忘失
タイムスリップの定石といえば何だろうか。
高いところから落ちる。雷に打たれる。神社でお参りをする。突然眩しい光に包まれる。もしくは、死ぬ。
小説や漫画などでありがちなシチュエーションをいくつか考えてみたものの、今回のわたしは、そのどれにも当てはまっていない。そしてどうしても、この世界へやってくる直前の記憶だけが霞んでいる。
諸泉さんの言っていた『予兆』についても気になるところだが、やはり突然起きたことは、また突然起きるものなのだろうか——。
とりあえず、思いついた中で一番試しやすい方法は『神社でお参りをする』だろう。当分は難しいだろうが、しばらく大人しくしていたら外出を許可してもらえるかもしれない。
はあ、と深いため息を吐き出すと、今日の監視役であり、もう一人のわたしと並んで座っている高坂陣内左衛門さんが片眉をわずかに上げた。
「何か?」
「あ、いえ……何でもないです」
「……昨日は、尊奈門が振り回したようで申し訳なかった」
高坂さんは、ばつが悪そうにそう呟いた。
まるで昨日の雑渡さんとの会話を繰り返しているような、変な気分だった。
雑渡さんに謝罪されたとき同様、諸泉さんは何も悪くないのだと首を振る。聞くところによると、諸泉さんは罰として厳しい忍務を与えられたらしい。それを聞いてとにかく申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、未だに崖を飛んだときのことを思い返すと肝が冷える。しかし、それもいずれは落ち着くだろう。
もし次に諸泉さんと会う機会があれば、まず一番に謝らねば……。
高坂さんはわたしの反応を見て、再び沈黙した。
今日、朝一番にわたしの元へやって来た高坂さんは、自身の名前と、今日は自分が監視役であること、また昨日までとは違い外出は認められないことを早口で告げ、寝起きでぼけっとしているわたしに一切気を遣うことなく部屋の隅に腰を下ろした。
さすがに着替えのときはお豊さんが彼を部屋から追い出していたが、それからずっと二人きり。外出ができないとなれば、会話以外することはない。
昨日の諸泉さんとの気まずい時間を思い出しながら、わたしは姿勢を崩さず、目を伏せている高坂さんをちらりと一瞥した。諸泉さんよりやや年上で、わたしと年齢が近そうに見えるが、最初の登場といい雑渡さんや諸泉さんよりも融通が利かなそうな感じがする。
「高坂さんも……雑渡さんや諸泉さんと同じ、忍者なんですか?」
ためらいながらそう尋ねれば、彼は予想に反して「そうだ」と柔らかく答えた。そんなことを聞いて何になる、というような冷たい答えが返ってくるかと思っていたので、少し意外である。
「ということは、雑渡さんの仲間? なんですね」
「ああ。組頭のお側にお仕えしている」
「あの、雑渡さんって——」
どういう人なんですか? と言いかけて、わたしは口を閉ざした。
ただの推測だが、諸泉さんも高坂さんも、雑渡さんにかなりの信頼を寄せていると感じた。そんな彼らに、お殿様の部屋に突然現れたわたしが「雑渡さんってどういう人なんですか?」と聞けば、きっと何かを探ろうとしているのではないか、と警戒されるだろう。
ちなみに、わたしがその質問をしようと思ったのには理由がある。昨日の雑渡さんの言葉、そしてやはり、わたしに対しての雑渡さんの態度がどうにも頭の隅に引っかかっているからだ。
いくらお殿様が「面白い」と言ったからとはいえ、こんなにも怪しいわたしにここまで親切にするだろうか。ひょっとして忍者としてわたしの素性を見極めるため、警戒を解かせようとしているのだろうか。仮にそうだとしても、「笑った顔をまた見たい」とは、どういう意味だろう。
わたしが中途半端に言葉を切ったため、高坂さんは怪訝そうに眉を寄せた。
「組頭が、なんだ?」
「あ、ええと……雑渡さんって、ものすごく……優しい方ですよね」
そう言って初めて、わたしは雑渡さんが『親切な人』というより『優しい人』であることを実感した。
最初はもちろん怖かった。しかし、わたしのために時間を割いてくれたり、お茶をくれたり、涙を拭ってくれたり、身体を労わってくれたり。彼の行動すべてに、わたしに対する思いやりと寄り添いが感じられるのだ。
わたしの言葉に、高坂さんは少しだけ目を見開いて何度か瞬きをした。
「まあ、身内には厳しいところもあるが……組頭は優しい御方だ」
「なるほど……じゃあ、敵には?」
「知りたいか?」
ふ、と口角を上げて質問を質問で返してきた高坂さんに、わたしは思わず身震いして首を横に振った。
この世界へやってきた日の翌日。突然現れたわたしの口の中に指を入れて舌を掴んだのは、自害を防ぐためだった。雑渡さん本人からそう説明を受けたが、あの一瞬だけで、雑渡さんが敵に対してどれほど容赦ない人間なのか容易に想像がつく。
これで雑渡さんについての話は終わりかと思ったが、意外なことに高坂さんは饒舌だった。
わたしの想像以上に彼は雑渡さんに心酔しているようで、わたしが雑渡さんのことを褒めたことに気を良くしたらしい。雑渡さんがどんなに素晴らしい人間か、また忍びとしての格の違い、それらを雄弁に語る高坂さんに圧倒されていたら、足音もなく静かに襖が開いた。
「私の名が何度も聞こえてきたんだが……」
「組頭!」
現れたのは雑渡さんだった。昨晩から詰所というところにいたらしいが、時間ができたため屋敷の方へ戻ってきたらしい。
高坂さんはすぐに雑渡さんの方へ身体を向けると、両方の拳を畳について深々と頭を下げた。
「ちょうど、殿に組頭の素晴らしさを説いていたところです」
「素晴らしさねえ……例えば、どんな?」
雑渡さんからそう尋ねられ、わたしは高坂さんの言葉をそのまま伝えた。
「ええと、雑渡さんは空も飛べるし、飛んでくる矢や手裏剣を素手で受け止めることができて、違うお城の忍者たちからは恐れおののかれている、と」
「空は飛べないし、矢と手裏剣は時と場合によるし、他所の忍びからは……まあそうだね、認知はされているかな」
雑渡さんは少し困ったように頬を指で掻きながらそう言ったあと、高坂さんにもう戻っていいと告げた。
部屋を去る高坂さんへ「ありがとうございました」と礼を述べる。ぴしゃりと襖が閉められ、今度は雑渡さんと二人きりになった。
雑渡さんは懐から竹に入ったお茶をわたしへと差し出した。よくお茶を渡されるな、と思いつつ、ありがたく受け取る。中は、昨日飲んだものと同じ甘い風味の茶だ。
高坂さんはずっと部屋の隅に座っていたが、雑渡さんはわたしのすぐそばまで来て、真正面に腰を下ろした。思っていたより近い距離に、自然と肩に力が入る。
「陣左は……」
「じんざ?」
「高坂のことだよ。そう呼んでいる。彼は自ら私のことについて話す男ではないが、どういう経緯で私の話を?」
わたしの瞳を覗き込むようにして見つめてくる雑渡さんに、わたしは一瞬だけ戸惑った。
どこか面白がっているようにも見える彼に面と向かって言うのは照れくさかったが、わたしは正直に答えた。
「わたしが……雑渡さんのことをものすごく優しい方だ、と言ったので、その流れで」
「優しい?」
「だって、普通はお殿様が『面白い』と言ったからって、わたしのような怪しい人間にここまではしてくれないでしょう」
「なるほど。では、その優しさに裏があるとしたら?」
あるのか、裏……。
わたしは表情がこわばるのを感じながら彼を見つめた。雑渡さんの布で隠れている口元が緩んでいる。
黙り込んでしまったわたしに、雑渡さんはふっと笑みを零す。
「私の話ばかりでは不公平だから、殿の話もしてもらおうか」
「はあ……、二十五歳。趣味は読書と絵を描くことで友達や恋人はいません。休みの日は大体家にいて——」
「以前に同じようなことがあったと話していたね。神隠しに遭い、戻ったときには記憶をすべてなくしていた、と」
そのことについて、いつ彼に話したのか一瞬分からなかったが、すぐにお殿様に対して弁明しようと一生懸命言葉を並べ立てたときのことを思い出し、はい、と小さく返事をする。
「本当に、何も覚えていない?」
「覚えていません」
つい語気が強くなり、わたしはすぐに「どうしてでしょうね」と笑ってみせた。
本当に何も覚えていないのか。
当時、両親・警察・医師・小学校の友人や先生たちから嫌というほど繰り返された質問である。
嘘なんてついていないのに、皆が何か一つくらいは覚えているだろうと、いろんな話をしたり写真を見せてきたりして、子どもだったわたしはとてもうんざりしていた。特に小学校で同じクラスだった子どもたちの中には、幼さゆえの屈託のなさでわたしに酷いことを言う子もいた。
そっと、雑渡さんの隣に立つもう一人のわたしへ視線を向ける。
ねえ、貴方は全部、知っているんでしょう。
貴方は、最初の神隠しに遭ったときのわたしの記憶そのものなんでしょう——。
ずっとそう考えてはいるが、彼女は言葉を喋らないので確かめようがない。
「そうか」
雑渡さんは落ち着いた様子で言った。
「では今頃、殿のお母上もさぞかし心配されているだろう」
それを聞いて、わたしは返す言葉もなく、ただ瞬きを繰り返した。
一度目の神隠しのあと、おかしくなった母はまたわたしが消えてしまうのではないか、という不安に襲われ、とにかくわたしから離れることを嫌がった。学校の行き帰りに着いてくるのはもちろん、放課後や休日に友達と遊ぶことも許さず、小中高すべて修学旅行は不参加。大学入学と同時に一人暮らしをしたいと相談したとき、母は半狂乱となって家の中は大いに荒れ、結果的に大学も就職も実家から通える場所を選ぶ羽目となった。薬も医師によるカウンセリングも、頼れるものはすべて頼ったが、払うお金に対して母にはあまり効果がないように思えた。
最初、父は「お母さんはお前のことが心配なんだよ」とすべてを理解している風に話していたが、やがて疲れ切ったのか、わたしが高校生になってすぐ、姿を消した。
父と同じく、わたしも母を捨てて家を出てもよかった。でも、母がおかしくなった原因が少なからずわたしにあることを思うと、そう簡単にはいかなかった。
母の歪んだ愛と、わたしの負い目。そういう目に見えないものにがんじがらめに縛りつけられて、とにかくわたしは母の顔色を窺い、息苦しさを感じながら大人へと成長したのである。
だからこそびっくりしたのだ。
雑渡さんに言われて初めて、母の心配をしたことに。
「——殿、殿」
「はいっ」
名前を呼ばれ、我に返ったわたしは慌てて返事をした。思っていたよりも大きな声が出て、咄嗟に両手で口を塞ぐ。
「変なことを聞いてしまったかな。すまない」
「あ、いえ、こちらこそちゃんとしたお答えができず申し訳ないです……。その、過去のこともそうなのですが、今回ここへ来たときの記憶もあやふやでして、」
「それは思い出さなくてもいいだろう」
ぴしゃりと鋭くそう言い放たれ、わたしの下ろした両手がびく、と震えた。
なぜ最初の神隠しについては何も覚えていないのかと聞き、今回の神隠しについては思い出さなくてもいい、だなんて言うのだろう?
少し不穏なものを感じ取ったわたしは、その理由を問うことも、動くこともできないまま、こちらへ伸びてきた雑渡さんの手を凝視した。彼の手は、昨日と同じくわたしの額へと当てられる。
「考えすぎは身体に悪い。また熱が出てしまう」
「あ、なるほど……」
わたしは小さくそう呟いて、雑渡さんの手が離れたと同時に、緊張を和らげようと渡された茶をすべて飲み干した。
甘さが喉を滑り落ちていく。
もう一人のわたしの視線が突き刺さる。
「言い忘れていたが、殿から城下へ出てもいいとの許しを得た。明日、一緒に行こうか」
「本当ですか!」
先程感じた不穏なものも忘れ、わたしは雑渡さんの提案に思わず喜びの声を上げた。
特に行きたい場所があるわけではないが、外に出られるのは非常にありがたい。喜ぶわたしを見て、雑渡さんは今日は早く休むように、と言うと、立ち上がった。
そんな雑渡さんを見上げ、わたしはあることを思い出し、彼を呼び止める。
「あの、一つお願いが……」
「お願い?」
「諸泉さんのこと、あまり怒らないでください」
わたしの『お願い』に、雑渡さんは目を丸くして、やがて声を上げて笑い始めた。こんな風に笑うこともあるのか、と驚きつつも、彼に釣られてわたしも笑う。
いつの間にかもう一人のわたしが消えていたことに、まったく気がつかずに。