がちらりと映った。雑渡はすぐにその紅色を追いかける。
「あ、昆奈門様」
少女は、背後に現れた雑渡に気づくと、嬉しそうに雑渡の名を呼んだ。両手には、栗が入ったざるを抱えている。
今日は栗ご飯だと言って、少女は嬉しそうに目を伏せた。そのまま通り過ぎようとする少女の前へ、雑渡はすっと身を滑り込ませる。行く手を阻むよう壁に背を預け、少女を見下ろした。
少し驚いたように目を見開いた少女へ、雑渡は小さく呟く。
「」
少女の表情が変わる。何かに葛藤している様子で、しばらく視線を彷徨わせる。それから周りに誰もいないことを確かめたあと、やがて少女は栗の入ったざるを床に置き、えへへ、とはにかんだ。
それは、雑渡がよく知る少女の顔だった。
両手を広げてすぐ、少女が雑渡の腕の中へ飛び込んでくる。
「おかえりなさい、昆奈門様!」
「ただいま」
すり、と頬を擦り寄せてくる少女を抱き上げると、少女の髪からふわ、と藤袴の甘い香りが漂った。
かしこまった礼儀正しいあいさつよりも、こうして気安く「おかえり」と言われる方が、より自分の居場所へ戻ってきたのだと実感できる気がした。張り詰めていたものがゆっくりとほどけていくような、そんな安堵が胸の奥に広がっていく。このとき、すでに少女は雑渡の『帰る場所』になっていたのだ。
今すぐ大人にならなくてもいい。ゆっくりと大人になっていってほしい。そしてできることなら、その成長をすぐそばで見届けていきたい。
そんな叶うかどうかもわからない願いを、雑渡は胸の奥にそっと抱き始めていたのである。
▼
長期忍務へ赴く雑渡のために山守神社へ参りに行く、という母になぜ信心の薄い雑渡が付き添うことを決めたかというと、理由は一つ。母が少女も連れて行くと言ったからだ。
とてもじゃないが、少女にそんな体力はないだろうと思っていた。しかし、そんな雑渡の心配をよそに、少女は母の足跡を辿るようにして懸命に山道を登り続けた。そういえば少女は山守神社で倒れていたのだから、もしかしたらそのときもこうして登ったのかもしれない。
「何か思い出したことはありますか?」
鳥居を見上げ、わあ、と感嘆の声を漏らす少女に雑渡の母が尋ねる。しかし少女は少し悩んで、特に何も、と首を傾げただけだ。
その答えにひそかに安堵したのは雑渡だけではなかった。すでに彼の母が、少女の素性について探ることをやめていたことを、雑渡は知っている。
からんからん、と鈴が鳴った。その音が秋風に乗って、山の中へと広がっていく。
手を合わせ目を閉じる二人を見て、雑渡も母に小言を言われないよう、仕方なくそれに倣った。
「ええと、お豊さんと奥様がいつまでも元気で過ごせますように……昆奈門様が無事に戻ってきて、立派なコガシラとクミガシラになれますように……あと、それから……」
「欲張ってはなりませんよ」
小さな声で願い事をいくつも唱える欲張りな少女に、雑渡の母が窘めるように言う。
ふ、と雑渡の口元が緩んだ、そのときだった。
「それから……また、お母さんの作ってくれたハンバーグを食べたいです」
聞き慣れない言葉に、雑渡は目を開けた。それは彼の母も同じだったらしい。二人がほぼ同時に、間に立っている少女へ目を向ける。
すぐに母の小さな悲鳴が聞こえ、雑渡は息を呑んだ。
少女の姿がゆっくりと透け始めていたのだ。しかも、ただ透けていくのではなく、身体のあちこちが光の粒となってぼろぼろと崩れていき、その小さな欠片のような光が宙を漂っている。
やがてそれらは一つ、また一つと風にさらわれていった。
「あれ?」
異変に気づいた少女が己の手を見つめる。
まるで幻を見ているかのような錯覚に陥ったが、雑渡はすぐさまその消えゆく手に自らの手を伸ばした。しかし、必死にその手を掴もうとしても、今まで何度も触れてきた少女の柔らかな肌に雑渡の手が触れることはなかった。
「こ、昆奈門様」
少女が顔を上げる。そして、戸惑った様子で雑渡の名を呼んだ瞬間、崩れた身体は最後の光の粒となり、消えた。
雑渡の目の奥には、まだ淡い光の残像がちらついていた。しかし、あとには何もなかった。唯一かすかに残っていた少女の気配さえ、山の静けさの中へ溶けていく。
それは一瞬の出来事だった。手を伸ばせばすぐに届くはずだったその姿も、交わした言葉も、あの笑顔も。すべてが夢だったのではないかと思えてしまうほどに、まるで初めからこの世にはなかったかのように、あまりにもあっけない消失だった。
それから雑渡自身、どうやって自分の屋敷へ戻ったのか、あまり覚えていない。
ただ、雑渡は少女を探し続けた。彼の母は何度も山守神社へ足を運び、お豊も城下へ買い出しに行くと言って、なかなか帰ってこないことが増えた。
少女のいない日常が当たり前のはずだった。しかしいつまで経っても、雑渡家の日常が戻ることはなかった。
それからしばらくして、雑渡は悟った。もう少女は、この世界のどこにもいないのだと。最初から、この世界の者ではなかったのだと。
少女の願いも虚しく、数年経った頃に母は体調を崩し、あっけなく逝った。
少女がいつか戻ってくると信じていた母は、最期に雑渡へこう言い残した。其方が本当に望む方を選びなさい、と。
雑渡は、母の代わりに山守神社へ頻繁に足を運ぶようになった。少女を奪った神には恨みしかなかったが、叶うものならまた無事に戻って来るようにと、何度も祈った。
そして十五年。どうやら、神は本当にいたらしい——。
しかも、幾多の血を浴びてきた自分の願いを叶えてくれるような、奇特な神が。
「名は」
「……、です」
「……殿。では、おいで」
雑渡は、突然気配もなく殿の寝所に落ちてきた少女——いや、この十五年で大人の女性へと成長し、すべてを忘れてしまっている彼女へ手を差し伸べた。腰が抜けて動けない、と呟く彼女の前に屈んで視線を落とすと、白いふくらはぎには薄闇の中でも見えるくらいの傷が残っていた。首にはなんと、絞められたような痕まである。
そして雑渡は、怯えきっている彼女の身体を優しく抱き上げて、決意したのである。
神にも誰にも、もう二度と渡してやるものか、と。
たとえ、彼女自身が、それを望んだとしても。