邂逅

 およそ二月にわたる黒鷲隊との共同内偵とその報告を終え、身体の重さと頭の中に溜まった疲労を感じながら生家の戸口をくぐった雑渡を出迎えたもの。それは、ドタドタという激しい足音と、一人の見知らぬ少女だった。
 予想していなかった出迎えに、雑渡の脳が混乱する。
 呆けていて帰る家を間違えたか。まず先に自分の失態を疑ったが、戸口から見える外の景色も、屋敷の中の様子も、雑渡が生まれ育った家に違いない。

「……誰?」

 雑渡はようやく、そう尋ねた。
 少女の長く黒い髪は濡れていて、額や頬、鎖骨にぴたりと張りついている。小袖を着てはいたものの、両手で裾を腿の辺りまでたくし上げており、あまり陽の光を浴びたことのなさそうな白い足が二本伸びていて、雑渡は眉を顰めた。
 しかし、雑渡の質問に少女は答えず、怯えた目で彼を見つめ、ただおろおろとするばかりだ。

「あ、昆奈門様、お帰りなさいませ。お勤め、ご苦労様でございました」

 奥からそう言いながら現れたのは、屋敷に仕える女中のお豊だった。
 その姿を見てやっとここが自分の家であると確信した雑渡は、お豊が手に持つ麻布と得体の知れない少女を交互に見て、もう一度、今度はお豊に向かって尋ねた。この少女は誰だ、と。

「拾ったのです」

 そう答えたのはお豊ではなく、遅れて出迎えに現れた雑渡の母である。

「まずは、ご無事で何よりでございました」

 彼女は雑渡を上から下まで眺めたあと、上がり框に腰を下ろしてそう言った。
 しかし雑渡の視線は久しぶりに会う母親ではなく、その後ろでお豊に捕まり、麻布で濡れた髪を拭われている少女に注がれている。
 雑渡は目頭をぐっと指で押さえたあと、「拾った」という言葉について考えた。しかし、まったくもって意味が分からない。

「……拾った、と仰るのは、あの少女を、ですか」
「ええ。今朝、山守神社へ参りに行った際に、見慣れぬ着物姿で一人倒れているところを見つけたのです」

 雑渡は話を聞きながら、妙な違和感を覚えた。
 山守神社は、山深く分け入った先にひっそりと佇んでおり、忍軍で働く者やその家族たちが参りに訪れる場所だ。忍村からも人里からも遠く離れた奥山にあり、道中にはほとんど人の手が入っていない。そのため、鹿や猪、ときには人を襲う獣が姿を見せることもあり、忍村の幼い子らは『子どもたちだけでは決して行かぬように』と厳しく言いつけられている。
 そんな場所に、こんなひょろひょろした少女が、一人で倒れていたと?
 思案する雑渡を余所に、彼の母は「ですから、拾いました」と言う。雑渡は頭を抱えた。

「仮に、くノ一や刺客の類だったらどうするおつもりですか。しかも拾ったなど……犬や猫ではないのですよ」
「あの子がその手の者でないことくらい、私もお豊も分かりますよ」

 雑渡は母の言葉にぐっと押し黙った。
 亡き父と夫婦になって以降、くノ一としての務めを果たすことはなくなったが、雑渡の母は元・一流のくノ一だ。そしてお豊は女中でありながら、現役のくノ一でもある。
 心配しているようなことは起こらないだろうが、素性の知れない女子を家に引き入れるというのは、些か抵抗がある。ほとんど不在にしているとは言え、この家の主は一応自分なのだ。
 そう思いながら、雑渡は少女に向かって尋ねた。

「……名は何という?」

 雑渡は改めて、髪を整えられ先程よりよく見えるようになった少女の顔を観察した。
 涼やかな目元に、通った鼻筋、形のよい唇。特別に美しいというわけではないが、顔全体を眺めれば、端正にまとまっている顔立ちだ。まだあどけなさを残しながらも、どこか大人びた面差しをしているように思えた。
 少女は相変わらず怯えた表情のまま、落ち着きなく指先をもじもじとさせている。
 こんな大男からいきなり名を尋ねられれば恐ろしいだろうか……と思ったが、どうやら違ったらしい。

「口がきけぬようなのです。こちらの言うことは理解できているようですが……」

 彼女の両肩に手を置いていたお豊が代わりに答えた。

「唖(おし)、か?」
「さあ……それか、何かよほどのことがあって、こうなったのか……」
「まあ、とりあえず中へ。夕餉の支度もできていますよ」

 雑渡の母がそう言うと、少女はお豊に促されて中の方へ引っ込んでしまった。
 やれやれ、とため息を吐いた雑渡が、土間で草履を脱いで桶に張られた水で足をすすごうとしたときだった。

「昆奈門」
「はい」

 母に呼ばれ、雑渡は振り返る。

「其方は、私の自慢の息子です」

 突然の賛辞に、雑渡は目を瞬かせた。

「ですが、娘も欲しかったのですよ」

 そう言うと、彼女は雑渡を置いて、少女とお豊の後を追うように中へと戻っていった。
 雑渡に兄弟と呼べる者はいない。母は自分を産んだあと、子を産めない身体になったと聞いたことがある。だから娘が欲しかったというのは事実だろうが、わざわざそれを言ってくるということは、あの少女を家に迎え入れることに自分が口出しすることは許されないらしい。
 くノ一は恐ろしい、くノ一を嫁に持つといつか苦労するぞ。幼い頃、父が一度だけそうぼやいた熱い夏の日の蝉の声が、雑渡の頭の中で流れていた。

▼

「いない?」

 湯浴みを終えた雑渡が食事のために座敷へ向かうと、慌てた様子でお豊が言った。少女の姿がどこにも見当たらない、と。
 雑渡は特に驚くことなく「へえ」と短く返事をして、腰を下ろした。
 忍びが三人もいる屋敷からよく逃げ仰せたな、と感心すると同時に、雑渡はつい先程、少女と初めて会ったときのことを思い出していた。あのとき、少女はここから出て行こうとしていたのだ。そうしたら大男が現れて戸口を塞いだものだから、あんなに狼狽えていたのかもしれない。
 まあ、目が覚めたら知らない家にいて、気が動転して慌てて帰った、というところだろう。そう雑渡は考えた。わざわざ探すほどの義理はない、と。
 雑渡にとって、消えた少女のことよりも空腹の方が大問題だった。ここ二月、まともな食事にありつけていなかったのだから。

「困りましたねえ。もし山にでも入っていたら……夜は獣が出ますから」

 雑渡は、目の前に座った母、そして座敷の入口に控えるお豊をそれぞれ見やった。彼女らが何を言いたいのかは分かっている。だが、まずはこの空腹を何とかしたい。

「とりあえず食事にしませんか。少女のことは、食事が終わってから考えればいいでしょう」
「その間に少女が獣に襲われていたら、と考えると何も喉を通りません。あんなにも美しい身体が獣に荒らされていたら……ああ、恐ろしい」

 もっと酷い死体も見慣れているはずなのに、袖で目元を押えながらぶつぶつ呟く母に、雑渡は呆れて何も言えなかった。
 一体何なのだ、この茶番は。
 なぜ今日拾ったばかりの少女にそこまで執着するのだ。
 しかし、雑渡は母に弱かった。それは母を愛しているからというより、彼女の望みに応えなければ、どんな仕返しが待っているか分からなかったからだ。
 その仕打ちのうちの一つと言わんばかりに、いくら待っても夕餉の膳は運ばれてこない。

「……見つからなければ、諦めてください」

 やがて、雑渡は仕方なく重い腰を上げた。
 そんな息子に、母はにこりと笑い「さすがは私の自慢の息子」などと言う。
 こういうとき、雑渡はよく『父がまだ生きていればよかったのに』と思うのだ。

▼

 月の光が静かに夜を照らしている。
 忍びには大敵である月明かりも、人を探すとなれば役に立つ。しかも、普通の人間より夜目の利く雑渡にとっては尚更だ。
 立っていた枝からトン、と軽く着地した雑渡は辺りを見渡した。あの細い足で行ける範囲は精々このくらいだろう、とあたりをつけて探し始めたものの、今のところまだ見つけられていない。
 雑渡は目を閉じて、耳を澄ませた。
 風が吹くたびに頭上で枝葉がざわめき、時折獣の低い唸り声が聞こえる。まるで山全体が、息を潜めて雑渡の様子を窺っているようだ。
 そのとき、微かな悲鳴が聞こえ、雑渡は目を開ける。
 その反響した声を頼りに瞬時に身を翻した雑渡は、月明かりの落ちる開けた場所で少女を見つけた。
 ぺたん、とその場に座り込み動けずにいる少女の目の前にいるのは、小さな子どもの猪である。
 こんなウリ坊ごときに腰を抜かすとは——と雑渡は肩をすくめ、少女に歩み寄った。その音にさらに驚いた少女は、真ん丸に見開いた目からぼろぼろと涙を零し、雑渡を見上げた。がたがた震え、草履も履かずに飛び出したらしく足は泥だらけ、ところどころ草で切ったのか真新しい傷ができている。ふくらはぎには、枝か何かで擦ったのだろう、縦に走った傷から赤い血が滲んでいた。
 雑渡は少女のそばに屈んで、ちらりとウリ坊に視線をやる。

「子どもがいるということは、母親も近くにいるかもしれない。立てる?」
「……たい」
「え?」

 喋れないと思っていた少女の口が動いて、蚊の鳴くような声が聞こえた。
 雑渡が耳を寄せた、次の瞬間。

「おっ、お母さんに会いたい~~~!!!」

 突如大声でそう叫んだ少女に、雑渡は耳の奥がきんとして思わず両耳を塞いだ。
 わんわん泣き出した少女に、雑渡は顔を顰める。子どもは苦手ではないが、この年頃の女子はどう扱えばいいか分からない。どこかの城の忍びを捕まえて情報を吐かせるほうが、よほど楽だ。
 しかし、少女は口がきけないわけではなく、どうやら母親もいるらしい。もしかしたら死んだ母親に会いたいという意味かもしれないが、どちらにせよ調べれば身元はすぐに分かるだろう。

「とりあえず、戻ろう。あまり大きな声を出すと……」

 雑渡が言い終える前に、茂みの方から荒々しい鼻息が聞こえてきた。低く、途切れ途切れに響くその音は、少しずつこちらへ近づいている。
 振り返ると、闇の奥で何かが動く気配がした。やがて、月明かりの届かない木陰から、巨大な猪の姿がぬっと浮かび上がる。
 そら見たことか、と呟きそうになるのをすんでのところで堪え、雑渡は泣きじゃくる少女の体を横抱きにして上へと飛んだ。

「ご無事で何よりでございました」

 目元を和らげ穏やかに微笑む母から、一度目とまったく同じ出迎えを受けた雑渡は心身ともに疲れ果てていた。木々の間を飛んで移動するたびに少女が「怖い」と言うので、わざわざここまで徒歩で帰ってきたのだ。

「言葉は話せるようです。母親に会いたい、と言って泣いていましたよ」

 いつの間にか腕の中で眠ってしまった少女をお豊に預け、雑渡は母へ少女の言葉をそのまま伝える。

「そうですか。では、母親を探してあげましょう。其方も今日はゆっくり休みなさい」
「私は最初からそのつもりでしたよ。この家に帰ってきたときから」

 雑渡の嫌味に、母は笑った。

▼

 そっと襖を開けると、布団の上ですやすやと眠る少女がいた。
 雑渡は部屋に入り、後ろ手に襖を閉める。そして少し迷って、少女の側に腰を下ろした。足の泥は綺麗に拭われ、切り傷には丁寧に軟膏が塗られている。ふくらはぎの傷は残るかもしれないが、他の細かな切り傷はそのうち綺麗に治るだろう。
 少女の寝顔を、雑渡は改めてじっと見つめた。
 艶のある髪といい、白い肌といい、孤児や下人のようには到底見えない。百姓の子ならば手足は日焼けしているはずだし、たとえ町人の子でも小さな猪一匹にあそこまで怯えはしないだろう。
 どこかの良家の娘なのだろうか。だとしたら、なぜ一人で山に倒れていたのか。
 思いを巡らせる雑渡は、少女の口が僅かに動いていることに気づいた。しかし、また耳元で叫ばれてはたまらないと、今度は耳を寄せずに、そっと指先を唇に伸ばした。
 紅をさしているわけでもないのに、唇はほんのりとした桃色を帯びている。その口が、ぱくりと雑渡の指を咥えた。はぐはぐと、まるで何かを食べるように指を噛むその仕草に、雑渡は吹き出しそうになるのを必死に堪え、やがて息を吐いた。
 自分のいない間に面倒なことが起きたものだ、と思う。しかし不思議と、この謎の少女のことを疎ましいとは思わなかった。

「よくお眠りでしょう」

 部屋を出ると、ちょうど廊下を歩いていたお豊がそう言って笑った。

「今日一日、何も食べていないはずですから、お腹を空かせていると思うのですが」
「そのようだな」

 今しがた、指を食われたことを思い出して雑渡はふっと笑みを零した。

「……何を食うか分からないから、明日の朝餉は少し数を増やしてやるといい」
「分かりました」

 お豊は頷いて頭を下げたあと、静かに廊下の向こうへ去っていった。
 指先に視線を落とすと、ほんのわずかに少女の歯形が残っていた。痛みはまったくない。
 雑渡はしばらくの間、その小さな噛み跡をぼんやりと見つめていた。