上書
「あの、雑渡さん、本当にこの道、合ってます、か……?」
わたしはこの一時間、絶対に口にしないぞと決めていた言葉をとうとう吐いた。
まるで永遠に続いているかのような急勾配の山道。さすがは忍者というべきか、前を歩く雑渡さんはまったく疲れなど感じさせない様子で、ぜえぜえと肩で息をするわたしを見下ろした。
今朝起きたとき、わたしは昨日団子屋で雑渡さんと交わした話をちゃんと覚えていて、雑渡さんも覚えていた。お昼過ぎ、屋敷に現れた雑渡さんは、約束通りわたしを牛頭天王社へ案内すると言って、外へと連れ出してくれたのだ。
しかし、想像していた道と違う方向へ進み始めたものだから、はて、とわたしは首を傾げた。そして今は、昨日の団子屋どころか、城下町からも遠く離れた場所で、ひたすら山道を登らされている。しかも綺麗に整えられた山道ではなく、雑草が鬱蒼と生い茂り、人が踏み固めた細いでこぼこ道だ。
「背負っていこうか?」
荒い呼吸を繰り返しながら重たい足をどうにか前へ運ぶわたしを見かねて、雑渡さんは手を差し出した。
歩かずに済む、という誘惑に負けそうになりながらも、わたしは首を振る。
「いえ、こういうのは、自分の力で歩いて行かないと、意味がないと思うので」
「その気持ちは分かるが……日が暮れると、この辺りは熊が出るよ」
熊。思わず背筋が凍った。
「まあ、私がいるから大丈夫だけど。少し休憩しよう」
雑渡さんはわたしのこわばった顔を見て軽く笑ったあと、道端にせり出した岩へ腰を下ろした。わたしを安心させるために言ってくれた冗談だと思うが、雑渡さんなら熊が相手でも簡単に倒してしまいそうだ。
結構な距離を歩いてきたと思うが、あとどれくらいで着くのだろう。わたしは周りに人の気配がないか探りながら、腰に巻いた紐に括りつけていた竹筒を手に取ると、喉を鳴らしながら茶を飲んだ。
木々の間からこぼれ落ちる陽の光が、わたしと雑渡さんの足元にまだら模様を描いている。息を整えようと何度も深呼吸を繰り返せば、青々とした草木の匂いが胸いっぱいに広がる。
もし、元の世界に戻ることができたなら。この景色も、この匂いも、すぐそばで鳴く蝉の鳴き声も、きっと二度と味わうことはないのだろう。
それから休憩を終え、息を切らしながら歩くこと三十分。ようやくわたしたちは、深い山の中、木々に囲まれるようにして佇む神社に辿り着いた。
着いた、と呟き、今すぐに座り込みたいのを我慢して辺りを見渡す。
「思っていたより……人がいませんね」
団子屋の主人の話だと参拝客が増えているような口ぶりだったが、どこを見ても人っ子一人見当たらない。だが、ここに辿り着くまでかなりの労力を要した上に、あと少しで日暮れともなれば、人がいなくてもおかしくはないだろう。
ひっそりと姿を覗かせている社は、まるで長い年月をかけて緑の中に溶け込んだかのようだった。しかし、こんな山の奥深くにあるのに手入れは行き届いているように見える。
「ここはよく、忍軍で働く者たちやその家族が参りに来るんだ」
「あ、そうなんですか」
雑渡さんは朱色の鳥居をくぐって、振り返った。
「無事に戻って来られるように、ってね」
そんな彼のあとに続こうとしたが、わたしは乱れた呼吸がなかなか落ち着かず、その場に立ち止まったまま胸を押さえた。なかなか汗が引いていかない。心臓も、雑渡さんに見つめられたときのように激しく動き続けている。
久しぶりに長い距離、しかも急な山道を歩いたからか。それとも緊張と、ほんの少しの期待のせいか。
なんとか落ち着こうと大きく息を吸って吐いた、そのときだった。
「もう少し、痩せた方がいいんじゃない?」
雑渡さんとは別の誰か——幼い声が聞こえて、わたしは次に吸おうとした息を吸うことができなかった。
おそるおそる隣へ目を向ける。発言したのは、ここに来るまでずっと黙ってついてきた、もう一人のわたしだ。
固まっているわたしの隣で、彼女は鳥居を見上げている。
「しゃ……しゃべっ、た……」
およそ十五年。たまにふと現れては、どんなに話しかけても一切反応はなく、ただそこにいるだけだった彼女。それがまさか今になって口をきくだなんて、しかも第一声が「痩せろ」だなんて、誰が想像できただろうか。
そもそもそれ、わたしがわたしに言うことか?
戸惑い、返事に困っているわたしを見て、さらに彼女は言った。
「まあ、いくら痩せても、カーテンレールは無理があったと思う。支えきれなくて壊れるに決まってるよ」
「殿」
鳥居の下で立ち止まったままでいるわたしに、雑渡さんが歩み寄る。
彼は、神社ではなく真横を向いて呆けているわたしの顔を覗き込んだ。
なんでもないです。ちょっと疲れているだけで。少し休めば元通りになるはずです。
頭の中では、雑渡さんを心配させないための言葉が次々浮かんでくるのに、それが一つも口から出てこない。
雑渡さんはちら、と視線を落とすと、わたしの腰に下がっている竹筒に触れた。今日はいつもより飲む回数が多かったため、中はすっかり空になっている。
それに気づいて、雑渡さんは小さく微笑んだ。
「今日の調合は私がやったんだ。そのせいで、副作用が出ているのかもしれないね」
雑渡さんは指先で、わたしの額に滲んでいる汗を拭った。
腕を引かれ、雑渡さんと一緒に鳥居をくぐる。もう一人のわたしを残して、前へ進む。ジワジワジワジワと、周りで鳴き続けている蝉の声が耳の奥にこだましている。
カーテンレール、調合、副作用。
カーテンレール、調合、副作用……。
雑渡さんの広い背中をぼんやりと見つめながら、わたしは左手にある小さな手水舎へと連れて行かれた。参拝前に手と口を清める場所だ。
手水舎の屋根の下には手水鉢が据えられていて、溢れるほどの水が張られていた。そばには柄杓が数本並べられている。
光を浴びてきらきらと光る水面に、わたしの顔が映った。酷く疲れ切った目、そして鼻、口。その下の、首。
そこに、何やら痣のようなものが見えた。まるで何か縄か紐のようなもので強く絞めたような痕が、水の波紋に合わせて揺れている。
そこでようやく、わたしは曖昧だった記憶が少しずつ輪郭を取り戻していくのを感じた。
そうだ。この世界へやってくる直前に聞いた、あのバキン、という音。
あれは、カーテンレールが割れたか、外れた音だ。
あの日、すべてが嫌になったわたしは、薬を飲んで、首を——。
「途中から数えるのはやめてしまったが、私はここで何度も祈ったよ。君が無事に戻ってくるように、と」
立ち尽くしているわたしのそばで、雑渡さんは話しながら柄杓で水を汲み、作法通りに手と口を清める。
「でも大丈夫、もう安心だから」
困惑しながら、わたしは雑渡さんを見上げた。視線が定まらず、彼がどんな表情をしていて、一体何の話をしているのかさっぱり分からない。
ふら、と後ろへ倒れそうになったわたしの腰に、雑渡さんが手を添える。
わたしは彼と並んで、社殿へと繋がる参道を歩き始めた。目眩がする。足元の石がごつごつとしていて、時々つまずいて転びそうになる。そのたびに、雑渡さんがわたしの身体を力強く支える。
この参道は、元の世界へ戻るきっかけになるかもしれない、いわば希望の道になるはずだった。少なくとも、ここに来てもう一人のわたしが口を開くまでは、本気でそう思っていた。でも今は、まるで違う。
そもそも、わたしは、何だ。
わたしの命は、どうなったのだ。
「ざ、雑渡さん……」
彼の名を呟いたとき、からん、と鈴が鳴った。その途端、頭の中で何かが弾ける音がする。
雑渡さんの手が、拝殿から下がる鈴緒へと伸びている。澄んだ音が辺りに響いて、しばしの間、周囲の空気がピンと張り詰めた。
「ほら、手を合わせて」
そう促され、わたしは力なく、彼の言う通りに手を合わせた。
ジワジワジワジワ、と鳴く蝉の声。時折聞こえる鳥のさえずりに、ざわざわと風が木を揺らす音。
「わたし……」
まっすぐ、正面を見つめたまま、呟いた。
「何をお願いするんだったっけ……」
少しして、雑渡さんの笑う声がした。
諸泉さんのことをあまり怒らないでくれ、と頼んだときと似た笑い方だった。
彼のその声を聞きながら、わたしは自分の身体がぐるぐると回っているような、普通に立っていること自体がおかしいような、妙な感覚に襲われていた。
雑渡さんの顔が、ふいに視界へと入り込む。
「ずっと言っていたじゃないか」
「……何を……?」
「私とこの先、ずっと一緒に生きていきたい、って」
そうだっけ?
「それが君の願いだよ」
そうだったっけ?
わたしは顔を動かし、じ、と雑渡さんの目を見つめた。
しばらくして、ぐるぐると回る感覚も、頭の中にあった靄のようなものも徐々に消えていった。呼吸も、激しく動いていた心臓も次第に落ち着いていき、身体にまとわりついていた熱も波のように引いていく。
やがてわたしは、再び正面へと顔を戻した。
「……そうでしたね!」
何か別の願い事もあったような気がするが、雑渡さんがそういうのなら、それが正しいのだろう。
わたしは目を閉じて、丁寧に祈った。
この先、何があっても、雑渡さんと末永く共に生きていけますように、と。
「暗くなる前に帰ろうか」
雑渡さんにそう言われ、わたしは頷いた。社殿を見上げたあと、くるりと踵を返す。
鳥居をくぐり抜けたところで、ざざ、と頭の中で雑音が聞こえた。眉を寄せ、指でこめかみを押さえる。
雑渡さんはそんなわたしの異変に気づいたのか、すっと手を差し出した。
「下りは危険だから、手を」
これまでに何度も差し出されたその手を見つめながら、わたしはまた、妙な感覚を覚えた。
わたしはこの手を掴んで、よかったんだっけ?
何が大事なこと、忘れていないっけ?
誰かのことを、忘れていないっけ?
あれ、あれ、あれ、と頭の中にいろんなハテナがぽんぽん浮かび、ゆっくり神社の方を振り返ろうとしたとき。
ふいに、視界が暗くなる。
雑渡さんの手がわたしの目を塞いでいるのだと、すぐに気づいた。
「」
殿、と続かなかったことに少し驚きながらも、わたしは黙って彼の指の隙間から差し込む細い光を見ていた。瞬きをするたびに、わたしの睫毛が雑渡さんの指に触れる。
なぜだろう。いつものように「殿」と呼ばれるよりも、呼び捨ての方がずっと自然で、当たり前のことのように思える。
「君が今までどこにいたのか、どんな辛い目にあっていたのか、私には分からない。だが、過去のことはすべて忘れてしまうといい」
雑渡さんの手が離れていく。
「記憶は、また新しいものを作ればいいからね」
眩しかった陽射しは、いつの間にか橙色の光へと変わり始めている。
「おかえり」
雑渡さんはそう言って、わたしのだらりと垂れた手を優しく包み込むように握ると、先程来た道を下り始めた。
足元に気をつけながら、そっと後ろを振り返る。
そこには誰の姿も、気配もなかった。静まり返った景色の中に、ただ古びた神社だけが取り残されたように佇んでいる。
わたしは軽く首を捻り、転んで迷惑をかけないようにと雑渡さんの手を強く握り返した。ここへやってくるまでに感じていた足の重さも、幾分か和らいでいる。
気づけば、先程感じた妙な感覚はすべて跡形もなく消えていて、今のわたしはただ一つのことだけを案じていた。
「……雑渡さん」
「何?」
「熊、出ないといいですねえ」
「そうだね」