帰還
ぼんやりと目を開けると、妙に首が痛かった。
いや、首だけでなく全身が痛い。そう思いながらも、わたしはしばらく微睡んでいた。やがて、昨晩の出来事を徐々に思い出し、勢いよく起き上がった。
そこにあったもの。それは、いつもと違う部屋、いつもと違う空気、いつもと違う匂い。
わたしは慌てて布団を捲った。ちゃんと両足がある。膝にうっすらと紫色の痣ができていたのは、恐らく昨日床に落ちたときにぶつけたからだろう。
わたしは死んでいない。そして、やはり夢を見ていたわけでもないらしい。
一連の出来事をすべて思い出したわたしは、布団の上で膝を抱いた。
昨晩、片目の男に運ばれてこの屋敷に訪れたわたしを出迎えてくれたのは、五十路ほどの優しそうな女性だった。彼女はわたしの顔を見て目を丸くしたあと、男からわたしの名前を聞いて「まあまあまあ!」と驚いた様子で声を上げた。そして、眉を顰めて自身の顎の辺りを指さし、その痣はどうしたのか、と聞いた。きっと、お殿様のところへ落ちたときにぶつけた顎が酷いことになっていたのだろう。
わたしが答えるより、片目の男が彼女に指示を出す方が早かった。そして彼女はその指示通りにテキパキとわたしを風呂に入れ、着替えをさせ、こんな上質な布団まで用意してくれたのである。
スン、と鼻をすすると、着せてもらった白い小袖からは日光の匂いがした。もう一人のわたしも同じような小袖を身に纏い、くるくると宙を踊っている。
男の言葉通りなら『監視』する対象であるのに、随分と好待遇だ。
お城に閉じ込められるよりマシだったかも——。そう思いながら、わたしはゆっくりと顔を上げた。
よほど疲れていたのか、このおかしな世界でぐっすり眠りこんでしまったらしい。今が何時かまったく分からないが、部屋に差し込む光はとても明るく、元気よく鳴く蝉の声が聞こえる。
わたしは立ち上がり、布団を畳んで、そっと襖を開けた。
「どちらへ?」
「どわあっ!」
待っていました、と言わんばかりに部屋の外に立ちはだかっていた片目の男に、わたしはそのまま後ろへすっころんだ。尻もちをついたまま、あわあわと後ずさりするわたしを見て、男は大股ですぐそばまで歩み寄る。そして露わになったわたしの素足と、子どもの頃からあるふくらはぎの傷に目を留めると、それらを隠すように捲れ上がっていた裾をそっと元へ戻した。
改めて明るいところで見てみると、男は火傷の痕が酷く、顔の皮膚の色が他とは違っていた。身体中に包帯を巻いている姿は、なんとも不気味だ。
「あの、わたし……」
「ん?」
「本当に、お殿様を殺そうだなんて、考えてないです……」
小さな声でそう呟いたわたしに、男はフフ、と笑ったように見えた。口元が隠れていて目も片方しか見えていないので、いまいち表情の動きが分かりづらい。でも昨晩ほどは警戒されていない。なんとなくそう感じた。
「そんなことは分かってるよ」
「あ、それなら、いいんですが……」
分かっているなら監視する必要はないのでは……とも思ったが、ではサヨナラ! とその辺にぽいっと放り出されてもそれはそれで困る。行く場所もなければ、元の世界へ戻る方法も分からないのだから。
わたしは男からのまっすぐな視線に耐えられず、目を泳がせた。しばらくの沈黙のあと、わたしの様子を見ていた男は、昨日わたしの世話をしてくれた女性を呼んだ。
女性の名前はお豊というらしい。片目の男の母親かと思ったが、以前この屋敷に仕えていた女中で、今はごくたまに屋敷の掃除に訪れる程度だという。
お豊さんは早速、わたしを母屋から少し離れた場所にある厠へと連れていった。きっと男は、わたしがあまりにも気まずそうにモジモジしていたため、尿意をもよおしたと思ったのだろう。しかしあながち間違いではなかったので、ちょっとだけ助かった。
そして、食欲がなく、用意してもらった朝食を箸でつつくわたしに、男はいくつかの本を差し出した。
「暇潰しに読むといい」
わたしが尋ねる前に、男はそう言った。
箸を置き、本を受け取る。本といっても、和紙を綴じた簡易的な冊子と言った方が近い。紙は少し黄ばんでいて、開けば墨で書かれた文字がみみずのように並んでいる。
暇潰しに、という彼の心遣いはありがたかった。だが、書体が古すぎて、何が書いてあるのかさっぱり分からない。
「これは和歌の本だ」
男は一冊を選び、何枚か捲ったあと、一つの歌を指差して読み上げた。
「またも逢はむ よしもあらぬか 白たへの 我が衣手に 斎ひとどめむ」
「……どういう意味ですか?」
あまり興味はなかったが、せっかく持ってきてわざわざ声に出して読んでくれたのに、何も反応しないのは失礼だろう。
わたしの質問に、男はわずかに目を眇めた。
「解釈はいろいろあるが……『もう一度あなたに逢える手立てがあるのなら、どうにかして再び逢い、今度こそ留めておきたい』という意味かな」
「はあ……」
今のわたしには、その激重感情丸出しな和歌の趣を感じ取る情緒も余裕もなかった。へえ、そうですか、と当たり障りのない返事をしながら、昨日より百倍ほど柔らかい雰囲気を纏っている男を盗み見て、これはチャンスとばかりに「あの」と切り出した。
「わたし、ここへやってきたときに、なんというか……とにかく眠くて、布団に倒れこんだと思うんです。なので、昨晩試しに同じことをやってみたのですが、駄目で……。だからつまり何を言いたいかと言うと、少し高いところから落ちてみたら、元の世界に戻れるのではないか、と」
そう言い終えて、わたしは男の様子を窺った。
元の世界。自分で言っておいてあれだが、随分と頭がおかしいと思う。
でも——。
わたしは男の後ろにいるもう一人のわたしへと視線を移した。わたしがおかしいのは、今に始まったことではない。
すると、意外にも男はわたしの言葉に納得したのか、ふむ、と顎に手を当てて何かを考え始めた。
「では、いい場所がある」
「いい場所?」
「食べ終えたら連れて行ってあげよう」
あ、外出ありなんだ……。
そう思いつつ、わたしは黙って頷いた。ずっとこの屋敷に閉じ込められるものだと思っていたので、少し、というよりまあまあ驚いた。
ただ、外に出られるのはありがたいのだが。
話が終わり、また昨晩のように無言でじっとわたしを見つめる男。忍者だからだろうか、彼の視線はずっと何かを探ろうとしているようで、どうも緊張してしまう。
とにかく、今はこの食事をすべて平らげないと立たせてはもらえないらしい。
わたしは小さく息を吐いて、再び箸を手に取った。
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谷底から吹き上げる風が足元から忍び寄り、着物の裾を揺らす。
ひゅおお、という音が細長く響き、わたしは足元に目を向けないままごくりと唾を飲み込んだ。
「あの、物事には、段階というものがあると思います」
そう言って、わたしをこの落ちたら確実に死ぬであろう崖まで連れてきた男を見上げる。じろ、と細い目に見つめられ、今立っている場所への恐怖も相まって身体が萎縮した。
「段階?」
「はい……あ、ほら、あの木がちょうどよさそうです」
わたしはゆっくり後退すると、背後にあった一本の木を指さした。それは枝がいい具合に伸びていて、わたしでも登りやすそうな小さな木だった。
動きづらい着物姿での木登りには少々手こずったが、なんとかよじ登り、一番太い枝の上に立つ。そしてわたしは、そのまま地面に向かってジャンプした。
着地すると同時に、草履の藁が指の間に食い込んだ。降り立ったわたしを、男は黙って見つめている。
「……何か起こりましたか?」
「いや、何も」
「こう……身体が透けたりなどは? 足の先から光の粒みたくなって、サラサラ風に飛ばされたりは?」
「……まったく」
「じゃあ、もう一回」
それからしばらくの間、普通に飛び降りたり、勇気を出してお尻から落ちてみたりと、いろいろ試してみたが、わたしの身には何も起こらない。
男は別の木に寄りかかり、口出しすることなくわたしの異常行動を眺めていた。もう一人のわたしと一緒に。
木に登って、飛び降りる。半ばやけくそになって、それを何度繰り返しただろう。陽も傾き始め、慣れない草履を履いた足の指からは、着地するたびに藁が食い込むせいで血が滲んでいた。
額から汗が滴り落ちる。次第に足が震え始め、着地に失敗したわたしはそのまま滑って地面に仰向けに倒れた。真っ青な雲一つない空が広がっている。
視界に、男がぬっと顔を出す。日陰になってくれた男の顔は、逆光でよく見えない。
「君が本当に別の世界から、殿の寝所に落ちてきたとして」
とても静かな口調で、淡々と男は語り始めた。
「本当に別の世界から、お殿様のところに落ちてきたんです……」
「何か特別な……奇跡でも起きない限り、戻るのは難しいのでは?」
奇跡。その言葉もよく週刊誌で使われていたな、と振り返る。なぜか家には、わたしが行方不明になったときの週刊誌が山ほどあった。おかしくなった母が買い漁っていたのだろう。
「奇跡というものは、ないと思っています」
わたしはそう呟いて立ち上がった。
土で汚れてしまったお尻辺りを手で叩く。こんなに着物を汚してしまって、お豊さんが驚くだろうな。そう申し訳なく思いながらも、もう一度木に手をかける。
しかしもう、登る体力は残っていなかった。
カナカナカナ、と、遠くでヒグラシの鳴く声が聞こえる。
「百に一つ……いや、百万に一つだとしても、そこに『一』という数字がある限り、この世の全ては起こり得ることだと思うのです。一度起きたことなら、なおさら」
そう言って振り返る。男は腕を組み、何かを考えているようだった。
「変ですか?」
「いいや、一理ある」
「ですよね」
へへ、と笑ったとき、油断して涙が零れた。ずっと気を張っていたのに、一度出てしまったものはなかなか止まらない。
この世の全ては起こり得ることだと思う。それは本当。でもそれがいつ起こるかは、誰にも分からない。
すべての形が歪んでいく視界の中で、男の姿も徐々にぼやけていく。
とりあえず分かっていること。それは、今のわたしが頼れる相手は、昨晩わたしを力ずくで押し倒して口の中に無理矢理指を突っ込んできたくせに、親切に寝床や食事、和歌の本まで与え、なおかつ今日一日ずっとわたしの奇行に付き合ってくれているこの男しかいない、ということだ。
「ずっとこのまま……おばあちゃんになるまで戻れなかったらどうしよう……」
う、う、としゃくり上げながらそう言って俯くと、土と血で汚れた足の上にぽたぽたと涙が落ちていった。
昨日も泣いた。今日も泣いた。じゃあ明日は?
ずび、と鼻をすすると、男がわたしの目の前に一本の短い竹を差し出した。それが何か分からず、涙を拭いまじまじと見つめてみれば、何やら飲み口のようなものがついている。
「飲むといい。そのままでは倒れてしまう」
どうやらその竹は、今で言うところの水筒であるらしい。男がその竹を振ると、ちゃぷ、と中に入っている何かが揺れる音がした。また、男に言われて初めて、顔や身体がものすごく熱を持っていることに気がついた。
しかし、いつまで経っても受け取ろうとしないわたしを見て、警戒していると思ったらしい。男は口にはめている布の隙間から飲み口を差し入れると、中身をごくりと一口飲んだ。男の喉仏が上下する。
なんだ、その変な飲み方は……。思わず涙が止まった。
「毒などは入っていない。ただのお茶だよ」
そう言って差し出された竹を、わたしはおずおずと受け取った。
間接キスという言葉が頭に浮かぶ。わたしはそれを打ち消して、男がしたように飲み口をくわえる。啜ると、ぬるくて苦い茶の味がした。
「……にがい」
「暗くなる前に帰ろうか」
男はそう言うと、ちらりとわたしの足を一瞥し、わたしの身体を抱えようとした。
歩けないほど疲弊していると思われたのだろう。慌ててそれを断って、自分で歩けると告げる。たしかに足の傷は痛むが、二日連続で抱えられるのはできれば避けたかった。
橙色に染まったひつじ雲が並ぶ空の下、男の隣を歩きながら、ふと考えた。どうしてこの男は、わたしにここまで親切にしてくれるのだろう、と。
お殿様がわたしのことを「面白い」と言ったから。それ以外の理由は思い当たらない。とすると、もしずっと元の世界に戻れなかったら、あの変わった髭のお殿様の話し相手に任命されたりするのだろうか。でもそんなの、お殿様が飽きたらそれでおしまいじゃないか。
そんな不安に駆られているわたしに、男は何を思ったのか、また一つ和歌を口にした。
「いつはしも 恋ひぬ時とは あらねども 夕かたまけて 恋ひはすべなし」
わたしは足を止めた。男も立ち止まり、振り返って「意味は分かるかい」と聞く。
その眼差しも、彼の風貌も。今朝は恐ろしかったが、今はそうでもなかった。
歌の意味は分からない。そんな情緒も余裕も、やはり残念ながら持ち合わせていない。
「……和歌よりも、気になることがありまして」
「何?」
「貴方のお名前を聞いていなかったな、と」
この男がわたしに親切にしてくれるのは、お殿様が「面白い」と言ったから、本当にただそれだけなんだろうか。
わたしの言葉に、男は目を細めた。
「雑渡昆奈門、だよ」