予兆

 残念なことに、わたしは三日目の朝を同じ部屋で迎えた。
 しかし、一つだけ違うことがあった。わたしの監視役が、別の人間に変わったことである。
 片目の男——もとい雑渡さんに貸してもらった和歌の本を広げ、目の前にドンと座る男を盗み見る。朝食のあと、挨拶もなくいきなりズカズカとこの部屋に乗り込んできた青年は、雑渡さん、そしてわたしよりもずっと若いように見えた。
 青年はしばらく無言でじっとわたしを観察していたが、やがて不機嫌そうな表情のまま言った。

「……お前、何をしている」

 お前。わたし以外いない。
 急に声をかけられたわたしは、んん、と驚いて咳払いをした。

「ええと、本を読んでいます」
「ほーう、逆さまで本が読めるのか」

 青年からの指摘に、わたしは何も言い返せず本を閉じた。いくら文字がうまく読めないとはいえ、どちらが上か下か分からずに広げていたとは、とんだ恥さらしである。もう一人のわたしが、むすっとしている青年の顔を物珍しそうに覗き込んでいる。
 気まずい沈黙が流れた。わたしのいる部屋には雑渡さんから借りた本以外、時間を潰せるものは何もない。このまま会話もなく、この青年と一日を過ごすのはさすがに息が詰まるし、気疲れしてしまう。
 わたしは勇気を出して、青年に話しかけてみることにした。

「あの……わたし、といいます。貴方のお名前は?」
「諸泉尊奈門だ」
「諸泉、尊奈門さん」

 そう呼ぶと、諸泉さんはフンとそっぽを向いてしまった。
 名前や態度から察するに、きっと彼は雑渡さんの親戚か何かで、彼に頼まれて仕方なくここへ来たのだろう。しかし、無視することなくちゃんと名を明かしてくれたことに、わたしはほんの少しだがほっとした。会話には付き合ってくれるらしい。

「諸泉さん、もし知ってたら教えていただきたいのですが」
「なんだ」
「わたしの……服、知りません?」
「服?」

 諸泉さんは眉を寄せ、首を傾げた。
 わたしの言う『服』というのは着物のことではなく、お殿様のところへ落ちたときに着ていたもののことだ。この屋敷へやって来た日、湯浴みをしましょうとお豊さんにひん剥かれて以降、一度も見ていない。
 着物よりも元の服の方が過ごしやすいし、多分木にも登りやすいはずだから、できればあれを着ていたい。どう説明すればいいだろうか、と考えながら「南蛮の……」とお殿様の言葉を借りて言えば、諸泉さんはすぐに理解したようだ。ああ、と瞬きをして平然と言った。

「それなら殿が見たいと仰ったため、殿に献上されたはずだ」
「え!? パ、パンツも!?」

 突然腰を浮かせて叫んだわたしに、諸泉さんはぎょっとして「ぱんつ?」と復唱した。パンツの説明をする前に、わたしは顔が熱くなっていくのを感じて、なんでもないと再び座りなおした。
 さすがにお殿様の手に渡る前に洗ってはもらえただろうが、もし洗われていなかったら——いや、それを考えるのはよそう。
 ぱっと顔を上げると、わたしの顎の辺りを見つめていた諸泉さんはすぐに気まずそうに顔を伏せた。こちらへやって来てから鏡を見ていないので分からないが、最初のお豊さんの反応といい、わたしの顎にはよほど目立つ痣ができているのだろう。

「あの、諸泉さん」
「な、なんだ」

 諸泉さんの声が裏返る。わたし以上に、彼の方が二人きりでいることに緊張しているようだ。得体の知れない女を監視しなければならないのだから、当然と言えば当然である。最初にここへやって来たときに愛想が悪かったのも、そのせいかもしれない。
 そう思いながらも、わたしは彼に頼まなければならなかった。

「元の世界に戻る方法を、一緒に考えてくれませんか?」

 てっきり気味が悪そうな顔をされるかと思ったが、諸泉さんは心底呆れ返ったように口元を歪め、ため息を吐いた。

「組頭からある程度は聞いていたが……お前、本当にそんな馬鹿なことを言っているんだな」
「組頭?」

 初めて聞く単語に、わたしはそう聞き返す。

「雑渡昆奈門組頭だよ」

 そう言われ、わたしはふうん、と軽く返事をし、すぐになるほどと納得した。
 組頭、つまり組の頭ということは、雑渡さんはお城の忍者の中で一番偉い立場の人なのだろう。そう考えれば、お殿様に対して「お言葉ですが」と返していたことにも合点がいく。
 元の世界について『馬鹿なこと』と一蹴した諸泉さんに対し、わたしは必死に説明を続けた。

「高いところから飛び降りたら戻れるかもしれないと思って、昨日は雑渡さんに一日お付き合いいただいたんですけど……」
「お前……組頭をそんなことに付き合わせたのか……」

 声を低くし、そばに置いていた刀を手に取った諸泉さんに、わたしは慌てて両手をぶんぶんと振った。

「ま、まさか本当に一日付き合ってくださるとは思ってなかったんです! というか組頭だなんて、雑渡さんがそんな立派な役職についていらっしゃるとも知らなくて!」

 ギリギリと奥歯を噛み締め、恨めしそうに睨む諸泉さんにわたしはすっかり尻込みし、ごめんなさい、と呟いたあと、もう元の世界へ戻る方法は一人で探そうと決意した。
 よくよく考えてみれば、諸泉さんの反応が普通なのだ。雑渡さんがおかしなほど、親切すぎるだけで。
 肩を落とし、俯いて口を閉ざしていたら、諸泉さんが刀を置く音が聞こえた。

「……日常の中でいつもと違うことが起きるときは、必ず何か予兆があるはずだ」

 わたしは顔を上げた。諸泉さんの顔からは先程までの呆れた表情は消えていて、今は神妙な面持ちで何かを思案している。
 予兆——。ぽつりとそう呟くと、彼はわたしを見てどこか決まりが悪そうに尋ねた。そういうことはなかったのか、と。
 わたしはお殿様のところへ落ちてきてしまったときのことを、細かく思い出そうとした。たった二日前のことだ。だが不思議なことに、そのたった二日前のことが、うまく思い出せない。
 わたしは目を閉じて、記憶を一つひとつ手繰り寄せながら話し始めた。

「その日は、たしかとても疲れていて……ベッド、あ、布団で眠ったはずなのですが」
「それだけか?」
「いや、なんというか、眠ったと思ったらお殿様のお部屋に落ちたと言いますか……その眠った瞬間が曖昧というか……あ、でもそういえば」
「何だ」
「落ちる直前、何か、壊れるような音が聞こえた気がします」

 わたしは顎に手を添えて頷き、たしかに聞こえた、ともう一度呟いた。バキン、という何か固いものが壊れるような音が脳裏に蘇る。
 諸泉さんはわたしの話を聞いてしばらく何か考えているようだったが、すぐに目を見開くと慌てた様子で、それでいて声を抑えて言った。

「お前……まさか、殿の寝所の天井を壊したんじゃないだろうな」
「えっ」
「だってお前の話が本当なら、天井から落ちてきたんだろう」

 ぎく、と嫌な予感がした。そうだ、わたしは天井から落ちてきたのだから、お殿様のお部屋の天井板か何かを割って落ちてきたとしてもおかしくはない。
 どうしよう、と一人慌てるわたしとは対照的に、諸泉さんはすぐに冷静さを取り戻し、仮に天井を壊していたとしても、それは予兆とは関係ないだろうと結論づけた。
 考えて、考えあぐねて、行き詰まったわたしたちは徐々に口数が少なくなり、最終的に黙り込んだ。
 もうこれ以上、雑渡さんや他の人をこの件に巻き込むのはよくないかもしれない。怪しいことこの上ない身でありながら、殺されずにここに居させてもらえるだけで十分恵まれているのだから。
 そのことを伝えようと、あの、とわたしが声をかけると同時に、諸泉さんは立ち上がった。刀を腰に差し、わたしを見下ろすと「行くぞ」と言う。わたしの口から続くはずだった言葉はそのまま消えた。

「え……ど、どちらへ?」
「言っていただろう、高いところから飛び降りたら戻れるかもしれない、と」
「そうですが、それは昨日試したけど駄目で……」
「それは、今日試さない理由にならないな」

 諸泉さんはそう言って、すぱんと勢いよく襖を開けた。そんな彼の背中と、頭の上の方で束ねられた手入れのされていない黒髪を見つめる。外からの眩しい日差しに、わたしは反射的に目を細めた。
 振り向いた諸泉さんが、不思議そうに首を傾げる。

「行かないのか?」

 ついさっき、わたしが元の世界のことを話したら『馬鹿なこと』と言っていたのに。そもそも雑渡さんの許可も無く外出して、あとから怒られたりしないだろうか。
 さまざまな考えが頭を巡ったが、わたしは頷いて静かに腰を上げた。
 諸泉さんが案内してくれた場所は、奇しくも昨日、雑渡さんと訪れた場所だった。崖の縁まで歩み寄り、足元に広がる深い谷を覗き込む。遥か下に広がる景色が、とても小さく見える。

「ここはよく鍛錬する際に使う場所だ。忍びたる者、これくらいの崖など容易く飛び降りられねば務まらぬからな」
「はあ……え? 諸泉さんも忍者なんですか?」
「そうだが……逆に今まで私を何だと思っていたんだ?」
「てっきり、雑渡さんの親戚の子か何かかと……」

 キッと諸泉さんの目が吊り上がる。しかし今度は、彼の手が腰の刀に伸びることはなかった。
 それにしても、やはりこの高さは恐ろしい。わたしは足が竦む思いがして、昨日のように一歩後ろへ下がる。そして、昨日何度も登っては飛び降り、今では形や触れたときの幹の感触まですっかり覚えてしまった木を指差した。

「昨日は、あの木から飛んでみたのですが」
「……全然高くないじゃないか」

 困惑の表情を浮かべた諸泉さんはそう言って、がしっとわたしの腕を掴んだ。雑渡さんに比べると小柄な身体つきなのに、その手の力は驚くほど強い。
 彼によって再び崖の縁の方へ引き戻されたわたしは、瞬時に不吉な予感を覚えた。

「な、ちょ、ステイ、ステイ!」
「心配するな、私も一緒に飛んでやる」
「無理! 絶対死ぬ!」
「死ぬわけないだろう!」

 互いにぎゃんぎゃん叫びながら、一歩も譲らぬとばかりに引き合った。しかし、女であるわたしと、若いとはいえ男で忍者でもある諸泉さんでは、力の差は明らかだった。
 とん、と地を蹴って宙に飛んだ諸泉さんの身体が浮く。必死に踏ん張っていたわたしの草履が、崖の縁に引っかかって片方ずるりと脱げた。

「ぎ、」

 叫ぶ直前、身体が回転して視界がぐるんと回る。
 ふわ、と全身を襲う浮遊感。わたしがいた場所に、もう一人のわたしが立っていた。
 彼女と、目の前に大きく広がる澄んだ青空。それが、気を失う前に見た最後の景色だった。

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 額に何か冷たいものが触れて、そのひやりとした感触にわたしは跳ね起きた。
 それは折り畳まれた手拭いだった。固く絞られたそれは、起き上がった拍子にぼとりとわたしの膝の上に落ちる。

「大丈夫?」

 声が聞こえて隣を見ると、傍らにはわたしの様子を窺う雑渡さんの姿があった。一瞬どうして自分が布団で横になっていたのか分からなかったが、諸泉さんと崖から落ちたことを思い出して慌てて布団を捲った。
 足はある。漏らしてもいない。そして、元の世界に戻ってもいない。
 呆然とするわたしを余所に、雑渡さんは落ちた手拭いを拾い上げると、わたしの額にぴたりと手を当てた。手拭いと同じくらい冷たい手に、わたしは目を瞬かせる。

「尊奈門が無理させたようで悪かったね。少し熱があったようだが……気分は?」
「さいあくです……」

 そう呟いて、わたしはぽろぽろと涙を流した。やはり今日も泣いてしまった、と思いながら。崖から落ちるときに叫んだからだろう、声は掠れてしまっていた。
 雑渡さんは、泣くわたしを黙って見ていた。三日続けて泣いているのだ。心の底で、よく泣くみっともない女だと思っているに違いない。
 すると雑渡さんは、持っていた手拭いでわたしの涙を拭い始めた。

「尊奈門には灸を据えておく」

 その言葉に、わたしは激しく首を横に振った。
 諸泉さんは何も悪くない。彼はわたしの話を聞いて、少しでも協力しようと動いてくれただけだ。泣いているのは彼のせいではなく、昨日と同じ理由からだ。
 顔から手拭いが離れていく。雑渡さんと視線がぶつかり、わたしは「すみません」と頭を下げた。勝手に屋敷を出てしまったこと、こうして迷惑をかけてしまっていること。すべてが申し訳なくて、さらに涙が溢れてくる。

「私は、殿の笑った顔をまた見たいのだが」
「すみません、すぐ泣きやみますので——」

 そこまで言って、わたしは疑問を抱いた。
 彼の前で、というよりこの世界へやってきて、一度でも笑ったことがあっただろうか。

「茶を持ってきた。飲みなさい」

 先程の言葉について触れることなく、雑渡さんは茶碗に入った茶を差し出した。わたしも踏み込むことはせず、茶を受け取って、それを口に含む。そしてすぐに、おや、とあることに気がついた。

「……昨日と違う……?」
「昨日、渋そうな顔をしていたからね。飲みやすいものに変えたんだよ」

 わたしの些細な疑問に、雑渡さんは当然のようにそう答えた。彼を見て、再び茶碗の中で揺れる緑色の表面を見つめる。
 たしかに、昨日飲んだ茶は随分と苦かったが、今日の茶は甘みがあって飲みやすい。まるで蜂蜜を混ぜているかのようだった。

「ありがとう、ございます」

 礼を言って、わたしは僅かに口角を上げてみせた。笑顔と呼ぶにはあまりにも小さなものだったが、今のわたしにできる精一杯の微笑みだった。
 雑渡さんはまっすぐな目を向けたまま、わたしの額、頬、顎、そして首に指を滑らせて、静かに頷いた。