欠落

 その日の朝は、今までと違ってとても慌ただしかった。
 朝食後、お豊さんが張り切った様子でいくつかの着物を運んできて、わたしはあっという間に彼女の着せ替え人形と化した。色も柄も様々な着物を次々と身に纏いながら、どうしてこんなにも量があるのだろう、と畳の上に幾重にも重ねられた着物を見て疑問を抱く。お豊さんは、いつも同じ色合いの小袖を着ている。
 着ては脱ぎ、脱いでは着て、を何度か繰り返し、最終的に落ち着いたのは、淡い藤色の着物だった。
 同じ色味で藤の花が細やかに描かれていて、長く垂れた花房が裾へ向かって流れている。素人目に見てもかなり良い品であることが分かり、わたしは身を縮めた。

「こんな上等な着物、わたしには勿体ないです。城下へ行くだけですし、汚しちゃったら……」
「まあまあ、そう言わずに」

 わたしの言葉は、お豊さんにはあまり響かなかったようだ。
 しばらくして現れた雑渡さんは、わたしの姿を見て、ほんの僅かに目を見開いた。今日は休みだと話す彼も、いつもの忍者の格好ではなく暗い色の小袖に袴姿で、頭には笠を被っている。包帯で片目は隠れたままだが、彼のさらけ出された顔を見たのはこれが初めてだった。

「雑渡さんも今日はよそ行きの格好なんですね」
「まあ、忍装束もよそ行きと言えばよそ行きなのだが」
「た、たしかに」
「……それにしても、よく似合っている。殿は私の死んだ母親と背格好が同じくらいだから、丈も合うようでよかった」
「……え!?」

 その言葉には、さすがに驚いた。
 なぜこのお屋敷にこんなにも女性用の着物があるのか。その疑問が一瞬で解消され、わたしは絶句したまま、身振り手振りで「そんな大事な着物をわたしが着るのは駄目でしょう!?」と訴えてみたが、もちろん伝わるはずがない。

「さて、まだ仕上げが残っていますよ」

 狼狽えているわたしの背中をお豊さんが押して、そのままぺたりと座らされる。彼女は着物と一緒に運んできた小箱から白粉や紅、化粧筆、櫛などを取り出した。
 ああ、化粧箱だったのか、と古い化粧道具に興味津々でいるわたしの顔を両手で持ち上げたお豊さんは、これまたテキパキとわたしの顔に化粧を施し始めた。目を閉じて、開けて、口を閉じて、少し開けて……と彼女の指示通りに表情を動かす。されるがままでいるわたしを、雑渡さんはゆったりのんびり眺めている。
 最後に、お豊さんは外は日差しが強いから、と言ってわたしの首に薄布を巻いた。そして雑渡さんと同じ笠を被せられ、最後に手鏡を渡された。
 わたしはそこに映る自分の顔をまじまじと見つめた。銅で作られた鏡には、ぼんやりとだが小綺麗になったわたしの顔が映っている。顎を見ると痣はまったく残っておらず、よかったと安心した。

「化けたね」

 開け放たれた襖の脇に寄りかかり、ずっとわたしの用意が終わるのを待っていた雑渡さんが呟くように言った。純粋な褒め言葉なのか皮肉なのか、どちらか分からなかったわたしは、かなり苦々しい顔をしていただろう。
 おいで、と手を差し伸べられる。
 大きくて恐ろしいと思っていた手を、わたしは迷うことなく掴んだ。

▼

 大きなお城を仰ぐように、賑やかな町が広がっていた。
 道の両脇には家々が軒を連ね、その戸口からは商人たちの快活な呼び声が絶えず聞こえてくる。干物や野菜、布地に櫛、小物などなど。どれも目を引くものばかりで、ふらふらと歩いては、すれ違う人や荷を積んだ馬にぶつかりそうになるわたしの腕を、何度も雑渡さんが引いた。

「……殿、まっすぐ歩かないと危ないよ」
「すみません、なんかこういうの新鮮で」

 新鮮というのは『この町が』ではなく、こんな風に自由に外を歩き回ることに対して、だ。少なくとも、わたしの中にいろんな場所を自由に歩いた記憶は残っていない。
 こうしていると、自由というものは望んだときに与えられるべきだと、つくづく思う。
 すう、と深く息を吸う。土の匂いに混じって炭や薪の煙の匂い、食べ物や人、馬の匂いがする。どこか懐かしさと温かみを感じながらも、人混みは久しぶりということもあってか、わたしはだんだんと足が地についていないような不思議な気分になっていった。
 直後、前から走ってきた子どもたちを避けようとして足がもつれてしまったわたしは、雑渡さんにぐいと身体を引き寄せられた。きゃっきゃと楽しそうな笑い声を上げながら走り去っていく、小さな背中。それらが遠ざかっていき、わたしは強い力でぐっと肩を抱いたままの雑渡さんをゆっくりと見上げる。
 眩しい太陽の光に目を細めるわたしを見下ろして、雑渡さんはにやりと笑った。
 その顔といったら。
 もし今の状況を絵に描いたなら、きっとわたしの開いた口からはハート型の心臓が飛び出しているだろう。
 ——と、ついそんなことを考えてしまうくらい雑渡さんの男っぷりに当てられてしまったわたしは、少しずつ身体から力が抜けていくのを感じた。やはり少しばかり人酔いしてしまったようだ。
 危ないと言っただろう、と言いたそうな顔をしていた雑渡さんだったが、わたしの様子を見て、おや、と表情を変える。

「この先に団子屋がある。そこで少し休憩しようか」
「はい……すみません」

 謝罪して、雑渡さんに肩を抱かれたまま歩く。
 まるで本当に熱が出ているような、そんな気分だった。いや、多分、先程の雑渡さんの表情で少しは体温が上昇したと思う。
 団子屋に着くと、雑渡さんは店先に置いてある長椅子にわたしを座らせ、店の主人に団子を二皿注文した。
 そこでようやく、密着していた身体が離れたことにほっとする。男性経験のないわたしには、少し刺激が強かったようだ。

「大丈夫?」

 注文を取り終えた店の主人が店の中へ戻っていくと同時に、雑渡さんはわたしにそう尋ねた。こくこく頷いて、笠を深く被り顔を隠す。

「雑渡さんって、すごい人ですよね」
「言っておくが、空は飛べないよ」

 竹の編み目の向こう側で、雑渡さんの笑う気配がした。

「……諸泉さんも高坂さんも、あとお豊さんも、みんな口を揃えて雑渡さんのことを『すごい方だ』と仰るんですよ。たくさんの人から認められているということは、これまでものすごい努力をしてきたってことでしょう」

 最近ずっと考えていたことを口にすると、しばらく返事がなかった。
 ゆっくり笠を上げて、雑渡さんの様子を窺う。包帯で隠れていて見えなかったが、雑渡さんは遥か遠くを見ているようだった。

「以前も、似たようなことを言われたことがあったな」
「つまり、みんなそう思っているってことですよ、きっと。それに優しいし、気遣いもできるし」
「でも怖いだろう、こんな火傷だらけの大男は」
「そりゃあ、最初は──」

 そこで、言葉が途切れた。
 最初……最初?
 雑渡さんがゆっくりとわたしの方へ顔を向ける。細い瞳が、わたしを捉える。
 どうして急に言葉が出なくなってしまったか分からないまま、何かを言わなければ、と思い口を開いたそのとき、彼の視線が揺れて、少し右へとずれた。振り返り、彼の視線の先を辿っていくと、そこには雑渡さんの仲間だろうか、家屋の陰に一人の忍者が屈んでいるのが見えた。
 ひょっとしたら、ここまでずっとついてきていたのかもしれない。そうだとしたら、まったく気がつかなかった。

「少し待っていてくれるかな」
「あ、はい」

 腰を上げた雑渡さんが歩いていくのを見送って、一人残されたわたしは草履を履いている足へと視線を落とす。足の指の間には、擦れてできたような傷跡が残っている。
 あまり外に出ていないのに、どうして血が出たんだっけ。
 ふと考えたとき、店の主人がわたしの隣に三本の団子が乗った皿と茶を置いた。

「お客さんも天王さんにお参りかい?」

 顔を上げると、主人が穏やかに笑いながらそう言った。

「天王さん?」
「牛頭天王社だよ。もとは厄除けや疫病退散で知られた社なんだが、近頃は『祈ったら願いを聞き届けてもらえた』なんて話をする者が多くてね。それで、最近は参拝する人が増えているみたいだよ」

 そう話す主人を前に、わたしは勢いよく立ち上がった。
 そうだ、神社だ。
 元の世界へ戻る方法の一つとして、試しに神社へ行くことができれば——と考えていた。そのはずなのに、一体どうして、今の今まですっかり忘れていたのだろう。
 急に立ったわたしに驚いた主人は怪訝そうに首を傾げたものの、別の客が来ると「じゃあ、ごゆっくり」とだけ言って、すぐにそちらへと向かっていった。
 そして主人の後ろから、今朝まったく姿を見せなかったもう一人のわたしが現れる。
 いつも通り、じっとこちらを見つめている彼女は、子どもらしい紅色の着物に袖を通していた。お豊さんが運んできた着物の中にはなかったものだ。

「どうしたの?」

 用が済み戻ってきた雑渡さんも、店の主人同様に立ち上がっているわたしを見て不思議そうに尋ねる。思考が追いつかず、頭の中は大混乱だった。

「天王さん……」

 ぽつりと呟くように言うと、長椅子に腰を下ろした雑渡さんは、ゆっくりとわたしを見上げた。

「天王さん?」
「あの、お店のご主人が、近くに願いが叶う神社があるって……ご、ごず? 天王社? 今から、そこへ行ってみませんか?」
「なぜ?」
「なぜって……その、ひょっとしたら元の世界に戻りたいっていうわたしの願いも聞き届けてもらえるかな、と」

 わたしの説明に、雑渡さんはふいと視線を逸らす。

「そうか、そうだね」
 
 彼は皿から団子を一本取って、わたしに差し出した。

「ここの団子はおいしいと評判なんだ」

 わたしはぼんやりと、白けた反応を見せた雑渡さんと団子を見比べて、やがて再び彼の隣に腰を下ろした。受け取って、淡い桃色の団子を齧る。たしかに甘さが控えめで、子どもから大人にまで好まれそうな味だ。
 雑渡さんが、わたしの元の世界云々の話を信じてくれているだなんて、どうして勘違いしていたんだろう。
 この世界にやってきた次の日、ずっとわたしに付き合ってくれたから? いつも目を見て真剣に話を聞いてくれるから? まるで大事な人を守るかのように肩を抱いてくれたから?
 元の世界へ戻る方法は一人で探す。そう決めたじゃないか。ここまでしてもらっていて、これ以上頼ろうだなんてどう考えても虫が良すぎる——。

「明日なら、行けると思うが……」

 俯いて、もちもちと咀嚼する団子を飲み込めずにいたわたしは、その言葉に顔を上げた。

「夕方からでもいいかな。昼過ぎまでいろいろと詰まっていてね」

 彼の優しさに、本当に裏があったとしても。例え信用されていなくても。どんなに、酷いことをされたとしても。
 わたしはこの人のことを、一生憎めないと思う。
 ようやく団子を飲み込んだわたしは、鼻の奥がツンと痛むのを感じた。

「ありがとうございます」

 これ以上泣き顔は見せられないと必死に顔を引き締めながら、わたしはそう言った。雑渡さんはにこりと笑って、団子を食べ始めた。
 それにしても、わたしは運がいい。そんなに有名で効果のありそうな神社が、そう遠くない場所にあるだなんて。いや、この世界に落ちてきてしまったことを考えると運は悪いかもしれないが。
 けれど、雑渡さんに出逢えたことは、本当に運が良かったことだと思っている。

「ほら、喉が詰まらないよう、ちゃんと茶を飲むんだよ」

 しばらくして、雑渡さんがわたしに差し出したのは、いつもの竹筒に入った茶だった。
 わたしは店の主人が団子と一緒に持ってきてくれた茶をちらりと見る。

「あ、でも、お団子と一緒にお茶もいただきましたから」
「それよりこちらの方がおいしいと思うよ」

 ずい、と胸元まで差し出された茶を断るわけにもいかない。わたしは竹筒を受け取ると、ためらいながらも一口、また一口と飲んだ。
 店先で持参したものを飲んだりしていいのだろうか、とも思ったが、特段店の主人は気にしていないようだ。

「おいしい?」

 先に団子を食べ終えた雑渡さんが、膝に肘をつき、手のひらで頬を支えながらそう尋ねる。
 心臓がどくどくと脈打つ音がすぐそばで聞こえた。今日はやけに緊張するな、と思ったが、初めて見る素顔の雑渡さんにこんなにも柔らかな笑みを浮かべて見つめられたら、誰だってこうなるはずだ、と思い直す。

「お、おいしい、です」

 わたしは横を向くことができず、ただひたすら団子を食べることに集中した。隣から雑渡さんの視線を感じたが、わたしは気づかない振りをした。
 元の世界へ戻る。そのための方法を考える。そんな大事なことを、どうして忘れてしまっていたのか。
 いつの間にか、その疑問はわたしの頭の中から消えてしまっていた。